三題噺「あめのいろ」

桜枝 巧

あめのいろ

 雨が、降っていた。

 本来ならば燃えるような橙色をしているのであろう時間の空は、分厚い灰色の雲で覆われていた。

 この公園内で唯一遊具と言えるだろう鉄棒は錆び付いたまま、やはり僕と同じように冷たい粒を浴びている。額には伸ばし過ぎた前髪が張り付き、眼鏡は既に使い物にならないくらい濡れていた。先週の日曜クリーニングから戻ってきたばかりの制服のワイシャツも、僕の中にある何かを吸い取っていくかのように体に密着していた。

 体温が下がっていくのを感じる。さて、雨粒がどれくらいあればこの僕の体内の全ての熱を奪ってくれるのだろうか――途方も無い計算を行ってみる。もちろん、答えは出ない。見えない文字や数字を描いていく指は、ポケットの辺りで何かにぶつかる。

「・・・・・・ん」

手を止めると、先ほどまで僕を支配していた無茶苦茶な文字や数字達は一瞬にして消えていった。

 雨はまだ降り続いている。

 公園の真ん中で一人ぽつんと立ち続ける僕を見る者はいない。好奇の視線も、憐みの声も、忘れ去られたようなこの場所には一つとして存在しなかった。

 それで言い。誰も見なくていい。

 僕はただの一科学部員、それだけなのだ。

 式を止めた指がポケットをまさぐり、原因のそれを取り出す。二十個で百円とかで売られていそうな、飴玉一個が入った小さな袋だった。はて、どこから来たのだろう。ミルク風味、と銘打たれたそれには、草原にたたずむ意牛と、柔らかな微笑を浮かべる少女が映っている。ふと、彼女の姿が思い浮かんだ。

――その時、不意に後ろから声がした。

「有川――っ? あ、こんな所にいた!」

 パステルカラーの傘が、濡れ鼠の僕へ近寄ってくる。動けなかった。飴玉を握りこんだ指の一本すら、動かすことができなかった。

 灰色の雲がさえぎられ、頭上が華やかな色に染められる。目の前では僕が急に飛び出したのに驚いてそのまま追いかけてきたのだろうか、実験用の白衣を着たままの少女が一人、

「あー、もうずぶ濡れじゃない。せっかくの科学者ヅラがお化けみたいになってるよ」

と、頬を膨らませていた。

「……波内」

ぎりぎり、聞こえるか聞こえないかすら分からない声を絞り出す。何で、せっかく逃げてきたのに、まったくこいつは、でも、その、ああ。

 波内は、そーだよ、絶賛迷子探し人だった波内さんだよー、とおどける。その笑顔は晴れやかで、夏の向日葵のようで、到底この曇天模様と僕には似合っていなかった。

「彼氏は、いいのか。その、放っておいて。――僕に恋愛相談までして、やっと手に入れたんだろ」

僕に言える最大の皮肉に、彼女の笑顔が一瞬、固まったように見えた。えーと、と少し赤く染まった頬を掻く。その仕草すら可愛らしくて、眩しくて、目をそらした。

 波内はしばらく考えた後、これ持ってて、と傘の柄をこちらにつき出す。受け取ったプラスチック製のそれは、少し汗ばんでいた。すぐに濡れた髪から落ちてくる水滴に紛れて分からなくなる。

 波内は僕が傘の柄を持ったのを見届けると、いそいそと白衣を脱ぎ始めた。夏の白いセーラー服と青いネクタイが現れる。僕は彼女が行おうとしていることが分からず、首をひねった。

 その瞬間、ばさ、と大きな音がして、視界が真っ白になる。

 彼女が、白衣を僕にかぶせたのだった。前の波内の姿が見えなくなる。何も見えなくなる。真っ白だ。全てが、白かった。

 しばらくして、見えない彼女の恥ずかしそうな声が聞こえてきた。

「……うん、昨日の部活の、帰り道に。こ……告白、したの」

 僕は、立ち尽くすしかなかった。

 やめてくれ。聞きたくなんてない。だから、此処まで逃げてきたのに。どうして追いかけて来るんだ。どうして放っておいてくれないんだ。どうして僕なんかに相談したんだ。

 ふっと視界が開け、波内の姿が映し出される。雨空もパステルカラーと白衣の白で遮られ、心情とは裏腹な鮮やかすぎる世界には、僕と彼女しかいなかった。

 どうして、こんなときだけ。どうして、今なんだ。

 波内の、少し冷えたような、しかし薄ピンクの色を保った唇が動く。

「ありがとう、研究者くん。私は幸せだよっ!」

はじけるような笑顔を、雨音が拍手で祝福した。公園の鉄棒も、地面も、傘も、リズムよく音を鳴らしていた。何もしていないのは、僕だけだった。

 耐えられなくなった僕は、思わず白衣と傘を払いのけ彼女に押しつけた。

 再び雨が体を凍らせ始める。驚いた顔で受け取った波内に、右手をのばす。

「……祝いだ」

手には、ミルク味の飴玉が握られていた。

 いいの? ……てゆーかしょぼくない? と言う彼女に、白い袋を渡す。暖かい手が一瞬だけ触れた。その熱も、すぐに雨が洗い流す。

 雨はまだ、止みそうになかった。

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三題噺「あめのいろ」 桜枝 巧 @ouetakumi

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