第5話(ジャム入りオムレツ)
朝6時に目覚めた。洗濯物がまだ半乾きだったので電球のカサにのっけて乾かす。それから荷物 をまとめて、ホテルの真正面で路面電車(TRUM)に乗って駅に出た。パンとお菓子と、TONIKと書 かれた変な炭酸水みたいなのを買って乗り込み、朝食代わりにした。
昼近くなるとまた腹が減ってきたので、食堂車に出かけてみた。しかしどうやって注文したらいい のかわからない。メニュ-も何も表示されていない。もうひとり、旅行者らしいおばさんが私の後ろ で同様に困っていた。こういう時の切り札は、他の人のマネである。前の人が食べているものを指さ して「The same!」と言った。あとでその料理が「SCHAB(スカ-ブ)」という豚肉料理だと教えられ た。とりあえず、困ったらこれを注文すればいいのである。覚えておこう。
景色を見ながら食べていると、東洋系の顔立ちをした青年が食堂車にやってきた。私を見るとな つかしそうに「Are you philippine?」と訊いてくる。「Japanese!」と答えると、目を丸くして驚いて いた。
これ以降も何度もあったのだが、ヨ-ロッパで出会ったフィリピン人は必ず私のことを「同胞」と思っ て話しかけてきた。一度や二度ではない。「必ず!」だったのだ。しかし、私は「日本人に見えない」 おかげで、盗難などの危険を回避できたのかも知れない。頭に巻いたバンダナも効を奏したのかも 知れない。
ポズナニ駅に到着した。
駅前にケ-キ屋があって、おいしそうなショ-トケ-キが並んでいたので思わず2個も買ってしま い、座り込んで食べた。1個90Zt 郵便局で日本向けに絵はがきをエアメ-ルで出したが、1通40 Zt(4円!)だ。街を歩き回って、雰囲気を掴もうとしてみる。とりあえず、街の中心部の教会のとこ ろまで出かけた。
ヨ-ロッパの街は、たいてい中心に教会があって、その周囲に広場がある。いわば「街のヘソ」の 部分である。そこに行けば雰囲気がよくつかめるし、周囲の建物が調和を重視して中世風のままで 残されていることも多く、写真の被写体として最適である。
それほど遅くならないようにと、TAXIを街角で拾って、ワルシャワで知り合ったThomas・Pacek君の 住所を見せて行ってもらった。ワルシャワのTAXIはみんなボッタクリだったが、地方都市はそうでも なく、タダ同然だった。5階建ての団地のようなところに彼は住んでいて、訪問すると部屋に居た。 夜になると医師だと言う彼の母も帰ってきた。
(父親はいなかった。理由は結局聞けなかったが……)
テ-ブルには豪華な夕食が並び、またしても登場した「SCHAB」という豚肉料理やBEERをいただ き、遅くまで歓談し、彼のベッドで寝かせてもらった。(彼は隣室のソファで眠った。)ポ-ランドの音 楽をわかってもらいたいと、彼は数枚のロック風の音楽のLPを聴かせてくれた。(イマイチだっ た。)このLPをどうしても土産に持っていって欲しいと彼はきかなかった。旅の始めにそんな荷物を 抱え込むわけにもいかない。なんとか断った。
翌日は彼に国立美術館や街の名所をあちこち連れて歩いてもらった。美術館は平日は無料とのこ とだった。(日本とは大違いだぞ!)「いつか新婚旅行でもう一度来たい!」と言うと、「またぼくの部 屋に泊まればいい」と言われた。(笑)最後に街のレストランでステ-キを食べ、そこでは私がご馳 走してあげたが、支払いは二人合わせても2000Ztほどだった。ただ、「オムレツ」と思ってとった 料理が、「ジャム入りオムレツ」で中にイチゴジャムがたっぷり入っていたのには度肝を抜かれた。 私は甘党だが、さすがにその味にはなじめなかったよ。ほとんど残した。しかし、そのジャム入りオ ムレツを食べている人はレストラン内に数人いた!
私たちはバスで彼の家に戻った。その日の深夜のレニングラ-ド行きの列車に乗るつもりだったの でそれまでの時間、彼と、彼の母親と3人で歓談した。彼の母親がクルマ(東ドイツ製、トラバントよ りは大きい)で駅に送ってくれた。駅で降りるときに、助手席側のドアノブがもげてとれてしまった。 (笑)お世話になった彼には、カ-ド型電卓と全部の種類の日本のコインをあげた。ウォ-クマンと かを持っていたらあげられたのに……と思う。
街で二人で写した写真がある。今見ていると彼はビル・ゲイツに似ている。
そうそう、ポ-ランドで当時流通していた5000ズロチ紙幣には、ショパンの肖像画が使われていて、 国歌「ポロネ-ズ」の楽譜が裏面に印刷されていた。一枚だけ記念に持って帰ったので手元にあ る。(ポ-ランドの貨幣は持ち出し禁止という規則があったが。)
彼がどうしてもお土産に持って帰れと言ってくれた壷はとても重くて、しかもザックの中でかさばった ので、ヘルシンキから小包にして送った。帰国してから受け取ったその包みをあけると、口の部分 が少し割れていた。(ちゃんとこわれものと書いたのになあ。)その部分は母が修理した。今は花瓶 として使っている。不思議なデザインの壷である。
その後東欧で起きた激動の変革の中で、彼とは音信不通になってしまった。「ア-ミ-はみんな Special communistだから嫌いだ。ボクは徴兵拒否をして山に逃げるんだ。みんなそうしている。」 と語っていた彼は、あの大変動をどのようにして乗り切ったのだろうか。そして、医師だというあの 上品で知的な感じのやさしい母上はどうしただろう。英語が不自由な彼女とは、彼の通訳でしか話 せなかったのが残念でならない。
貧しくても誇り高いポ-ランドの人々が、長い歴史の中で何度も祖国を分割占領されながらも守ろ うとしてきたものはいったい何なのか。アンジェイ・ワイダ監督の映画、『コルチャック先生』は同じテ -マの『シンドラ-のリスト』よりもどうしてこれほど胸を打つのか。私は今、この旅行記をまとめな がらそうした深い感慨に襲われてしまう。
レニングラ-ド行き列車は死ぬほど混雑していた。やっぱり切符が安いからだ。私が乗り込んだデ ッキのところには偶然若い女性が数人立っていた。私は席探しをやめて、彼女らと話すためにその ままデッキにいた。(笑)
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