第6話 モモⅢ
正木にキスをしようとして迫り、エレベーターの壁に額を思い切りぶつけた話をしたら、海内はあろう事か大笑いをしてくれた。
「あのう、笑い事では無いのですけど」
「だよね、だよね」
更に海内は笑った。いくらオーナー兼店長といえども、あまりに失礼だ。昨日の海内の愉快そうな笑い顔を思い出して、モモは苦々しい気分になる。デパートの一階の化粧品売り場を何となく見渡していたモモだったが、衝動的にシャネルのリップスティックを手に取り、店員に手渡す。お試しは宜しかったですか?と尋ねられ、モモは無愛想に、結構です、とだけ答えてバッグの中から財布を取り出した。少々お待ちください、と言って店員は姿を消した。モモは備え付けられた鏡に映る自分を見詰めた。若くて美しい女がそこには映っている。けれど、若くて美しいだけの女の様にも思えた。人気のネイリストという自分に一体どれだけの価値があるというのだろう。鏡から視線を外して、自分の身なりを見下ろした。流行りのデザインのワンピースに、流行りのサンダルとバッグ。どれも流行を追いかけ過ぎていて、きっと来年には身に着けられない物ばかりだ。そう思うと途端に恥ずかしくなった。安っぽい女、そんな印象を周りに与えているのではないだろうか。モモにしては珍しい程、自分に自信を無くしている。ああ、身に着けているものを全部新しいものに取り換えたい、とモモは心の中で悲鳴に似た声を上げる。
「お待たせ致しました」
店員が新しい物を手にして戻って来た。モモは会計を済ませ、包装紙に包もうとしている店員を制し、そのまま、それをバッグの中に仕舞った。そして急ぎ足でデパートの二階に備え付けられたレストルームへと向かう。鏡に向かい合うと、今買ったばかりのリップスティックの蓋を開け、唇にそれを引いた。鮮烈な赤がモモの顔の印象をがらりと大人びたものにする。どちらかといえば童顔ともいえるモモの顔立ちのバランスを艶っぽく崩した唇の赤に、モモの視線は吸い寄せられる。ぷるぷるとした厚ぼったい唇。モモが出逢ってきた大抵の男は、この唇をセクシーだ、堪らない、と言って愛してやまなかったはずだ。それがどうしてだろう。モモは下唇を噛む。正木はこの唇に触れようともしない。彼は私に何を求めているのだろう。どれだけ考えても、モモには全く分からない。
OLらしき二人組の女達が連れ立ってレストルームに入って来た。流行を程よく取り入れた清潔感のあるシンプルな装いに、大人びたメイクとヘアースタイル。何もかも流行だらけの自分とは格が違うようにモモには思えて、鏡越しに二人から目を逸らす。モモはリップスティックをポーチに仕舞うとレストルームを出た。
広告業界で働く正木の周りにいる女達は、今の女達の数倍は洗練されているに違いなかった。そんな女達に囲まれて過ごしていれば、正木にとって、私なんて子供じみて思えてしまうのかもしれないとモモは思う。だから正木は、私に女として踏み込んで来ないのかもしれない。
モモはレストルームを出てすぐの場所にあったブランド店へ入る。全て仕立てが良く上品で、抑えたトレンド感が個性的でハイセンスな服ばかりだった。シンプルな黒いノースリーブのワンピースを手に取る。そっと値段を確認する。いつもモモが買うような服の三倍の値段はする。モモは躊躇う事無くそれを鏡の前で自分に当ててみせた。
「ご試着なさいますか」
気品のある店員がモモに話し掛ける。お願いします、と答えて、モモは試着室に通された。試着室でもう一度値札を確認する。高いけれど、無理をすれば買えなくもない。逸る気持ちでワンピースに袖を通す。それはモモの身体に吸い付くようにピタリと合った。まるで、出逢うべくして出逢ったかのような運命を感じて、モモは瞬時にそのワンピースを買う事を決意した。何より、大人びたシルエットを気に入った。アイラインのデザインはモモのスタイルを更に美しく魅せ、先程塗ったばかりの赤いリップと相まって、モモの女っぷりをぐんと上げて見せた。モモはふわりと下ろしていた髪を後ろで一つに纏めた。そうすると益々「仕事の出来る女」という印象で、正木の周りにいる広告業界の女達に少し近付けた気がするのだった。
「いかがですか」
試着室の外から店員の声がして、モモはすっと背筋を伸ばすと、堂々と試着室から店内へと出て行く。
「とってもお似合いです。素敵です」
店員が息を吞む。お世辞ではなく、本心で言っている事が、モモにはありありと伝わる。
「このワンピース、頂きます。このまま着て帰りたいのだけど」
「承知致しました。今新しい物をお持ち致しますので、暫くお待ちくださいませ」
丁寧に店員が頭を下げてストックへと姿を消す。モモは店内に備え付けられた明るい鏡の前でさり気なくポーズをとってみる。まるで雑誌の中から抜け出してきたモデルの様に美しくて魅力的だと、鏡に映る自分に対してモモは思う。こんなにも、良い服というのは人の気持ちを前向きに変えるのか。先程まで普段の自分らしからぬ自信喪失状態に陥っていたのが、嘘のようだった。
店員が新しく持ってきたワンピースに着替え、支払いを済ますと、モモはデパートを出て、そのまま駅へ向かった。コインロッカーを探す。平日にも関わらず、夕暮れの渋谷駅は、様々な種類の人間達でごった返している。急ぎ足で前に進む人、きょろきょろと辺りを見回しながら不安そうにしている人、嬌声をあげながら賑やかに通り過ぎる人、それから脱いだばかりの服をコインロッカーに仕舞う私。
何をやっているのだろう、とひとりごちながらロッカーの奥に紙袋に入れた服を押し込んだ。鍵を閉めると、モモはその場を離れ、人の少ない場所を探した。駅ビルの入り口の階段を少し昇る。それから深く深呼吸をして携帯電話を取り出し、正木に電話をかける。
正木は三回目のコール音で電話に出た。
「もしもし、モモちゃん?」
正木の穏やかな声を聞き、モモは訳もなく泣きたくなった。
「マサキングさん、今夜お食事いかがですか」
電話の向こうで小さな沈黙が流れ、モモは息苦しくなる。
「九時くらいでも平気かな」
今は夕方の六時過ぎなので、後三時間近くあるが、モモは飛び上がりたい衝動に駆られる。
「勿論、平気です。場所はどちらでも」
「オーケー。今夜は代官山に用があるんだ。是非モモちゃんも一緒に。ではまた仕事が終わる頃に連絡します」
そうして正木との約束を取り付けたモモは、浮足立ちながら、ひとり時間を潰す方法に頭を悩ませるのだった。
三時間近く渋谷で時間を潰し、待ち合わせた代官山へと向かう。代官山に新しくダイニングバーが出来たのだが、そのオーナーが正木の知人なのだという。今夜はその店のレセプションパーティなのだそうだ。モモは、ワンピースを買い着替えた事を、心底正解だったと自らを誉めた。値段こそ高価だったが、やはり私はこのワンピースを買う運命にあったのだ、とモモは思う。
東横線に乗り込み、モモは電車の窓に映る自分の姿にうっとり見惚れた。今まで見てきた自分の中で、今夜の自分は最高に色っぽい気がする。赤いリップも引き直した。正木は何と言うだろうか。正木の潤んだ目を想い出して、モモの胸は熱くなる。
平日の代官山は、九時前ともなると、渋谷と一駅しか違わないが、閑散としている。モモは待ち合わせた大通りの交差点で、正木を乗せたタクシーを待った。背筋を伸ばして顎を上につん、と上げる。少しでも大人の女の魅力を正木に見せつけたい。
いつもと違うあなたの魅力を前に、あの人は戸惑いを隠せない事でしょう。そして堪らなくなってあなたの手を握るわ。
今朝見た占いの文言がモモの頭の中をちらつく。占い、当たり過ぎている。鳥肌が立ち、モモは身震いをする。どうして、今日の私がいつもと違うって、分かっていたのよ。感心すると同時に、時系列を思い浮かべる冷静な自分もいる。占いを見てから、リップスティックとワンピースを買った訳だから、つまり占いによって動かされているだけの事だった。けれど、今、モモにとってそれはどちらでも良いのだった。美しい自分を正木に披露する、その時を今か今かと待ち侘びているだけなのだ。
モモの前でタクシーが止まる。しなやかにタクシーから降りてきた正木は、真夏だというにも関わらず、スーツを着ているが、その着こなしはこなれていて、モモは懲りずに惚れ惚れとする。今夜の私なら、これだけ素敵な男の隣に居ても全く不自然じゃないわ。モモは自信を持って正木に笑みを作る。
「遅くなってごめんね」
正木は開口一番に謝り、それからまじまじとモモを見詰めた。
「今日、いつもと違うね」
「そうですか?」
モモは悪戯っぽく微笑む。
「うん、一段と色っぽい。心配だ」
正木が嬉しそうに言い、モモは胸の内でガッツポーズをするのだった。
正木に連れて行かれたダイニングバーは大通りから一本路地に入った半地下にあった。ビル自体が新しく、何もかもがモダンでスタイリッシュな雰囲気を醸し出している。立食形式だが、雑然としていない。大人の社交場といったところだろうか。レセプションパーティーという事も相まって、来ている人間達は皆、洗練されたオーラを放っている。モモは少し緊張したが、それでも背筋を伸ばして凛とした姿勢を心掛けた。そのせいだろうか。正木と共に居ても、すれ違う男の殆どはモモに視線を投げかけた。まるで香り立つ果実を前にした動物達の様に、その視線は本能めいたもので、それによって、益々モモは自信をつける。
オーナーという人物が正木と言葉を交わした。歳も雰囲気も正木に似て洒落た男で、如何にも遊び人といった感じだが、眼光が鋭い。忙しいのか、正木がモモを紹介する前に立ち去ってしまった。正木は苦笑して、モモを見る。モモは目配せをして、シャンパングラスを正木に掲げ、正木はそれに自分のグラスを合わせた。グラスの中で縦に真っ直ぐ上がる泡は強い力を持ってモモの喉の奥で弾ける。空腹のモモの内臓をなぞる様に流れるシャンパンに、モモは一杯目からふんわり酔い始めている。何より、店が人で溢れていて、正木との距離が近い事もモモの酔いを加速させている。人が傍を通る度、モモは正木の方に体を傾げる。そうして、正木の体温を右半身で感じて、もっと擦り寄りたい衝動に駆られたが、辛うじて理性でそれを押し止めた。
何人か正木の知り合いだという人物を紹介された。皆愛想良く、モモを美しいと言って、褒め称える。正木も満更ではなさそうな顔をして対応している。モモは蕩けてしまいそうな程、高揚していた。そしてそれは正木も同様に見えた。いつもよりモモに対する態度も鷹揚にして密なコミュニケーションになっている。大人の社交場というのは、様々な思惑が蔓延していて、どこか享楽的だとモモは思った。真面目に物を考えることがまるで滑稽な事の様にさえ思える。モモが人生のテーマとして掲げている純愛すら、この場では一笑に付されそうな気がした。このような場に慣れ親しむ正木を横目で見上げる。これまでの自分の常識では通用しない相手なのだ、と改めてモモは正木の攻略法の難しさを知る。けれども、大事な場所へ、こうして自分を伴って出掛ける正木が、自分を特別視していないともモモには思えないのだ。あれこれ難しく考えるよりも、今この時間を甘く過ごす事に全力を捧げようと、モモは酔い始めた頭で心に誓う。それは何という贅沢な事なのだろう。モモは右半身に正木の体温を感じながら、うっとりとシャンパングラスを口に運ぶのだった。
「正木さん、テキーラやりましょうよ」
見ると先程紹介された若い男がキンキンに冷えたテキーラをボトルごと持って、正木に見せた。
「テキーラか」
正木は不承不承とした態度とは裏腹に、ボトルに手を伸ばし、ぐいっと呷った。普段のスマートな正木からは想像できない様な粗野な動作に、学生の様なやんちゃさを感じて、モモの母性本能をくすぐった。
「モモちゃんも」
正木がモモにボトルを手渡した。モモは少し躊躇ったものの、正木と、若い男にじっと見詰められて、仕方なくそれを口に含む。途端に独特で強烈なアルコール臭が鼻をつき、モモは慌ててそれを飲み込んだ。よっぽどアルコール度数が強いのだろうか。舌に痺れを感じる。ボトルを男に返すと、男はにこにこしながら、またそのボトルを呷り、正木に回す。正木は何も言わず、もう一度口を付けると、それをモモに渡して自分は席を外した。トイレだろうか。モモはボトルを男に返そうかとも思ったのだが、男が何故か期待を込めた目でモモを見詰めるものだから、モモは渋々もう一度口に含む。一度目は勢いで飲むことが出来たのだが、二度目はその個性の強すぎる味と香りに吐き気を催して、モモは涙目でそれを飲み込んだ。
「モモちゃん、これ」
そう言って戻って来た正木がモモの口に薄くスライスされたライムを差し込んだ。正木の温かい指先がモモの唇に触れる。たった一瞬の事だったのだが、モモの身体はそれに熱く反応している。胸がどくんどくんと高鳴った。
「これがないと、さすがにテキーラはきついよ」
笑いながら自身の口にもライムを放り込む。
「今もこんなんばっかり飲んでんの」
呆れながら正木は若い男に訊ねて、二人は愉快そうに笑う。
「お二人はお仕事のご関係ですか」
「いや、昔からの飲み友達。何年か前まで僕は三宿に住んでいたのだけど、その時僕が常連だったバーの、彼も馴染でね」
正木が説明すると、男は頷いた。
「この店のオーナーもその時の飲み友達なのですよ」
補足の様に男が説明した時、噂のオーナーが会話に参加をしてきた。
「こうして三人で揃うのも久しぶりだよね」
上機嫌で正木と男の肩に腕を回したオーナーは、最初に顔を合わせた時よりも幾分か酔っている。モモは三人の姿を見て微笑ましく思い、にこやかに笑みを浮かべた。
「ねえ、正木、彼女紹介してよ」
オーナーが甘えた声で正木にねだる。
「彼女はモモちゃん。渋谷でネイリストをしている」
モモはぺこりと頭を下げた。
「結婚するって噂の?」
唐突なオーナーの発言に、酔った頭が追い付かず、モモは混乱して正木の顔を見上げる。
「いや、彼女は飲み友達だよ。結婚相手は今妊娠中だから、夜は連れて歩けない」
正木がモモの腰に手を回して答えた。
「妊娠?て事は正木さんパパになるんですか。ありえねえ!」
若い男が歓声を上げる。オーナーは、やれやれと言った表情で、モモの肩をぽんと叩いた。
「悪い男だから、モモちゃん気を付けなよ」
そう言って今度は正木の肩を軽く小突くと去って行った。
今の彼らの遣り取りを、モモは頭の中で反芻する。足に力が入らなくなってふらついたが、腰に回された正木の腕によって、モモは辛うじて立っている。
結婚、妊娠。二つの言葉がモモの脳内を忙しく駆けずり回る。堪らなくなって、モモは手洗いへと席を外した。
コンクリートの打ちっ放しの薄暗く殺風景なトイレには、隅々まで磨かれた大きな鏡が打ち付けられていた。鏡の前に手を付いて顔を上げる。とろりとした自分の瞳と見詰め合う。視界があやふやに揺れて、モモは自分が相当酔っている事に気付く。今聞いた事は、現実なのかしら。ゆらゆらと思考も揺らめく。ふふ、とモモは鏡を睨んで笑う。何を今更疑う余地がある。ずっと、悩んでいた事の答えが出たのだ。
つまり、正木は妊娠中の婚約者がいて、モモは端から恋愛の対象ではなかったのだ。粗方、暇潰しの相手だったのだろう。自分に向ける好意をからかって遊んでいたのかもしれない。けれど、正木はそんな不徳な男なのだろうか。モモが見詰めてきた正木は、紳士で真面目で情熱的な男だった。どういう了見でここまでモモとの関係を築いてきたのだろう。
ひょっとしたら、とモモは思う。正木は単純にモモを飲み友達として純粋に大事にしていただけなのかもしれない。勝手に好意を寄せた自分が、あれやこれや正木の思惑に想いを馳せては、てんやわんやして、そのどれも見当違いだっただけなのかもしれない。酔いは回っているものの、モモの身体が羞恥心で、かあっと熱くなる。馬鹿みたいじゃない、私。穴があったら入りたい。というか、今すぐ家に帰りたい。モモは大きく息を吸った。でも、今家に帰ったら、それこそ情緒不安定で恋愛呆けした女だと正木に思われる事だろう。大きく息を吐き出し、背筋を伸ばす。
今夜はいい女でいると、このワンピースに誓ったのだ。玉砕しようと最後までそれは貫きたい。
鏡に向かって凛とした表情を作ると、モモは胸を張ってトイレを出た。正木はカウンターにいた。幾つかの料理を小皿に取り分けている。モモを見付けると、屈託なく笑顔を向けた。
「意外にどれを食べても美味しいよ。モモちゃんの分も取り分けておいたから」
「意外に、は余計だろう」
傍で別の人間と談笑していたオーナーが、正木に突っ込みをいれて、何人かが笑う。
「本当だ。美味しそう」
モモは満面の笑みで答えたが、さすがに身体は正直で、目の前に置かれたお洒落な見た目のブルスケッタやマリネやパスタに食指はぴくりとも動かない。正木に差し出された飲みかけのシャンパンに口を付ける。
それから、渋々マリネをフォークで突いてみたものの、口の中に入ったイカはまるでゴムの様で飲み込むのにひと苦労した。モモは顔に偽りの笑みを浮かべたまま、ひたすらグラスを口に運んだ。幾ら飲んでも、それ以上はもう酔わなかった。頭の後ろ側が妙に冷静を保っていて、客観的に今の状況を眺めていた。
正木は、旧友達に囲まれて無邪気に酔っ払っている。いつも正木がモモとの間に保っている距離感が今夜は妙に近い。モモの腰に正木の腕が回る度、モモの身体は固くなった。何も知らない頃のモモであれば、今の状況に心浮かれ、ときめいていたに違いなかった。けれど、知ってしまった以上、正木の行動に不信感が拭えない。正木はそんなモモの心境を知ってか知らずか、いつも以上にモモをエスコートする。たった今皆の前で婚約者がいる、と公言したばかりだというのにその扱いはまるで恋人に対するものだった。それでも、この場ではそれが大人の男の嗜みとして通用してしまいそうなのだ。モモは気分が悪くなって、カウンターで水を頼む。力を込めて握ると割れてしまいそうな程薄いカクテルグラスに注がれたそれを、モモは一息に飲み込み、もう帰ろう、と心に決めた。これ以上いても、何も得るものは無い。
「モモちゃん、どうした」
肩を叩かれて振り返ると、心配そうにモモを覗き込む正木がいた。優しくモモの背中をさする。
「飲みすぎた?」
カウンターに置かれた、飲みかけの水が入ったグラスを見て、正木は目を細めて笑い、モモの鼓動が高鳴った。先程まで冷静で客観的だったはずだというのに。
「もう帰ろうかなって」
正木から視線を外してモモは答える。正木はもう一度モモの背中を温かくて大きな手でさすると、モモの細い手首を握り、エントランスに向かって人を掻き分けて進む。
「あの、マサキングさんはまだお店に居てください。折角のお知り合いの晴れの日ですから」
モモは言うが、正木は何も言わずに店の外へ出た。夏の夜の生温い熱気がモモの身体をじっとりと包む。
「送らせてよ」
正木が潤んだ瞳でモモを見詰める。どうしてこの人はこんな目で私の事を見るのだろう。モモはその理由をまだ探している事に気付いて辟易とする。知ってどうするのだろう。そこに未来など無いというのに。
モモが答えずにいると、正木がモモの手を握り歩き始めた。
そして堪らなくなってあなたの手を握るわ。
占いの文言がモモの頭に甦る。前回は占いを信じて額にたん瘤を作り、今回、所詮は占いだったと失望した途端これだ。あんなにもモモが望んでいた事が、今やっと形になって二人を繋いでいるが、それは明らかにモモの望んでいたものではないのだった。正木はすぐに大通りに出ずに、裏道を、モモを連れて当てもなく歩く。傍らに建ち並ぶショップのウインドウに二人の姿が映る。めかし込んだ自分の姿が、こうして見ると、何故だろう、滑稽だった。
「マサキングさん、タクシーは大通りに出ないと」
モモが立ち止って言う。正木はじっとモモを見詰め、モモが踵を返して大通りに繋がる路地へ行こうとした瞬間、正木はモモを後ろから強く抱き締めた。モモは身体から力が抜けてゆくのが分かった。ずっとこうされる事を望んでいたのだ。心と頭がまるでばらばらに動いている。正木がモモを自分に向き合わせて、モモの唇に自分のそれをねっとりと重ねる。モモは目を閉じて正木の唇を感じる。正木は一度唇を離し、モモの首筋をなぞる様にキスをして、もう一度モモの唇に唇を重ねようとしたが、モモはそれを掌で制した。
「マサキングさんさっきの話」
「ん?」
明らかに惚けた様子で正木はモモの掌にキスをする。
「結婚するとか、妊娠しているとか」
「ああ」
モモの掌から顔を離して、正木はモモの顔をじっと見詰める。
「言っていなかったっけ」
「聞いていません」
きっぱりとモモは言うが、態度とは裏腹に甘えが声に滲んでいる。嘘だと言って、そう懇願している。
「彼女は妊娠していて、近々式を挙げる予定なんだ」
モモの想いを裏切って、正木は真っ直ぐに事実をぶつけてきた。
「そうなんですか」
おめでとうございます、だなんてこの状況で言える訳もなく、モモは下唇を噛む。
「今夜で最後にしよう。僕はモモちゃんの好意に甘え過ぎてしまった」
そう言って、正木は強くモモを抱き締める。
「それって」
「最後にモモちゃんとの想い出を作らせて欲しい」
モモを遮って正木はまたモモの唇を奪う。最低。胸の内で呟くが、モモは正木を拒めずに受け入れている。
「ここでは難だから」
正木がモモの手を引っ張って大通りに向かう。ホテルにでも連れて行くつもりなのだろう。そして、今夜でこの関係を最後にするつもりなのだ。モモの気持ちなど全く考えていない正木の勝手な言動に、モモの中に沸々と得体の知れない感情が湧き上がった。
「嫌です」
モモが足を止めて言う。正木は驚いた様子で振り返る。
「今夜で最後だなんて、絶対嫌です」
モモは正木に向かって叫んだ。狂気じみている、と思いながらも、モモは泣きながら、嫌です、を繰り返した。
「では、モモちゃんは僕とどうなりたいの」
穏やかに宥める様に、正木がモモに訊ねる。その様子がいつかトモヤにそうしていた正木の姿と重なり、ぎょっとする。
結婚なんて止めて、私と一緒になってくれ、とは口が裂けても言えない。婚約者は妊娠している。それに、そんな事を望める様な関係性に発展してもいない。
「二番でもいいです。だから最後だなんて言わないで」
モモは泣きながら、正木に懇願していた。恐くて正木を見る事が出来ずに足元のアスファルトを見詰める。ぽたぽたと涙がアスファルトに染みを作った。本当のところ、本当に自分がそうしたいとは思っていない。モモの求めてきたものは純愛だ。その定義を覆す様な未来に突き進むのは本望ではない。けれども行き場を失ったモモの想いは、目の前の正木に執着し、爆発寸前にまで膨れ上がっている。
正木が何も答えないので、モモは恐る恐る顔を上げた。正木は石の様に固まった冷たい表情でモモを見ていた。モモではなく、モモの姿を見ていた。モモはその表情に、ありありと正木の胸の内を窺い知る事が出来た。何故ならば、それはモモがかつて関係を終わらせる際に男達にしてきた表情に酷似していたからだ。モモは縋る男たちにいつもこう思ってきた。ああ、面倒くさい。終わりって言ったら、終わりにしてよ。
モモは正木を見詰め返しながら心の耳を両手で塞ぐ。どうか、これ以上傷付ける様な事は言わないで。けれども、正木の声はモモの耳に届いてしまう。
「なんだか」
正木は大きく溜め息を吐いた。
「そういう事を言うモモちゃんは、見たくなかったな」
「うっわ、山下、目が腫れ過ぎ。どうした、とどめでも刺されたか?」
オーナーの海内がモモの顔を覗き込む。
「ええ、ええ、刺されましたとも」
モップを掛けながらモモは不貞腐れる。海内が眼鏡を外してモモに渡す。
「伊達メガネだから、レンズに度数入っていないのよ。かけときなさい。それじゃ、お客さんに気を遣わせるわ」
はい、と答えてモモは素直に海内から眼鏡を受け取った。黒斑の大振りな眼鏡だ。モモの趣味とは違うけれど、この際仕方がない。海内はそれ以上モモに何も聞いてこなかった。さすが大人の女だ。モモは秘かに感謝をして、店の開店準備に精を出す。昨晩のアルコールと胸のしこりがずしりと身に染みて重いけれど、モモはただひたすらに体を動かした。
「モモさん、目」
海内から借りた眼鏡の奥を覗き込むようにして聞いてきたのは、人気キャバクラ嬢の安藤だった。モモは安藤の指先を施術しながら苦笑する。
「やっぱりおかしい?」
「何かありました?失恋?」
「まあ、そんなところ」
安藤が切なそうな表情を作り、モモをじっと見詰めた。聖母マリアの様に包み込むような母性を安藤から感じ、モモはえもせずたじろいだ。これがナンバーワンキャバクラ嬢の見せる多彩な顔の一面か、と感心すると同時に、彼女は失恋などとは無縁なのだろう、と卑屈な思いを抱いてしまう。少し前までは自分も失恋知らずのそちら側の女だったのだ。
「分かります。辛いですよね」
安藤がしんみり言うものだから、モモは驚いて手を止め、安藤を見る。
「安藤ちゃんに失恋の痛みなんて分かるの」
「当然」
安藤は、からりと笑う。
「あたしなんて、本当に好きになった男とは上手くいったためしが無いですよ」
「安藤ちゃんみたいな女の子でも?」
「自分が好きじゃない男を落とすのは、すっごく簡単なんですけどね。なぜか」
少しの間モモと安藤は黙り込み、同時に大きな溜め息を吐いた。
「純愛ってどこに転がっているのかな」
モモが訊ねると、安藤は大きく吹き出した。
「モモさん、それ本気?」
「ええ、大真面目です。純愛以外は要らないの、私」
ひとしきり笑った後、安藤は真顔になった。
「でも、今回の恋がモモさんにとって、純愛だったんじゃないの」
モモは安藤の爪にストーンを乗せながら、そうかな、と首を傾げた。
「そうですよ。こんな目が腫れちゃうくらい、泣かされちゃったわけでしょう。それ程人を好きになったのなら、それは間違いなく純愛だと思うな」
モモの瞼の裏側に、昨晩の正木の冷たい表情が浮かんで、モモはやるせなくなる。けれど、安藤の言う通りなのかもしれない。
「純愛って苦くてしょっぱいのね」
「そうですよ」
安藤が知った様な顔で答えて、二人はまた苦笑した。
「ところで、モモさん」
安藤が少し身を乗り出して真剣な顔付きになった。
「リンダさん、どうしてる?」
声を潜める。店には今モモと安藤と海内しか居ないので、声を潜める必要など無いのだが、安藤のその様子に、モモは只ならぬ気配を感じ取った。
「最近連絡つかない。どうして?」
モモさんもか、と安藤は落胆してみせた。
「リンダさん、一昨日から無断欠勤しているのよ。電話しても繋がらないし」
「嘘でしょう」
モモは素っ頓狂な声を上げた。
「リンダは少し浮世離れしていて、妙に紗に構えたところがあるけれど、昔から真面目だけが取り柄だよ」
そんなリンダが無断欠勤をするだなんて、モモには俄かには信じられない。
「そうなの。他の子ならともかく、リンダさんだからっていうので、店の人間も皆心配しているんだ」
安藤はUⅤライトの中に手を差し込んだ状態で、更にモモに顔を近付ける。
「それにね、最近リンダさん、ちょっとヤバい男とつるんでいたから」
「何それ。もう少し詳しく」
モモも安藤に顔を近付けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます