第5話 里咲Ⅲ
スタジオまでの道のりが長い。約束までの時間が長い。里咲は汗ばむ体を太陽の下で解放する。どうにでもなればいい、と天を仰ぐ。眩しい夏の日差しが乱暴に里咲の瞳を刺激する。鞄の中には、ユズの新しい楽曲に合わせて書いた歌詞が入っている。それがユズに対する里咲の気持ちだという事は、きっと感性の豊かなユズにはすぐに解ってしまうだろう。気味悪がられてしまったらそこまでだ。これ以上、何でもないふりをして今の関係を続けて行く事が里咲には無理に思えた。玉砕する事で、望んだ音楽活動に支障が出たって構わない。今の関係にけじめを付けないと、このままでは感情が壊れてしまいそうだった。陽炎でゆらゆら揺れるアスファルトの上を歩む。がやがやと若者たちで賑わう街を抜け、線路沿いを暫く進む。古い線路沿いの垣根には色とりどりの様々な夏の花が咲いている。額の汗が里咲の目に沁みて、右手で拭う。スタジオの前で、里咲を見付けたユズがその長い手をゆっくりと振った。里咲の鼓動が、息が出来ないくらい早まった。
「ごめん」
「何が」
「遅れて」
「だって約束の時間まであと五分あるよ」
ユズが屈託なく笑い、里咲もぎこちなく笑う。今さっき決めた覚悟がゆらゆらと揺らぐ。本当にいいの?里咲は自問自答を繰り返す。里咲がこの歌詞を披露する事で、ユズとの他愛のない居心地の良い時間が失われてしまうかもしれないのだ。
それでも。里咲は目をぎゅっと閉じて、前回ユズと過ごした夜を想い出す。ユズは今までで一番優しく里咲を抱いた。まるで恋人の様だった。ユズが時折里咲に見せる、はにかんだ様な笑顔だって、里咲を愛し始めている証拠の様な気がするのだ。
用意された部屋に入り、二人は作業を始めた。鏡の前に向かい、里咲はパフォーマンスを加えながら、今までに二人で作り上げた歌を歌いあげる。ユズは時々パソコンを弄りながら、里咲の事を鏡越しにじっと見詰めていた。一曲歌い終わるごとに雑談を交えながら、里咲はユズからのアドバイスに耳を傾ける。ユズは丁寧に、的確に、分かり易い説明で里咲を納得させ、里咲はその言葉をノートにメモする。二人は真剣に世界を変えようとしている。ユズとなら不可能な事ではない様な気が、里咲にはしてならないのだった。
「里咲、次新曲やろう」
ユズがパソコンから顔を上げずに言う。
「オッケー」
里咲は努めて明るく言い、書いてきた歌詞を鞄の中から取り出した。心臓がどくんどくんと早く打つ。
「見せて」
ユズが歌詞の書かれたルーズリーフに手を伸ばし、里咲は慌てて後ろに引っ込める。
「恥ずかしいから、まずは歌わせて」
「いいけど。珍しいね」
ユズがきょとんとして言う。
「じゃあ、行くよ」
スタジオの中にぴんとした一瞬の静寂が訪れ、里咲は大きく息を呑む。
美しく繊細なユズの楽曲が部屋の中を満たし出す。歌詞が載っていなくとも、その曲は淡く切ない夏の恋を思わせるものだった。けれど、今の里咲がユズに寄せる想いは、決して淡くなく、とても色彩の濃いもので、里咲は力強く歌い始めた。鏡越しにユズとじっと目を合わせる。ユズは逸らす事なく里咲の視線を受け止めている。里咲は溢れる想いを切々と声にする。どうかお願い、この想いを受け止めて。里咲の感情が高ぶり、涙がうっすら目の膜を浸した時、鏡の向こうのユズがふいに里咲から目を逸らし、俯いた。里咲はそれでも最後まで歌う。考え込むような素振りを見せるユズを前にしても、ここまで来たらもう戻れないのだった。
歌い終わると、里咲の息は切れていた。ユズは俯いたままだ。部屋の中に里咲の息遣いだけが上下している。長い沈黙だった。里咲は立っているのがやっとの思いで、鏡越しにユズを見詰めていた。
ユズが顔を上げた。困った様な顔をしている。それから両手で両方の米神を持ち上げる。ユズが悩んでいる時の癖だった。里咲はユズの言葉を待つ。ユズは、うーん、と唸り声を上げた。
「もの凄おく、エモーショナルな歌詞だね。この歌詞はもっとソウルフルな楽曲に載せた方が生きるよ。歌詞自体は悪くない。だけどさ」
ユズが歩み寄って、鏡の前に立ち、里咲と向き合う形を取る。里咲の体が強張った。
「この楽曲には重すぎるかなあ」
そして、里咲の手元からルーズリーフを抜き取った。
「この歌詞で新しい楽曲作るから、今の曲には違う歌詞載せようよ。もう少し若い恋愛観がいいかな」
そしてパソコンの前に戻る。
「時間あんまりないよ。急ピッチで仕上げよう」
「うん。分かった」
里咲は愕然としながら、なんとか乾いた口を開く。信じられない事に、里咲の想いはユズには一ミリも伝わっていないらしい。それとも、今後の二人の為に伝わっていない素振りをしているのだろうか。混乱が里咲を苦しめる。その後のスタジオでの時間は、里咲にとって苦く重いものとなったのだった。
「お疲れ。歌詞が書けたら一度会おう。早急に」
「そうだね」
スタジオを出て、駅までの道を歩きながらユズが言う。陽が傾き始めていて、街が茜色に染まり、立ち並ぶ飲食店から惣菜の匂いが流れ入り混じり、複雑な匂いとなって二人の鼻先を掠める。
「湘南のフェスでは新曲をメインにしたいんだ。ロケーションにぴったりだからさ」
「そうだね」
「スタジオ借りる前がいいよね。僕の家で簡単なレコーディングしよう」
「そうだね」
「最短だとどの位で歌詞が仕上がりそう?」
「そうだね」
「里咲、聞いている?」
ユズに肩を小突かれて里咲は我に返った。
「あ、ごめん。何」
「だから、歌詞は早くていつまでに書けそう」
ユズが少しむくれて言う。
「二、三日頂戴」
「オッケー。じゃあ、月曜日あたり僕の家で集合ね」
そしてユズは鼻歌を口ずさみながら里咲の前を歩き始めた。遠くに踏切の警報機が鳴る。里咲の想いは断ち切られてしまった。
「ねえ、リンダ当分見てないんだけど」
「CHERSEA」に向かう道すがら、モモから電話が掛かってきた。モモは仕事の休憩中だと言う。
「そうだね。私も思っていた」
「生きているかなあ」
「連絡が無い以上、逆に生きているんじゃない」
「恐い事言わないでよ」
電話の向こうにモモの可愛らしい笑い声が聞こえる。
「悪い男にでも引っ掛かっていなければいいけど」
「まあね」
二人の口調が急にしんみりする。あまりに現実味を帯びた見解だった。
「最近、モモはどうなの」
「まあ、ね」
それだけ言ってモモが黙り、里咲は察する。
「近々呑みに行こうよ。リンダも誘ってさ」
「うん」
モモの声が湿っぽい。リンダの件で電話を掛けて来たようで、実は違ったのかもしれない。里咲は電話を切らずにモモが喋り出すのを待ったが、モモは結局何も言わず、じゃあ、また、と言って会話を終わらせた。
里咲は少しほっとした。今はとてもじゃないけれど、モモの話を聞いてあげられる精神的な余裕が無い。今日のバイトだって、いつも通りこなせるか分からない。今日は金曜日だから店は忙しいだろう。それだけが救いだ。今日に限っては、モモもリンダも店に来ない予感がした。今の里咲にとっては、そっちの方が助かる。
ところが、二十三時を過ぎた頃だろうか。大手レコード会社の人間達に囲まれて、露出の多いワンピースをさらっと着こなした華奢で美しい女が「CHERSEA」にやって来た。最初、里咲はその女が誰かという事に気付かず、その中の常連の男と軽口を交わしつつ彼らをテーブル席に案内し、メニューとお絞りを配っていた。彼らは「CHERSEA」が何軒目からしく、すでに気持ちよく酔っていて、中心に座らせたその美しい女をまるでお姫様かの様に扱っていた。女はそうされる事がまるで当たり前の事の様で、優雅にただ座っていた。タレントなのかもしれない。里咲はそれ程気に留めずにカウンターの中に戻り、今受けた注文のドリンクを作る。ビールにジントニック、ラムコーク等、簡単に出来て早いものが殆どの中に、お姫様の頼んだマティーニが紛れている。シェイカー振るのか、と思い店長を見るとにやにやしながら空のシェイカーを里咲の手許に置いた。分担して手伝う気は無いらしい。里咲は渋々シェイカーを振る。カンカンカンと小気味良い音が店の中に響く。里咲はリズムよくシェイカーをカウンターの縁で叩いて蓋を開け、とろりとした液体をグラスにそっと注ぐとオリーブを飾る。
「里咲ちゃんだっけ」
気付くとお姫様は輪から抜け出して、カウンターに腰掛けていた。里咲の手許から、出来上がったばかりのマティーニを自分の方へすっと引き寄せる。
それで初めて、里咲はそのお姫様をまじまじと見詰めた。彼女は前回のライブの後、ユズに紹介された紗耶香だった。その時に見た紗耶香よりも、今、目の前にいる紗耶香の方がずっと艶っぽくて美しかった。デビュー間近と言っていたから、様々なプロモーション活動の真只中なのだろう。それがきっと彼女をより輝かせているのだ、と里咲は思った。
「紗耶香さんですよね。今日は」
「レコード会社で打ち合わせだったの。で、この店の常連だって言うプロデューサーからこの店の名前が出たから、連れて来て貰ったってわけ」
マティーニに口を付けながら紗耶香が答える。
「この店、何かでご存知でしたか」
里咲は他の客から注文を受けたファジーネーブルをステアしながら、紗耶香と冷静を装って会話を続けた。
「ユズに聞いたの」
里咲は手を止めて、紗耶香を見る。紗耶香もまた里咲をじっと見詰めている。
「ユズはこの店、来た事ないけど」
「それも聞いたわ」
笑いながら紗耶香が言って、里咲の内側にざわざわと不快な波が押し寄せる。
「里咲ちゃんが、どんな風に仕事しているのか見てみたくて連れて来て貰っちゃった」
悪戯っぽく微笑む。
「なんで」
「音楽活動頑張りながら、苦労して生活している同じくらいの歳の女の子に興味ある」
悪びれる様子もなくそう言う紗耶香に、里咲は全身の血が逆流して、かっと身体が熱くなるのを感じる。
「私今、結構失礼な事、あなたに言われていない?」
「そうかしら」
マティーニの中に白い指を突っ込んでオリーブを摘まみ、口に含んだ。
「そんな私を見てどうするの」
「ただの確認よ」
「は?」
少し離れた場所で、二人の会話に聞き耳を立てていた店長の全身から警戒心を感じたが、里咲はもうそれどころじゃない。里咲は作り終えたカクテルをカウンターの客に配ると、紗耶香に向き合った。
「で、何が確認出来ましたか」
笑いながら言ってみるものの、明らかに挑発したもの言いになってしまっている事には気が付いている。
「てゆうか、里咲ちゃんってユズとやっているの」
「何でそんな事、あなたに言わなきゃならないの」
「やってるんだ」
オリーブの種を口から出して灰皿の上に転がす。里咲は無言でそれを片付ける。
「彼女でもないくせに」
紗耶香が笑う。店長が少しずつ里咲の方ににじり寄る。
「あなたはどうなの。ユズの彼女なの」
「私は今それどころじゃないの。ユズを好きだっていう気持ちはあるし、ユズも私を好きだけど、分かるでしょ」
そう言って、テーブル席で盛り上がっているレコード会社の男たちの方へ視線を投げる。里咲を牽制しているつもりなのだろうか。里咲はカウンターの内側で自分の手がわなわなと震えている事に気付き、強く握る。
「あなたがユズの彼女じゃないのなら正直に話すけど、体の関係はあるわ。最近は凄く優しくして貰っている。音楽も恋も、ユズからは貰うのは幸せばかり」
紗耶香が隣に腰掛けていた客の方にゆっくりと手を伸ばした。何をするのだろう、と目を遣ったその瞬間、里咲は頭からファジーネーブルを被っていた。たちまち甘ったるい柑橘系の香りが立ち上る。店長が、すばやくお絞りを里咲に向かって幾つか投げると、たった今飲み物を奪われた客の許へ走り、直謝りをしている。客は怒るどころか興味津々で里咲と紗耶香に注目している。里咲はお絞りの薄いビニール袋を乱暴に破ると、無言で髪を拭き、顔を拭く。白いシャツがオレンジ色に染まっている。このシャツまだ買ったばかりなのに。それでも里咲の中にはもう先ほどの怒りは湧いていなかった。テーブル席の方では馬鹿笑いが聞こえる。たった今、自分達の連れて来たアーテイストが起こした粗暴な振舞いには全く気が付いていないらしい。呑気なものだ。
「ごめんね」
紗耶香が謝り、里咲は驚いて顔を上げる。紗耶香は泣いていた。
「あんたの事、大嫌いなの。居なくなればいいのにって、思って」
しゃくり上げて泣き出した。泣きたいのはこっちだ。里咲は困って店長を見るが、店長は知らん顔でファジーネーブルを作り直している。
「お詫びに大盛りにしておきました」
と言って、先ほどの客を喜ばせている。二人で解決してね、と店長のストローハットが言っている。里咲は溜め息を吐いた。紗耶香は泣きじゃくりながら、残りのマティーニを飲み干した。
「何か飲む?」
里咲が訊ねると、紗耶香は従順に頷いた。
「ロングアイランドアイスティ頂戴」
涙に濡れた声で、この期に及んでレシピの難しいカクテルを注文してくる紗耶香に、新手の嫌がらせなのかもしれない、と里咲は苦々しく思うのだった。
結局、紗耶香はその後、レコード会社の連中に優しく慰められたり励まされたりして、情緒不安定なお姫様として帰って行き、あの出来事は有耶無耶になった。里咲も、店長の替えのシャツを借りて、仕事を続けた。髪は固まり、顔はべたついていたけれど、構っていられない程店は混雑していた。DJが週末の深夜を盛り上げる。店長も里咲も慌ただしく動き回る。空いているグラスを回収し、ドリンクの注文を取り、常連客の話し相手をしながらドリンクを作る。ユズの事も紗耶香の事も考える余地のないその忙しさが、今の里咲には心地よく、いつに増してきびきび働いた。
窓の外が白み始めた。潰れた客が何名か壁際のソファー席で転がっている。DJは拘りの格好付けた選曲ではなく、盛り上がる王道でポップな選曲に切り替える。それはジャンルも様々で、ロックも邦楽ポップもなんなら歌謡曲だって何でもありで、店長も里咲も、カウンターに生き残る客も、思い思いに熱唱しながら曲に合わせて体を揺らす。店にいる人間の殆どが、アルコールに浸されて感情が浮き上がり、剥き出しになったそれを愉しんでいる。混沌とした朝がそこにある。店長がビールを入れて里咲に差し出した。里咲は礼を言ってそれを喉に流し込む。冷たくて最高に美味しい。店長は、今日は閉店まで店に残るらしい。DJの後ろにある小さなバルコニーに干された里咲の白いシャツが朝日を受けて輝く。真夏の朝はあっという間にやってくる。朝から逃げるように帰る客、ゾンビの様に甦る、さっきまで潰れていた客、歌謡曲で踊り狂う外人、いつも通りの週末の朝の光景に、里咲はカウンターの中でくすっと笑う。店長もにやにやしている。大人の人間どもの乱れた情景は、醜くも愛おしい。どうしようもないけれど、悪くも無い。里咲は呟いてDJにビールを注ぐ。
「今日は大変だったね」
店長がのんびりとした口調で言う。
「お酒、頭からかけられたのって初めてです」
「どうだった?」
「大人の階段を一つ昇った感じ」
「せめてファジーネーブルじゃなきゃ良かったのにね」
店長と里咲は窓の外に揺れるシャツを眺める。紗耶香は今頃どうしているだろう。違う店で、乱れた朝を迎えているのだろうか。家で大人しく眠りについているとは到底思えない。
「あの娘、恋敵なの」
店長がグラスを乾拭きしながら訊ねる。
「どうでしょう。よく分からないや」
「でも二人で、同じ男が好きなんでしょう」
「まあ」
「羨ましいね。里咲ちゃんや、あんな綺麗な娘に想われる男ってどんなヤツなの」
「一言で言うと」
里咲はユズを想い出す。屈託ない笑顔、少年の様に真っ直ぐな情熱、紡ぎ出す唯一無二の音楽。
「美しい天才、っていう感じかなあ」
「罪だねえ」
店長が目を細めて笑う。
「苦しい恋になりそうじゃない」
「はい。もう苦しくて苦しくて、毎日死にそうです」
里咲は誰にも話さずにいた胸の内を店長に打ち明けた。一度口にすると、それは雪崩のようにどっと押し寄せる。
「常識が通用しないんです。彼が何を考えているのか分からない。だけど本当は分かるような気もする」
店長は黙ってグラスを拭き続けている。
「恋愛するべき相手じゃなかったみたい。尊敬する人として、それ以上踏み込まずに付き合えば良かった。ここまで来たら、感情を押さえようとしても、どうしても抗えない。こんなにコントロールが出来ない自分が初めてで、もうどうしたら」
「いいなあ」
「良くないですよ」
「いや、そんな風に苦しめるくらいに想える人間と出逢えて、里咲ちゃんは幸せだと思うよ」
DJの流す、哀しい恋心を唄う歌謡曲が店長の言葉に重なり、店長の言葉に深みが増す。
「今はそんな風には思えないな」
「そうだろうね」
店長が遠い目をして答える。店長の頭の中に甦った女は、今の奥さんだろうか。それとも叶わなかったかつての恋の相手だろうか。どうしても後者のような気がして、里咲はそれ以上何も言わずに閉店の準備に取り掛かり始めた。
淡い夏の恋の歌詞は、呆気ないほどに、さらさらと仕上げる事が出来た。あんなに悩んで苦しんで書いていた事が馬鹿らしく思えた。書き終えてシャープペンシルを机の上に投げると、里咲はベッドに体を放り投げた。暑い。体中汗まみれだ。セミの声が鬱陶しい。扇風機を引き寄せて首振り機能を止める。一身に風を受けて、もう一度横になると、窓の外へ目を遣った。どこまでも澄んだ青い八月の空。
歌詞仕上がったよ。ユズの都合のいい時に持っていきます。宜しく
寝転がりながら携帯電話でユズにメールを送った。
じゃあ今日。三時頃からどう
すぐにユズから返信がある。了解、とだけ返して里咲は目を閉じた。ユズは私が音楽をやっていなければ出逢えなかったし、出逢ったとしても、男と女の関係にはなっていなかったのではないかと思う。ユズは、所謂一般的な恋愛という行為に対して尋常じゃなく疎いのではないだろうか。学生時代に作ったという曲を聞かせて貰った事がある。すでに洗練されたその曲を聴きながら、この人は青春の全てを音楽に注いで生きている人だ、と確信した。だから仕方ないのだ。自分の知りうる常識に彼を当て込んではならない。けれど、私にとっては、きっとこのままではいけないのだとも思う。蓋を出来ない想いはやがて里咲を壊し、延いては二人の関係に影を落とすだろう。
ベッドに思い切り体を広げて大の字になる。ユズと体を重ねた記憶だけをを消してしまいたいと願った。それがある限り、いけないと思っていても、身体がユズを求めて疼いてしまう。そうである限り、これからも、だらだらと体の関係は続いていくかもしれない。そして私は煮え切らない想いを抱えてユズと夢を追う。それがどんなに苦しい事かは、想像に容易い。紗耶香を想う。私の望む全てを掴んでいる女だと思っていたのに、あろう事か、彼女は私に嫉妬して苦しんでいる。夢を掴んでも、ユズの事は掴めなかったのだ。何故なら、ユズの恋には実態が無いから。紗耶香は満たされていないのだ。恵まれた世界から、歯軋りをしながらこちら側を睨んでいる。可哀想な女、と呟いて、里咲は紗耶香に同情した。
クーラーが、きんと効いたユズのワンルームで、二人は向かい合って、今朝里咲が仕上げたばかりの歌詞を確認する。口の中で歌詞を転がしながらユズは真剣にルーズリーフに見入っている。ひと通り目を通すと、ユズは顔を上げた。
「いいと思う。これでいこう」
パソコンに向かい、ヘッドホンを里咲に渡す。ユズもヘッドホンを付けて、簡易マイクの前で里咲に歌うよう促した。里咲の書いた歌詞はさらさらとユズの楽曲に乗った。それこそ夏の終わりに吹く風の様に、心地よく寂しい。メロディーと歌詞に均一の取れた、淡い恋の終わりにぴったりの楽曲に仕上がっていた。ありきたりな、どこにでも落ちていそうな、切なくてやるせない歌詞。最初からそれで良かったのだ。里咲は歌いながら、自分が心底情けなく思えてきた。ユズを意識して右往左往して、里咲の想いは、いつだってただ独り歩きしているだけなのである。
歌い終えて目を閉じる。ヘッドホンから零れる伴奏が次第に小さくなり、プツッと音が終わり、里咲は目を開ける。ユズがそっと後ろから里咲のヘッドホンを外し、手を伸ばして里咲の手から歌詞の書かれたルーズリーフを取り上げる。そしてそのまま里咲の首筋に自身の唇を押し付ける。片手で里咲の顔を後ろに向け、里咲の唇にその細長い指を這わせ、もう片方の手は里咲の腰から何かを探し当てるかの様に優しく上下しながら、次第に里咲の服の中に潜り込む。里咲は漏れる吐息を、思い切り吐き出した。ユズが驚いて手を止める。
「あのさあ」
里咲はユズの手を自分の身体から引き剥がした。
「こういうのって良くないと思う」
里咲は服の乱れをさっと直すと、ユズに向き合った。ユズは綺麗な瞳でじっと里咲の顔を見た。少しの沈黙。里咲は怯まずユズを見詰め返す。ユズは大きく頷いた。
「そっか、そうだよね。ごめん」
そう言ってそのままキッチンへ行き、冷蔵庫の中からヤクルトを二つ取り出して戻って来た。
「飲む?」
「うん」
二人は床に並んで座ると、黙ってヤクルトの蓋を捲る。きりりと冷えた甘ったるくも爽やかな液体が里咲の身体に流れ込んだ。里咲の全身から力が抜ける。これから私とユズはどうなるのだろう。どうもならない気がするし、どうにかなる気もする。そして、もうどうでもいいかも、と思っていたりもする。
「私今日はこれで帰るね」
「うん。次はスタジオ借りてさっきの曲録音しようね」
ユズは、一気に飲み干したヤクルトの空の容器を手の平で弄びながら言う。
「ごめんね」
何故か里咲は謝っていた。
「こちらこそ」
ユズは里咲を見ないまま、ヤクルトの容器を指で弾きながら答えた。
こうして呆気なく、里咲はユズとの身体の関係に幕を閉じたのだった。
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