第3話

二十代前半で初めてニートを経験したとき、蓼崎の生活習慣は乱れた。

昼夜は逆転し、曜日感覚もわからなくなった。自分自身に疎かになってきて、なんとなく不潔な感じにもなってきた。飯も食ったり食わなかったりした。

起きてる時間は、だいたい、好きなオンラインゲームをイライラしながらプレイしていた。

そのようにして、限られた二十四時間を、何も得ることもなしに費やしていった。

仕事から解放された自由に、素直な態度で浸り続けることにより、どんどん堕落していったのだ。

こんな事例があったので、生活習慣を自分で律する必要があった。


夜は二十二時には就寝し、朝は五時に起きた。

これは、いつかテレビで観た『睡眠のゴールデンタイム』に則って、彼なりに定めた睡眠時間である。すなわち、『二十二時~二時の間は、睡眠効果が一番高い』という、テレビで入手した睡眠の豆知識を取り入れたものだった。

「これで勝てる!」と、漠然とした何かに対して唐突に対抗意識を燃やしだした彼は、息巻いてその睡眠効果を期待したが、一向に何かに“勝った”という様子は見られなかった。

ただ、就寝時間が律せられたことは事実であり、この習慣は続けられた。


「自分は八時間寝なければ本気が出せない」こう信じていた彼は、初め六時起きであった。しかし、しばらくすると時間の貪欲さがその信念を傾けだし、自分に一時間のストイックを課すに至った。

これに慣れれば、次はあと三十分早く起きる企てであったが、今の時間でも少々寝足りなさに苦しんでいたため、その企ては中々成しえそうもなかった。


彼は起きると先ず、ストレッチを始めた。

寝る時は、ほぼ同じ姿勢をとり続けているため、身体が固くなっており、起きてすぐは滑らかに動かないからだ。固まった状態で無理に動かそうとして、筋を痛めることを彼は恐れた。

ストレッチが終わると、次は筋トレを始めた。腕立て・腹筋・背筋・スクワットを五十回ずつこなすと、彼は満足して次に読書を始める。

元々彼は活字が苦手で、読書などするようなタチではなかった。しかし、ある出会いがキッカケで、趣味の一つに読書を加えるようになった。


八年前、県外の工場勤務に従事していた時である。

そこで彼は、ある一人の先輩に“避け”られた。直接に「お前嫌い」とまで言われたこともあった。

こうなると、彼は逆に燃える性質で、どうにかして仲良くなってやろうと努めた。

数ヶ月の努力が実り、何とか普通に話すことを許されるまでに漕ぎ着けた。話すうちに、先輩の読書好きが知れた。

仲良くなろうと努める過程で、それは恐らく迎合から発せられたものであるが、どこか、その先輩を神のように崇める気持ちを、彼は自分の中から引っ張り出していた。神が好ましいとすることは、自分も真似をする義務があった。


その時に挑戦した本は、哲学の入門書だった。身の程は知っているつもりだったので、対象年齢十四歳に向けて書かれたものを買った。

しかし、当時二十八歳の彼はそれでも苦戦し、一回読んだだけでは全く理解できなかった。

悔しくて何回も読んだ。早く読んだり、遅く読んだり、ノートに書きながら読んだりした。間違いなく十回以上は読んだ。

結局、最後まで完全な理解にまでは至らなかった。しかし、“同じ本を十回以上読んだ”という過去に無い実績が、この本を極めた気分にさせた。


自信をつけた彼は、自分を読書嫌いに追いやった、ヘッセの『車輪の下』に挑戦し、これを苦手意識克服の儀式とした。

儀式が無事終わると、そこから哲学・心理学・経済学・小説・自己啓発など、様々な本を読み漁った。

“知識欲”という衝動が、初めて自分の中に芽吹く感覚を知った。

同時に彼は悔やんだ。

もともとスペックの低い脳が、さらに下降線を描いて、その品質の低下に向かおうとするような年齢に差し掛かっていたからだ。

詰め込んだものはすぐにどこかへ消滅し、難解な書物はやはり理解できなかった。

彼は、三十六歳の今となっても、アリストテレスやカントなんかを読むと、難解な部分で立ち往生をすることがある。そのたびに「ふん、なに言ってやがる」と、その部分に関しては、鼻で笑うようにして傍観の態度を決め込み、そのまま先に突き進む。そうすると、再び「ふん、なに言ってやがる」と、心で言うハメになり、読み終わった頃には九割以上が「ふん、なに言ってやがる」で頭が一杯になるのであった。


こうして彼は、寝て起きる時間以外は、なるべく頭の中を「ふん、なに言ってやがる」で一杯にして、それで「頑張って生きているんだ」と自分自身を納得させていた。

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