第2話 モモⅠ
モモはウコンの錠剤を喉の奥へと水で流し込んだ。ちょっと昨晩は調子に乗って飲みすぎたと反省する反面、親友の晴れの舞台の日くらい大目にみてもいいか、と思い直す。掌で頬を包み込む。掌に少しざらつきを感じて、肌が荒れている事を知る。
「山下、あんたも、もう直三十歳になるんだから不摂生は良くないわよ」
「いえ、三十までには、まだ四年もあります」
「甘いわね。後で思う存分後悔するがいいわ」
モモの勤めるネイルサロンのオーナー兼店長の海内香奈が、モップを片手に、仁王立ちで言う。
「だいたいよく、アルコールの残った体でネイルができるわね」
呆れているのか感心しているのか分からなくてモモは曖昧に笑って返す。それは自分でも不思議なのだ。時々二日酔いで手が震えている時もあるが、筆を持つと自然と手先が固まる。思うように自在に自分の手を操れる。どんなに繊細なタッチもお手の物だった。勿論、誰にも言わないが、人並み以上の努力をしている。毎日飲み歩いているわけではないのだ。
海内とモモの二人で、店内を美しく整え終わり、ゆったりとした音楽を流す。壁に掛けられたアンティーク調の時計へ目をやると同時に、入口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
海内が先程とは打って変わって、上品な声色で丁寧に客に頭を下げた。
「十二時に予約した安藤です」
「お待ちしておりました」
モモは安藤から手荷物を受け取る。高級ブランドのバッグは、二週間前に来た時とはまた別のデザインだ。
「モモさん、前回のすっごく評判良かった」
席に着くなり安藤は言う。一見女子アナウンサーのように計算しつくされた清楚さを纏う彼女は、実はリンダと同じキャバクラに勤めるキャバクラ嬢で、リンダ曰く、常にナンバーワンに君臨し続ける、云わば、キャバクラ嬢の神なのだそうだ。
彼女とモモは「CHERSEA」で出会った。リンダが仕事帰りに連れて来たのだ。どことなく同じ匂いがしたモモと安藤はすぐに打ち解け、それ以来モモの大事な顧客になった。
「今日はどうしますか?」
まずは前回のネイルアートをオフにしながらモモは安藤に訊ねる。大きなラインストーンがごろごろと付いた煌びやかなネイルだったため、落とすのも一苦労だ。
「夏だし、本当はカラフルにしたいけど、派手なネイルは客が嫌がるんですよね」
うーん、と小首を傾げながら反対の手で、様々なデザインのネイルチップが並べられたサンプル帳を捲る。
「これにします」
安藤はクリアーカラーにラメとストーンがあしらわれた涼し気でセクシーなチップを指差した。大体こんな感じでいつも即決する彼女は、だらだらとは悩まない。男に夢を与える清楚然とした見た目とは裏腹に、安藤はその辺の男より男らしいのだと、リンダが前に言っていた。
「承知しました。安藤ちゃん、最近どう?」
モモが、訊ねると、安藤は堰を切ったように話し出す。癖のある変な客の話や、性根の曲がった同僚の話、自身の男関係の話などが主で、それらを理路整然と話し、その上オチまでつけてくる。時々笑い過ぎてしまって、二日酔いですら揺れないモモの指先が揺れてしまう。その度にモモは、笑わせないでよ、と言って安藤を叱る。キャバクラでナンバーワンに君臨し続けられるという事は、頭が良いという事に他ならないのだと、モモは安藤をしみじみ尊敬している。
安藤が希望したデザインに少しアレンジをしてモモは安藤から更に喜ばれた。
「さすがモモさん。センスが光るよね。店の女の子達も、モモさんのネイルは絶賛しています」
そう言って出来上がった指先を眺めながらうっとりと安藤は溜め息を吐いた。安藤は可愛がっている後輩達にこのネイルサロンを勧めてくれ、その子達もモモの顧客である。
「いつもありがとう。安藤ちゃん来ると、楽しいからあっという間に終わっちゃう」
モモがブランドバッグを安藤に手渡しながら言うと、安藤は、あたしもー、と言ってにこりと笑った。
モモはネイルサロンの仕事をとても気に入っていて、天職だと思っている。ネイルをアートする事だけではなく、客とのコミュニケーションも気に入っている内の一つだ。一対一で二時間近くを過ごす中で、客の話したい事を聞き出し、共感する。高校時代、女の友人が殆どいなかったモモにとって、その作業は掛け替えのない時間であった。リンダや里咲とはまた違う、女特有のとりとめのない遣り取りに、モモはずっと憧れていたのだった。そうなると、リンダと里咲って私にとって何だろう、とモモは考える。話が横へ横へとスライドしてゆく様な、とりとめのない話はしない。いつもじっくりと一つの事柄について掘り下げる様なコミュニケーションで、気が付くと人生について語り合っていたりする。そういう話は、答えが出たことは一度も無いが、それでも懲りずに、隠さずに胸の内を語り合える相手が、リンダと里咲だ。女友達というよりは同志という感覚に近いかもしれない。その様な友人がいる事をモモは自慢に思っている。
何人かの顧客を迎え、それぞれに丁寧な仕事を施し、モモの一日は終わる。充実が心地よい疲労感となり、最後の客が帰るや否や大きく伸びをした。
「山下さんお疲れ様です」
後輩の新人ネイリストが、そんなモモの肩へ手を伸ばし、力強く揉んだ。
「気持ちいい。うん、そこそこ」
後輩の好意に甘えて、暫く肩を揉ませる。店長の海内は子供がいるので、いつも夕方には帰ってしまう。その為、夕方以降、二十六歳のモモはこれでも最年長として思う存分先輩ぶっている。ひと通り肩を揉んでもらったら、店の掃除をして、帰宅準備をする。ただ帰るだけだが、モモは必ず化粧直しをする。そんなモモを後輩たちは尊敬しているらしい。
「美に対する意識の高さが、仕事ぶりに表れているのだと思います」
と、酒の席で言われた事もあった。モモとしては、どこに純愛が転がり落ちているか分からないのでどんな時でも気を抜かないだけなのだが、勿論職場の後輩の前でそれは言わない。
ファンデーションをポーチに仕舞い、鞄の中から携帯電話を取り出して、モモは驚いてそれを落としそうになった。着信が三十五件、メールが十件。
恐る恐るその詳細を確かめる。ダイレクトメールを除くと同じ男からのメールが八件だ。
トモヤ;仕事中かな?
トモヤ;今日会えない?
トモヤ;少しでいいから
トモヤ;大丈夫?どこか具合悪い?
トモヤ;俺、今お前の仕事先の近くにいるけど
トモヤ;メール、見ていないのかな。見たらでいいから返事して
トモヤ;少し話したい事があるだけだから、頼むわ
トモヤ;無視するなよ
ぞわぞわとモモの全身の肌が粟立つ。続いて着信をチェックする。
トモヤ、トモヤ、トモヤ、トモヤ、トモヤ、ずらりとトモヤが並ぶ合間に、正木新太の名前を見付ける。
正木新太は「CHERSEA」の常連で、大手の広告代理店で若くしてプロデューサーをしているというやり手な青年で「CHERSEA」ではマサキングと呼ばれている。洒落たスーツを小粋に着崩していて、モモは好感を持っていた。確か、先週「CHERSEA」のカウンターで隣り合って座った際に、話の流れで連絡先を交換したのだった。モモは縋る思いで正木に電話をかける。
「モモちゃん、お疲れ」
深く澄んだ声が電話の向こうに聞こえる。
「今夜ご飯でも一緒に行けないかなあと思って電話しました。今からじゃ遅いかな?」
爽やかに正木が言う。
「行きます。というか、マサキングさん今どこですか?」
「渋谷だけど」
モモの全身から力が抜ける。モモは簡単に事情を正木に説明した。
「すぐ行くから待っていて」
電話を切って十五分後、正木が店にやって来た。後輩はすでに帰している。モモは恐る恐る正木と店を出て、戸締りをした。店はビルのテナントで五階に位置する。エレベーターで下に降り、ビルを出たところにトモヤは居た。スケーターのトモヤはスケートボードを脇に立て掛けてガードレールの上に腰かけていた。モモを見付けた途端、飛び降りて駆け寄ってきたが、その横に正木がいる事に気付いて、鋭く目を光らせる。
「誰だよ、お前」
トモヤが正木に凄む。
「正木です。君は?」
穏やかに丁寧に正木がトモヤに答える。
「優子の元カレだよ」
トモヤが尚も凄みながら言うが、元カレにそんな風に偉ぶる資格はない筈なので、モモは胸の中で、トモヤだっさ、と呟いた。
「僕は今のモモちゃんの恋人です」
正木が突然そんな事を言い、トモヤとモモは同時に驚いた。
「いつからだよ」
「今日からです」
「適当な事言うんじゃねえぞ」
トモヤが正木の胸ぐらに掴みかかった。
「ちょっと止めてよ」
モモがトモヤを引き剥がす。トモヤは全身を固く硬直させてわなわなと震え、怒りを露わにしている。
「本当に今日からお付き合いをしています。モモちゃんを大事にしていきたいと思っています」
乱れた胸元を正しながら、トモヤの目をじっと見つめて正木が誠実に言う。
「なんだよ。なんなんだよ」
トモヤが吼えるように怒鳴った。通行人が驚いて三人を振り返る。正木は全く動じる事無く、トモヤと向き合っている。
「優子、本当かよ」
モモが正木を見ると、正木が目配せをする。
「うん。そういう事。トモヤごめん」
モモがそう言うと、トモヤは落ちていた空き缶を思い切り蹴とばした。
「嘘だろ。嘘って言えよ」
「本当です。僕は誠心誠意モモちゃんを愛していますし、彼女を守りたいと思っている」
芝居とはいえ、その台詞に、常日頃から純愛を求めているモモの心臓がどきんと跳ね上がる。
「どうか、愛する女性の幸せを、僕に譲って貰えませんか」
ちょっとそれは臭いかな。モモはこの状況を楽しみ始めていた。
「くそっ」
トモヤが更にビルの塀を蹴り上げた。
「おまえはどう思っているんだよ」
トモヤがモモを睨むが、その眼は涙で赤く濡れていた。
「正木さんを、あ、愛しているの、私」
歯の浮きそうな台詞をしどろもどろに言ってみる。それが逆に現実味を帯びて良かったらしい。トモヤは暫く黙って、涙をなぐる様に拭いた。
「分かったよ。お前が幸せならそれでいい。ただし」
顔を上げて正木を睨みつけた。
「優子を泣かせたら、殺す」
それだけ言って、もう一度涙を拭うと、よろよろとスケートボードを片手にトモヤは二人から去って行った。
純愛なんだけど、私が求める純愛とトモヤのそれはちょっと違うのよね。モモは心の中でトモヤに手を振る。本当にごめんね、良い人見付けてね。
「さあ、ご飯を食べに行こう。遅くまでやっているイタリアンのお店があってね、手打ちのパスタが物凄く美味しいんだ。そこでいいかな」
何事もなかったかのようにそう言って、正木はタクシーを止めた。
トモヤとモモは半月前に別れた。実質三ヵ月も一緒に居ないのだが、モモから別れを切り出した。具体的な理由は、モモにもよく分からない。ただ、なんとなく違うなあ、とある日突然思ったのだ。一度そう思うと、その思いはじわじわと膨張して、トモヤに抱いていた恋心を簡単にモモの中から追い出してしまった。別れたいんだけど、と言うモモに、トモヤは縋り付いた。未練を断ち切れないトモヤに、モモはきっぱりと別れを告げて、その後にたまに来るメールや着信は無視していた。それがこんな風に常軌を逸した行動に彼を駆り立ててしまったのかもしれない。モモは少し反省するが、実はこういう事は高校の頃からよくある事で、少し慣れていたりもする。それに、トモヤのおかげでマサキングの男らしい部分を見る事が出来たし。
モモは向かいで食後のカプチーノを飲む正木を見詰めて微笑んだ。正木も条件反射のように、モモに微笑み返す。白い歯が覗き、彼の爽やかな印象を更に深める。
モモを助けるための咄嗟の嘘とはいえ、モモの中で正木の存在が満更でもないものになってしまった。おまけに正木は色っぽい男で、こうして向かい合って食事をして過ごすだけでも、モモを魅了する。仕事の出来る広告マンという事もあり、話も面白い。いい男の代名詞といった感じだ。「CHERSEA」で会う時には全く抱いていなかった淡い想いがモモの中に芽生え始めている。
食事を終えると、正木はタクシーでモモをマンションの前まで送った。もう一軒、バーにでも誘われるだろうと期待していたモモにとって、少しがっかりする反面、好感も持てた。大抵の男は、モモに気があるかどうかは別として、下心から、モモと別れる時間を先延ばしにしたがり、モモを酔わせたがる。だから、正木がとても誠実に思えた。
「また食事しに行こうね」
タクシーの扉が閉まる瞬間、正木はにこやかにそう言い、モモは頭を下げた。純愛の予感。モモは浮かれた足取りでマンションのエントランスをくぐった。
正木はモモを週に一、二回、食事に誘うようになった。正木は仕事柄顔が広く、どこへ行っても色んな人から話しかけられる。その間、モモはにこやかにして過ごしているが、内心「正木の連れている女」として周囲から見られている事が快感でもあった。
「モモちゃん、いらっしゃい。あれ、今日はマサキングと一緒なんだ」
「CHERSEA」の店長が二人を見て驚く。
「うん、デート」
モモがさらっと答えると、カウンターの奥でドリンクを作っていた里咲が意味あり気な視線を送る。モモは里咲にウィンクをした。里咲はそれで全て理解したらしい。
「カウンター?それともテーブル席?」
「いやいや、カウンターでしょ」
いつもは絶対言わないような事を訊ねる里咲に、モモは呆れて答える。正木と並んでカウンターに座り、モモはカクテルを、正木はバーボンを頼む。柄にもなく甘いカクテルを頼んだモモに、里咲が少しにやついているが、モモはこの際気にしない。
「どこ行っていたの」
「今日はね、宮崎の地鶏が美味しい焼き鳥屋に行ってきたんだ。今度里咲ちゃんも行こうよ」
ドリンクをステアしながら訊ねた里咲に、正木が答える。里咲と正木と三人で食事もいいかもしれない。モモは想像して楽しくなる。
「里咲、次のライブは?」
「ユズとのユニットでやるのは八月の終わり。湘南のビーチで開催されるフェスで歌うよ」
「すごーい。絶対行く。マサキングさんも行きませんか」
モモが正木に体を向けて言うと、正木は、湘南かあ、と答えた。
「遠いなあ」
「ですよね」
里咲が笑った。モモは口を尖らせる。湘南のビーチで正木と過ごせたら素敵だと思ったのに。
「あ、でも店長は来てくれる」
「そうなんだ」
「うん。里咲ちゃんの晴れ舞台だからね。家族で行こうと思っているよ」
男前店長が会話に参加する。するとカウンターに座って飲んでいた三十代半ばの艶っぽい女が驚いた声をあげる。
「店長、家族いるんだ」
「世界で一番美しい奥さんと、宇宙で一番愛くるしい娘がいるよ」
堂々と店長は言い放ち、女はつまらなそうに顔を曇らせた。店長は女にもてないらしい。こういう仕事なのだから、少しは期待をさせるような含みのある会話をすれば良いのに、相手に全く隙を与えないのだ、とモモは思う。
「ていうか、店長今日は麦わら帽子だ」
店長の頭の上にちょこんと乗った麦わらで出来たハットを指差してモモが言う。
「そういえば、店長っていつも帽子被っていますね」
正木も言う。
「一種のキャラクター作りみたいなものだよ」
店長がそう答えて、ああ、漫画の主人公にもいますね、帽子被っているのが、と正木が言って笑った。里咲は会話に参加せず、リキュールの入ったボトルを磨いている。
「そういえば、リンダは?」
モモが里咲に訊ねる。
「今日は来れないって」
「新しい恋人が出来ていたりして」
「どうかな」
里咲が首を傾げた。そういえば、今夜は幸四郎の姿も見えない。リンダの次の相手は幸四郎だったら、よっぽどいいのに、と勝手な事をモモは思う。リンダはいつだって幸せにしてくれなさそうな男ばかりを選ぶ癖があるから。
モモと正木は互いに三杯ほど飲んで店を出た。まだ朝までは何時間かあったが、正木が土曜日も仕事だというので、モモから切り上げた。二人してタクシーに乗り込み、正木がモモのマンションの近くの住所を運転手に告げる。タクシーの後部座席、正木と触れ合いそうな距離にモモは座る。車が揺れる度、正木に肩が軽くぶつかるが、正木は前を向いたまま、モモを見る事もしない。
モモは不思議に思っている。大抵の男は三回目位のデートで必ずアクションを起こしてくる。特に今回のようにモモにもその気がある場合などは早急だ。正木とも三回以上逢瀬を重ねているが、正木はそれ以上に距離を詰めてこない。それでも華々しい広告業界の男だ。そろそろ下心を見せる頃ではないか、とモモは踏んでいるのだけれど、正木からは、その様な気配が全く感じられない。これが正木の純愛の形なのだろうか。もう少しだけ様子を見てみよう、とモモは胸の内に広がる欲望を押さえるのだった。
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