第2話 百舌谷夫妻
「そんなの、あなたが決めることじゃないわ」
一宮雨莉が静かに椅子から立ち上がり、目の前に座る中島かすみを見つめた。
取り乱した様子は無いが、今にも掴みかかりそうな雰囲気である。
「勘違いしないでほしいにゃん。鰍は雨莉の味方だし、稲葉も将晴も今回は雨莉に協力したいと言ってるにゃん」
しかし、中島かすみは全く動じず、一宮雨莉をまっすぐ見つめる。
「……そうなの?」
一宮雨莉は怪訝な顔で俺達を見る。
俺もそんな話、初耳である。
「そうなんだ! 流石に既婚者に手を出すのはいかがなものかと思うし、俺は雨莉もいるのに姉ちゃんは何やってるんだと思って、街中で見かけた二人をこっそりつけてただけなんだ!」
直後、俺の前に座っていた稲葉が立ち上がり、自分は何も知らなかったのだと熱弁する。
「それで見つかって、一緒に食事してきたの?」
「姉ちゃんには口止めされたけど、今回は完全に姉ちゃんが悪いと思うし、その辺は俺もいくらでも話すから!」
なおも怪訝な顔で一宮雨莉が問うが、稲葉は引き下がらない。
一宮雨莉に全面協力する姿勢をアピールする。
そこでようやく俺も中島かすみの意図に気付いた。
俺達は別に稲葉の疑いが晴らせればそれで良いし、中島かすみとしては、一宮雨莉の味方をして一緒に美咲さんの浮気云々の話を調べる方が面白いと判断したのだろう。
「稲葉は雨莉の剣幕にビビッて逃げただけであって、別に美咲さんに買収された訳じゃないさ、現に一宮が来るまでここで大人しく待ってただろ? 俺だって普段世話になってるんだから一宮の味方になってやりたい。今、何が起こっているのか教えてくれないか?」
俺も一宮雨莉に身体ごと向き合って、説得する。
実際世話になっているのも嘘ではないし、浮気調査に協力する程度なら俺も
「……わかったわ。そこまで言うならあなた達の言う事を信じるわ」
俺達の熱意が伝わったらしく、一宮雨莉は再び椅子に座り直した。
稲葉もそれに合わせて席に着く。
「それじゃあ早速、稲葉と雨莉の持ってる情報を整理していくにゃん」
「待ってくれ、その前に俺、霧華さんやその周辺については稲葉と鰍からさわり位しか聞いてないんだけど……」
中島かすみが話を進めようとした所で、俺は待ったをかけた。
俺は霧華さんとその旦那さんについて、ほとんど知らない。
別に知らなくても良いと思っていたのだが、ここまで話に首を突っ込むとなると、知らない訳にはいかない。
「それじゃあ、軽く霧華さんやその旦那さんの
「ああ、よろしく頼む」
結局、中島かすみが霧華さん夫妻の事を説明してくれると言うので、俺はその提案に頷いた。
「まず霧華さんは、一言で言うと色々とゆるい人だにゃん。男女関係なく、すぐ褒めて、すぐ優しくして、すぐ肉体関係を持つにゃん」
「えっ」
いきなりさらっととんでもない事を言い出す中島かすみに、俺は固まった。
「そんなやたら包容力溢れる彼女に、幼少期から幻想を抱いてプロポーズしたものの、大人になったらねと軽くあしらわれて、その後すぐ霧華さんを千秋さんにかっ
視界の端で稲葉と一宮雨莉がそれぞれ静かに俯いているのが見える。
「二人の傷を
俺はそう言わずにはいられなかった。
「事実を述べただけにゃん」
中島かすみは一旦言葉を止めて二人の様子を見た後、何事も無かったかのように話を仕切りなおした。
「千秋さんは霧華さんと小学校からの付き合いで、当時霧華さんと関係のあった6人全員を突き止めた上で、誰とも付き合ってないなら自分と結婚してくれとプロポーズして受け入れられた猛者にゃん」
「ん? 前に聞いた話だと、霧華さんはその6人と付き合ってたんじゃないのか?」
中島かすみの言葉に俺は首を傾げる。
「霧華さんには付き合ってる自覚がなかったらしいにゃん。ただ、よく一緒に遊んでいたり、寝たりする友達だと認識していたらしいにゃん」
「それは……」
あんまりにもあんまりな言い分に、俺は絶句した。
「ついでに言うと、千秋さんとも中学の時からそんな関係だったらしいにゃん」
つまり、誰とでもそういう関係になりうる。という事なのだろうか。
「ふと思ったんだが、という事はもしかして稲葉と霧華さんは……」
そう言いかけたとき、俺の言葉は地を這うような稲葉の声に遮られた。
「何を考えているのかはなんとなくわかるが、残念ながら俺は霧華さんとなにもなかったよ、ちくしょう」
どうやら霧華さんと稲葉は何もなかったらしい。
「霧華さんは色々自由過ぎるくらい自由だけど、法律や条例は守る人だったにゃん」
「『今18歳以下に手を出したら、条例に引っかかっちゃうからな~』という理由で俺の初恋は終ったんだよ……」
しれっと言う中島かすみに続いて、沈痛な面持ちで稲葉が言う。
「そ、そうか……」
「百舌谷夫妻については大体こんな感じにゃん。他に何かあったかにゃ?」
既に大分重くなった空気の中、特にそれを気にするでもなく中島かすみが首を傾げる。
どうしてこう、稲葉の周りには色々とぶっとんだ人間が集まってくるのかと俺は呆然としていた。
いままでずっと黙っていた一宮雨莉が口を開いたのは、そんな時だった。
「百舌谷夫妻は都内の分譲マンションに住んでるけど、生活している部屋のすぐ真上に部屋を別に持っていて、そっちで千秋さんの趣味の爬虫類を飼っているそうよ。霧華さんは爬虫類が苦手でそっちの部屋には全く立ち入らないみたい」
「へ?」
唐突にもたらされた情報に、俺はなんともまぬけな声を漏らしてしまった。
「百舌谷千秋は地元の大地主の一人息子で、親から譲り受けた不動産の経営だけで生活が成り立っていて、会社勤めではないのだけれど、毎日昼の2時から夜の8時くらいまで、上の部屋に篭ってペットの世話をしたり鑑賞したりしているらしいわ」
一宮雨莉は座りなおして姿勢を正し、まるで情報を読み上げるようにすらすらと話し続ける。
「まて」
その内容につい制止の言葉をかけてしまうが、一宮雨莉は気に留める様子もなく尚も話す。
「日によって時間は前後するらしいけれど、あのストーカーがわざわざ家に霧華さんが一人の時間を作って真上の部屋に篭るなんて、怪しすぎるわ。たぶんケーブル引いて上の部屋から自分がいない時の霧華さんの行動を逐一観察しているんじゃないかしら……」
「なんで、一宮はそんなに百舌谷家のライフスタイルについて詳しいんだよ……?」
話が一段落した所で、俺は再び一宮雨莉に声をかけた。
声が震えているのが自分でもわかる。
なぜこいつはこんなにも百舌谷家の事情を事細かに知っているのか。
「霧華さん本人が咲りんに言ってたのよ」
「それは……お前の目の前で?」
探偵を雇ったとしても、ここまで詳細に内情を探れるだろうか。
答えは既に俺の中にうっすらと浮かんではいる。
しかし、その答えを聞くのが恐い。
「…………最近のアプリって便利よね」
やっぱりか、と思うと同時に血の気が引いていくのがわかる。
こいつ、美咲さんのスマホに居場所を特定するものだけでなく、盗聴するためのアプリまで勝手に入れてやがる。
こんな物よく次から次へと……とは思いつつも、こいつならやりかねないという妙な確信はあった。
「まあ、雨莉ならそれくらいやってるだろうとは思ってたにゃん」
中島かすみは世間話でもするように普通に話しているが、なぜこうも平然としていられるのか。
というか、こんな物を仕込んでいるのなら、一宮雨莉は稲葉が偶然街中で美咲さん達を見つけるよりも前に、既にこの事態に気付いていたんじゃないだろうか。
そして、情報収集している時に稲葉があんまりにも普通に二人に受け入れられたのを聞いて、実は稲葉もグルだったのではないかと疑ったという流れのような気もする。
「住所も特定しているから、いつでも乗り込めるわ。ちょうど今の時間なら、咲りんが霧華さんといちゃついている事でしょうし、その様子を上の階の千秋さんがカメラを通して覗いているんじゃないかしら」
今にも人を殺しそうな目で一宮雨莉が言う。
室内に緊張が走った。
「百舌谷夫妻が住むマンションはここからどれくらいだにゃん?」
「一時間もかからないわ」
「今は5時過ぎだから、今から行けばまだ間に合いそうにゃん」
しかし、言葉を失う俺と稲葉をよそに、中島かすみは平然と一宮雨莉と話を進める。
何に間に合うというのか。
「何言ってるんだよお前ら」
俺が意を決して会話に割り込めば、中島かすみはこともなげに言った。
「何って、今からマンションに乗り込む算段だにゃん」
中島かすみは心底楽しそうに笑った。
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