§04 一寸先の炎
背中にぞわぞわと悪寒が広がり、ミズルは拳を握り締めた。男たちに体を嘲弄されるのとは、比べものにならない怖気。自分は危険な賭けをあの子に託している。
(でも、やってもらうしかないのよ)
室内とはいえ院長室は他の部屋に比べて広い。だがサニーは一瞬で彼我の距離を詰め、ウェザーヘッドたちに威嚇射撃する暇も与えなかった。
「──っらあぁぁっ!!」
ミズルを捕えていた巨漢は壁際まで後退し、手が開いたもう一人の懐へサニーは飛び込んだ。弾丸のようなステップ・イン。
全身で突き上げた左フックがレバーに直撃、炸裂する。
相手の踵が床から浮き上がり、手先からは宙へ向けて拳銃が放物線を描いた。体はくの字に折れ曲がって頭は低い位置に。それを目がけて打ち下ろし気味のフック。
気味の悪い破潰音を立てて、男の顔面が陥没した。
ボクシングはスポーツであって、ナイフを持った強盗に対処できるような護身術ではない。だがサニーはやった、刃物どころか銃を敵に回して。オルキスはそれを呆然と見るばかり。
その動きは、五年も部屋にこもって、人を殴れないパンチを練習してきた少年のものではなかった。まったく確実でとんでもなく迅速に人を殺せる格闘家の動きだ。
まるでダイナマイトの瞬発力と攻撃力。
人間爆弾は角質や脂質といった一部を除けば、ほぼ全身の細胞が有爆性タンパク質に置換される。文字通り凄まじい爆発力を持つ、有爆性の筋肉。
しばしば特攻兵器としての側面ばかりが注目されがちな人間爆弾だが、戦時中に重宝されたのは、兵士の質を簡単に底上げ出来るという理由もあった。解体屋やテロリストにはともかく、サニーのような一般人には知名度の低い話である。
「おおっ」
一人目が咆哮するサニーに打ち倒され、床に湿り気を広げた。まるで汁気たっぷりの肉雑巾。殴られた手足があらぬ方向に折れ曲がり、顔はかろうじて判別がつく。
ミズルは己を捕えた男の体が震えるのを感じた。
目の前の少年は爆弾だったが、湿った火薬のような存在だと勘違いしていた。注意して扱えば大丈夫。──だがその実、そいつは素手で人体を引き裂けるような人喰い虎にも等しい化け物だった、という訳だ。
問題はサニーが、今の自分がどれだけ恐ろしい存在になっているのか、まったく知らないだろうという点にある。人間爆弾の身体能力ももちろんだが、爆弾はあくまで爆弾なのだということを、決して忘れてはならない。
有爆性の筋肉がその力を発揮すれば、勢い炸裂の危険性は高まる。信管がきちんと作動している場合でさえ、誤爆の可能性が高まるのだ。
ましてや一度起爆スイッチを押された不発弾ならばどうか。こちらから、どうぞ炸裂してくださいと頼むようなものだった。
「野郎、完全に火が点きやがった」
オルキスの顔面は冷や汗でびっしょり濡れていた。袖口を操作し、ジャケットを防弾形態へ変形。完全に腰が引けている、このまま逃走へ入りたいのだろう。
だがサニーはオルキスを素通りし、真っ直ぐミズルと残りのもう一人を目指した。赤に輝く眼光が空に軌跡を曳く。男が恐慌に駆られた叫びをあげ、彼女の口から銃を抜いた。唾液が糸を引き、じっとりと濡れたそこから弾丸が発射される。
「撃つな!」
時既に遅しのオルキスだったが、サニーの動体視力はそれを見切っていた。一秒をコンマ数千に刻む火の瞳。そう、彼の双眸は赤く危険信号のアラートを出している。
危険危険危険。人間爆弾が炸裂寸前であることを示すランプだ。駅でサニーと会った時は、前髪が隠していたのもあってかミズルは気づかなかった。
サニーは拳で男の銃を弾き飛ばした。髪が焦げるかと思うような猛風がミズルのすぐ傍を通り抜ける。風は猫のように巨漢の首を掴み、ぶん投げてミズルに自由を取り戻した。オルキスが悲鳴をあげてサニーと逆方向、窓際へと走り出す。
「……ッ……」
サニーはもはや言葉どころか声にもならない、焼けついた蒸気機関のスチームじみた吐息をはいた。人ではなく機械が出す稼働音のようだ。
全身の有爆性タンパク質は、既に爆心地に備えて熱を蓄えているのではないか、そんな錯覚をミズルに起こさせる。もはや触れるだけでこちらが火傷しそうだった。
サニーは床に倒れた男の、肉雑巾と化した方の足を持ち上げた。
自分より頭三つぶんは大きい長身を棍棒のように振り回し、逃げるオルキスの後頭部へフルスイングで叩きつける。
〝ぐしゃっ〟と湿っぽい物に包まれた固い何かがが潰れる音がして、オルキスは望み通り部屋の外へ脱出させられた。だが、もうそれ以上どこにも行けまい。サニーが手を離した時、武器代わりにされた男は、もう首が無くなっていた。机の上にあった没収品はその巻き添えを受け、床へと散らばって、注射器のケースが砕けていた。
室内の空気が鉄臭い。それは自分の口に残る拳銃の味のせいか、それとも血生臭さのせいなのか。ミズルにはもう区別が付かなくなっていた。
院長室のあちらこちらを、血液と引き千切れた肉が汚している。白い照明の下、サニーの赤い目が警告の光を爛々と放っていた。
その眼光が他の表情を食い尽くしたかのように。ここにいるのは、炸裂まで秒読みの爆弾、それ以外の何物でもなかった。
「サニーくん、こっちへ来て」
だが、この賭けに負ける訳にはいかない。ミズルは砕け散った医療キットに手を伸ばした。無事な注射器か何かを、とにかく鈍化剤を探す。
──駅であなたに助けられたのは、僕が数年ぶりに人から受けた親切でした。ありがとう。僕の解体、どうぞよろしくお願いします。
初めて会った時から、サニーはミズルの心にするりと入り込んできた。殊勝過ぎるのだ。そんな子が、命を預けると言ってくれた。炸裂させないでと頼んでくれた。
だから、早く早く、まだ間に合う内に薬で抑えなければ。
「……ミズルさん」
赤い目のサニーはふらりと振り返って、その場に倒れた。
「あ、頭が……」
機械の蒸気ではなく、ちゃんと人の言葉を発している。だが消え入りそうな呻き声。
ようやく見つけたピルケースを掴み、ミズルは走り寄った。頭を持ち上げると、汗に濡れた顔に血管がびっしりと浮いている。閉じられた目蓋の下からも、光が滲み出していた。
ここが臨界点だと悟る。でありながら、ミズルは鈍化剤の錠を自分の口に含んで、直接サニーに飲ませた。この部屋から逃げ出せば、サニーが炸裂しても命はあるだろう。けれど、彼自身も彼との約束も、なき物にはしたくない。
サニーが咳き込んで、口の端から錠剤をこぼした。鼻からどろりと血が流れ出す。矢継ぎ早に含んだ次の錠剤は、はっきりと血の味がした。
くぐもった悲鳴が唇の下から聞こえる。サニーの信管が、きりきりと彼の脳内で軋みをあげているのだ。薬が間に合うか、サニーの意志が勝つか、あるいはその全てが敗れるか。
ミズルはくちづけたまま、医療キットの冷却シートをサニーの額に貼り付けた。人体は優れた発汗機能を持っており、その体温調節力が他の生物より爆弾化に適しているとされる。少なくともそう信じられているし、炸裂しそうな人間爆弾はとりあえず冷やす物だ。
一時間とも一日とも思える時間が過ぎた。もしかしたら自分たちはとうに弾け飛んで、そのまま亡霊になって百年が過ぎてしまったのでは、と想像してしまう。
やがてサニーの呼吸が安らかになり、ミズルはゆっくりと口を離した。唇と唇の間に、薄紅の糸がかかり、やがて切れる。どちらの、誰の血が混じったとも知れない色。
「サニーくん、気分はどう?」
何度か名前を呼び、軽く揺する。一見してサニーの顔は平常に戻ったようだった。ゆっくりと目蓋を開くと、丸くて大きくて、マスカットのような目が出てくる。
もう爆弾でも、人喰い虎でもない。ミズルは少年を抱きしめ、声をあげて笑った。
「良かった。グリーンよ。爆弾の赤い目じゃない、
「え? え?」サニーは何が何やら理解していない。
この子はなぜ、自身が炸裂寸前に陥ったのか分からないだろう。それを何一つ知らせもせず、連中にけしかけたのは自分だった。
サニーはしばらく目をぱちくりさせていたが、心配そうな顔になってこちらを見上げた。
「ミズルさん……そのう」
男の自分が、あんな目に遭った彼女に何か言えるものかと考えあぐねたような間。
「えっと、大丈夫ですか?」
「君も大変だったのに、何言ってるのさ」
真っ先に他人の心配をするサニーの態度が可笑しかった。ミズルはくすくす笑いを止められないまま、自分のこめかみを指す。
「私は頭の中にね、ルービックキューブの色も形も感触も全部入っているの。嫌な時にそれをいじっていると、平気になれるんだわさ」
──だから、君が気に病むことはないのよ。
「それより私、あなたに謝らなくちゃいけないんだわ」
サニーの顔を拭いながら、ミズルは事情を説明した。
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