第7話 リンダⅠ
どうしてこんな事になってしまったのだろう。リンダは馴染みのない部屋の片隅に置かれたベッドの上で頭を抱えている。
誰かの別荘だと思われるそのログハウスは、よく手入れがされ、整然としていた。建物はそれなりに古いらしく、壁や床は味わい深い琥珀色に光沢を放っている。
隣室からは途切れる事無く怪しげな太鼓の音と男達の歌い声が続いている。まるで何かの儀式だ。うるっさいわね。小さく呟いてみるが、その声は震えていて、自分が怯えている事に気付かされる。音と共に隣の部屋から漂うのは、粉っぽいお香の香りと、その奥に潜む、甘くえぐみのある独特の匂いだ。それが、大麻の匂いだという事に、リンダはとうに確信を得ている。こうして零れてくる匂いを嗅ぐだけで、意識がふわふわと浮ついてゆくのが、自分でも分かる。堪らなくて窓を開けたい衝動に駆られるが、それはきつく止められていた。このままでは完全に意識が飛んでしまいそうだ。この様な状況できまってしまった場合、自分も大麻を吸った罪に問われるのだろうか。リンダは三角座りをした膝に顔を埋めてぼんやりと考える。母親は今私が置かれている状況を知れば発狂する事だろう。キャバクラに勤めている事すら隠し通してここまで来たのに、こんな事に娘が巻き込まれているなんて知る由もない。リンダの母親は娘が小さな出版社で経理を務めていると信じている。実際、リンダがその様な経歴にいたのは三年前までの事だ。ああ、変な形で色んな隠し事が母親に露呈されてしまうかもしれない。リンダはどくんどくんと波打つ心臓を喉の奥から吐き出す様な妄想をして、いよいよ自分が由々しい状態にある事をぼんやりと思う。昨晩の血塗れになったミュウタの顔を思い出した。ぐったりと動かなくなった彼を、あの男は笑いながら、川に流しておいて、と言い、何人かの男が引き摺る様にしてこのログハウスからミュウタを連れ去った。あの時ミュウタは既に死んでいたのだろうか。複数人による殴る蹴るの暴行を目前にして、止めもせず、警察に通報もしなかった自分は彼らときっと同罪だ。川に流されるミュウタを想像する。赤い血が川に幾筋も線を作る。子供の頃に田舎で見た灯篭流しの記憶と重なり、懐かしくなり、リンダは涙ぐむ。もくもくと隣室からは大麻の煙が流れ込み続ける。大麻って吸い過ぎたら死ぬのだろうか。そうだとしたら、私もミュウタの流された川に灯篭の様に流されるのかもしれない。しょうもない人生だったな、と白濁した意識の中でリンダは力なく呟いて、笑った。
「リンダちゃん、ヤーマン」
黒服のボーイに指名された席に行くと、見た覚えのあるとんでもない男が若い男を伴って座っていた。とてもキャバクラに似合わない風貌だ。
「えっと、確か里咲のライブで」
「ハマーです。まじ、あの時リンダちゃん酔っ払っていたからね。覚えてないか?」
「いえ、覚えています。どうして、今日はこの店に?」
リンダは記憶を引っ掻き回しながら、ハマーの情報を手繰り寄せる。リンダを指名する客は大抵年配の、風変わりな男ばかりなのだが、ハマーは群を抜いて個性的だ。それにしても、ハマーがわざわざ自分を指名する理由が見当たらない。たまたまキャバクラに来たら、働いている私を見付けて指名してみたのだろうか。
「スネークで話した時に、今度私を指名しに来いって、リンダちゃんに言われたからさ。俺はまじ、そういう約束は破らないのがモットーだから。一期一会だね」
ですよね、と若い男が太鼓持ちの様にしきりに頷いている。リンダはハマーと交わしたらしい、記憶の無い会話に我ながら呆れる。里咲のライブを見に行って、キャバクラの営業をかけていたなんて、自分の意図が全く分からない。
「すみません」
リンダはハマーの横に腰を下ろし、素直に謝った。
「私、前回ご迷惑お掛けしませんでした?」
「面白かったよ。リンダちゃんも飲んでよ」
お絞りで顔を拭きながらハマーは言う。
「有難うございます。お隣の方は?」
若い男にちらりと目を遣り、ウィスキーの水割りを三つ作りながらハマーに訊ねた。
「ミュウタって言って、俺の弟分」
ハマーにミュウタ。変な名前。胸の内で呟いた。気のせいか、店の人間達がリンダのいる席に注目しているような気がする。変な風貌の男達だからだろうか。キャバクラだから若い男も当然来るが、ここまで厳ついドレッドヘアーの胡散臭い男はさすがに来ない。当然、こんな男達とするべき会話が思い浮かばなくて、リンダは心底面倒くさく思い、内心舌打ちをした。
「ハマーさんは里咲のイベントでDJか何かされていたのですか」
全く興味が無いけれど、唯一の共通の話題になり得るのでリンダは水割りをハマーに手渡しながら聞いた。
「ハマーさんはあのイベントの主催者。あれ以外にも沢山のイベントの企画をしていて六本木あたりでは」
「ワンラブ」
ミュウタの説明を遮り、ハマーが突然訳の分からないことを呟いた。
「は、ワンラブ?」
「見付かったかい?」
ハマーがギョロリとした目を見開いてリンダを見詰める。何この人、変なのは見た目だけじゃないわけ?リンダは頭を掻いた。
「ええと、何の事でしょう」
隣のボックス席で男達と嬌声を上げる安藤の声に、彼女ならこういう時何と返すのだろうと思いを巡らせる。リンダには面白い答えも男心をくすぐる答えも出せっこない。
「探しているだろう。まじ真実のラブを」
はあ、と気の抜けた返事を返す。前回里咲のライブで、自分はとんでも無く酔っていた。一体その時にこの男に何を話したというのだろう。記憶の無い自分につくづく辟易する。
「探しているというか。真実の愛なんてどこにも無い、とは思っているけど」
リンダは渋々そのテーマに乗り出した。
「あるよ、真実のラブは」
「そうかしら。妄信ではなくて?親の愛ですら私にはとてもエゴイスティックに感じる。それを真実の愛だというのなら、話は別だけど」
渋々乗り出した割に、リンダの口は饒舌に回り始めた。常日頃思っている事だが、酔いもしない内から、それもこんな体の男達と話す様な事でもない。頭では分かっているのだが、リンダは熱く語り始める。
「真実の愛だと妄信する瞬間が互いに重なれば、疑う余地も無くその時はそれを確信してしまうのかもしれないけれど、それも長い人生では一瞬の事だわ。時が立てば、どちらか一方がまた別の誰かに真実の愛を見出すでしょう。でもそれを真実の愛だというのかしら。そうだとしたら、ちゃんちゃら可笑しいわよ」
ハマーは真面目にリンダの話に聞き入っている。そうだ、里咲のライブの時も同じだった。リンダの頭の中に無くしていたはずの記憶の一部が甦る。酔って持論を展開するリンダの横で、ハマーはこうして親身に耳を傾けてくれていた。安藤やモモなら五分もしない内に面倒くさいと言って顔をしかめていただろう。
「辛いラブばかりを経験してきたんだな、リンダちゃんは。まじリスペクトするよ」
そう言ってウィスキーを舐める。辛い恋をしてきた事が嘲笑される事はあっても尊敬された事などない。それにリンダの恋は、里咲に言わせれば、飛んで火に入る夏の虫だ。わざわざ危険な場所に身を焦がしに行っているようにしか見えないのだと言う。何を知った様な顔をしてリスペクトなどと言うのだろう。リンダは鼻白んだ。
ミュウタが他の席で接客をしているキャバクラ嬢をもの欲しそうに物色している。そういえば、ボーイは何をしているのだろう。基本的にこの店は、客一人に対して女一人を付ける事になっている。リンダは手を上げてボーイを呼んだ。ボーイが立膝を付いてリンダの傍に跪いた。
「もう一人、女の子は」
ボーイがリンダの耳に顔を近寄せる。
「リンダさんに会いに来ただけだから、他の子は付けなくて良いとハマーさんに言われまして」
リンダはボーイの答えに色々な違和感を覚えたが、それが何なのか分からぬまま、そう、とだけ答えた。ボーイは他の席に呼ばれて、そそくさとその場を去った。リンダは首を傾げる。
ハマーはその容姿だけではなく、ここキャバクラにおいては大分変わった客だった。リンダが語る偏った恋愛観に真剣に耳を傾ける。あとはウィスキーを舐めるように吞むだけで、その目は他の客と違い、ちらりとも欲望が見え隠れしない。この人達、本当に何しにここに来たのだろう、リンダは自分の考えを撒き散らしながら、頭の片隅でそう考えて可笑しくなった。
「そういう訳だから真実の愛なんて存在しないし、いい男なんてどこにもいないって思っているわけ」
リンダは気持ちよく酔い始めていた。リンダがこの手の話をし出すのは大抵、店が終わった後に個人で飲みに行った先での事だから、こうしてハマーに語っているうちにリンダは殆ど仕事を忘れてリラックスしていた。まるで旧友と話している様な心持だった。
「ところで、リンダちゃんは何でキャバクラなんかで働いているの」
「何?説教?」
「まさか」
ハマーは初めて大きな声で笑った。厳ついその風貌には似合わない、屈託のない優しい笑顔だった。
「俺はまじ悪い事ばっかりして生きてきたから、偉そうに人様に説教なんかできねえよ。ただ」
「ただ?」
ハマーは少し考える素振りを見せた。ミュウタは完全にソファーから乗り出して他のテーブルのホステスに魅入っている。視線の先は恐らく安藤だろう。彼女は今日真っ赤なサテンのスリップドレスを着ていて、裾にはざっくりと大きなスリットが入っている。その様はまるで暖簾なのだが、男は皆その暖簾を何の疑問も抱かずにただ潜りたくなるらしい。
「リンダちゃんは真実の愛は無いと思っているわけだ。それなのに、愛を切り売りする商売に就いている。矛盾に感じてさ」
ゆっくりと穏やかに、言葉を噛み締める様にハマーは言う。リンダもそれは解っていた。
リンダがキャバクラの仕事に就いた三年前、その時はまだ昼の仕事との掛け持ちだった。その当時付き合っていた男の借金を返すために始めたのがきっかけだ。週末だけ、と思って始めたものの、いつしかそれでは足りなくなって、昼の仕事を退職する事を辞さなくなった。というのも、一度男の借金を肩代わりして返してからというもの、男は度々金をリンダに無心する様になったからだ。リンダは愛する男の為なら、と気持ちよく金を渡し、その上、金遣いの荒い男に尽くすために出来る限りの贅沢を提供したいと思い、最初はただ必死で金の為だけに働いた。その内、男に心から愛する女が別に出来て、不実な事はもう出来ないと、男はリンダの許を去って行った。
もうキャバクラで働く必要は無くなった。それなのに、そのままこの仕事を続け、そこで出会う不実な男達と短い恋愛ごっこを繰り返している。
「偽物の愛をお金で売り買いする事が、一番真実に近いのかもしれない、ってどこかで思っているのかもね。あたし」
「悲しいね」
本当に悲しそうな顔をしてハマーが呟いた。
ハマーとミュウタはきっちり一時間リンダと話して店を出た。途中リンダが席を変わる事も無く、殆どその時間中、リンダは自分の恋愛観をハマーに語る事となった。もう話し尽くした、と言っても過言ではなく、リンダは妙に清々しい気分で、ハマーたちを店の外のエレベーターまで見送った。店に帰ろうとした時、別の客を見送っていた安藤に腕を掴まれた。
「ねえ、リンダさん、やばい客につけられちゃってたね」
「ああ、見た目はね。話すと、確かに変は変だけど、悪い奴じゃなかったよ」
安藤が呆れた顔をしてリンダを見詰める。
「なによ、その顔」
「リンダさん、知らないの。ハマーってこの界隈じゃ有名だよ」
ああ、それでか。リンダが先程ボーイに抱いた違和感が払拭された。ボーイはあの男を「ハマーさん」と呼んでいた。何故知っているのだろう、とぼんやり思ったのだった。
「有名って、何で」
「ヤクザの息子だったか、暴走族のリーダーだったか、或いはそのどっちもだったかも」
「え、あんな髪型で?」
「まさか暴走族の頭は皆リーゼントとでも」
「違うの」
「リンダさんから時々匂う昭和の香りには驚かされるわ。とにかく、あまり深く関わらない事をお勧め致します」
安藤はそう言って赤いワンピースの裾をひらりと翻すと、店に戻って行った。
安藤の忠告も虚しく、それ以来ハマーは度々店を訪れてはリンダを指名した。最初の頃はミュウタを伴っての入店だったが、次第にハマーは一人でもふらりと来るようになった。店での様子は最初に来た時と何も変わらず、自らの多くを語る事もなく、リンダに気がある風でもない。ただし、リンダは今までに経験が無い程にハマーに大事に扱われていた。それが女としてなのか、人間としてなのか、リンダには解りかねたが、どちらにせよ、とても心地の良いものだった。ハマーがこうして幾度となく店に訪れる理由は、退店する際にリンダが「また来てねと言うから」だと言う。キャバクラ嬢の常套句に誠意を持って対応しているハマーに、リンダは呆れながらも強い好感を抱き始めていた。
安藤の様に男を手玉に取れるようなキャバクラ嬢ではないリンダは、その存在を客の男達から安く見られがちだった。中にはリンダ目当ての常連もいたが、それは本当に少数で、殆どの客はその場しのぎの暇潰しの女としてリンダを軽く扱う。酷い男等は、初対面で席に着くなり、リンダのスカートの中に手を伸ばしてくる事も珍しくなかった。リンダも馴れたもので、そういった扱いにいちいち哀しくもならないが、ふと虚しくなる瞬間は度々あった。そんな時にハマーがやってくると、リンダの胸の中に温かいものがじんわりと広がるのだった。その気持ちの正体が何なのか解らないまま、いつしかリンダはハマーを心待ちしている自分に気付いた。
「前の彼は家庭のある男で、最初からお互いに遊びのはずだったんだけど、いつの間にか恋人みたいな時間を過ごすようになって。ああ、これはやばいぞって思いながらも、いつしか本当に彼の事しか考えていない自分がいて。そうなってしまった途端、彼と連絡が取れなくなったのね。私から真剣な気持ちが滲み出ている事に気が付いて、彼は慌てて恋人ごっこを終わらせたんだと思う」
リンダは終わったばかりの恋をハマーに話していた。哀しい事に、リンダの最近の短い恋の多くはこういった内容の団栗の背比べだった。その度に傷付き、その痛みを紛らわせるべく酒に溺れる。その繰り返しだった。
ハマーは黙ってリンダの話に真剣に耳を傾けている。
「本当の愛なんてどこにも無いって言う私から、少しでも愛らしきものが芽生えそうになると、男はみーんな逃げ去って行くんだよね。面倒なのはごめんだって感じなのかな」
笑いながら自分で作ったウィスキーの水割りを啜る。水っぽくて薄いそれを味わいながら、早く焼酎飲みたいな、と胸の内で思う。ふいにハマーの大きな手がリンダの頭の上に置かれた。驚いてリンダはハマーを見る。ハマーは優しい笑みを浮かべて、リンダの頭を丁寧に撫でた。
「まじ辛かったな」
それから手を離すと、ハマーは考え込むようにソファーに深く掛け直した。リンダは突然ハマーが見せた優しさに、蓋をしていた筈の熱い想いが溢れ出してしまった。気が付くとリンダは泣いていた。慌ててお絞りで目を拭う。マスカラで黒く汚れたそれを小さく畳んで、尚も溢れる涙に、リンダは取る術も無く、泣きながら小さく笑った。
「ちょっと、止めてよ。人前で泣くなんて趣味じゃない」
「ずっと一人で抱えて、大変だったな」
そう答えて、ハマーはリンダをじっと覗き込む。風貌からはかけ離れた、優しく誠実な瞳だった。男もこういう目を持っているものなんだ、とリンダは泣きながら妙な事を思った。これ程までに男の温かい眼差しに触れるのが初めてだったのだ。どうして良いものか分からず、ハマーから目を逸らした。あんな目で見詰められたら、まるで幼い子供の様な心許ない気分になってしまう。奥底に押し込めていた心の柔らかい部分が剥き出しになってしまう。
「そんな目で見られるの馴れてないんだよね、あたし。やめてよ」
涙声で笑いながら言ってみるも、弱弱しくて情けない。自分の作り上げてきたキャラクターが音を立てて崩れていくような感覚だった。そしてその後にぽつんと佇むのは、ひた隠しにしてきた本当の自分の様な気がして、リンダは呆然とする。厚い鎧を脱いだような気楽さが、ハマーとの間にはあったのだ。
ハマーと店の外で逢うようになった。誘ったのはリンダだった。ハマーはリンダに対して受動的な男で、リンダを大切に扱うものの、迫るような事は絶対にしない。けれども、それは決して逃げ腰という事ではなく、何事においても誠意が溢れていた。ハマーはリンダにとってオアシスの様な存在になっていた。二人は六本木界隈で食事をしたり、バーで過ごしたりした。リンダはかつて付き合ってきたどの男の前よりも、ハマーの前では自然体で過ごす事が出来た。そして成程、安藤の言っていた通り、その界隈じゃ有名というだけあって、道を歩いているだけでも、通りすがりの裏の世界を感じさせる風貌の人間達から度々挨拶をされる。ハマーはその度に、ヤーマン、を繰り返し、リンダはその度に可笑しかった。またそれを、可笑しい、と笑っている自分も可笑しい。かつてのリンダならば、何処の国の人間のつもりなのよ、気色悪い、と一刀両断だったはずである。また、こうしてハマーと逢瀬を重ねている事を、どういう訳か里咲とモモには言えずにいる。勿論、安藤を含めた店の人間達にも秘密にしておきたい。奇妙なこの男の良さを解って貰える気がしないのである。皆、口を揃えて言うであろう台詞が、容易に想像出来てしまう。けれど、ハマーは皆が容易く想像出来るような、浅い人間性では無いのだとリンダは確信している。思慮深く、思いやりに溢れた、男気と誠意のある、そんな男なのだ。過去なんてどうだっていい。自分の過去だって碌なものではないのだから、男の過去をとやかく言う資格など生憎持ち合わせていない。
「リンダちゃんは、まじ誰よりも愛に真面目で忠実なんだよ。だから傷付く事を恐れて愛を信じる事が出来ないんだ」
横たわるリンダの横で、仰向けになり煙草をふかしながらハマーが言う。リンダは手を伸ばしてハマーから煙草を奪い、自分も深く吸い込みゆっくりと吐き出した。
「だけどな、愛はあるんだ。確かに、今ここにも」
そう言ってハマーはリンダの額に唇を付ける。くすぐったい気分が心地悪くて、リンダは身を捩った。恋人同士なら当たり前の行為が、不慣れなリンダには不安となり胸を締め付ける。
「確かに今ここに愛があるのだとしたら、あたしは、それが風化されて消えて無くならない事を祈ってしまう」
悲痛な声でリンダは呟き、ハマーが優しく、それから強くリンダを抱き締めた。
「風化させやしないさ。温めて大きくするんだ。二人の力で」
リンダはハマーの腕の中で小さく頷いた。
ハマーと過ごしているところを村田に見られた。ハマーと六本木のバーに向かう途中、後ろから声を掛けられたのだった。
「あれえ、リンダちゃんじゃないの」
間の抜けた初老の老人の声に、ぎくりとして振り返ると「CHERSEA」の常連で絵描きの村田がにこにこしながら立っていた。ベレー帽を被り、スケッチブックを小脇に抱え、白い豊かな髭を蓄えている。名刺など不要とすら思える程に、村田はいつでも絵描きの形である。リンダは慌てて、組んでいた腕をハマーから離した。
「こんばんは」
「恋人さんかな」
村田はまじまじとハマーを眺める。今にもスケッチブックを開いてスケッチを始めてしまいそうな観察の仕方だ。
「ええ、まあ」
苦笑しながら立ち去ろうとするも、あろう事かハマーは村田の前に立ち、拳を突き出した。
「ヤーマン」
「はいはい、こんにちは」
村田は開いた掌でハマーの拳を包み込んだ。リンダはずっこけそうになったが、双方笑顔で見詰め合っている。まるで異文化コミュニケーションである。傍らを高笑いしながら黒人達が連れ立って通り過ぎ、リンダはハッとする。そうか、六本木はほんの少しだけ外国だったかもしれない。
村田に会釈をしてハマーを引っ張り促した。きっと、里咲に伝わるのも時間の問題だろう。何と説明するべきか考えてリンダは憂鬱になる。里咲のライブで男を仕留めただなんて思われた日には、恥ずかしくて死にそうだ。それも、よりによって、こんな風貌の男を。
リンダの予感通り、村田に目撃されたすぐ後に、モモと里咲からそれぞれ別に携帯電話に着信があった。リンダは出ないでいる。
また何であんたは、と呆れる里咲と、にやにやしながら根掘り葉掘り聞いてくるモモの顔が浮かんだからだった。
出し惜しみする事無く、リンダに「愛している」を口にするハマーに対して、リンダは一度も「愛している」や「好き」と言った言葉を返した事が無い。リンダは、ハマーを好きだという気持ちに気が付いていながらも、まだどこかで腹を括っていない。六本木界隈で幅を利かせるような男の「女」になるという事を恐れているのだ。
そういう想いもあり、里咲とモモにはまだ隠していたい。その内、きっと自分のハマーへ向ける想いは今よりもずっと重くなる。その時になれば、自分も腹を括らずにはいられなくなるだろう。里咲たちに報告するのはそれからでも遅くない。その時であれば、外野からとやかく言われようとも、自分の決心は揺らがないだろうと思うのだ。
そういう理由で、リンダは暫く「CHERSEA」も避けている。友人たちと過ごす時間は減ったものの、今やリンダの胸の隙間はハマーがありありと満たしてくれていた。リンダは幸せだったのだ。ハマーに愛される度、自分の価値が上昇する様に感じる事が出来た。それは生きる悦びにも似た熱い想いをリンダの中に呼び起こした。いつも通りキャバクラに出勤して、安物のドレスに着替え、客にセクハラをされても、その景色は今までと何処か全く違うものの様に思えるのだ。それはまるでモノクロームの世界からカラフルな世界へワープしてしまったような驚きと刺激に満ちていた。これが愛されるという事ならば、今まで自分は誰からも本当に愛されてはいなかったのではないか、とリンダは思うのだった。
「ねえ、リンダさん。最近良くない噂聞くよ」
店が終わりクロークで着替えていると、千鳥足の安藤が下着姿でリンダの肩に腕を回してきた。まるで酔っ払った中年のサラリーマンの様な仕草に、裏の安藤を感じて、リンダは苦笑する。
「何よ」
「深く関わるな、ってあれだけ言ったじゃん。私」
リンダはどきりとして、安藤の腕を自分から引き剥がすとそそくさとTシャツを着る。
「しかもさあ、リンダさん結構本気になっちゃってるでしょ。私そういうの勘がいいんだよね。見ていたら解る」
みるみる顔が赤くなるのが自分でも分かって、リンダは脱いだドレスを畳み、鞄に仕舞うと、何も答えずクロークを出ようとした。
「あれは、リンダさんの手に終えるような男じゃないよ。これ、最後の忠告ね」
安藤の声がクロークの扉に遮られた。
リンダはそそくさと店を出て、六本木の街を歩く。苦々しい気持ちが、けたたましいタクシーのクラクションにかき消されてゆく。今まで見てきた六本木のどの風景よりも、今見ている風景の方がずっと鮮やかだ。原彩色のネオンがぎらぎらと目に眩しい。この光の向こうで、ハマーが自分を待っている。その事実がリンダの気持ちを昂ぶらせ、足取りを軽やかにする。少しの酔いも手伝って、この六本木を闊歩する自分が、あるドラマのヒロインのような錯覚に陥る。今までは、どんな時もリンダは端役で生きてきた。それを心地良いと思っていた。身の程知らずに主役を望むのは、惨めで情けないものだと思ってきた。
ところが、どういう訳だろう。ハマーと出逢ってからというもの、ずっと、舞台の中央に躍り出た様な気分なのだ。例えば長く三流役者だった女優が、突然映画のヒロインに抜擢されたような、そんなときめきをリンダは肌で感じていた。
ネオンの向こうでダイナマイトみたいに太い髪を束ねた妙な男が、リンダを見付けて大きく手を振る。リンダは駆け寄り、飛び付く様に抱き付いた。
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