第6話総攻撃

     ***


  家族が去った縁側に紅いリボンが落ちている。それは日に晒されて形が崩れ、紅い血のシミとなった。風はそよぐが、屋敷林は森閑としている。木々が根元から急速に灰色に浸食されていく。朽ちた葉が音もなく散り、灰となって消えた。

 台所から戻った由宇樹の父は眉をしかめる。居間へ日光が差しこんでいるのに、仏壇代わりの棚の銀の写真立てから、照り返しがまったく無い。

「眩しくねえって……いつかもあった」

 彼の呟きに、写真の中で笑っているはずの少年少女が、泣き出しそうにしていた。

 突風が枯れ果てた木々の梢を鳴らす。笛のごとく高く、切なく。




 闇は常に由宇樹を覆っていた。透明な薄灰であるが、世界の明度を確実に落としている。瞼を開けた由宇樹は、いつもの薄闇にため息を吐く。画魂とまなくが現れてから、ほとんどそれは消失していたので。

「やな、懐かしさ……」

 身を起こすと、由宇樹は荒野に横たわっていたのに気づいた。彼は立ち上がり、髪や服についた枯草を払う。乾いた空気とかさついた土の感触で、そこが異国だと由宇樹は知る。

 首を巡らすと、谷や森の向こうに何か巨大な黒い塊が見えた。それが振動していて、唸り声が聞こえてくる。由宇樹は駆け出した。校舎の影に隠れて泣いていた、見知らぬ大人の呻きに似ているから。

 唸り声の元へ近寄っていくにつれ、由宇樹は背筋が寒くなってゆく。黒い塊は巨大な人間の頭で、髪を垂らした肩から下が無い。

 ギョッとして、メガネの少年は立ち竦む。巨大な人間であるだけでも恐怖なのに「それ」は、尖った鋭い肩先から直接に老いさらばえた脚が生え、「それ」のものであろうバラバラの体を踏みしだいている。もう一方の肩の下にある乳房を、やはり「それ」から切り離されたらしい腕がわし掴んでいた。「それ」の足元には、バラバラに切り刻まれた胴体らしきものが散乱している。

 全体を認識し、由宇樹は口許を覆う。

「あれ、ダリの『内乱の予感』だ……」

 由宇樹は目を伏せた。持っている美術図鑑の中でもその絵が怖くてたまらず、ページを糊で貼り合わせて父に叱られた記憶がある。後に糊付けを丁寧に剥がした痕を、迅音に笑われたものだ。

「……っ、それだ! 今まで出てきた、実体化した絵!」

 迅音と紗由理と、一緒に眺めていた美術図鑑に、すべて掲載されていたもの。そしてまなくが奏でていたのは、紗由理のお気に入りCDのラインナップだ。

 干からびた喉から、由宇樹は声にならない悲鳴をあげる。

「ぜんぶ、あいつらと……」

 迅音と紗由理に絡む記憶にあるものばかり。むしろ、彼らと絡まないものは現れてこない。

 苦悶が木霊する。

 奇妙な悲鳴が降る下で、場違いな金属音が聞こえてきた。由宇樹は耳を塞ぎ、目を瞑って跪く。自転車に乗った何者かが、それを降りて土や敷石を踏み歩み寄る音がしても、由宇樹はそちらへ振り返らない。気まずさに戸惑うそれが、少し距離をおいて立ち止まる。

「ごめんな……あんまり来てやれなくて」

 聞き覚えがありすぎる声に、由宇樹はおののく。今までより遥かにリアルに、生身の息遣いを伴って、死者が話しかけてきている。

「……なんだよ、お前ら、やっぱり迷って」

 由宇樹の声に、迅音が痛ましそうに顔を歪めた。迅音の背後からやってきた紗由理も、哀しげに見つめてくる。彼女の手には白菊の花束があった。

 ゴォッと冷たい風が由宇樹の背を吹き抜ける。凄まじい耳鳴りがした。 

「な……んで」

 涙を溜めて耐える紗由理を迅音が庇って、おののく由宇樹を塞ぐように立ちはだかる。

「迷ってんの、おめのほだぞ、由宇樹!」

「……ゆうちゃん……! ごめんね」

 空洞内部を風が轟き貫く。震える手で髪をかきあげると、何故か、由宇樹達がいるそこは霊園。鬱蒼とした屋敷林の一角で、由宇樹の周りを先祖の墓石が囲んでいる。

「……ここっ、紗由理らの墓があるとこだろ……」

 風が吹きすさぶ。紗由理が散らばる髪を撫で、涙ぐんで紡ぐ。

「ゆうちゃん、ここはゆうちゃんのお墓があるとこだよ」

 迅音が目を瞑って顔を背けた。由宇樹の脳内を、ゴォゴォと風がのたうち回る。後退りすれば、固い石に踵が当たった。振り向くと、滑らかな白い石で作られたパレットと、サッカーボールとケーキのオブジェがある。

 鈴が鳴るような紗由理の声が響いた。

「それ、ゆうちゃんのお墓……」

「盛りだくさんだべ? おめが好きだったもん、みんなっ……おめのためって、おんつぁんらが」

 顔を背けながら、迅音が懸命に言い募る。紗由理は花束を抱いてしゃがみ、泣き出した。

「ゆうちゃん、ごめんなぁ……あんだに、ばあちゃんば迎えにいかせねば……!」

「おれ、が……? おれのほうが津波さ呑まれて死んだ?」

 こくりと、両手で顔を覆った紗由理が頷く。真相は真逆だったと宣告され、由宇樹は覚めて冷えていく気がした。

(だから、画魂らは来てくれねのか)

 虫がいい願いだと由宇樹は唇を噛む。迅音がゆっくりと歩み寄り、青ざめた由宇樹を真摯な瞳で映す。

「あん時、おめが、紗由理のばあちゃんば連れてくって、俺らば追い抜いて走ってったべ……止めたら良かった……」

 確かに迅音と紗由理を見送った時、本当はそうしたかった。それはできなかったはずなのにと、由宇樹は拳を握りしめる。しかし痛みは感じなくて、荒れ狂う風が吹き上げた。

「……だから、あんな非常識な連中が来て、おれを……」

 自分を助けに来てくれるヒーロー達と、悩みながらも前向きに生きて行く世界は、妄執が作り上げた幻。肉体が滅びてもなお惑い、迅音にも紗由理にも迷惑をかけている「現実」に絶望する。

 てのひらを見るとそれが透けて、由宇樹は重ねて嘆息した。 

「やっぱおれ、ぐだぐだ堂々巡りしてんの、変だと思ってた……画魂とまなくちゃんも、おめらをベースにおれが作ったんかな」

 自嘲し、ズボンのポケットに手を入れようとし、それが無いハーフパンツだったと指を開きごまかす。姉の福袋惨敗品処理で押し付けられ、仕方なく雨などで洗濯物が全滅した時用の部屋着にしたせい。

『女子のオサレパンツって、なんかポケット無えよね』

『んだな、腰回りもっさりすっからって』

 六歳上の姉が笑って、缶入りのカルアミルクを飲んでいた。腕のミサンガが弱く光を放つ。由宇樹は激しく瞬きする。

「だったら、なんだ? この記憶」

 沈みゆく絶望の深海から、由宇樹は急速に浮上した。迅音と紗由理が文字どおり凍りつく。由宇樹は不敵に笑み、メガネかけ直した。

「小学生でおれが死んでたんなら、この記憶の姉貴、めちゃめちゃ不良んなっちゃ」

 今年、成人式の記念として、はしゃいで売れ残りの福袋を買った姉にいまさら感謝する。自分のだと示された墓石を思いきり蹴ると、それは霧となって消えた。由宇樹が、大事な人々を騙るものへ鼻を鳴らす。

「もっと上手くウソ騙れや。迅音も紗由理も、んな、へたれでねぇ!」

 勢いに任せ殴りかかると、迅音は由宇樹の拳を受け止め低く呟く。

「由宇樹、往生際がわりいぞ」

 掴まれた拳を引き寄せてするりと抱え込み、由宇樹は気合いとともにニセ迅音を背負い投げた。

「やっぱニセもんっ! 読書が天敵の小学生が、『往生際』なんて言葉、知らねえっ!」

 偽者の肘から先を抱え、胸元に体重をかけて抑え込み、由宇樹は皮肉に笑ってやる。

「この腕ひしぎは迅音がおせでくれたんだ」

 幼なじみにプロレス技をかけられ、泣いた日々とて役立つ。

 しかし偽者は思わぬ反撃に出た。腐臭を放って溶け、ぐずぐずに崩れ落ちてゆく。

「ひでえな……由宇樹……ホントは俺らが生きて……」

「ゆうちゃん……」

 紗由理までがぐずぐずに崩れ、ぼたぼたと肉片と体液を地に落とす。由宇樹は吐き気をこらえ、素早く離れて渾身の力でぐずぐずの物体を蹴った。物体は姿をまた変え、台座付きの歪な胸像になる。由宇樹の躯は今は怒りで震える。

「よくも……!」 

 大切な記憶をもてあそばれた由宇樹は、不快な金属音をたててあがくスタチューをさらに蹴り上げた。蒼白い焔を由宇樹が纏う。

 無数の迅音と紗由理の偽者=スタチューが、懲りもせずにまた無惨に肉片を落としながら、由宇樹に迫り来る。燃え盛る怒りのまま、由宇樹はスタチューの群れを払い、蹴り砕いた。

「誰だっ? こんなっ……死んだ人らば侮辱してっ!」

 今まで奥底に抑え秘められていた、たくさんの哀しみと後悔と諸々のネガティブな感情が、火を吹く嵐となる。群れを走り抜け、由宇樹は歪な人影の下をくぐった。この怖い肉塊をくぐり抜けたら、きっとこの絵画から出られる――由宇樹はそんなおぼろ気な直感に頼っている。何故なら、隣を駆けて行く気配がするからだ。

「迅音、おめえ……!」

 一瞬だけ、ライバルであった幼なじみの悪戯っぽい笑みが、傍らに浮かんで消えた。声も突き抜ける。

「今まで出たやつ、俺や紗由理と一緒に見った、『探検! こども美術館』と、まったくおんなじだべ。だったら、次はわかっぺ!」

 幼くも凛々しい声が、由宇樹を軽々と追い越して行く。 楽しくなってきたが、空間そのものが歪曲して由宇樹を捉えようと圧迫してきた。怒れるメガネの少年は凄まじい圧力にもがき、奇妙な肉塊を振り仰いで怒鳴った。

「なんで、あんだ、おれば邪魔すんだっ? 自分の痛みしかわがんねくなったのがっ!」

 絵画の中に囚われ、空間そのものに潰されてゆく由宇樹が喚く。阻むものへの憎しみで、由宇樹は目の前が真っ赤になった。

 どこかで誰かがほくそ笑んでいる。由宇樹が怒り、圧力の苦痛に喘ぎのたうちまわればまわるほど、それは愉悦していた。

「ぜってー許さねえかんな……ぜってーぶっ倒す!」

 何かがまた笑う。愉快でたまらないと嘲笑っている。ぎちぎちに全身を締め固められ、由宇樹は無力な自分と来てくれない画魂を恨んだ。

「なんでっ、こんな、とき……助けてけねえんだっ……」

 最初から頼まれもしないのに、嫌というほど助けてくれた画魂。彼が、まなくも囚われているだろうに、来ない。喉と肺を圧迫され、由宇樹は画魂も甘い自分を呪う。

「こんっなっ……許さ、ねっ」

 苦しい息でも少年は諦めない。伸ばした指がかくりと垂れる。すると由宇樹の左腕のミサンガが、幽かな光を帯びてきた。まなくがつけてくれたそれは、うっすら紫に輝きだす。

『ごっしゃがねでけろ……あの火焔土器頭ぁ、捕まったおらば助けようとして、罠にはまってんだ』

「まなくちゃんっ!」

 可憐なまなくの毒舌が冴える。

『そのミサンガの不恰好な石なぁ、抽象化されたおらの躯の一部なんだぁ』

「……は? んぐぅっ!」

 よく分からない説明で、呆気にとられている場合ではない。圧迫はまだ続いている。さすがに焦ったまなくの声とともに、ミサンガが徐々に強い光を放つ。

『ごめんなしてくない!』

 ミサンガが爆発的な光を発し、由宇樹への圧迫が弾け解かれた。解放された由宇樹はがくりと地に膝をつき、這うようにしてはぁはぁと呼吸する。

「あ、ありがとっ……まなく、ちゃん」

 むせて何度も咳をし、なんとか呼吸は整う。熱い液体が背にぽたぽた降り、由宇樹は空を見上げた。空は場違いなほど青い。雨にしては粒も大きく、由宇樹は不審がる。慟哭が空間に満ちていく。ぶるぶると、由宇樹が身を預ける肉塊が震えた。ずれたメガネを直し、由宇樹は肉塊を見上げる。

「あんた、泣いてんのか」

 歪に分断された醜い肉塊が、激しく慟哭している。まなくが静かに綴る声がミサンガから響く。

『このばあちゃんな、スペインの内乱がら第二次大戦始まんのわがって、でもどうにも止めらんなくてぇ、泣いでんのっしゃ』

「そ、そっか、お婆さんなんだよな。落武者とか言ってごめんな」

 柔らかい岩のような肉塊の丘を踏み越え、由宇樹は必死に踏ん張っているような足へ移動する。そして由宇樹は泣き続ける「彼女」へ紡いだ。

「お婆さん、ちょっと触っかんな」

 ふくらはぎに飛びついた由宇樹は、全身を使ってマッサージを始める。まなくが呆然としているらしく、しばらく沈黙してから尋ねてきた。

『いきなり斬新で、よぐわがんねんだけど……』

「ああ、おれはよく婆ちゃんらのマッサージやってっから」

 紗由理を失ってから、自分のせいだと気力を無くした祖母を、なんとか励まそうと始めたマッサージ。それはやがて、祖母のいる仮設住宅の集会所で、彼女以外相手にも行うようになっていった。

 母やボランティアで来ていた整体師らにも教わり、由宇樹の腕はそれなりに上がっている。だから少年は、この老婆にも試みてみたくなったのだ。

「痛くねっすか? やわやわやってっけども……ふくらはぎば揉めば、いろいろよくなっから」

 未だ、老婆は嘆き続けているが、知り合った老人達へのように声をかけ、由宇樹は一心不乱にマッサージする。汗ばみながらも倦まず、ただひたすら揉み続けていく。

「固えなぁ、やりがいあっけど」

 楽しそうに話す由宇樹に、ミサンガのまなくが応える。

『ばあちゃん、哀しみが凝り固まってっぺし』

「んだな。けどほぐれねぇ固さなんかねぇから」

 経験的に知っている事実を呟き、由宇樹は黙々と巨大なふくらはぎにすがって揉みしだく。不意に泣き声が止んだ。揉んでいた由宇樹は、そっと老婆を窺う。

「痛かった?」

 嘆くばかりであった老婆は深々と息を吐き、ゆっくりとかぶりを振った。歪な老婆が、おもむろに己を支えていた手を放し、大きく傾く。バランスが狂うのを厭わず、老婆は手と足を器用に使い、虚空を掴んだ。空間が軋む。軋み歪んだ中心が、だんだんとこじ開けられた。こじ開けられた裂け目の中は暗い。 おそるおそる由宇樹がその裂け目を覗くと、その中にまなくの気配がする。散らばり輝く蛍火の群れがその証。由宇樹は「よしっ!」と気合いを入れた。

「まなくちゃんだっ! お婆さん、ありがとなっ!」

 叫んで手を振り、由宇樹はわたわたとなだらかな肉塊の丘を越えて駆け、裂け目へ飛び込んで行く。彼がうまく飛び込んだのを確かめ、老婆は息を吐いて空間から手を放した。空間はあっさり閉じ、変わらぬスペインの荒野を象る。ゆるゆると自らを掴み上げ、老婆は元の歪な形に戻った。その表情は、今までになく満足げである。




 裂け目から飛び込んだ由宇樹は、その薄暗い世界に呆然とする。ようやく目が慣れて辺りを見回すと、由宇樹は再び恐慌をきたす。 唐突に現れた異界の少年に、そこにいる者達は関心を示さない。彼らも同様にパニクっているのだ。

「やんだ、ここ、『ゲルニカ』ん中じゃね?」

 ピカソの「ゲルニカ」も、第二次世界大戦関連の民衆の苦悩を題材にしている。ドイツからの空爆に恐慌をきたす、内戦中のスペインの民衆や動物を抽象的な技法で描いたものだ。モノクロの世界で、死んだ子供を抱いた母親が泣き叫び、闘牛が人間のごとく見つめ、馬が狂いいななく。横たわる遺体、逃げ惑う人々に圧倒され、由宇樹は押し流されそうになる。歪んだ人体をリアルに描いた「内乱の予感」には先ほど慣れたが、由宇樹はこの手法の中にいるのはまだ慣れていない。

「次から次へと、なんなんだよぉっ!」

 他人への攻撃はできなさそうな、右往左往するだけの不可思議な形の民衆を眺め、由宇樹は頭を抱える。

「だから、閉じこめ用の檻みたく使ってんのか」

 「犯人」の執拗な残虐ぶりに、由宇樹は肩をすくめた。とにかくこの混乱する人々をかき分け、囚われたまなくを探すのが先決。先ほど虚空に吊るされていたまなくが、今はどこにも見当たらない。パニクる人々の誰かに仮装していないかと、それぞれ確認してみたが誰も着ぐるみではなかった。

 馬に蹴り飛ばされそうになり、由宇樹は危うく避けて遺体に重なり、両手で悲鳴を飲み込む。

「まなくちゃん、どこさいんのや?」

 遺体に手を合わせ、誰にとなく尋ねた。突如遺体が目を開き、由宇樹はさすがに叫んでしまう。

「いっ、生きったっ!」

 ピカソ本人と目されるその人物は、上方を差して再び仰向けに倒れた。差されたほうを見やれば、由宇樹は不思議な感覚に囚われる。

「なんだ? あの牛の目……人間みてえ」

 モノクロの世界で、その牛の目だけが翠に輝く。一部分にだけ明るい色を塗る手法だったかと、由宇樹は眉を寄せて訝しむ。そのうち、彼の瞳は驚愕に見開かれた。

「あれっ! まなくちゃんの目っ!」

 目が合って、由宇樹はへたりこむ。牛は首だけのようで、胴体がよく分からない。その無垢な瞳が由宇樹を凝視している。

『みだぐねべ……』

「……やっぱ、まなくちゃんなんだ……なんで牛さなってんだ?」

『牛になってんではねぇ。目だけくり貫かれてぇ、こいつさ囚われてんだ』

 惨い有り様を知らされ、由宇樹は痛ましさに唇を噛む。

「女の子さ、なんてひでえことしやがんだっ!」

 由宇樹は再び、制御不能な怒りが体内で渦巻くのが抑えきれなくなる。まなくが「みだぐねべ」と言ったのは、この無惨な状態のことであった。猛り狂う由宇樹が虚空へ喚き続ける。

「画魂っ! 女の子こんな目に遭わせてっ! おめ何やってんだっ!」

 怒りに任せて大地を拳で叩く。何度か瞬き、まなくが由宇樹へ穏やかに呼びかけた。

『んな画魂ばごっしゃがねでけろ……目ぇば抉られたのは、画魂なんだがらぁ』「……っ!」

 拳に血を滲ませ、由宇樹は唖然とする。まなくの目が淡々と語りだす。

『おらと画魂は、数十年後の未来から来た、双子のきょうだいなんだぁ。もづろん、おらが姉ちゃんな。あいづはばっちだ』

 画魂のほうが弟だと、まなくがウィンクする。あまりに健気で、由宇樹はただ耳を傾ける他ない。


        ***



 20XX年。まなくと画魂は、世界を変える宿命を持つ進化した存在である、「織羽あもう」としてこの世に生を享けた。「織羽」には二つの「相」があり、まなくは「ミカボシ」、画魂は「カガセオ」である。「ミカボシ」は創造と癒しの力が強く、「カガセオ」は創造の力以上に破壊の力が強大であった。彼らの世代は、能力の強弱はあるが、大半がそんな力を持って生まれてきていた。音や光――音楽や絵画を三次元に具現化する「技術」は、まなくと画魂の存在を研究することにより、システムとして確立されたのである。

 「織羽」としての能力が高い者は誰でも、「画魂」、もしくは「楽魂」を特殊な教育プログラムによって体得でき、社会に貢献するコースが整備されるようになった。彼らが能力を活かして働くのは、内閣府直轄の陰国庁である。

 まなくと画魂はまだ幼い頃から、「楽魂」と「画魂」の最高峰として、未来社会で活躍していった。

 三歳の画魂とまなくは、上司である「師匠」や同僚達とともに、新たな能力開発プログラムの実験を行なっていたとある日、画期的な事件が起きる。二歳時に過去へ干渉した最強能力者のまなくが、時間を超える次元の扉を偶然開いてしまう。それを利用した「次元エレベーター」が、「画魂」「楽魂」の力によってただちに建造され、過去や未来へ自由に行き来できるようになったのだ。それにより新たに時間管理法が施行され、時間管理省も設立されたのである。横断的にまなくと画魂も、その管轄で活動すること決まった。そして彼らは順調に、任務をこなす日々を過ごしていたのである。

 ところがある日、一般教育プログラムを受けていた画魂が、ある歴史記録を見て現在の教師にあたるプラクティショナーと大激論を交わすに至った。

「この大災害を、なんで止めねえんだ? なんで止めたらダメなんだよっ!」「とにかく歴史は、いたずらに変えてはならないんだ」

「んなの、時間管理省が勝手に決めたんだろがっ!」

 当時、同じ想いを抱いたが、言わずにいたまなくは、必死に取りなしたという。

      


            ***



 哀しげなまなくの双眸へ、おずおずと由宇樹が尋ねた。

「奴が騒いだのって、なんの記録だったんだ?」

「第二次世界大戦のぉ、三つの都市に落どさった核兵器の記録だ」

 メガネを上げ、由宇樹は目を丸くする。

「えっ、原爆は広島と長崎だけじゃ……」

 怪訝な表情を浮かべた由宇樹の問いに、まなくは目を伏せた。

『アメリカがらはな、ほんどは三機の爆撃機が日本さ向かったって記録、この世界さもあっぺ?』

「そ、そうなのか?」

『んでな、そのうちの一機は行方不明んなってんだ』

「じ、じゃあっ、原爆がどっかに落ちてんのか?」

 まなくは苦しげに眉を寄せる。

「その一機はぁ、東京か仙楠ば爆撃する予定だったんだぁ」

「せ、仙楠を?」

 戦慄が走る。授業の一環として、広島、長崎の記録映画を講堂で見せられたのが蘇った。それ以外にも、手当たり次第に読んだ母の蔵書には、「ヒロシマ・ノート」「黒い雨」などが多数ある。文学や映像で垣間見た惨状が、この地にももたらされたかもしれないことに由宇樹は戦慄した。

 淡々とまなくは紡ぐ。

『画魂もおらも、後遺症とが、差別とがに苦しむ人らさ、よーく遊んでもらってだがら、余計、画魂はごしゃいでだ。画魂のおっしょさんも、しゃべんねがったけんど、婆ちゃんが被爆者だったんだ』

 一気にまくし立てるまなくは、知らず涙を零していた。由宇は奥歯を噛みしめる。

『だがらぁ、おら達はみんなさ黙って、爆撃機ば止めに行ったんだで』

 まなくがくれたミサンガに、由宇樹の涙が落ちた。そのせいか、由宇樹の脳内に、直接まなくの記憶が流れ込んでくる。



       ***



 お気に入りの作業服を着た画魂は、マヨイガへ直結するマントを閃かせ、次元エレベーターのある「ターミナル」を見上げていた。時間管理省直轄のストーンヘンジとよく似た建造物へ、画魂は無断で忍び込むつもりらしい。しかし彼は建造物に潜り込むどころか、何かに弾かれて近づくことすら果たせずにいる。ストーンヘンジを取り囲む広々とした公園から、それを睨むしかできない。不思議な造型の周囲は、多様な生物種を保存・観察するためのビオトープ型の公園だ。被曝を経ても、それらは逞しく育っている。

 画魂が立ちすくんでいると、凛と可憐な声が響く。

「結界で、おめらは近寄れねのっしゃ」

 悔しさを隠して振り向くと、「楽闘士」の制服のまなくが苦く笑み佇んでいる。画魂が吐き捨てるように彼女へ告げた。

「なら、お前が破れよ」

「おらの力ばステラ・ジェネレータで増幅して使ってっがら、おらだで滅多に近寄らんねえんだでば」

「まなく……なんで止めようとすんだよ? お前まで」

 言い募る画魂へ歩み寄り、可憐な制服姿のまなくは、ビオトープの側にそっとしゃがんだ。その広い池には、まなく達の世界で主流のエネルギー源となっているステラ・アンジェリカ――「ツヅノワラスコノマナク」が群れをなし、さざ波にそよいでいる。それは彼女達が生まれる数十年前に実用化された、反物質エネルギーを抽出できる脅威の植物であり、荒玉浜の固有種なのだ。

 ビオトープの池へ白い手をひたし、まなくが厳かな声音で綴る。

「せんせぇらは、歴史ぜってー変えたらなんねっつーけんども、おらだで、おっぴさんらやばあちゃんじいちゃんらが、苦しむの見んの、もうやんだ」

 世代を超え、被害に苦しむ人々を助けるため、まなくも決意していた。

 力を込めたまなくの手を中心に、強烈な光が波紋のごとく拡がる。光に呼応し、「ツヅノマナク」が震え光を放つ。少女は数株を引き抜いて胸に抱く。するとまなくのオーラが数十倍に膨れ上がり、丸いふっくらした花のごとくになる。花から光の柱が伸び、虚空に異次元への扉を開いた。建造物から警報が鳴り響く。申請なしで次元の扉を開いたためだ。それを取り仕切る大人達が、何か叫んでやってくる。

 眩い光に手をかざした画魂が、ニヤリと笑んだ。

「一緒に行ってくれんのか?」

「きょうだいだら、あだりめだべ。いぐっちゃ」

 光を巻き上げ、立ち上がったまなくが画魂へ手をさしのべる。画魂は手を繋ぎ、巻き上がる光の柱に身を委ねた。       



          ***



「……それで、どうなったんだよ?」 語るまなくへ、由宇樹のほうが口ごもって尋ねる。まなくは声を低めた。

「画魂はぁ、おらの力が足んなくて一機しか止めらんねがったんだ。ほんどは三機とも止めだがった……なんとか台風ば呼んで、その一機だけは、関東以北さ飛んでこらんねくしたのっしゃ」

 だから「今の」歴史上、仙楠市への原爆投下は免れたと言う。しかし次元を巡る彼らの力の源は、過酷な罰をくだした。

「けんど原爆はぁ、爆撃機もろとも爆発してまて……それば封じこめっぺって、おらがいぎなり次元の乱気流ば呼び込んだのっしゃ。んだから、その次元の嵐ば消すのに、おらの躯はバラバラに消し飛んだで」

「……ホントは画魂が、次元の嵐だかなんだか呼んじまったんだろ? その爆発を封じるために」

 穿った由宇樹の言にまなくは反論できず、うなだれている。

「けんど、目玉だけなんどが残ってござって……おらば、すけよどして、目ぇば抉らった画魂の目さ、ちょうどはまったんだぁ」

 淡々と語られた残酷過ぎる運命に、由宇樹は言葉も無い。

 原子爆弾の爆発のエネルギーを封じ込めるのには、次元を歪めて乱気流を起こすほどの莫大な「力」が必要であったろう。爆撃機には乗員も二名以上いたはず。由宇樹の懸念がまなくに伝わったのか、彼女は静かに綴る。

「乗ってだあんつぁんらは、その人らのぜぇごの近くさ投げてけたんだ」

「その人達が田舎で生きてたんなら、まだいがった」

 一息つき、まなくの目は頷く。告白を聞いた由宇樹は、また増えた疑問を尋ねる。

「まなくちゃんも画魂も、原爆で死んでたかもしんねえ人達も、兵隊らもアメリカの故郷に返して、全部助けたんだろ? おれらにとって、すげえ恩人だろ。なんでそんなんでほったらかし、つか、働かされてんだ?」

 まなくの瞳は伏せられた。

「おら達『織羽』は、自然から力借りてっから、自然に逆らえば、そのしっぺ返しは来んだぁ。好きなように歴史ば変えてしまったら、あちこちの時間の流れとぶつかって、あぺとぺになるぅ。『事象のコンフリクト』っつうのの、これが結果なんだ」

「だから、なんでっ!」

 納得できない。できる訳がない。数十万人の命の恩人たる彼女達への扱いが、あまりに理不尽過ぎるから。牛のまなくが目をしばたかせ、自分達のために憤る由宇樹をなだめる。

「おらの躯は抽象化されで、あちこちの時空間さ飛び散ったのっしゃ。そいでそれば探して集めて歩いてんだぁ。おらの躯の欠片ばよすがにして、悪さする連中……『荊王能使かたらおのし』ば、ついでに退治して。おらが責任ばとってんの、画魂がぁ、すけてけでんだぁ」

「そん、な……っ!」

 由宇樹は泣いた。以前に何故、震災の時にあの力を使わなかったのかと、責めてしまったことを悔いて。過酷な運命に毅然と立ち向かい、今も決して諦めていない態度に、己の情けなさが腹立たしくて。

 咳き込むほど嗚咽する由宇樹をねぎらい、まなくが声をかける。

「ゆうちゃん、おら達のために泣いてけで、ありがどな」

 何も返せず、由宇樹はかぶりを振った。救った側がそんなふうに罰されるなど、あまりにも酷すぎて理解したくない。

 パニック状態だった奇妙な人々も、天を仰いで静かに涙を流していた。時代の波に理不尽に翻弄される無力な人々だからこそ、その哀しみを自分のものとしたのだろう。哀しい色を湛えた翠が、彼らをなだめる。

「とにかく、こっから出ねば、あん人が無茶ばして、世界を壊してまうがら」「あん人って誰だ?」

「画魂が『犯人』て呼んでる人。その人な、震災をながったこどにしたいがら、こんなごどしてんだ」

 まなくは再び目を伏せた。眦と目の赤い由宇樹は憮然とする。

「あれが無いことにすんの、止めんのやんだ」

「おらだでやんだ……けどな、ホントにそれしてしまったら地球だけでなくて、この次元も他のも、全部ぶっ壊れんのっしゃ。プレートの移動や歪みを止めんなら、その反動ばどこさ逃がせばいいべ?」

 大地は固体に見えて、実は緩やかに流動している。その流動の元となる岩盤の動きは、プレートのそれによるのだ。

「偏西風とか、太陽さあっためられて動く大気みでに、地殻もコアもみんな連動して動いてんだぁ。3・11の大震災ば止めても、もっと惨いのがまた来て……」

 反論を試みようとした由宇樹だが、まなくの凛とした声音に口をつぐむ。

「他の地方とが、他の時代の人らば、犠牲にするこどんなってしまう。おら達がまた引き受けてもかまねけんど、今度は画魂の身体もおらも完全に吹き飛ぶんだ。んで、亡くなった人ら、おら達がいねぐなったら、『予定』どおりに……」

「そんな……」

 由宇樹は息を飲む。画魂とまなくの犠牲によってせっかく助かった数十万人が、彼らが存在しなくなれば、「予定」どおり爆撃を受けて亡くなる危険があるのだ。

「そんで溜まった無理は、地球を内側から破壊すんだ。だから、はえぐこっから出て、止めねばなんね」

「けど、どうやって」

 先ほどのダリの老婆もこの絵の人々も、絵画同士はなんとか繋げられても、おそらく次元を開く力はないのだ。眼球だけになって囚われたまなくが、由宇樹を移動させることができたのも、実は奇跡に近いとまなくが言う。けれど。

「なんが、外さ繋がる依り代とがあったら、なんとか……」

 弾かれたごとく、由宇樹は辺りを走り回って探す。何かしらよすがとなるものが、誤って紛れこんでいないかと、必死に探し回った。 

「誰か、なんか変わったもん、見てないか?」

 おろおろと、奇妙な人々も馬も残念な表情で首を振る。悩める民衆が口々に尋ね合い、またざわめく。喧騒の最中、由宇樹はこの絵の世界では異様に目立つハゲ頭を見つけた。回り込んでみれば、案の定その人物は耳を塞いで怯えている。

「あんだ、ムンクの『叫び』の人だな! どうやってここさ入った?」

 喧騒の中で声にならぬ悲鳴をあげる人物は、「ゲルニカ」の世界では完璧に異質。紛れ込んで来た彼なら、出入口を知っているに違いないのだ。その人物は、呆然と由宇樹を眺める。由宇樹は怯えさせないように、極力優しい笑みを浮かべた。

「できれば、出入口へ案内してくれないかな」

 電球のような頭の人物はパニクるばかりで、由宇樹の仏の顔ライフポイントがみるみる減っていく。業を煮やしたメガネの少年は、電球頭の腕を強引に引っ張ってまなくの元へ向かった。牛の首を見上げた電球頭は、小首を傾げる。それをじっと眺めていたまなくは、はっと目を見開いた。

「このあんつぁん、画魂が画聖ムンクさんさ、直接描いでもらったもんだ!」「え、何に?」

「あんだらの時代で言う、スマホさ」

「うわ……」

 またも画聖相手に何をやらせているのかと、激しく突っ込みたいが、今はそれどころではない。とりあえず戸惑う電球頭氏を促し、由宇樹は牛のまなくへ接触させようと図った。まなくも極力の優しい目付きで導く。

「ほれ、おっかねぐねがらぁ。額ばコツンこ、してくないん」

 優しい目の牛と電球頭の額コツンというシュールな光景に、由宇樹は嫉妬の念がまったく湧かない。むしろ笑いをこらえるのに必死だ。気配でまなくが睨む。

「……ごめっ」

 シリアスな場面なのだが、とにかく絵面がおかしい。

 すべてを超越しているはずのまなくが、唇を尖らせて瞼を閉じる。接触した額から、まなくは画魂へ想いとエネルギーを飛ばす。

 手持ちぶさたの由宇樹も手伝いになればと、牛の額へ己のそれをくっつけた。ざわめいていた奇妙な人々も、我も我もと牛のまなくを触りに向かう。刹那、閃光が迸った。迸った光は、雷めいた動きで天空を裂く。彼らは光の塊となり、画魂へ想いを送った。




 深淵の底の底で、ボロボロの人型が漂っていた。闇よりも深い漆黒の深淵で、肩から背中がぱっくりと割られ、四肢がバラバラにちぎれかけた人型――画魂は、ジリジリと灼けつく痛みに時折痙攣する。業火は未だ燃え盛り、彼を焼いていた。マントもちぎれかけ、彼が痙攣するたびに残骸がゆらゆら揺らめく。

 画魂を監視する得体の知れないもの達が、深淵の底から目だけいくらか光らせざわざわと蠢く。

“アレハ餌カ……”

”餌カ……“

 無明の底で蠢くものは、生者の魂を喰らうだけの存在に堕ちている。だが喰らっても喰らっても、その連中が満ちることはない。果てしない「飢え」だけのものだ。

 瞑目し、鼓動すら失われたような画魂の開いたままの傷口から、生命力が零れ続けている。何者かが彼へ囁きかけた。

“諦めろ……世界は変わる……変えてやる……”

 瞼が痙攣し、画魂の空洞の眼窩が垣間見える。

「変えたって、結局、変わんねぇ……てめえの思うとおりになんか、なんねぇぜ……!」

“変わらないなら、何度でも繰り返すだけだ。絶対に変えて、あいつを取り戻すんだ!”

 虫の息の画魂が薄く笑む。

「歴史をねじ曲げても、必ず修復がある……失われた人らの代わりに、別のたくさんの人らが亡くなって、残された人達がおめえみてえにめちゃくちゃ苦しむんだ。そしてまたその人達が、おめえとおんなじことしたらどうなる?」

 蠢く虚無を操る者が一瞬、口をつぐむ。画魂は、血を吐きながら言い募った。

荊王かたらおに何言われたかしらねぇが……荊王もまなくの欠片を憑代にした、可哀想な妄想の産物だぜ……ったく、これもそれも、だっせえショーだっつの」

 憐れむように画魂が呟く。深淵に蠢くもの達を操る者は、哄笑し気配を消した。いずれバラバラに散じる人型など、ものの数ではないと。

 蠢くもの達が合体して歪な形を成し、深淵から業火が燃え盛る虚空へ浸りと伸びて来た。頭をもたげたそれは、ぱかりと大口を開ける。空間そのものが裂けたような大口は、画魂をひと呑みにするつもりらしい。力無く漂う人型は、それに呑まれた――はずであった。

 一旦画魂を呑み込んだ虚無が、急にのたうつ。業火を裂き、くゆらせた煙のごとき浅黄色の光が燃えて女性の姿を象る。

『今と未来の、由宇樹くん達の力よ! 受け取って! 画魂!』

 幾本もの閃光が飢えた虚無を無造作に貫いた。咆哮が虚空をつん裂く。無数の稲妻が落ち、無限の深淵を揺さぶる。巨大な虚無の「頭」がいくつもの雷光に割られ、バラバラに弾け飛んだ。深淵を穿って立つ光の柱の中心に、燃え立つ彼がいる。

「由宇樹ぃ、まなくらぁ……もらったぜ!」

 割られていた胴体は、数多の光珠に包まれて再生されてゆく。裂けたランニング――ウェアラブル端末も修復され、主題の大口を開けた人物が、再びそこへ収まった。ちぎれてボロボロだったマントも、雷光によって再びその形を整える。端から端まで綺麗に修復され、目の無い画魂が右腕を虚空に掲げた。

「ありがとよ、瀬織津さんっ! ムンクさんの叫びの人と、みんなも!」

 女性を象った光が一際強く輝いて消える。いくつもの眩い光珠が、画魂の眼窩に集まってゆく。彼はそれを瞼の上から撫で、何度か瞬いた。すると画魂の眼窩には紅い色の眼球が現れている。散っていた光珠も右手首に集まって、再度ミサンガを形成した。ミサンガから火柱が立ち昇り、巻き上がる焔は巨大な筆――界筆となる。おもむろにそれを肩に担ぎ、画魂が業火の中空で仁王立ちになった。

 深淵に潜むものが逃げようと図るが、今度はそれらが業火に遮られ囚われる。地獄の業火に囚われた虚無は必死にもがいた。

「ガオってんじゃねーぞ、おめえら! アートはビッグバンだっ!」

 吼えた画魂は一気呵成に虚空へ筆を走らせ、巨大な絵を描く。描かれたのは極寒地獄・コキュートスの竜。ギュスターヴ・ドレが描いた、ダンテの「神曲」の地獄篇の挿画である。

 ビバルディの交響曲「四季」の「冬」が、地鳴りのごとく空間全体を包む。巨大な竜と化したルシフェルが、二対の翼を盛大に羽ばたかせた。今もなお画魂を燃やし尽くさんとする地獄の業火は、その羽ばたきで炎のまま凍りついた。凍れる竜の背に乗って、画魂が不敵に笑む。

「さあ、今度はオレのショータイムに付き合えっつーの!」

 竜が全身からブリザードを発し、空間そのものがバキバキに凍りつく。「冬」がひび割れて消えゆく空間に轟いた。




 画魂が復活する時刻から、遡ること数十分前。異界に囚われている由宇樹が、老婆のためにマッサージをしていたのとほぼ同時刻に、太平洋上で異変が観測されていた。千代田区大手町の気象庁内では、気象衛星から送られてきたありえない映像を前に人々が絶句している。

「太平洋全体が盛り上がって、とてつもない巨大津波が日本とフィリピン諸島を目指している……!」

「馬鹿な! 台風も地殻変動も、何も観測されていないんだぞ!」

「緊急避難命令だ! 官邸とマスコミにっ早くっ!」

「しかし、これが本当なら、逃げ場がない。富士山頂でも……無理かも」

 巨大なモニター内の、その巨大過ぎる津波を見つめ、庁内の人々は慄然とする。それは突如沸き起こり、緩慢な速度だが確実に日本へ向かっているのだ。同時に日本海側にも唐突な巨大津波が起きており、長大な水の砦が両側から日本を飲み込みに向かっている。待ちわびた官邸からの連絡は平静を装っていたが、パニック状態だと長官は肩を落とす。

「パニックが起きるから、国民には伝達するなと……」

 誰かがデスクを叩いた。

「偉いさん達だけ、逃げるつもりなんだよっ!」

 数人が外へ駆けていく。逃げるためでなく、私的に人々へ伝えるために。しかし彼らが漏洩しなくとも、超常的な巨大津波の模様は勝手に繋がれた回線を通し、全世界へいち早く配信された。




 私的ネットワークから連絡を受けた貴雷の父親も、国会内のあちこちの空間に投影されたその画像を見て愕然とする。しかしただちに我に帰り、議事堂内の議員全員へ呼びかけた。

「私の財団の、太平洋沿岸部の津波避難施設をすべて開放します! 皆さんはただちに国民への緊急避難を呼びかけてください」

 彼に同調した者達は一斉に駆け出した。だが残って詰め寄る者達もいる。

「パニックになるのでは?」

「誰のどの省庁の責任で」

「しかもあんた、何の権限があるんだ? 総理じゃないだろうが」

 こんな時は居丈高に詰め寄ってくるのに対策にはとりかからない老いた議員達を、貴雷議員が一喝する。

「オレが全責任とってやんよ! さっさとすべきことしやがれ!」

 一喝し、貴雷の父はギガ津波対策本部を勝手に立ち上げるため、絨毯の上を駆けて行った。巨大津波は静かだが迅速に日本へ迫っている。




 日本中のあらゆる場所に、その映像は浮かんでいた。だがその津波のあまりの巨大さに、ほとんどの人々がCGと誤解してしまう。それでも映像を流し続けているのは、まなくに助けられた古いパソコンやスマホ、携帯などの付喪神達と、それに連携した現在稼動中の通信機器達である。まなくと引き離され、サプリワールドの公園に打ち捨てられた「彼ら」。それでも「彼ら」は「救いたい」と、必死に持てるエネルギーのすべてを注ぎ込み、人間達へ訴えているのだ。

 朝のニュースバラエティを流し見ていた由宇樹の父は、その映像を見て驚嘆する。

「なんでこんなのさ、解説もなんもねえんだ?」

 先ほどまでとくとくと語っていた司会者達は、その映像に圧倒されて硬直していた。

「ゆりあやママは大丈夫だろうが、由宇樹は……」

 いまだに癒されない傷を抱えた息子だが、本人の強さを信じるしかないと、由宇樹の父は思っている。彼は急いで病院に連絡し、着替えて飛び出していった。灰色の屋敷林が風も無いのにざわめく。



 それと同じ頃。海辺の町の広場で、由宇樹の母親は夏祭りの準備の真っ最中である。うるさい「反サプリ連」をものともせず、むしろ手伝わせる勢いで彼女は動き回っていた。近所の貴雷学院の生徒達数十人も、ボランティアがてらに勝手に集合し、自由に皆を手伝っている。彼らは招待された車椅子を使う人々のため、きびきびとテントを張って来賓席を作り、そこへ案内していた。

 由宇樹の母はそれに目を細め、モールを飾るために倉庫の屋根へ登る。その平らな屋根から海のほうを何気なく眺め、彼女は目と口をあんぐりと開く。動きが止まった彼女へ、地上の同僚らが突っ込みを入れた。

「織朔さぁん、なじょんしたのぉ?」

 由宇樹の母は弾かれたごとく平らな屋根を駆け、地上の同僚らと手伝いに来た人々や、反対運動団体へも叫ぶ。

「ちょっと! 遠くの海が盛り上がってる! みんな、避難タワーさ逃げっぺ!」

 人々は一気に張りつめ、予め打ち合わせていた行動をとる。杖をつく人や車椅子の人の元へ、手伝いに来ていた老若男女と、反対運動の人々が集まって手を貸し、次々に運び出していく。近くで遊んでいた小学生達も、港湾で働く人々も、復興工事中の人々も、すべてが冷静に整然とタワーへ避難していった。まるであの日のリベンジのように。

 由宇樹の母は、駆けつけた消防団や警察の人々とともに住民達を誘導したり励ましながら、内心で呟く。

『ゆうちゃん、あんだどこさいる? あんだのこったから大丈夫だろけど』

 遠く空が鳴った。



 巨大津波の模様は捏造された映像として、大多数の人々にはいまだに無視されていた。何しろ地震も台風も何も起きていないのだから。だが議員や自治体などからの呼びかけを受け、一部の人々はようやく何か異変が起きているのを察知しだした。それにより自主避難する人々を、貴雷グループや復興財団の者達が誘導する。足元不如意な人々も、どんどん避難タワーや内陸の社屋へと運んで行く。そんな光景が日本全国の沿岸部各地で散見されていた。




 荒玉浜の内陸部にある仮設住宅へも、サプリワールドの職員達が呼びかけに来ている。そこに一人住まいする、普段はテレビの電源を入れていない紗由理の祖母が、いつの間にか点いた茶の間のそれを呆然と見やった。

「なんだべ、線も抜いてんのに、勝手について……」

 映し出された巨大津波は、衛星軌道のカメラから白い線として捉えられている。津波に比すると木の葉のような巨大タンカーが、まさにそれのごとく飲み込まれてゆく。ぞわぞわと、彼女の背筋に悪寒が走った。

「こごは、高台だけんど、大丈夫が」

 あたふたと外へ出て海のほうを見れば、沖から白い壁が轟音とともに迫ってきている。彼女も、わらわらと出てきた他の家の人々も、なす術もなくその場にへたりこんだ。

「今度こそ、ダメだ……さっちゃん、あんだんどこさ行ぐんだ……」

 怯え涙を流す彼女へ、開けっ放しの部屋から誰かが静かに呼びかけてくる。それは写真立ての中で微笑む紗由理が、慰め囁く声であった。

『ばあちゃん、今度も大丈夫だべ。あれはゆうちゃんと、画魂っつー人らが止めてくれっから』

 老女は落ち着き、鷹揚に笑んだ。

「ああ、ゆうちゃんらがいっからな」

 だが白々と空を覆う壁は、嘲笑うかのごとく陸地へ迫る。




 そして現在。画魂が描いた氷の世界の竜はばさばさと力強く羽ばたき、覆いかぶさる偽の天へ突撃して突き破っている。火焔土器頭の少年は渦巻くブリザードに吹き上げられ、深淵の底の底から現世へ吹き上げられて飛び出した。飛び出たそこは、アラハバキスタジアム上空である。画魂はマントを閃かせ、氷の世界も竜もそれへ吸い込んだ。空から降下し、少年は眉を顰める。

 近くのドーム群が低く唸っていた。防災拠点となるスタジアムの他、総合病院もホテルも、この地区一帯のすべてを賄うエネルギーを生成するシステムの施設が、地鳴りのごとき騒音を放っているのだ。滑空していた画魂はスタジアムの屋根に飛び降り、口笛を吹く。するとずっと彼を探していたらしい例の大鷲が、高く鳴いて飛んできた。

「心配かけたな」

 大鷲は一度背面飛行し、焦る画魂をからかってみせる。笑っていなし、画魂は海のほうを睨む。そこには何百キロも続く白い万里の長城があった。

「あの施設、全部吹っ飛ばしてでもやるつもりかよ」

 津波の映像を実体化させるエネルギーの源は、サプリ内のステラ・アンジェリカシステムだと、画魂は感じ取る。まなくの躯とともに飛び散ったはずの「ツヅノワラスコノマナク」が、どうやってか荒玉浜と瀬織津地区の林に細々と生え、命を繋いでいたのだ。それを何者かが悪用していることが、画魂を激しく怒らせている。

「許さねえ……!」

『震災で流されて、絶滅したと思ってたわ……』

 じっと海を見据えている画魂の脳内へ、突然斎藤が話しかけてきた。彼女はいつものジャージ姿で、眼下のスタジアムの屋根からごく自然に手を振ってくる。だがそれは揺らめく映像のみ。画魂はため息を落とし、大鷲で彼女の元へ降りて行く。

「瀬織津さん……さっきはありがとな。けどもっと働いてくんねーか? あんたの偽者のせいでとっ捕まった由宇樹らんこと、あんたに任せっから」

『え? あ、少し未来のあたしもなんかやらかしたのね。けど、由宇樹ちゃんってば、私のこと嫌ってるし、私も囚われてんのよ』

「とっとと蹴破ってそこ出て、誤解だって証明してやりゃいーじゃん! あんたが今回の作戦の責任者なんだし」

『あたしだけの力じゃ難しい場所なのよ……つか、さっきから年上にむかって「あんた」って、何よ』

「後で謝っから、早く!」

 ことは一刻を争う。いまだトラウマを抱えた人々を、いたずらに恐怖に震えさせておく趣味はない。急に深刻な表情になり、斎藤の名を騙っていた女性が目を眇めた。

「由宇樹ちゃんもまなくちゃんも、『炉』の中よ。彼女達の力を無理に引き出して、爆発する勢いで、『炉』を加速させてる」

「なんぼ津波を止めても、あの『炉』がやつの支配下にある限り、無駄だってことか」

 無限にエネルギーを異次元から抽出できるオーバーテクノロジーが、今のこの世界にあり、傷を負った人々をさらに傷つける道具とされている。画魂は大鷲へ合図し、海へ飛ぶ。

「とにかくあの津波、止めてくっから!」

「好きなだけ止めてきなさい! あれは歴史にない幻なんだから!」

 凛々しく飛び立つ画魂へ、この町と同じ、古代の女神の名を持つ女性の幻が手を振って消える。



 祈りが届いたのか届いていないのか――由宇樹は薄暗い天を仰いで唇を噛む。手ごたえがあったような気がしたが、いまだにまなくの目は牛にはまったままだ。

『躯を形成すっための画魂がぁ、まだこっつさ振り分けてらんねえのっしゃ』

「画魂が?」

『楽魂と対なすほうの、な』

「ややこしい名前、あいつにつけちゃったよね」

 牛のまなくは目を細める。

『画魂の概念とか、画聖召喚とが、おらと弟が生まれて初めて認識されたがらぁ、しゃあねのっしゃ』

「けど、まなくちゃんは樂魂でなくって、『まなく』ちゃんじゃんよ」

『おらの名づけは、縄文時代がら決まってっぺし』

「はぁ? 意味わかんねえ。しかもきょうだいなのに、苗字違うし」

『おら達の時代は、夫婦別姓なのっしゃ』

「未来かぁ。母さんが羨ましがるべな」

 軽口をたたけるほど、由宇樹は回復している。

 一息ついて、由宇樹はぐるりと辺りを見回す。すると遠くで、何者かが迷っているのがわかった。目を眇てみれば、それが大変見覚えある人物で。大きく手を振り、由宇樹は大声で人影に呼びかけた。

「かんとく~っ! 川堀せんせえ~っ!」

 彷徨っていた人物は由宇樹の声に気づき、慌てて駆けてくる。大きく両手を振り返し、親しみある笑顔の担任が近づく。

「おぉ~い! だいじょぶかぁーっ?」

 間の抜けたような声に、知らず由宇樹は安堵の笑みを浮かべた。担任の川堀も、何者かに囚われたのだろう。彼まで囚われにして、一体何が目的なのかは分からないが。

 やって来た川堀は、近づくにつれて歩む速度が遅くなり、離れた場所に立ち止まった。どうやらかなり、奇妙な群れを警戒しているらしい。由宇樹はそれが当然の反応と察し、馴染んでいた奇妙な群れから離れて川堀の前へ出た。

「先生、あのっ……ここ訳が分からないとこみたいで、なんかおれ達、閉じこめられてるんです。先生はどうしてここに?」

「あ、ああ。俺は……確か病院に、捻挫の再検査で来てたはずなんだが」「病院に、ですか」

 奇妙な群れを背にした由宇樹は、この「檻」が現実の世界のどこなのか、なんとなく検討がつく。

(病院の傍っつか、この辺一体って、姉ちゃんらのサプリがあっとこでねが?)

 総合病院や防災拠点のエネルギー源である、ステラ・アンジェリカ・システムの研究開発施設がある場所だと察せられた。ならば研究者として出入りする姉と連絡が取れないか――由宇樹はため息で、再び天を仰ぐ。薄暗い空はただ静寂に沈む。

(姉ちゃんと繋がるなんか……このハーパンでは無理だべ。携帯ねえし……)

 座りこんだ川堀が低く唸る。

「俺達はずっとこのまま閉じこめられて、ここで朽ち果てるんだろうか」

「……いや、なんとかがんばって、出られますって」

 珍しく熱血教師が弱音を吐くので、由宇樹は彼をまじまじと眺めた。川堀の目は空洞めいていて、由宇樹は背に悪寒を感じる。

「せんせ……」

 僅かに後退りする由宇樹の手を、川堀ががっしりと掴む。

「なあ、織朔、お前の従姉妹や幼なじみ、相当悔しかったろうな」

 冷え冷えした声音に、キュッと由宇樹の心臓が締め付けられた。

「せ、先生?」

「末続迅音は、将来有望なストライカーで、お前の従姉妹とも好きあって……お前がお祖母さんを呼びに行っていたら」

「……やめてくださいっ」

 このままでは、また闇の底に引きずり降ろされてしまう――由宇樹は、己の腕をわしづかみにする男から、必死に逃れようとする。川堀の目から空洞が漏れ、由宇樹を取り込む闇と化す。

「後悔してるだろう? 紗由理を乗せて、一緒に内陸に逃げていたらと」

「そりゃっ……」

 そうしていたら、と何度も由宇樹は考えていた。障害を持つ少女を助けられたのは今でも誇りだ。が、紗由理のことを思えば、それは偽善なのでは、と誰かがいつも責めてくる。 口から闇色の焔を吐き、髪を逆立てた川堀が囁く。

「なぁ、希望なんか未来に無いよな……誰かを助けても、その誰かは死んでしまうし……」

 目を見開く由宇樹が凍りついた。せっかく助けた少女は震災直後に倒れ、いまだに意識が戻っていない。何度か見舞ったが病状は思わしくなく、さらに由宇樹を絶望させている。

 凍りつく闇に囚われた由宇樹の前に、じわりと空間を波立たせて何かが現れる。由宇樹は干からびた喉から悲鳴をあげた。自転車に乗った迅音と紗由理が、じっと彼を睨んでいる。

「ゆうちゃん、やっぱしあたし助けたくなかったんだよね……」

 迅音にすがった紗由理が、涙を浮かべて紡ぐ。

「あたしが……あたしが迅音と好きあってたし……死んでしまえって思われても仕方ないよ」

「ちがっ、違う!」

 絞り出した言葉も、上滑りして虚空に消えた。沈黙していた迅音も、哀れみの眼差しで由宇樹を捉える。

「俺達が一緒に死んでしまえって、お前の思うとおりんなったな」

「違うっ!」

 由宇樹は耳を塞ぎ、くずおれて地に伏した。それは当時、しばし駆け抜けた感情。彼らが好意を持ち合って未来の約束をしたと知った時に、その闇色の波に飲み込まれていた。胸は焦げ付いてじんじん痛み、喉もなにもかも焼け爛れて。

 自転車を降りた迅音が近づき、へたりこむ由宇樹を見下ろして囁きかける。「なぁ、紗由理は永遠に俺のもんだ」

 紗由理も迅音の傍らで笑う。伏した由宇樹は、彼らの声に違和感を覚える。今まで、学校の内外で由宇樹を責めていた声が重なって響く。

「違うっ……迅音らは、そんなこと言わねぇ」

“そうと言い切れるのか?”

 画魂の冷徹な声がさらに重なる。“こんだけやっても、おめえまだ吹っ切れねぇのかよ”

「画魂っ!」

「……よね、織朔くんって……」

「しょうのねえやつだ」

 いつの間にか現れた斎藤と画魂が目を見合わせ、クスクスと笑った。三田も影と声だけの少年達も、うずくまってしまう由宇樹を嘲笑う。川堀も泣きだすような表情で笑っている。由宇樹は耳を塞いで呻く。

「……なんも信じらんねぇ」

 涙がまだ出るのが、不思議でたまらなく思える。

“絶望しろ……お前の絶望が……力……”

 闇の底に哄笑が虚空に満ちた。




 深淵の闇に囚われた由宇樹を遠く眺め、牛のまなくはただひたすら祈っていた。彼女達が瀬織津町に来た原因が今、最後のプロットを進行させている。

『ゆりあ姉ちゃん……気づいてけねが……ゆうちゃん、大変だで』

 由宇樹に頼るしか、進行を止めるすべは無い。まなくが呼びかける由宇樹の姉は、壁一面の数十のモニターを他の研究者達とチェックしながら首をひねる。

「抽出されたエナジーが、まるごとどこかに消えてるって……」

「どこに消えてんだ?」

「異次元、としか思えへんしなぁ」

 老若男女、生出身地も様々な研究者達も、ありえない現象に右往左往していた。ステラ・アンジェリカ反応炉内の圧力は一定で、順調に「燃えて」いる状態。だがそのエネルギーのほとんどが、現出した瞬間にごっそりと消えるのだ。

「対消滅だから、無限に供給されるはずなのに」

 現在、病院一帯のエネルギーは、巨大蓄電池に蓄えられたそれで賄われている。しかしその供給が続くのは、およそ三日間だ。しかも現在、日本そのものを沈没させるほどの津波が迫っている。

「なんとかできねべか……」

 由宇樹の姉がふと見たモニターに、反応炉への通路に何者かが侵入しているのが映し出されていた。警報も何も鳴らず、由宇樹の姉は画像を見て固まる。その人物が、ふわりと炉の中へ消えて行ったのだ。

「確かに放射線とか、ないけども」

 生成され続ける反物質に正物質である人が触れて、この空間が無事に済む訳がない。ましてその人物は、分厚い金属もものともせずに反応炉の内部へ入ったのだ。焦ったゆりあは周りを見回したが、誰にもその異変は認識されていないよう。彼女はそそくさとセンタールームを後にした。



 反応炉への通路で、再び炉から現れた奇妙な人物をゆりあは追いかける。かの人物はひょこひょこと回廊を行き、センター棟の壁をすり抜けて出て行ってしまった。見失った彼女は、走ってセンター棟を出る。するとその人影が待っていたかのごとく、駐輪場からおもむろに歩き出した。ゆりあはくじけそうな足を踏ん張って、自分のマウンテンバイクへ飛び乗る。追われるその影は、明滅しながらある一点を目指して歩いていた。その道順をなぞり、ゆりあは苦笑いする。

「なんだ? うっつぁ帰んのげ?」

 案の定、人影はゆりあの自宅の門をすり抜けて行った。赤さびた門を開き、ゆりあは人影を追う。それは裏手の例の箱の前でお辞儀をし、すぐに緑色の毛玉に戻った。彼女は「ああ」と頷く。

「あんたら、『ツヅノマナク』の!」

 たぶん精霊か何か。毛玉が必死に箱の周りを飛び回るので、ゆりあはなんとなく意図を察する。

「どっかさ運んでけろってんだな?」

 設置していたのは、「ツヅノマナク」が一株入った、プロトタイプのステラアンジェリカ反応炉。家族を欺いてでも、その安全性と機能性を証明しようと据え付けたものなのだ。

 気合いを入れて箱を持ち上げたゆりあだが、逆にその勢いでよろけてしまう。すると骨ばった腕が伸び、さっと箱を支えてくれた。見上げた正面では、タイにサスペンダーの古風なスタイルの老人が、人の好い笑みを浮かべている。

「……松代先生!」

「急いであばいん。弟さんが呼んでっから」

「はいっ!」

 震災後すぐに亡くなった恩師が頷き、運ぶのを淡々と手伝ってくれている。驚いている暇はない。それを運べば、ステラ・アンジェリカ反応炉の不具合が治せると、ゆりあの直観が喚いている。箱をもうひとつの愛車であるミニバンの後部座席へ運び込めば、老人はいつの間にか助手席にいた。きっちりシートベルトまでつけている。

「案内すっから、運転頼むよ」

「承知してます」

 進路に迷っていたゆりあを、サプリへ紹介してくれたのはこの人物。彼の写真は今も、女性所長を始めとする職員達の一部が、パソコンのデスクトップ画像にしているのだ。




 老人の指示どおり進めば、サプリワールドで働く職員達の居住地域にさしかかる。

「斎藤くんをすけてけさい」

「斎藤って、ゆうちゃんの副担の方で?」

 老人は無言で首肯した。ゆりあはハンドルを切り返し、貴雷学院の職員寮へ車を走らせる。女子棟へ向かおうとすると、老人は首を振った。彼は骨ばった指先で男子寮を差す。

「あそこですか?」

 こっくりと頷き、老人は消えた。急なことにゆりあが焦っていると、かの松代博士は目的地らしい六階の部屋の扉の前から手を振ってくる。そして彼は、ゆっくりと光に包まれて消えていった。

「せ、先生っ! これ、一人で六階まで運べませんっ!」

 情けないゆりあの悲鳴に、優しい老人からの伝言が降る。

『君、これからはリケジョも腕っぷしが強くねえと、わがんねど』

「あーっ! やっぱ松代先生は松代先生だよっ!」

 相変わらず容赦の無い老講師へ毒づき、ゆりあは車から箱を抱えて降りる。腰にくる重みに耐えてよろよろ歩いていたら、誰かが駆け寄ってきた。

「運びます!」

 駆け寄ってきたのは、花野辺南中学のサッカー部の生徒達である。箱を優しく奪い、日日や松代と大勢が微笑む。

「おれ達にも、手伝わせてください」

「何かやってねえと、やってられないっすから!」

 わらわらと他校の少年達も集まってきた。巨大津波襲来のニュースを見た彼らは、おとなしくホテルにいたくなくなり、それぞれがボランティアをするため飛び回っているという。いてもたってもいられなくなった、貴雷学院のレギュラー陣も、キャプテンを筆頭に集まって来ている。

 少年達の手により難なく六階まで運ばれた箱は、示された扉の前で発光した。そして音もなく扉が開かれ、浮かび上がった箱は部屋へ吸い込まれてしまう。皆が覗いてみれば、外と分断されているごとく部屋の中は真っ暗。塗り込められた漆黒にゆりあが手を伸ばすと、べたつく感触がして慌てて手をひっこめた。彼女のてのひらをまじまじと眺め、日日がひそりと呟く。

「まるでクレヨンをべったり塗ったみたいですね」

「そう、クレヨン……あーっ!」

 何かが繋がり、ゆりあは叫ぶ。

「ゆうちゃん、ゆうちゃんの絵だっちゃ! 真黒く塗っちゃった、あの!」

 震災を経た初冬のある日に、台所で母が父に見せていた絵。描いた当人の手により塗りつぶされて捨てられたその絵は、母が拾って隠していたのだという。絵は丁寧に丸められ、円筒のケースに戻されて由宇樹の部屋の本棚の上に戻されていたはずだ。それが何故、この男子寮にあるのか、問うている暇はない。

 闇から何かが呼びかけてくる。

『そう、なのよね。これが「犯人」の、今のエネルギー源の片方。みんな、ちょっと眩しいけど、ごめんね』

 脳内に直接聞き覚えのある女性の声が響き、少年達もゆりあも唖然としていると、漆黒がふるりと揺れた。最初は微かに、だんだんと漆黒を光が切り裂いてゆく。光芒がいくつも浮かび、爆発的に中心の光珠が膨らむ。膨らんだ光珠は唐突に弾け、部屋を飲み込んでいた漆黒の闇は消え去った。皆は目を覆いつつも、その清らかな炸裂を見つめてしまう。

 炸裂した光芒から、自転車に乗った二人の少年少女が飛び出すのを、貴雷らは呆然と見ていた。彼らが目礼してから駆け去って行くのへ、同じく見つめていた日日は平然と手を振っている。悔しくなって、貴雷も猛然と手を振った。ゆりあは駆け去る光の二人に、涙ぐむ。

「ゆうちゃんば、すけてけさいん!」

 やがて強烈な光が去り、色褪せた普通の陽光が部屋に差し込む。陽光の中に、ジャージ姿の女性が浮かび上がった。貴雷が彼女へ話しかける。

「斎藤先生、どういうことなんですか?」

 花のような笑顔の斎藤は、応えてにこやかに号令をかけた。

「説明はあとね。さあ! 織朔くんを救出に行きましょ! あと取り残されてるお年寄りとか、ホテルへお連れしなきゃ!」

「おう! つか、ちょっと!」

「行こう、貴雷」

 解せない顔の貴雷の襟首を掴み、日日が元に戻った部屋から踵を返す。佐久間が笑ってついて行きながら、ふと怪訝な表情になる。

「ここって、監督の家……」

 怒涛の咆哮がここまで轟く。サイレンも響いてきて、少年達も女性達も「持ち場」へと駆け出した。

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