胸に咲く

蒼野あかり

胸に咲く

 緑が波打つ鮮やかな草原で、向かい合って座っている。これが、彼女との一番古い記憶だ。


 俯き加減の彼女は、自分の手元を熱心に見つめ、小さな手をふわふわと動かして白い花をいじっている。そこらに咲いている、なんの変哲もない小さな花だ。

 僕も自分の手元に視線を落としてみると、同じ花があった。何をするでもなく、ただ2本、握りしめている。


 ふいに彼女は嬉しそうに顔を上げ、口を大きく開けて笑った。他の歯は綺麗に並んでいるのに、前歯がなかった。欠けている空間ばかりが気になり、僕は口をぐっと横に引いた。


 どうして草原に行ったのか、どんな会話をしたのかは覚えていない。彼女が、笑顔とともに言った言葉も。

 記憶というにはあまりにも曖昧。けれど彼女のことを思い出す時には、不完全な、どこか危なかしい、それなのに何の迷いもない、この笑顔がまず浮かんでくる。



 同じくらい小さかったはずの彼女が、僕の身長を追い抜いた頃に、彼女は病におかされた。



 いつもはどこまでもどこまでも話をする彼女が、このことについては言葉少なだった。


「気を付けていれば大丈夫だって、お医者様が」


 にっと笑う。前歯はとうに生えそろっている。あの時と同じ笑顔でないのは、きっとそのせいなのだ。


 ――どういう病気なの。


 僕が聞くと、僅かに口角を上げて、いつもよりも2拍くらい遅い速さで答える。


「胸にね、蕾ができたの。それが咲いたら、ダメなの」


 彼女が掌で指し示すままに、視線を胸に移してみたけれど、そこにはそんな恐ろしいものなんてないように見えた。まっさらな身体があるだけだ。


 誰にも内緒と約束をした。だけど、彼女には彼女だけの秘密があったし、それは僕も一緒だった。僕らはそれを共有しなかった。



 日常はいつも通りを装って流れていたけれど、僕は花のことばかり気になっていたし、彼女はどんな時も口角だけを上げるようになっていた。



 季節が9つほど巡った。夕暮れ時に、河川敷の近くを彼女と並んで歩いていた。僕も彼女も、きらきらと赤く揺れる水面を見ていた。

 まるで天気を憂うかのように、彼女が言葉を吐き出した。


「私はきっと、一生幸せになれない」

 ――どうして。

「胸に咲く、花のせいよ」


 彼女がするりと自分の胸を撫でる。

 ――そこには、たくさんのものが詰まっている――

 伝わってきたその感覚は、僕の胸のあたりからじわじわと末端へ広がっていって、全身を満たしていった。


 今の僕ならなんだってできる。

 きっと、彼女を幸せにすることだってできたはずだ。

 彼女の髪を揺らす風に乗って、遠くに飛んでいくことだってできたはずだ。


 ただ、僕はそれを表出する方法を知らなかった。

 だからこの時に構築された無限の世界は、僕の胸から出てくることはなかった。

 

 ――僕が、きっと、なんとかしてあげるから。


 出てきたのは、たった一言だけ。

 彼女は視線を水面から僕の目に移し、じいと覗き込んだ。そして、すっと歯を見せてくれた。

 ありがとう、と彼女は言った。

 途端、彼女との距離が、遠くなったような気がした。


 次の日、彼女は僕の前からいなくなった。彼女の家を訪ねてみたが、会わせてもらえなかったし、どこにいるのかさえも教えてもらえなかった。

 

 ――どうして。

 彼女のたった一人の家族に問い詰めた。


「親になったら、わかるよ」

 ただ一言、そう言われて、扉を閉められてしまった。


 なぜ自分は今、大人じゃないのだろう。どうして近くにいちゃいけないのだろう。

 地団太を踏んでみたけれど、足が痛くなっただけだった。

 そっと足を上げてみると、そこに生えていた芝が、くたびれたようにしなっていた。いっそのこと、花が咲いていてくれてたら良かったのに。



  胸に咲く花を見ることができるのは、たった一人だけだという。

  きっとそれは、とても美しいのだろう。死にたくなるほどに。



 僕は日々を繰り返す。原初の記憶がそうさせるかのように。積み重ねて、積み重ねて、積み重なる。それでもなぜか届かない。

 それでも僕は繰り返した。心臓が鼓動を打つのと同じだ。


 時が経つにつれて、僕の中の彼女は少しずつ薄れていく。

 話した言葉、匂い、好きな服装、口癖、爪の形、仕草、瞳の色、声までも。


 何かに押しつぶされそうになる夜がある。いっそのこと、すべて放り投げたほうが楽だ。記憶も感情も、すべてなくなってしまえば良い。

 それでも僕は眠りにつく時、身体をぎゅっと丸くして、殻のようになって眠る。そうして僕の世界に、閉じ込めておく。



 彼女と過ごした年月と同じくらい、彼女がいない日々を過ごした。ふと、あの草原であの白い花を、見たくなった。今なら、草原に腰かけて、草の匂いと、少し暖かくなってきた風の感触と、向き合うことが出来るかもしれない。

 午前中に起きて、いつもよりも時間をかけて身支度をして、家を出た。


 そうしてようやく訪れた草原で、彼女と初めて過ごした草原で、彼女と再会した。


 偶然。でもきっと、逢うべくして出逢ったのだ。あの笑顔を見た日から、いつかはこの日が来ると、決まっていた。



 彼女は、すらりと成熟していた。白いスカートから伸びている2本の足、緩やかに膨らんでいる胸元、揺れるまつ毛。

 ああ、右手で肘を摩るのは、彼女の癖のひとつだったことを思い出した。


 僕らの間には、挨拶も表情も何もなかった。ただお互いが、そこに存在していた。


 呼吸も、何もかもが苦しくなってしまって、視線を少し上げ、彼女の顔を見る。唇の隙間からほんの少し歯が覗いていて、頬には雫がすべっていた。その水分も、蕾を綻ばせるのだろう。


 花は、不可解で、それでいて単純なはずなのに。



 ――もう、遠くへ行かないと、約束してほしい。



 僕が空気をふるわせると、彼女の時が、一瞬止まった。それからこくりと項垂れて、2拍また止まる。その2拍の間に、僕の心臓は何度鼓動しただろう。


 彼女は顔を上げて僕を真っ直ぐに見た。その目は、緩やかに弧を描いていた。



 そうして彼女は、大きく口を開けて、笑った。


 

 あの日と同じ、ぽっかりと空いたその空間。--ようやく、見ることができた。



 触れ合った指先で、初めて温度を共有した。






「咲いた花は、あなたが摘んでね」



 その言葉が、彼女の最後の言葉。















 思った通りだ。

 どうしようもなく、死にたくなった。





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胸に咲く 蒼野あかり @ao-k

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