第3話 里咲Ⅱ
ユズの腕の中で朝を迎えてしまった。里咲は驚いている。いつもは、行為の後、何事もなかったように、楽曲制作に取り掛かるユズが、昨晩は里咲を抱きしめたまま眠ってしまったのだ。疲れていたのだろう、とは思う。それでも、一晩中腕の中に自分を置いてくれた事の意味を考えずにはいられない。まさか恋人のような存在になりつつあるのではないか。そう思うと鼓動が早く打ち、ユズの腕の中で居ても立ってもいられなくなる。そういえば、昨晩ユズは私を苦しめないで果てた。至って普通の行為だった。本当に好きな女に対して、男は変態行為が出来ないものだと、リンダが言っていたのを思い出す。もしかしたら、そういう事かもしれない。里咲はそっとユズの胸に掌を置いた。ユズの体温と鼓動が掌に伝わる。繋がっているような幸せな感覚。ずっとこうしていたい、と強く願う。その手をユズは引き寄せて、里咲の頬にキスをした。そしてゆっくりと起き上がり、ベッドから降りた。里咲も一緒に起き上がり、脱ぎ捨てられていたTシャツを着る。
「お腹減ったね」
ユズがデニムを履きながら言う。携帯で時間を確認すると九時を回っている。
「ファミレス行く?」
ユズが財布をポケットに仕舞いながら言った。
ユズと二人、ファミレスの窓際に向き合って座り、モーニングを頼む。ユズは目玉焼きとソーセージのセットを、里咲はスクランブルエッグのセットを頼んだ。ホットコーヒーを飲みながら、ユズはぼうっとしている。頭の中に零れんばかりに溢れるメロディーに翻弄されているユズしか知らない里咲にとって、寝起きのユズは新鮮だった。目を瞬かせながら、フォークで目玉焼きを突いているユズを見ていたら、とてつもない愛おしさが込み上げて、里咲は溜め息を吐いた。恋愛に呑み込まれてはいけない。そう自制するものの、今までとは違う状況が、里咲の淡い期待を膨らませる。きっと今、他人から見て、二人は恋人同士のように見えるはずだ。今だけ、ユズを独り占めしている気分を味わったとしても、罰は当たらないかもしれない。二人でこうして過ごす時間に安らぎを感じる。会話が無くても、通じ合っているような気すらする。私がここまで強く感じるのだから、ひょっとしたらユズも同じ気持ちかもしれない。里咲はコーヒーを飲みながら目を閉じる。だけど、そんな事絶対に確認出来ない。もし全て勝手な勘違いだった時、どうする?
ユズと里咲はモーニングを終え、暫く公園を散歩した。その頃になると、さっきまで半開きだったユズの目はいつも通りに開き、メロディーをハミングし出した。セミの鳴き声がシャワーのように途切れる事なく二人の耳に降り注ぐ。日差しが段々凶暴になってきて、二人で隠れるように木陰を歩いた。木漏れ日がユズの白いTシャツの上で揺れる。里咲は眩しくて目を細めた。手を伸ばせばすぐにでもユズに触れる事が出来る。だけど、里咲はそうしない。濃厚な体の関係はあっても、なぜか、それは出来ないのだった。
「あれ今日何曜日?」
ユズがハッとした顔で振り返って里咲に訊ねる。木曜日だよ、と里咲が答えると、ヤバい、と言って膝を叩いた。
「里咲、そのまま帰れる?」
「うん」
里咲はユズの部屋から鞄を持って来ていたし、思い浮かべる限り、忘れ物もない。
「こないだ紹介した紗耶香、覚えている?」
「うん」
里咲の体の内側にざわざわと不快な波が押し寄せる。
「彼女と今日の午前中、僕の家で打ち合わせだった」
「うん」
じゃあ帰るね。里咲は笑って言う。
「スタジオ、予約取れたら連絡するから」
またね、と言ってユズは大足で里咲のもとから去って行った。里咲はゆっくりと、駅への歩みを進める。紗耶香は顔の小さな美人な女だった。メジャーデビューが決まっているから、彼女は芸能人だ。美人で当たり前だ。あんな風にクラブでユズにべったり引っ付くような女だ。ユズの部屋でユズと二人きりになったら?
里咲は頭を思い切り振った。そうだとしても、今の里咲にとやかく言う資格はどこにもないのだった。
里咲は紙を力任せにくしゃくしゃに潰す。ゴミ箱の中が丸められた紙屑だらけになっている。「CHERSEA」でのバイトを終えてアパートの部屋に戻り、いつもならベッドに倒れ込むのだが、今日は眠れそうもない。ヘッドホンの音量を大きく上げて、ユズから渡された新しい楽曲を聞きながら、里咲は机に向かって歌詞を考えている。扇風機が里咲の髪を揺らし、鬱陶しいので里咲は髪を傍に落ちていた輪ゴムで結った。
テーマは恋愛で、女の子の共感を得られるような解り易い歌詞がいいかな。
ユズはお題だけ出すと、とりあえず一回書いてきて、と殆どを里咲に丸投げにした。今の里咲は、気が緩むと頭の中が、ユズと紗耶香に支配されてしまう。一心不乱でヘッドホンから流れてくる音に全神経を集中させる。ユズの創り出した切なくて優しい音に抱きしめられているような錯覚に陥る。里咲は歌詞を口の中で転がしながら両腕で自身を抱きしめた。一緒に居なくても、ユズの楽曲をこうして聞いている限り、傍にユズが居てくれているような気がした。
思いの丈を書き綴る。苦しくて、哀しい。それなのに、あなたの事を考えている。目が覚めている間中、ずっと。報われない。叶わない。それでも構わない。あなたの傍にいさせて。あなたの体温を感じさせて。あなたの声を、吐息を耳元で聞かせて。
吐き気がするくらいつまらなくて切羽詰まった歌詞だ。里咲は今書き綴ったばかりの紙を力任せに丸めて潰し、ゴミ箱に投げ捨てる。そして自分が、かつてここまで誰かの事を想った事などなかった事に気が付いて呆然とする。だから、どうしたら良いのか自分でも解らない。正解があるとしたら、それは、ユズと簡単に体の関係を持つべきではなかったという事だ。
夕暮れのカフェで行われたアコースティックライブで、初めてユズに逢ったその日から、里咲はユズに好意を抱いていた。最初は見た目の美しさに惹かれ、ユズの才能を知るにつれ、それは憧れや尊敬といった純粋なものに変化し、気が付くと体の関係を重ねていた。
二人が初めて体を重ねたのは、ユズの部屋で打ち合わせをするようになり、里咲が三度目にユズの部屋に訪れた時だった。ヘッドホンでユズがかつて作ったという曲を里咲は聴いていた。聴き終わったと同時にユズが里咲のヘッドホンを外し、そのまま覆いかぶさるようにしてキスをした。里咲はそうなる事をどこかで期待していたから、ユズのその突然の行為をすんなり受け入れた。けれど、予想していなかったのは、ユズのその性癖だった。愛があるとか無いとか、そういう話なら、明らかに後者だった。ユズの欲求は暴力的で道徳心の無いものだった。里咲はそんなユズの行為を、天才と呼ばれて輝かしい彼の闇の部分として受け入れたのだった。そうすると、自分がいくら無下に扱われても、彼の為だと思えて、不快に感じるどころか愛しくさえ思えたのだ。見返りなど端から求めていなかったはずだ。それなのに。
里咲は頭を抱えて机に突っ伏した。扇風機が首を回しながら、時折里咲に温い風を浴びせる。紗耶香とユズは、クリーンな関係なのだろうか。とてもそうは思えない。そうだとしたら、ユズは紗耶香をどの様に抱くのだろう。苦しめたりするのだろうか。そもそも、ユズは、誰にでも手を出すのだろうか。屈託なく音楽の事しか考えていない彼に、その辺りの常識など通用しないような気がする。けれど、先日のユズとの行為は、最初の頃と違い、愛のある形に変化していたような気がする。それに、ユニットとして二人で活動しているのは、今現在私だけじゃないか。里咲はそんな風に様々な想いを抱えて葛藤している。当分、その悩ましい答えも、ユズを唸らせるような良い歌詞も、浮かびそうにないのだった。
「そういえば最近モモちゃん、マサキングとよく来るね。二人は付き合っているの」
店のオープン前、里咲がビールケースからビールを取り出し、冷蔵庫に仕舞い冷やしていると、店長が目を輝かせて聞いてきた。
「いや、聞いていないですけど。多分まだ、友達じゃないかな」
モモと過ごしている時の正木を思い出してみる。カウンターの内側から見る世界は客観的なもので、客の表情で、今がどういう状況なのかが、なんとなく解ってしまう。里咲の見解では、正木はまだモモを口説いていない。体を相手に向けて座るのはいつもモモの方で、正木はカウンターに対して綺麗に平行な状態でスツールに腰かけているのだ。紳士的、と言えばそうなのかもしれないけれど、どういう訳か里咲の腑にすとんと落ちないのだった。
店長が被っていた帽子をカウンターの上に置いてお絞りで頭頂部を拭った。里咲は目を逸らして、空になったビールケースを外に置きに行きに、店長の後ろをおずおずと通り過ぎようとすると、店長が里咲を振り返る。
「見たね」
「いや、見ていません」
「絶対見たね」
「本当に見ていません」
里咲はビールケースを抱えて走り去った。この遣り取りは、店長が帽子を外す時のお約束になっていて、店長は飽きずに毎回繰り返す。男前店長の頭頂部はつるっと綺麗に禿げている。
平日にも関わらず、モモがふらっと一人で飲みに来た。給料日前という事もあり、今日の「CHERSEA」は客足も斑で空いている・平日の「CHERSEA」にはDJはおらず、店長と里咲がその日の気分で曲を流す。モモは店長のセレクトしたジャジーな曲に合わせて体を揺らしながらピンク色のキスチョコを摘まんでいる。ふさふさの睫毛が頬に長い影を作り、瞬きをするたびにゆらゆらと揺れる。モモはこの何日かでまた綺麗になった。正木に恋をしているのだ、と里咲は思う。店長や里咲に軽口をたたいて盛り上げるいつものモモとは違い、カクテルに口を付けては、カウンターに頬杖をついてぼうっとしている。ちょっと重症かも。人の事は言えないけど、と思いつつ、モモを見守りながらグラスを拭く。一人で飲みたいけれど、一人は寂しい。そんな気分なのだろう。
「今日はマサキング来るの」
店長がモモの隣に腰かけて聞いた。里咲はそんな店長に少し呆れながら、聞き耳を立てる。
「どうだろう。約束はしてないけど」
「最近マサキングとよく来るから、ここで待ち合わせかと思ったよ」
ふふ、とモモが笑って誤魔化している。
「店長、ライム切ってください」
堪らず里咲が店長に指示を出す。
「バイトのくせに、店長様を使うねえ」
そう言いつつも、気のいい店長は立ち上がりカウンターの内側に入る。そんな遣り取りをモモは微笑みながら見ているが、その目は憂いをたたえている。里咲はモモにお代りのキスチョコを盛った。
「ところで最近リンちゃん来ないね」
ライムを切りながら店長が言う。それは里咲も思っていた。妻子持ちの男と別れたばかりのリンダだから、寂しさを埋めに「CHERSEA」にもっと来るものだとばかり思っていた。
「そういえば、こないだリンちゃん、男と六本木を歩いていたって、村田さんが言っていたな」
ライムの爽やかな香りを撒き散らしながら店長が気になる事を言う。村田は「CHERSEA」の常連で初老の絵描きだ。里咲とモモは顔を上げた。
「コウちゃんじゃなかった?」
「いや、そこまでは聞いていないけど。コウちゃんだったら村田さんがそう言うんじゃない?」
店長は切り終えたライムのかすをナイフで丁寧に掻き集める。
「コウちゃんがいいなあ」
モモが言う。
「リンダのタイプじゃないじゃん」
里咲が答えると、そうなんだよなあ、とモモは溜め息を吐いた。
「え、何?コウちゃんリンダの事好きなの。いいじゃん、堅実で実直なタイプで」
店長の言葉に、里咲とモモは同時に思う。その堅実で実直な部分をどうして魅力に思えないのだろう、と。そして二人で首を傾げるのだった。
「里咲は順調?」
「順調って」
頭の中にユズが浮かび、すぐさま紗耶香も現れる。
「音楽」
モモが両手で頬杖を付きながら言い、里咲は深呼吸をした。油断をすると、頭の中をあの二人がすぐに支配してしまう。
「今新曲の歌詞書いているけど、苦戦中」
「そうなんだ。恋愛系?」
「まあ、そう」
「私だったら、自分の感情書き連ねちゃいそう」
モモが言い、里咲は笑いながら、私もそうよ、と心の中で思う。
「でも、そんな事書き連ねたところで、他人から見たらすんごい、くだらないんだろうね」
モモが言って、店長が確かにね、と言って笑い、里咲は顔を両手で覆いたい衝動に駆られる。まさしく今、私には陳腐な歌詞しか浮かばない。けれど、それではユズに愛想をつかされてしまうだろう。
「でもさあ」
店長が腕を組んで空を睨みながら言った。
「人間の感情なんて、元来陳腐なものでいいんじゃないの。それを洒落て書き替えたところで、こう胸のど真ん中に響かないじゃん」
そう言って拳でどんと自分の胸を叩いてみせる。
「確かにそうかも」
モモが納得している。
「肩に力を入れすぎないで、思ったことを解り易く書いてみたら。きっと里咲ちゃんが経験している様々な想いは、聞いている皆の心の中にもある想いと同じだと思うから」
そうだとしたら、今私が抱えている苦く胸を刺すような痛みを、他の誰かも同じように抱えているという事なのか、と里咲は思う。こんな辛く苦しい事が世の中には当たり前に溢れているのか、と思うと肩の力が抜ける。
「店長、ありがとう。頑張ります」
「ほどほどにね」
店長が言って笑った。
コーヒーショップの窓際に腰かけて、里咲は歌詞を考える。柔らかな夏の朝の日差しの下で、里咲の想いがすらすらと紙を引っかいた。店長に言われた通り、陳腐で構わないと腹を括った。ユズの作った美しい楽曲に、自分の抱える胸の痛みを真っ直ぐに乗せる。それ以上の正解が、今の里咲の頭には浮かばない。そして、その想いを誰よりも先に、ユズに向かって歌う。
氷が解け始めて汗をかいた冷たいカフェラテを啜る。手を止めると、ユズの笑顔が目前に迫ってくる。どうやら、私は取り返しが付かない程にユズを想ってしまっているみたいだ。
里咲は観念をして、紙に向き合った。
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