第4話 モモⅡ
彼はあなたの事を想い、苦しい夜をすごしている事でしょう。それでもあなたへの想いを告げてこないのは、理由があります。彼は恐れているのです。あなたの気持ちが分からないため、自分の積極的な行動が今の二人の関係を壊してしまうのではないかと。その為にあなたに出来る事はひとつです。あなたは自分の気持ちに素直になり、あなたからその想いを彼にぶつけなさい。そうすれば二人はすぐにでも結ばれ、輝かしい未来があなた達を祝福してくれる事でしょう。
モモは携帯電話で、占いサイトの診断結果を何度も読み返している。そういえば、正木はプライドが高そうだから、きっと私の気持ちが分からない限り、自ら手の平を見せてくれる様なことは無い気がする。でも、私の気持ちが分からないなんて事があるのだろうか。
モモは二人で過ごした時間の一つ一つを頭の中に並べて検証してみる。モモは時々正木に餌を撒いている。例えば、バーで並んで座るとき、正木がカウンターの上に手を置けば、そのすぐ隣に手を置いていつでも握れるようにしているし、店から店への移動の時は、何気なく正木の服の裾を引っ張ったり、腕に手をかけてみたりする。あとは、正木と話している最中、ところどころ熱の籠った潤んだ瞳でじっと見詰めたりもしている。しかし、正木はことごとくそれを意味のある事として捉えていないらしい。
彼は意外に天然で、まわりくどい方法では伝わらないのかもしれない。今までこういう方法で数々の男を手玉にしてきたモモにとって、正木は試練なのだった。
携帯電話を枕の横に放り投げて、モモはブランケットを頭から被る。クーラーが効きすぎていて部屋の中が冷蔵庫みたいに冷えていたけれど、リモコンは手の届かないところにあり、そこまで行くのも億劫だ。モモはブランケットの中で大きな溜め息を吐く。最近モモは溜め息を吐いてばかりだ。辛うじて仕事はいつもと同じテンションでこなせているが、仕事以外は何事にも無気力だ。正木と出掛ける時だけ、モモは水を得た魚の様に、生き生きと最大限に自分を着飾る。そして正木と過ごす夜に全エネルギーを費やす。それなのに、正木と何度逢瀬を重ねても、男女の進展は何一つない。
純愛っていうのは、プラトニックなのかしら。だとしたら、今の私にはもどかしすぎてとても耐えられないわ。
モモはブランケットの中で丸まった。ネイルサロンのオーナー、海内との会話を思い出す。
「たまには自分から迫ってみなさいよ。山下は蜘蛛の巣を張り過ぎなのよ。蜘蛛の巣に引っかかるのは羽虫くらいのもんよ」
今まで関係のあった男たちを羽虫呼ばわりする海内に、モモは口を尖らせたが、反論は出来なかった。自分は引く手あまたに男にもてる。けれど、一人の男と長く続いた事は一度も無い。いつもモモから飽きて別れてしまう。つまり、結果として、モモにとって彼らは羽虫だったのかもしれない。だとしたら、正木はもっと大きな獲物という事になる。晴れてモモとの交際が始まれば、今度こそ長続き出来る相手なのかもしれない。モモの鼓動が早まった。いつもは、相手の気持ちの方が大きくて、モモはそれに応える形で交際が始まるのだが、正木との交際はその逆なのかもしれない。
モモは波打つ胸に手を当てて呆然とする。それが、こんなに苦しい想いだったなんて。切羽詰まった過去の男たちの顔を一人一人思い出した。因果応報よ、モモはブランケットの中で呟くのだった。
「ここは刺身が本当に旨いんだ」
ひと通り注文を終えて、お絞りで手を拭うと、先に頼んでいた日本酒に口を付けて正木は言った。にこやかに笑みで返して、モモも日本酒に口を付ける。
「マサキングさんが連れて来てくださるお店って、いつでも間違いが無いです。本当に色んなお店をよくご存知ですね」
まだ酔っていないモモは、正木に対して丁寧な言葉を使うようにしている。大抵、二軒目に移動する頃にはだいぶ砕けた敬語になっているのだが。
「情報を仕入れるのが仕事の一環だからね。こうしてモモちゃんと出掛ける事が、また仕事に役立っていたりもする」
正木が微笑む。モモの胸は高鳴った。
「嬉しい。もっとじゃんじゃん誘ってくださいね」
あはは、と正木が笑った。その朗らかで温かい笑い方まで、モモの気持ちの柔らかな部分を捉えて離さない。
てらてらと光る間八の刺身を正木と箸で突き合う。それだけの事が、今のモモにはとてつもなくエロティクに思えてしまうのだが、正木は恐らく何も感じていない。モモは淫らな妄想をした自分を恥じた。感情を持て余して、日本酒が進む。モモのお猪口が開くと同時に正木は酒を注ぐ。程よく冷えた店内で、旬の魚を頂きながら熱燗を進める。それも煌びやかな大人の男と。モモは自分が誇らしく思えてきて、ほろ酔い気分ながらに背筋を伸ばした。
正木はのんびりと日本酒を飲みながら、優雅に刺身を摘まむ。ふと、箸を止めてモモを見詰めた。モモは怯まずに視線を受け止める。
「モモちゃんは、今恋人はいないの」
それって。モモはどぎまぎしながら、正木の目をじっと見て、いません、と答える。
「別嬪さんなのになあ。世の中の男は一体何をしているんだ」
想像していた反応と違う。モモは動揺する。今の言葉の裏にある、正木の本心をモモは計りかねている。
「マサキングさん、いかがですか」
「とても恐れ多いよ」
そう言いつつ、モモの目を正木は熱の籠った目で見詰め返した。
「私はマサキングさんの事、好きですよ」
「知っています」
モモは愕然として眩暈を起こしそうになる。日本酒も効いている。
「そうですよね」
精一杯そう答えると、ふふ、と取って付けたように笑って、正木から目を逸らし日本酒に口を付けた。
「マサキングさんにはそういう方、いらっしゃらないのですか」
「そうだね、もう結婚も考える歳だからね」
モモの質問の答えになっていない。けれど、正木はじっとモモの目を見詰めている。ああ、私は何と答えれば正解?モモは酔った頭に考えを巡らせて余計に酔ってしまいそうだ。
正木が手洗いに席を外した。モモは頬を両手で挟む。掌に頬のほてりが伝わる。海内の言っていた言葉と、占いに記されていた事とが同時にモモの頭の中に押し寄せる。
たまには自分から迫ってみなさいよ。
あなたは自分の気持ちに素直になり、あなたからその想いを彼にぶつけなさい。
ぐるぐるとその二つの言葉がモモの頭の中を駆け巡る。目の前にある事実の真相が掴めないから、第三者の言葉に縋ってしまう自分がいる。こんな事は初めてだった。いつだって、男心は手に取るように解ってきたし、それを余裕で楽しんできた。だけど、今の自分は楽しむどころか、翻弄されて苦しんでいる。
どうした、私。モモは酔った頭に喝を入れる。これではいけない。負け戦だ。ん?純愛はそもそも戦なのか。モモの頭の中がとっちらかった頃、戻ってきた正木が、すっと目の前に座る。モモはすかさず笑顔を見せるが、いつもと違い、モモの笑顔は引き攣っているのだった。
二人は程よく酔って和食屋を出た。いつでも会計は正木持ちだ。モモは店を出て深々と頭を下げた。
「いつもご馳走様です」
「可愛い女の子と食事が出来てこちらこそご馳走様です」
正木が、ぽん、とモモの背中を優しく叩いた。正木からの初めてのボディタッチだった。モモは、今正木に触れられた場所に全神経を集中させる。その場所から、じわりとモモの体の中に悦びが広がる。
「あのう、もう一軒行きませんか」
モモは正木の腕に触れて言う。
「CHERSEA行く?」
「いえ、誰も知り合いの居ない店がいいです」
モモは酔いに任せて大胆な事を言ってみる。
「じゃあ、西麻布に大人な感じのバーがあるから、そこに行きましょう」
そう言って正木はタクシーを止めた。
そのバーは西麻布の路地裏に建つビルの最上階にあり、薄暗い店内は三方がガラス張りで、カウンター席に腰かけると、夜景が目前に迫った。夜景とカウンターの間でバーテンダーがシェイカーを小気味よく振る。バーテンダーの格好も黒ベストにネクタイを締めた固いもので、ざっくばらんな「CHERSEA」とは雰囲気が全く違う。店内には零れ落ちる様な小さな音量でジャズが流れ、来ている客からは話し声すら漏れて来ない。マナーというものが存在しているらしい。
「こんにちは」
バーテンダーが低い静かな声で正木に頭を下げる。
「ご無沙汰してしまっています。僕はバーボンのロックを」
すかさずバーテンダーがお勧めのバーボンを取り出して正木に見せ、正木は頷く。モモはあまりに雰囲気のある店に戸惑い、何を頼めば良いものか分からなくなる。
「私も同じものを」
おずおずとモモが言うと、正木が驚いてモモを見る。その瞳に夜景が映り込む。
「珍しいね」
「なんだか圧倒されてしまって何を頼めば良いか分からなくなってしまって」
正木が笑った。
「モモちゃんでもそういう事あるんだね。てっきりこういう店は御用達なのかと思っていたよ」
「どういう意味ですか」
モモは小さく口を尖らした。私は正木にどの様な女だと思われているのだろう。まさか擦れっ枯らしだと思われていたりして。モモは小さく頭を振る。こうしてしょっちゅう食事に誘って貰っているのだもの。好意が無いわけはない。
彼はあなたの事を想い、苦しい夜をすごしている事でしょう。
占いの文言がモモの頭の中を過ぎり、モモは安心して正木に向き直った。
美しいグラスに注がれたバーボンはとろりとした琥珀色で、甘い匂いとは対照的に焦げた樹木のような味がした。正木はいつもこんなものを飲んでいたのか、とモモは不思議になる。飲み続ければこれを美味しいと思う日がくるのだろうか。いつか、正木と同じものを美味しいと思いたい。モモは、これからはバーボンに挑戦してみようと心に誓う。
「マサキングさんはどんな女性が好みなんですか」
囁くように正木に問いかける。正木は悪戯っぽく笑った。
「モモちゃんは魅力的だよね」
「答えになっていないです」
モモは頬を両手で挟んでむくれてみせた。
「その時に好きになった女性が好みだよ」
「狡い」
モモが言うと、正木がじっとモモを見詰めた。モモもじっと見つめ返す。潤んだ瞳に窓の外からの人工的な光が映り込みきらきらと光を放つ。あまりに美しい一瞬に、モモはこのまま時が止まればいいのに、と強く願う。
先に視線を逸らしたのは正木だった。からん、と音を立ててバーボンを舐める。モモも姿勢を正して窓の外へ目をやる。高すぎないビルから眺める夜景は、見下ろす風景より、よっぽど迫力のあるもので、モモは息をするのも忘れてしまう。こうして正木と過ごしている時間を、いつか想い出す時が来るのかしら。その時横には勿論正木がいる。結婚していたりして。
モモは妄想の中に浸りそうになり、慌ててバーボンに口を付けた。喉に熱く流れる液体に、モモの酔いは加速する。そしてこのシュチュエーションだ。バーボンの液体の様に、モモの体に流れる全ての液体がとろりと艶めかしく変化してしまった様な錯覚に陥り、堪らなくなってモモは溜め息を吐いた。正木はその横で静かにグラスを傾けている。
その店で、二人はそれぞれ二杯ずつ頼み、モモはいつもより酔っていた。モモが手洗いに席を外した隙に正木は支払を済ませて、モモが席に戻ると同時に立ち上がる。
「有難うございました」
二人のバーテンダーが深々と丁寧に頭を下げ、それを背に正木とモモは店を出た。エレベーターを待つ間、モモと正木は向かい合って見つめ合った。七センチのヒールを履いたモモより少し身長の高い正木の唇に目を遣る。モモの中に熱く抗えない何かがどっと溢れ出す。
チン、と音がして二人は小さなエレベーターに乗り込んだ。モモは正木の傍に歩みを進めて間近で止まり、じっと正木を見詰める。二人の間には殆ど隙間が無い。正木の目は潤んでいる。情欲で潤んでいるのだ、とモモは確信する。モモは少し背伸びをして目を閉じると、正木の顔にゆっくりと自分の顔を近づける。どくんどくん、と心臓が大きく波打つ。
チン、と音がして同時にゴン、という音がした。モモは自分の額に手を当てる。ゴン?暫くその音が、自分がエレベーターの壁に額を打ちつけた音だとは気付けないでいた。今起こったことがモモには到底理解出来ない。随分と派手にぶつけたらしい額が、じんじんと鈍い痛みを訴える。ゆっくりと振り返ると、すでにエレベーターから出ていた正木が、閉まらないよう扉を手で押さえているのだった。
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