第5話秘密

 小屋の玄関から中を覗くと、キラキラと水晶の株が点在する吹き抜けのエントランスホールとなっていた。そこから放射状に、無数の廊下が奥へと伸びている。由宇樹はきょろきょろしながら翠に輝く洞穴を行く。

「怪しい妖怪とかのホテルみてぇ」

 異界のそこは、確かに絵画の主題達を一時逗留させるホテルの造りだ。異様ながらも豪奢な造りの、扉の見当たらない回廊を、壁に灯る淡い光が仄かに照らす。よくよく光を見れば、どうやらそれは。

「ひ、人魂っ!」

 悲鳴をあげかけ、由宇樹は自らの口を塞ぐ。しかし害をなさないようなので、とりあえず気にせずに前へ進む。何かがずっと由宇樹を呼んでいる。 てくてくと数分歩いた後、やっと突き当たりに扉があった。人魂の灯りに浮かんだ扉は大きく重厚で、何故か由宇樹は懐かしさを覚える。

「初めて見てるんだよなぁ?」

 自分に確かめ、扉の豪華な取っ手に手をかけた。甘い息遣いのごとく、人魂の輝きがたゆたう。慌てて由宇樹が取っ手から手を放した。

「なにっ……おれは」

 深く知らない人物の「家」へ勝手に上がり込んだあげく、自分は秘められた何かを覗こうとしているのだ。そんな厚かましく無礼な真似は、被災者の幽霊の噂をたてる輩と同類に思われ、由宇樹の矜持が許さない。踵を返すが、悲鳴のような軋みに思わず振り向いてしまう。案の定、扉は十センチほど開いていた。中からまなくが微笑みかけている。操られる人形のように中へ入れば、由宇樹はまた自らの口を塞ぐことになった。

「これ、なんだ……?」

 たぶん画魂のアトリエであろう、広々とした部屋。その奥の壁一面を陣取る、正面から見た等身大のまなくの肖像画はまだ良い。その他にあらゆる角度から見た、あらゆる表情のまなくの肖像が、無数に飾られているのだ。素晴らしい筆致の、主題の息遣いや鼓動まで伝える見事な絵画なのに、由宇樹は鳥肌が立って震えが止まらない。

「これじゃ、まるで」

 震災直後に遠くから垣間見た、遺体安置所の扉の奥を唐突に重ねてしまう。

 振りすぎて眩暈を起こすほどに、由宇樹は頭をブンブン振った。

「お前が思ったことは、半分だけ当たってんよ」

 沈んだ画魂の声に、由宇樹は凍りつく。彼はため息を落とし、由宇樹へ歩み寄る。そして由宇樹と、正面からのまなくの肖像画の狭間に立った。

「まなくは生きてっけど、躯はねぇ」

「……なに、言って」

 画魂の瞳が翠に輝く。それはまなくの瞳の色のはず。

「厳密に言ったらぁ、躯の一部はまだあんだぁ」

 澄んだまなくの声が、由宇樹の鼓膜を鳴らす。どうにも反応できず由宇樹が立ち尽くしていれば、画魂が低い声で界筆を呼び出した。呼び出された巨大な絵筆はすっと小さくなり、普通の大きさになる。ヴァイオリンを弾くまなくを描いた絵が、ふわりと画魂の前に飛んできて自らイーゼルに据えられた。よく見れば薄く灰がかったまなくに、ヒビが入っている。痛そうに眺めていた由宇樹が息を飲む。色褪せた絵の中のまなくが、切ない笑みを浮かべたからだ。

「おっかねがんねでけろ」

「けど、なんで」

「全部オレのせい、なんだ」

 絞り出された画魂の声が由宇樹の胸に痛い。原因は違っても、同じ想いが何度も彼の魂を引っ掻くから。

 口を引き締めた画魂が、とりどりに光る珠を散りばめたパレットらしきものも呼び出す。絵の具代わりらしい光る珠は、なぞる絵筆に輝きを移す。その絵筆で絵をなぞってゆくと、色褪せていたまなくが輝きを取り戻した。聞いてもいないのに、画魂がパレットの上の光珠を示して絞り上げるように呟く。

「こいつらなぁ、欠片なんだ。あいつの」

 絵の中のまなくが色彩を取り戻せば、薄く灰色がかっていたノイズだらけの世界が輝きに満ち溢れる。ヒビが自らの光に修復され、跡形もない。今まで無音だった部屋に、交響曲が鳴り響く。

 どっしりとのしかかっていた空気が軽くなり、由宇樹は凍えていた顔を緩ませる。

「ビバルディの四季……『春』だ……!」

 描かれたまなくがヴァイオリンを奏で、いつの間にか由宇樹の眼前に現れ出でていた。彫像めいた美貌は赤みを帯び、息づく人間だと改めて認識させる。

「おらはちゃんと生きてっからぁ」

「けど、バラバラに散らばってる……オレが無茶したからっ……けど、みんなを助けたかったんだ……!」

 しわがれた響きは画魂の魂の傷の色。深い傷痕が爪弾かれ、由宇樹の魂を揺さぶる。誰かを助けるために、誰かを犠牲にしたのだ。それは画魂も由宇樹も同じ。

 不意に轟音が室内に満ちた。重く低いエンジン音が、由宇樹を揺さぶる。巨大な影が少年達を覆ってしまう。キャノピーがいくつかの四角い小窓に区分けされた、見覚えがあるような無いようなジェット機が、由宇樹達をすり抜けて飛び去って行く。

「なんだ? 今の」

「あれは幻だっ!」

 悲鳴のごとく、画魂が吼えた。由宇樹はイーゼルの前にうずくまり、床に小さな水溜まりを作る金赤メッシュの少年の背中に触れた。凄まじい罪悪感と後悔が、津波のごとく彼らへ迫ってくる。由宇樹は画魂を庇い、得体の知れない「それ」を睨んだ。「それ」はうねうねと蠢く、半透明の灰色の闇。

 由宇樹にならい、まなくも両腕をいっぱいに開き、たちはだかる。

「おめだけのせいでねぇ! おらは望んでこうなったんだ!」

 凛としたまなくの咆哮が、津波となって迫る闇を打ち消した。背中に感じた温もりが、由宇樹の躯を抱えて庇う。

「ちょっ……!」

 まなくならともかく、画魂に抱えられるのは即座に遠慮したい由宇樹である。やたらぎゅうぎゅうに締め付けられ、焦って由宇樹は暴れた。

「ちょっ、きもいべ」

 暴れるうちに、自分を拘束するのが画魂の腕ではないことに気づく。風船のように急激に膨らみ、ぎちぎちに由宇樹を圧迫する。

「なっ……なんだっつの!」

 暴れようにも、由宇樹が動ける空間が無い。押し潰される恐怖に、由宇樹は震えあがった。懸命に押し返すが、それ以上の圧力をもった何かが、呼吸もままならない由宇樹を捉えてガチガチに固まる。

「ぐっ……!」

 口も鼻も塞がれ、胸も押し潰されてゆく。声もあげられなくなり、由宇樹は目の前が暗くなるのを感じた。 脳内で、懐かしいが冷たさを帯びた声がする。

『俺はもっと……』

「……は、やとっ?」

 首に触れた手が恐ろしく冷たい。凍る手が喉を潰すのかと、由宇樹は覚悟してギュッと目を瞑った。が、手は触れただけで圧迫してこない。彼を押し潰そうとしていた圧力も、ふっと消える。

「え」

 何度か瞬くと、由宇樹は眼前には見慣れた模様が映った。明らかにお気に入りのブランケットで、少年は真っ赤に染まる。とっさに辺りへ視線を廻らせば、なんの変哲もない朝がきていた。

 手探りで探したメガネをかけ、身を起こした由宇樹が盛大にため息を吐く。足元の床から放り出され画魂の脚が、彼の胸に乗っかり圧迫している。再び息をつめた由宇樹は、無造作に画魂の脚を蹴落とした。画魂が「フガッ」と呻く。しかし目覚めることもなく、再び寝息をたてている。 

「しょーもねぇ夢」

 フっと笑み、由宇樹は容赦なく画魂を踏みつけた。画魂はいつものように「フガッ」と唸り、踏みつける痛みなどものともせず眠りこけている。足の指先で小突いても、深く寝入って動かない。

 うんざり顔の由宇樹はため息を吐き、髪をぐしゃぐしゃとかく。朧気ならともかく、かなりはっきりした悪夢だった。ベッドの横の机に置いたデジタル時計の液晶が、午前3時32分を示す。

「いつ寝たっけか」

 応えなどない、あったら怖い問いを発した口を押さえ、メガネをとった由宇樹は慌ててブランケットをかぶり直した。夜明けにはまだ早く、室内は闇に閉じられている。深く息を吸って吐いてをいくらも繰り返さないうちに、部屋主は再び眠りに落ちた。 静寂が闇の底を叩く。




 由宇樹の姉の部屋で眠っていたまなくは、翠の瞳を不意に見開いた。同時に画魂もカッと目を見開き、何事か唱える。壁に隔てられているまなくは、画魂と同時に瞬きした。

『まだ知らしては、なんね』

『んなの、分かってんよ』

 透き通る翠から、涙が一筋零れ落ちる。空が鳴った。高く響く金属音は魂を削る音。画魂はゆっくりと瞼を閉じた。

『やつぁ、今日明日にでも仕掛ける気だろ』

 嵐の予感に、画魂は身を震わせる。まなくが皮肉に笑む。

『おっかねのげ?』

『ばぁか。武者震いだっつの』

 今度はふわりと、まなくが咲く。

『おめの負けず嫌い、嫌いでね』

 咲いたまなくはことりと眠ってしまう。画魂も、本格的に二度寝することにした。

 夢の無い眠りを貪る由宇樹の家の遥か上空で、豪奢な台座に乗った胸像が金属音を立てて回転している。滑稽だが不気味なそれは、何者かへ空間を超えて伝えていた。

”今コソ…… ”

”今コソ仕掛ケヨ…… ””裂ケ目ト力ハ、我ラガ手ニ””我ラガ手ニアル”

 クルクルと回るそれは、地上をしばらく監視する。




 午前四時をだいぶ回った頃、市の中心部付近から松葉杖をついてゆっくりと歩いてくる男がいた。男は由宇樹の担任の川堀。由宇樹を気遣い、ランニングコースに彼の家の周辺を選び、毎朝毎晩回っていたのである。今は捻挫の養生中なので歩いてきたのだ。彼は立ち止まり、由宇樹宅上空を見上げる。スタチューは一瞬で雲間に隠れた。

「あれ?」

 首をひねり、川堀はまた歩き出す。彼の背に陽気な声がかかる。

「おはようございまぁす!」

「あなたもランニングですか? 斎藤先生」

「それもありますけど、あなたの追手でもありますよ。病院でナースさん達が大騒ぎしてます」

「あちゃー……見逃していただけませんか?」

「ません」

 水色のジャージを纏い腕組みで微笑む斎藤に、川堀はむっとした様子で目を眇める。しかしすぐに気を取り直して素直に彼女に従った。彼の惑いの理由を放置し、斎藤は意気揚々と田園の道を行く。

 スタチューは雲間から下界を睥睨し、凄惨な笑みを浮かべて見えた。白く大きな積乱雲に隠れ、凄まじい数の異形が虚空を歪めて次々現出してくる。




 貴雷カップリーグ戦中、他県から招待された各校の生徒達は、スタジアム近くのホテルに宿泊している。そのホテルも貴雷グループ系列で、徹底的なおもてなしがなされているのだ。

 既に太陽が強く照りつける朝、同じ県内北部に位置する花野辺南中学校の生徒達も、スタジアムに隣接した屋内練習場でのびのび試合前の調整――ピーキングをしている。彼らを応援する少女達が既に場内に集まっていて、やっと外出許可が下りた川堀に引率され、仲間達と陣中見舞いに来た由宇樹は呆れていた。きらきらした眼差しで見守る少女達の中に混じってまなくも斎藤もおり、ため息が出てしまう。珍しくワンピース姿の斎藤の胸元に、由宇樹は釘づけになった。

「うわっ……」

 紅いリボンはトラウマだと、以前に由宇樹は斎藤へ教えている。それを付けてこれ見よがしにするなど、カウンセラーとして言語道断のはずだ。少年は吐き気と怒りで立ち尽くす。

 由宇樹の視界が霞んでしまう。凍りつく由宇樹に気づき、まなくが斎藤を背に隠して目配せしてきた。

(ゆうちゃん、あんだは大丈夫だがら)

 すっと張りつめた何かが溶かされる。眼鏡の少年は、霞みゆく視界を戻そうとメガネを上げる。淡くミサンガの紫色の石が光った。輝きに照らされ、由宇樹の視界は急速に色と形を戻してゆく。

 安堵の息を吐く彼を松代が目ざとく見つけ、猪ばりに駆け寄ってきた。

「おっりさっくさぁ~んっ! 元気っすかぁ!」

「バリバリだ」

 妙に気安いライバル校の下級生を、彼より長身の織朔が片手で止めていなす。花野辺南のレギュラー勢が、その様に吹き出している。しかしまったくめげず、猪少年・松代は甘えるような上目使い。

「織朔さぁん、シュート練習しましょうよ」

「お前のためだ・けのシュート練習になっからやんだ」

「え~っ? ちゃんとやるっすからぁ」

「じゃあ、次回の布陣教えろや、コルァ」

 八巻が襟首を掴んで引っ張って由宇樹から剥がす。邪魔する彼へ、松代も応戦した。

「織朔さんと練習できるんなら、教えてやんぜ、タコ」

「タコじゃねえよ、猪が!」

 練習そっちのけで悪のりを始められ、由宇樹は双方のキャプテンを探す。遠くから騒ぎを見咎めた花野辺南のキャプテン・日日が、朗らかに告げてきた。

「松代は、スタジアム外周を十周くらいしたいのか?」

「うぃーっす!」

 まったく悪びれない松代に、日日が顔をしかめる。

「じゃ、青チャート一周」

「それはかんべんっすよぉっ!」

 数学の問題集マラソンはごめんだと、松代はようやく悪ふざけをやめた。しぶしぶ自チームのシュート練習に戻る彼に、由宇樹は深々とため息を吐く。八巻が皮肉な笑みで突っ込んできた。

「モテキじゃね?」

「あんなのにモテたくねーし、キメえっつんだ」

 モテるなら、まなくにモテたい由宇樹である。まなくはと言えば、勝手にマスコットに入っていたのをしこたま叱られたらしく、斎藤の監視下で妙にしおらしい態度で練習を眺めていた。画魂は見当たらず、由宇樹は何故か安堵する。

(今は危険でねぇってことかな)

 画魂が危険を連れて来る訳ではないが、彼が孕む緊張感は由宇樹の不安を呼ぶ。刺々しい雰囲気ではないのに、由宇樹には彼の存在が痛いのだ。その痛みの原因はまなくである。まなくを見るたび、焦燥に似た想いに駆られてしまう。

 そこまで考え、由宇樹はげんなりする。首を反らせて仰げば、大きな硝子窓を格子で区切った天井が映った。空は抜けるように青く、入道雲がたわんで立ち止まる。何かが、雲間を縫って現れそうで、由宇樹は視界を下げ、練習場内を改めて見回す。天窓から夏の陽光が眩く降りくるそこは、少年達が駆け回る健全な空間だ。(おれ、ここにいていいんだよな)

 何度も確かめてしまう。傍らに佇む影――迅音に、己の心の奥に。彼はただそこにいる。それが精神的にまずい状態だと、本で読んだことがあった。しかしそれで均衡をとっているなら気にするなと、斎藤が朗らかに笑って話してきたのを思い出す。

 由宇樹は奥歯を噛んだ。

(それも誰かに漏らしてんのか)

 まなくと何か話している斎藤に、由宇樹は目をすがめる。プイとまなくが素っ気なく離れ、メガネの少年は安堵した。

 天窓の彼方、練習場の上空を何かが舞う。画魂が駆る大鷲だ。相当な高度をとっているらしく、鷲の異様な大きさに練習場の皆は気づいていない。手をかざし見上げていると、鷲の翼がキラリ閃く。

 八巻らも由宇樹にならって広い天窓の向こうを見上げた。キラキラと空が光る。

「お! 花火か?」

「昼間に花火が見えるわけねーだろ」

 松代の本気かボケか分からぬ物言いに、八巻が突っ込み、由宇樹はうんうんと頷く。悪びれない松代が、ワクワクと見上げ続けた。しかし彼も他の少年達も、驚愕に顔を歪める。

「なんだよっ? あれっ!」

「また空からバケモンがぁぁっ!」

 凄まじい勢いで、画魂を乗せた大鷲が降ってきた。彼らを怯えさせているのは、巨大過ぎる鷲ではない。教師達と会議をしていた貴雷が、練習場のゲートから弾丸のごとく駆けてくる。

「お前ら、避難しろぉっ!」

 その怒声に弾かれ、日日達も皆、必死に駆け寄ってきた。キラキラした輝きはスタチューの火弾攻撃による爆発で、それを遮った大鷲の羽根が無惨に散ってくる。 まなくの元へ走り、由宇樹は彼女達を誘導した。

「スタジアムとの通路は頑丈だって! 早く!」

 スタジアム一帯の地下は頑丈なシェルター。防災拠点で倉庫も兼ねてあり、爆撃にも耐えると貴雷の父が豪語しているもの。

 生徒達は貴雷の指示に従い、整然と地下の防災壕に向かう。由宇樹もかなり冷静に皆を誘導にかかる。既に超常現象に慣れたのか、花野辺南中の生徒らもあまり騒がない。中には冷静どころか厨二病を患う面々がおり、戦う画魂へ声援を送っている者までいた。ダメ出しまでして猛る松代である。

「違うっ! 上空から狙い撃ちされてんなら、逆木の葉落としで、そいつの正面突破だっ!」

「避難しろっつってんだろ。バケモンはあの火焔土器頭の管轄だから、やつに任せしとけ」

「けどっ、あぁっ! やべえっ!」

「ヤバいのはお前!」

 まだ暴れる松代の襟首を掴み、由宇樹はどかどかと避難路を行く。サッカー少年達は当然ながら足が早く、スタジアムへ繋がる通路の遥か遠くの背中を見つけ、由宇樹は苦笑いした。先に避難誘導されたまなく達もとっくに見えない。やっと襟首を離され、松代は大きく深呼吸した。そして下から覗き見し、由宇樹に煙たがられる。

「なんだ?」

「シュートまでするキーパーって、やっぱ超やべえっすよ」

「シュートを許した守りがすっかすかの敵陣も、超ヤバいだろ」

「それは~っ!」

 県大会決勝での、二人の戦いの再現を地下通路で始めた松代に、由宇樹はしょっぱい顔を向けた。それでもエアドリブルが始まると、由宇樹ものってしまう。見えないボールを追ううちに、本気になってきた。松代が食い下がる。

「あんたやっぱ、マジでヤベえっすよ! まるで二人と戦ってるみてぇで」

 彼にも、他のメンバーにも言われる由宇樹への評価。彼自身も自覚する、幼なじみの守護が働いているような、尋常ならざるプレイスタイル。

「そうだ、一人じゃねぐ」

 迅音とともに戦っていると、いつも感じていた。しつこい松代にフェイントをかけ、身を沈めて左サイドへ抜ける。まるでいつかの誰かとの戦いと、錯覚しそうだ。

「抜けたぞ! はや……」

 言いかけてシュート体勢に入った由宇樹は、松代と彼の間に現れた、霞んで重なる像に驚愕した。それは由宇樹と同じジャージを着て、不満げに語る。

「お前がなんでこっちいんだよ……ここは俺の場所だ」

「……はや、と?」

 背筋から脳天へ、悪寒が一気に突き抜けた。自身が形作った幻の幼なじみが、リアルな熱と質量を持って由宇樹と対峙している。やはりあの絵から抜け出た、十四歳の迅音だ。震えを必死に抑えた由宇樹は、見つめてくる迅音へ向き直る。

「お前……誰だ?」

 由宇樹の問いに、迅音は心外そうに眉を八の字にした。

「だから、お前こそ誰だよ?」

 意外だと言う表情に、由宇樹は言葉を失う。

(これじゃ、まるで)

 まるで由宇樹こそが、幻であるかのようだ。戸惑う由宇樹に、さらに怪訝な表情をしていた迅音が睨み付けてくる。

「お前、奴の言ってた……」

 「奴」とは誰なのか――画魂が脳裡を掠め、由宇樹は混乱してきた。迅音は眉をしかめ、哀れむ声音で由宇樹へ話しかける。

「松代も困ってんぞ。お前、まだ迷って、そんな」

「違うっ!」

 異界の徒なのは迅音のほうではないか。なのに何故、さも彼のほうが生きているふうな態度なのか。由宇樹は頭の左側を押さえた。高い音階の耳鳴りがし、視界が灰色に荒み歪んでゆくから。

 転がるボールを拾った松代が、黙って由宇樹を見つめる。松代が口を開きかけたのと同時に、少女達の悲鳴があがった。慌てて松代が防災壕の出入口へ走る。彼は走り去りながら、由宇樹達へ先を示した。

「早くっ!」

 松代が差した先で、怪しい物の怪達が仲間達を脅かしている。息を鎮め、メガネを上げた由宇樹が綴った。

「あれ、百鬼夜行ひゃっきやぎょうだ」

 鳥山石燕とりやませきえんの「画図百鬼夜行がとひゃっきやぎょう」の妖怪らが脅かしているのだが、何かしら勝手が違うよう。突っ込んで行くはずの松代が、それをフェイクにして真後ろへ飛びのき、口を開けた牛鬼を転けさせた。日日も妖怪達へ説教をかまし、整然と並ばせる。

「異様なコスプレをしてるけど、避難訓練は真面目に受けたほうがいいぞ」

 傍で物の怪らと戦っていた貴雷達が、ガクガクと床にへたりこむ。

「いや、避難訓練じゃねーし、日日ちゃんんっ!」

「呼び捨てでいい」

 いろいろ突っ込みたいが、妖怪が毒気を抜かれている今がチャンスだ。そろりとまなくの傍らへ滑りこみ、由宇樹は画魂を呼ぶよう囁く。かの美少女は毅然と仲間達を庇い、にっこりと頷いた。

「んだな。早ぐあばいん、火焔土器頭ぁっ!」

 まなくの召喚より少し早く、画魂が大鷲ごといろいろすり抜けて、通路へ突っ込んできた。突風に皆が悲鳴をあげる。

「ゴルァァッ! 危ねえべ!」

 髪をめちゃくちゃに巻き上げられ、まなくが怒鳴った。画魂はどこ吹く風でマントを翻し、妖怪どもを根こそぎ吸い込んでゆく。身を屈めて見ていた施設管理のおば様方が呆れる。

「あらぁ、便利な掃除機だっちゃ」

 鷲とともに派手に傾いだが、なんとか体勢を立て直し、画魂は妖怪を余さずマントへ吸い込む。開いた両のてのひらに、また大量の光珠が集まっていく。何もかもが勢いよく吸い込まれていき、迅音の偽者も見当たらなくなる。だから、由宇樹は密かに息を吐いた。

(あんなニセもん……最低だ。迅音を侮辱すんな)

 明らかな偽者で揺さぶりをかけてくるなど、卑劣極まりない。由宇樹などへは威張る分、迅音は毎日の努力を怠らなかった。誇り高きプレイヤーである幼なじみが、あんな惨めな主張をするはずもなく。

(本物なら、ポジション、さっさと奪ってっし)

 手をこまねいているなど、迅音のはの字も無い。不意に鼓膜を打つ音楽は、まなくが空間で奏でる「剣の舞」だ。斎藤らの教師も女生徒達も聞き入っている。松代が遠慮なく、光の鉄琴を大胆に叩くまなくへ声をかける。

「あんたすんげぇ上手いっすね」

「ありがどな」

「俺、木琴とか練習しても全然ヘタだったから、羨ましいなぁ」

 まなくは少し眉根を寄せ、きっぱりと応えた。

「あんだ、練習できっからいいべ。おらはあんだ達のがけなりぃ」

「けなり?」

「羨ましいっつーこと」

 皮肉に笑み、由宇樹が突っ込む。少年は無意識に足で床を叩いて聞き入りながら、何かが過るのを感じる。

(なんだ? この並び……なんか覚えあんだけど)

 結局捕まえられなくて、由宇樹は肩を落とした。そして自分を見る監督と仲間達の視線に気づき、メガネを上げた少年は彼らの元へ急ぐ。

 妖怪らはすべて光のマントへ吸収され、騒ぎは収まる。一仕事終え、鷲からひらりと降りた画魂の元へ、少年達が先を争って集まり、彼を胴上げした。平然と胴上げされる彼を陽射しを見るように手をかざし、由宇樹は感嘆の息を吐く。鮮やかな手際はいつも心地よい。松葉杖などとっくに使わぬ川堀が拍手していた。

 画魂を降ろした大鷲は通路いっぱいに翼を拡げ、空間を奏でるまなくへ合図を送る。頷いたまなくは光の扉を開き、鷲と光の塊をその向こう側へ送った。しつこい胴上げから降ろされ、画魂は皆へ告げる。

「ちょい邪魔入ったけど、練習は続けられっから」

「ありがとな」

 金赤頭の画魂と、似たようなナチュラル金髪の貴雷が笑顔で握手した。何故か互いの手を握り潰し合おうとし、川堀と日日に止められる。松代がぼやく。

「かっこいいのに、何やってんすかねぇ」

「二人とも同レベルのバカなんだろ」

 張り合う理由が分からぬようで分かったてしまい、由宇樹は脱力気味だ。やっと手を離し、まだ画魂も貴雷も不敵な笑みを浮かべている。 

 彼らをスルーし、日日が号令をかけた。

「皆、練習場へ戻ってピーキングし直そう」

「うぃーっす!」

 首を廻らし、貴雷も吼える。

「カーボローディング、パスタ大盛りもだっ!」

「おうっ!」

 サッカー少年達は一斉に応え、雄叫びをあげて元来た通路を駆け戻って行く。まなく達女子陣も、軽やかに走り去った。

「貴雷くんのホテルのっ! パスタっ! 大盛りっ!」

「食べ放題っ! 無料っ!」

 少女達の貪欲さに引き、ゆっくり歩く由宇樹が何か気になって振り向く。視線の先の日日は画魂と貴雷へ向き直り、冷徹にのたまっていた。

「貴雷、そこの火焔土器頭も、スタジアム外周を三周したら?」

「ちょっ! なんでだよっ?」

「オレはそもそも関係ねえべ!」

「ケンカしてる暇があったら、勉強か練習してたらいいよ。そうだ、東大過去問三周のが」

「リアルランニングしてきまっす!」

 イケメンな笑顔だが聞く耳を持たない日日に、派手派手しい少年達がげんなりとこうべを垂れ、真面目に外周を目指して駆けて行く。危うく吹き出しかけた由宇樹は、必死に口許を押さえてその場から走り去った。目の据わった日日に問題集ランニングを命令されそうで、メガネの少年は慌てて練習場へ逃げ込んだのである。日日は小首を傾げたが、口許を押さえて由宇樹に続いて行った。川堀は忘れ物や残った人がいないか辺りを見回してから、練習場へ歩いてゆく。

 少年達や川堀が去った後、スタチューが歪んだ空間で明滅していた。通路の奥から斎藤がひょいと顔を出す。笑みを貼りつけた彼女は、ゆっくりとホテルのほうへ向かう。漆黒の重量ある闇が、彼女にひきずられて行く。




 午前中に予定されていた花野辺南の緒戦も、午後の他県同士の試合も滞りなく終わり、順調にスケジュールは消化されてゆく。圧倒的な強さで勝ち進む日日達に、由宇樹らは惜しみない拍手を送る。

 控室前の通路で、貴雷が日日へ握手を求めた。

「オレ達は、今度はぜってーに負けねえから、決勝までせいぜいがんばってくれたまえ」

「決勝もまた、君達に勝つよ。君達こそ、全国の強豪に負けないでくれ」

 爽やかな笑顔で握手を受け、日日は獰猛な瞳の貴雷をしなやかにいなす。鼻を鳴らし、貴雷は笑うが目が笑っていない。端で見ていた由宇樹らは、花野辺南の少年達と睨み合い、同様に口許を歪めた。

「首を洗って待っててくれる?」

「それ、こっちのセリフだし」

 軽い口調ながら一触即発の空気を放ち、少年達はさっと離れる。好敵手と認める者同士、決して馴れ合いはしない。松代から繰り出されたチョキハイタッチをグーで受け、由宇樹は皮肉に口角を上げる。

「次、必ずおれらが勝つから」

「やだなぁ、返り討ちっすよ!」

 まだ睨み合う負けず嫌いな少年達を、苦笑いの川堀が割って入って止めた。 とりあえず解散となり、陣中見舞いに付き合ってくれた女生徒達が、きゃわきゃわと騒々しく外へ急ぐ。由宇樹がメガネを上げて誰にとなく尋ねる。

「どこさ行くんだ?」

「合宿所んなってるとこで、格安スイーツ食べ放題だどや」

 強面なのにスイーツ番長な八巻が、自分もウキウキしながら早足で応えて由宇樹を追い越して行った。以前、スタジアム隣のホテルのスイーツフェアのチラシを、姉のゆりあとまなくがチェックしていたのが蘇る。

「太る太る言って、バクバクケーキとか食うんだから」

 由宇樹が皮肉る傍らを、他のメンバーもそそくさと追い越していく。あの貴雷までが早足なので、由宇樹はがっくりと首を垂れてしまう。自分も浮かれているのを突っ込み、メガネを上げた少年は仲間達と同じ目的地に足を向けた。



 膨らむ腹を抱え、甘くせりあがる胃の内容物と戦い、由宇樹は豪華絢爛なホテルを出て、その横にある公園内を散歩する。殺気すら覚える陽射しを、万緑の街路樹が遮ってくれる小道を行くのが由宇樹の密やかなる楽しみなのだ。蒸した空気の中でも、木々の狭間を渡る風が心地よい。

 目当てのベンチに腰を掛けてみれば、その脇の木陰から、画魂がうんざり顔で豪華すぎる合宿所=オテル・ドゥ・セオリツを遠目に見ていた。由宇樹はわざとらしい笑みを浮かべ、画魂へ尋ねてみる。

「何した?」

「まなくがよ、ホテルの絵の蘊蓄がうぜぇから、早く帰れってぬかしてよぉ……」

 多数の芸術品をふんだんに飾ったホテルは、画魂にとってテーマパークと同値の存在だと言う。しかし興奮するあまり、山ほど蘊蓄を垂れまくってしまったのだ。だからまなくによって、貴雷学院女子会貸切の小部屋から蹴り出されたのだそうで。

 愚痴られた由宇樹は、ますます皮肉に笑う。

「女王様にハウスされたんじゃん、画魂きゅん」

「がうっ!」

 画魂が飛びかかって噛みつく真似をした。相棒離れできてない彼を、由宇樹はせせら笑って逃げた。

「そういや、お前、全然疲れねぇのな」

 絵画を一枚実体化するだけで、原子力発電所ひとつ分のエネルギーが必要だと散々聞かされている。なのに画魂がくたびれた様子はいつも無いのだ。公園の茂みを掠め、ふざけて飛び回っていた画魂はつんのめる。しかし長い手足を振って体勢を整え、危うく激突しかけたアーチに巻きつくオレンジ色の花々を見つめて呟く。

「そらおめえ、星とぉ……まなくのおかげだ」

「まなくちゃんの?」

 強い陽射しが蝉の鳴き声とともに降る。木陰に避難した由宇樹に背を向け、画魂はそっとオレンジ色の花に触れた。花は微かに震え、きらきらと光の粒を散らす。蔓や葉も輝き、今にも歌い出しそうに由宇樹には思えた。

「まなくちゃんが奏でるの、あれはなんか……植物とか無機物とかから、なんかもらってる感じ……」

 公園の花々が風にそよぐ。木も草も頷いているようで、由宇樹はむずがゆくなった。首を廻らし、画魂が妙に和やかな顔で応える。

「そう。おめえが思ったとおりだ。木とか建物とか、空気とか太陽とか、森羅万象とか、空間そのものからもらって、オレへ供給してくれてんよ」

「光とか風とか、太陽光や風力発電とかあっからわかっけど、空間?」

 もっともな由宇樹の疑問に、画魂は天を仰いだりうつむいたり、じたばたしながら説明した。

「宇宙を動かすエネルギーがあっだろ? 惑星の自転とか公転とか、重力とか、ぶっちゃけ星を創るエネルギーとか、それ!」

「わがんね」

「えーと、あれだ、ビッグバンってあっだろ。あれ!」

「あれっつわれても……」

 話が異次元過ぎて、なんだかよくわからない。けれど、あのとてつもない超常現象を苦もなく引き起こすエネルギー源となると、彼の説明が妥当と納得する他はない。しかしまだ、由宇樹の心には深く入って来ないのだ。

 ボールをさらりと虚空に描いた画魂がリフティングを始め、自分に言い聞かせるように呟く。

「宇宙とか、人が生まれる力っつったら、いいんかな……つか、人を思う魂の力」

「……魂の力……」

 画魂が蹴り上げたボールをなんなくトラップし、由宇樹はボールを抱える。

「公園は球技禁止だべ」

「あ、そうだった」

 どこか抜けた画魂へ、ボールを返して由宇樹は息を吐いた。

「んで、まなくちゃんってさ、どんな修行したら、あんな超絶ヤバい力発揮できんの? 演奏の腕もめっちゃヤバいし」

 ボールを雲散させ、画魂は誇らしげに笑む。

「あいつぁな、二歳ん時にピアノで空間鳴らして、クリスマスケーキ呼び出した大天才様なんだぜ」

「ずいぶん食いしん坊な天才様だな」

 由宇樹は呆れてしまう。非常識ながら偉大な力は、欲望の賜物なのかと。画魂とまなくが幼なじみらしいのも、由宇樹をへこませる。空気を読まない画魂は誇らしげに笑み、由宇樹の肩を叩いた。

「単なる食欲じゃねえんだよ。たまたまテレビに映った、飢えた子供らのためにそれ紡ぎ出して、その場へ送ったんだ」

「……マジかよ! ライブで?」

 またも画魂は心底から嬉しそうに頷く。

「まなくの力はライブな。けど、その子供らの映像って、貧困とかの大昔の記録映画だったんだ。画面にケーキが現れて、映画の中でめっちゃ騒ぎになって、その記録が残っちまったんだ」

「それって、過去を変えたってこと?」

 笑っていた画魂は、急に苦い表情になって嘆息した。興奮し、それを察知できない由宇樹はまたあの疑問を口にする。

「過去を変えられるんなら、変えてくれたらなって。お前、怪我してたからって言ってたけど、まなくちゃんがやってくれても……」

 突風が、言い募る由宇樹を遮るごとく吹く。気づくと画魂は踵を返し、離れて行った。突然背を向けた画魂に、由宇樹は顔をしかめる。だが、握りしめられた拳が震えているのを見て取り、由宇樹は言葉を失う。画魂は振り向かず、低く絞り出した。

「……あいつだって、そうしたかったさ」

 そう語る画魂の背中に、ざっくりと開いた傷口が見えた気がする。灰色の目の画魂が由宇樹を見据えた。

「お前の生命力食ってたやつも、お前のおかげで疲れなかった。けど、今はお前からは食えなくなって焦ってる。他にも食える餌あって、そっちも本格的に使って、またお前を食おうと攻撃してくっだろうから、気ぃつけろ」

 やさぐれて、それでも由宇樹を気遣う彼に、少年の胸が痛む。何かに弾かれたように、画魂はマントを閃かせて由宇樹の前から駆け去って行った。

「なんなんだよ……っ!」

 世界を裏返すほどの者を、ああまで傷つけたものは一体何なのか、由宇樹には計り知れない。RPGの主人公と見紛う彼らでも、世界の制約を破れないのかと、憤慨に似た哀しみが沸き起こる。

 由宇樹は、綺麗に整備された地面を蹴りつけた。セピアの表面が抉れ、焦げ茶の土が顔を出す。画魂が、哀しみを語ってくれないのが、哀しい。肌を焼く暑さが、蝉の声を刻みつけようとする。ニセの迅音の声が重なった。

『お前、なんでこっちいんだよ……』 

「迅音は、んなこた言わねえっつの!」

 一瞬、蝉が沈黙する。空白の孤独は、すぐさま蝉の鳴き声で埋まった。

 汗とも涙ともつかない水滴を払い、由宇樹はホテル方面を見やる。隣の薔薇園から、誰かに見られている気がしたのだ。メガネを上げて凝視すれば、視線を感じた数メートル先の茂みの狭間に、毒々しい紅のリボンが付いたワンピースを纏う、奇妙な笑顔の斎藤がいる。笑いを貼り付け、由宇樹を見つめる彼女の瞳がぼやけた空洞に思えた。空洞から彼女が語りかけてくる。

『過去を変えてもいいのよ。なぜ画魂くんは、あなたのために変えてくれないのかな?』

 しわがれた響きをだぶらせ、赤い唇の斎藤が綴った。

『画魂くん達は、過去を変える気なんてない。ただ、あなたを慰めにいるだけ……この世に執着して彷徨うあなたを、いるべき場所へ向かわせるために……』

「おれは生きている! この世さ、ずっといっちゃ!」

 肺まで焼けるような暑い大気の底なのに、由宇樹の躯は氷点下に凍てつく。先ほどの迅音の幻と、同じことを斎藤が告げてくる。

 気味が悪く信じられなくて、何度か瞬いて見直すと、万緑に紅の花をちりばめた塀の狭間には斎藤などいない。彼女がいた辺りへ由宇樹は慌てて走り寄ったが、瞬間移動したように消えている。画魂ならともかく、斎藤は普通の人間のはず。メガネを上げて少年はひとりごちた。

「んな早く、歩けっかよ。ますますバケモンじゃん。バケモンが人をバケモン呼ばわりかよ」

 由宇樹が毒づいていれば、目の端に小バエが金属音をたてて飛ぶ。そちらを睨むと、何かの名残が透明に波立つ。空間の歪みは、「スタチュー」に似ていた。 由宇樹は吐き気を催し、口許を押さえて耐える。

「あいつ……やっぱ犯人じゃ……」

 じーわじーわと蝉が鳴く。暑さに煮え立つ空気をかき分け、由宇樹が走り去った。彼がいた空間に、淀んだ泡がごぼりと現れて飛び散る。

『そこ、俺の場所だ』

 聞く者のいない訴えが木霊していた。ごぼりと、大地から這い上がった闇が豪奢なホテルの一角を覆う。遠く鳥が鳴く。

 誰もいない緑の芝生に、まなくが持っているはずの付喪神付きのスマホが、何故か転がっている。それは弱弱しく警報を響かせていた。




 すっかり暗い空の星に見下ろされ、織朔家の裏手にある屋敷林がざわめく。まなくがよく奏でるその林は、彼女と繋がっているせいか、光の粒を放ち纏う「芸」を覚えている。さやさやと梢が鳴り、蛍火のような光が流れ、縁側でぼーっとする由宇樹に纏いつく。由宇樹はされるままに、飽かずマヨイガを見つめる。

(画魂、なーに閉じこもってんだよ)

 スタジアムから帰って来てからずっと、由宇樹は画魂と顔を合わせていない。たまたま今日は早く帰れた母に聞いたら、マヨイガに入ったまま出てこないとのこと。その後、姉や父が帰って来る時間となっても出てこなかった。ご機嫌で戻ってきたまなくも、「ほっとがいん」と静観を決め込む。

 風呂から上がってきた母が、庭を気にする由宇樹へ声を潜めて話しかけてきた。

「ゆうちゃん、わかってた? あんだの絵、ちゃんとしまっといたがんな。本棚の上さ」

「絵って……」

 母の意図に気づき、由宇樹は青ざめて二階へ駆け上がる。スライドさせた本棚の下段に足をかけ、天井とのはざまの空間を見た。そこに、油紙で包まれた例の筒がある。慌てておろし中を覗くが、そこには何も無い。あの真っ黒に塗りつぶした絵はあの日、母によって回収され、普段は見えぬ場所に大切に保管されていたのだと、いまさら知る。失われたまま、既に何者かに奪われていたことも。甲高い金属音が、また由宇樹の鼓膜を揺るがす。

(いつ、とられたんだ?)

 虚無への自問に、何かがうっすらと浮かぶ。数多のスタチューの群れに攻撃されたあの夜のことが、唐突に蘇ってきた。

(あの走ってた奴が、まさか

) それが先ほどの斎藤と重なる。ふらふらと部屋を出て、由宇樹は重い足取りで縁側へ行く。おもむろに体育座りをして、じぃっと再びマヨイガを見つめた。

(聞きてえこと、あんだよ、画魂!)

 とにかくいろいろ問いただしたい。忌まわしき存在と確信した斎藤から、ずっと以前に手渡された本に、過去を意識の中でだけでも変えたら、精神的に良いという趣旨の理論があった。

(お前やまなくちゃんが、過去を変えたら……何万人も助かんだぞ。んで、斎藤の陰謀だって防げるし)

 何万人と、それの数倍、数十倍の人々の魂が救われるはず。由宇樹の視界が滲む。どうしても、納得いかない。いく訳がない。鈴虫が沈黙する。 滲む視界にゆらり、紅が飛ぶ。あまりに鮮烈で、由宇樹は目を剥いて見上げた。そこではまなくが、心配そうに覗きこんでいる。揺れる翠に、由宇樹はごくりと唾を飲んだ。まなくはにっこり笑う。

「何したのっしゃ?」

「えっ、あっ……まなくちゃんって、ちっちぇ頃から凄いんだってなぁ」「えっ?」

 目にかかる髪をかきあげるふりで、水滴を払い微笑み返した。

「過去を実際に変えられたんだって、あの火焔土器野郎から聞いたよ」

 マヨイガを指差し、由宇樹はまなくをすがるように見つめる。固まったまなくは、表情を曇らせた。由宇樹は焦る。

「ごめっ! なんか禁句だった?」

「ほだごどねぇけど……いきなりたまげた。なじょして知ってんだぁ?」

 隣で体育座りしたまなくは、膝に顎を載せておどけてみせた。さらりと、良い香りが鼻腔をくすぐる。艶やかな髪を彩る香りを、鼻をひくつかせた由宇樹が無意識に追う。それを自覚し、由宇樹は頭を抱えた。抱えて、まだひくつかせ、眉をしかめる。 無遠慮を恥じる彼へ慈愛の笑みを向け、まなくは眼差しをマヨイガへ移す。

「画魂ぅ、なぁにこもってんだべ……まぁた、いんぴんかたりかぁ」

「……おれのせいなんだ」

「なして?」

 家族をはばかり、ぼそぼそと由宇樹は経緯をまなくへ紡ぐ。過去を変えられれば、たくさんの魂が救われると切々と。聞くうちに眉尻をだんだんと下げ、まなくは困ったように膝を抱え込んだ。まなくを見ずにいた由宇樹は、彼女へ視線をやってびくりと跳ねる。

「できたら……」

 以降、由宇樹は何も言えなくなった。きらきらと雫が散った。それはたぶん、まなくが散らした涙で。おろおろとした由宇樹はあちこち見、低く唱える。

「まなくちゃんてすごいよ。あのイノシシ……松代まで軽くいなして、音楽とかいっつも優しい風とか水みてだし」

「……ありがとなぁ」

 儚く笑うまなくに、由宇樹は胸が痛むのを感じる。

「無理言って、ごめん……」

 ふるふるとかぶりを振るまなくに、由宇樹の心臓は跳ねっぱなしだ。哀しみを湛え、膝を抱える姿が逆に神々しくて言葉にできない。彼女に宿る不思議で偉大な力を、おいそれと使わせてはいけないのだろう。

 蛍火に誘われ、由宇樹は闇に視線を移した。マヨイガは、静寂に浸っている。沈思黙考めいた佇まいに、由宇樹がため息を吐いて立ち上がった。まなくの代わりに母が聞く。

「ガオってんのげ?」

「寝る。ガオってねーし」

「疲れたって意味のほうだ」

「ああ、そいづ」

 ぶっきらぼうに応え、由宇樹はのしのしと自室へ向かう。途中、ラックの簡易仏壇の迅音と紗由理の写真に会釈するのを忘れはしない。目の端にちらつく紅に、長身だが細マッチョな少年は苛立っている。

(先生、なんであんなのつけて……)

 斎藤がつけていた紅いリボンが、由宇樹の心に爪を立てていた。彼には、紗由理があの日付けていたそれが、鮮明に突き刺さっている。以来、心がざわつくからその色のリボンは遠ざけているのだ。

(あいつ、相談で知ってんのにな)

 やはり敵だと、階段を登りながら由宇樹は確信を深める。段を上がるたび、木が軋む音が頷くようだ。




 由宇樹が去って後、風呂から上がった姉が居間に現れ、縁側のまなくへ声をかける。

「まなくちゃん、遠慮なくシャンプーとか使ってな」

「はい、使わしてけで、ありがとござりす。先におやすみなさい」

 笑顔のまなくが立ち上がり、由宇樹の姉の傍らをすり抜けた。彼女は眉を段違いにし、まなくの後ろ姿を目で追う。

「その匂いって……」

 言いかけ、彼女は気のせいかとやり過ごす。

 背を向けたまなくの手首の紅に、由宇樹の母も眉をひそめた。けれどそれは小さな紅いリボンで、細く白い腕の手首のミサンガにちょこんと巻きついているだけ。見送って、彼女達は息を吐く。

「まなくちゃんも、紅いリボン好きでねってゆってたんだけど」

「シャンプーも、なんで男もんみでな、妙な匂いすんのがや」

「男もんのシャンプーなんか、うっつぁねぇべした……プールとか入って、よその使ったのがや?」

 虫達の声が急に戻り、ゆりあは無造作にリモコンを取って、皆に無断でチャンネルを変える。母と父がチャンネル権を主張し、由宇樹やまなくについての違和感はうやむやになった。

 イグネの木々が急速に立ち枯れてゆく。いくつかの翠の光珠が、虚しく砕け散っていった。歪んだ斎藤の姿が木々の梢に浮かんで消える。黒々と漆黒が、イグネごと由宇樹の家を覆い尽くす。ブゥ……ンと、丸っこい形の発電機が低く唸った。呻き声のように、それは大地に沈み澱む。 




 灯りを消してヘッドフォンを耳にかけ、ベッドのブランケットの上に横たわり、由宇樹はひたすら闇に見入っていた。Tシャツと姉譲りのハーフパンツ姿だが、彼が決めているパジャマ用のそれではない。着替えるのも、ブランケットをめくって入るのも、なにもかもが億劫なのだ。ヘッドフォンは遮音のため。目を瞑っても闇に紅が踊り、由宇樹は焦げ付いた闇に引っ掻かれている気がする。

(あいつら……わがんね……)

 時間をも超える異次元の力を持っていたら、あらゆる災害そのものを無くし、人々を救いたいと思わないのか。それは宝の持ち腐れだろう――由宇樹は闇に目を凝らし、心で画魂とまなくを責めてしまう。しかし責めれば責めるほど、何故か脳裡を掠める迅音も紗由理も、どんどん表情を曇らせるのだ。

 両腕を広げ、由宇樹は大欠伸する。

 音も無く扉が開けられ、由宇樹は震え固まった。動悸が激し過ぎて、やって来た異界の者に聞こえてしまうと、由宇樹は必死に落ち着こうとする。

「りっ、理想気体の状態方程式はっ……わがんねっ!」

 焦り過ぎて訳が分からない。迅音や紗由理の幽霊なら、と開き直っていたのは、やはり自分に対する虚勢だったと理解する。怖いは怖いのだ。

「おばんでがすぅ」

「……! まなくちゃんっ?」

 暗がりに頭に拳をあて、舌を出したまなくの姿が浮かぶ。

「おっかねがったすか?」

「ああ、おっかねがった……」

 あざといほどに可愛らしいポーズのまなくに、由宇樹は脱力する。彼女はするりと部屋に入り、由宇樹のベッドの脇にぺたりと座り込んだ。さっきとは別の意味で、由宇樹の動悸が激しくなる。

(うわ、なんかやべえ)

 萌え系と呼ばれる漫画やアニメの、ありがちな状況に激しく酷似していた。が、姉のお下がりの見慣れたパジャマに、気分はかなり覚めている。それでも、可憐なまなくに暗がりで至近距離なのだから、心臓が浮き上がりそうなのは仕方がない。にじり寄って来たまなくに、由宇樹の浮いた心臓は口から出そうになる。甘い色の唇が、甘く綴る。

「すけてけろ」

「な、なにを助ければいい?」

 白いまなくの右手が、由宇樹の手にそっと重ねられた。

「あんだの力でおらばすけて、過去ば変えっぺ」

 天上からの祝祭のファンファーレが鳴り響いた気がして、由宇樹は息を飲む。まなくは彼の手を握り、真摯な翠の瞳で訴えた。

「すけてけたらぁ、画魂に内緒でやってみっぺ」

「はいっ! がんばるっ、がんばりますっ!」

 あたふたと身を起こして華奢な手をとり、由宇樹はぶんぶんと上下させる。固まるまなくに気づき、由宇樹は払うように手を放した。汗ばんだ手を振り、「ごめん」と何度も頭を下げる。まなくは滲むように笑い、由宇樹をなだめた。

「いーでばぁ」

「けど、お詫びしねば」

「んだから、すけてければいい」

 するり、まなくの白い腕が由宇樹の胸元へ伸びる。近づくまなくの息遣いに、由宇樹は飛びつきたくなった。甘やかなまなくの体臭が、誘っている。けれど。

(あれ? なんかきつっ)

 いつもいつもまなくは、由宇樹を優しく安堵させる匂いを放つ。決して渋みを秘めた、危険な大人の香りではない。雲に隠れていた月が、ふわりと室内を光で満たす。照らされた少女を見て、由宇樹は瞬きを繰り返した。まなくが不思議そうな表情で見つめる。

「なじょしたの?」

 手を握りしめてくる彼女の手首を見やり、由宇樹は悲鳴を飲み込んだ。ミサンガの紅いリボンが怖いのではない。まなくの手首から、血の筋が幾条も彼女の白い腕に走って行くからだ。

「ひいっ」

 ついに悲鳴をあげ、由宇樹は紅くひび割れたような白い腕を振り払う。紅い目のまなくが振り払われた手を、なおも伸ばしてきた。紅い涙を幾重にも流して。

「ゆう……ちゃん……助けて」

「紗由理っ!」

 紅いひびが白い首筋にも、端正な顔にも縦横に走る。まなくと紗由理がダブった。だが由宇樹は、そんな状態の紗由理を知らない。見せてもらってはいないのだ。

 その当時、遺体安置所となった体育館の戸口から、棺にとりすがって泣き咽ぶ紗由理の母親と、こらえてその背を撫で続ける父親の背中を見ていただけである。だから、由宇樹は拳を握りしめた。

「紗由理はっ、たぶんそんなんじゃねぇっ! 紗由理ん友達もっ知らねえ子らもみんなっ! 眠ってるみてだったって、おんつぁん言ってた!」

 紗由理の父――由宇樹の叔父は努めて明るく振る舞い、遺体の様子を聞きたいと食い下がる由宇樹へ、「眠ってるみでだった」と優しく応えてくれたのだ。だから亡骸の本当の状態は知らない。けれど、紗由理の父親の言葉が真実だと由宇樹は信じている。 

「いねくなった人らば、侮辱すんなっ! ほでなすがっ!」

 心底からの怒りが由宇樹の深淵から込み上げてくる。手探りでメガネを取ってかけ、由宇樹は怪物を睨んだ。まなくを象っていたものが彼を歪に嘲笑う。歪んだ像の背後から蜘蛛の巣状に紅いリボンが拡がり、一気に由宇樹へ襲いかかってきた。由宇樹は枕や時計を投げ、ベッドから飛びすさって逃れる。由宇樹がいた場所が、紅く灼ける匂いがした。

「塩酸か?」

「んな生易しいもんじゃねえぞ」

 画魂の声が天から降る。けたたましく笑い、全身を紅くひび割れさせたものが、翼を開くように幾本もの刃を象った触手足を繰り出す。ひび割れたものがめろりと裏返り、おぞましい本体が現れる。屋根を見透かして空中に浮かんだ画魂は、画刃を肩に担いでつまらなそうに鼻を鳴らす。

「蜘蛛妖怪の出来損ないかよ。しかもまだ幼性じゃん」

 画魂は手にした画刃ごと、数多の触手を蠢かす怪物本体へ落下した。脳天から串刺しにされ、まなくに化けていた怪物は、断末魔の悲鳴をあげてかき消される。雲散した霧を払い、画魂がひらりと着地した。床に伏していた由宇樹へ、画魂が手を差しのべて起こしてやる。助け起こされ、部屋主は首を傾げた。

(画魂が手を貸すとか、珍しい……焦ってんのか?)

 苦々しげに、画魂は怪物がいた場所を睨んで話す。

「まなくに入れ替わってやがった……オレが気づかねえ訳、ねえのに」

「おれですら、匂いで変だって思って……」

 颯爽とした画魂から、由宇樹は後退りする。先ほどかいだ危険な香りが、画魂からも漂ってきたのだ。弾かれたごとく、由宇樹は駆け出す。しかし数瞬遅く、少年は白い闇に絡めとられた。それは画魂の白い光のマントに擬態した、蜘蛛の巣状の紅いリボンである。ぎりぎりと締め上げられ、由宇樹は唇を噛む。

(だいたい画魂は、絵画にこめられた魂で戦ってんだ。例外はスタチュー、相手んとき……だけ……)

 ぎりぎりと紅いリボンが由宇樹を締め付け、繭のごとく封じ込めてゆく。必死に画魂を騙る偽者を睨んでいた由宇樹だが、怪物の放つ匂いに気が遠のいた。醜悪な甘さに絡めとられ、蝕まれている。

 由宇樹が完全に紅い繭となり、宙を漂う。ゆらゆらと繭は上昇し、天井にぽっかりと開いた裂け目へ吸い込まれる。

『……画魂!』




 由宇樹の悲鳴に、画魂の瞳がカッと見開かれた。眼球の無い空洞の中に、赫赫と焔が燃える。

「由宇樹ィ……まなくもっ……ぜってー助けっからなぁ!」

 画魂はとっくに、まなくが囚われた「砦」の中枢に至っていた。だが、狡猾な「敵」は彼を雑作もなく捉え、幾重にも紅いリボンで縛って、じわじわと焼き溶かそうとしていく。四方八方から伸びてきて侵蝕するリボンは、広大な闇の底の深淵から画魂を虚空に蹂躙してびくともしない。地獄絵図の業火が、囚われたときからずっと彼を焼き続けている。しかしそれでも画魂はもがき、界筆をふるってリボンを蹴散らし暴れているのだ。どこかに囚われたまなくのか細い声が、画魂の魂へ呼びかける。

『……画魂……おらは大丈夫だがらぁ……ゆうちゃんのほ、すけてけらいん』

 リボンがジリジリと表皮を灼きつつ、締め上げる強さを増して皮膚を裂く。ぶつりと脚や腕の筋肉がちぎれる音が鳴った。ますます傷を深められながらも、画魂は不敵に笑う。

「お前を助けねえと、由宇樹を助けんのもあれなんだけどよ」

 赫赫と焔が燃え上がる。ジリジリと、肉が酸と業火によって溶かされる痛みが、画魂を強く縛った。だが彼はそれすら嘲笑う。

「そんなんが痛むかよ」

 何かが舌打ちした。同時におろおろする気配もある。気配は複数だ。紅いリボンから火花が散り、全身に痛みが走る。マントは首にかかった残骸だけ。

「だーかーら、酸も電気も火もへじゃねえって……理不尽に殺されてく人ら、黙って見てなくてねぇのに比べたらよ……」

 見殺しにする痛みに比べれば些細な苦痛だと、画魂は牙を剥いて獰猛に笑う。「敵」が苛立ち、さらなる呵責を画魂に与える。締め付けるリボンより紅い血が、ぼたぼたと腿や二の腕、胴体から流れ落ち、その拘束する闇を伝ってゆく。業火が刃と化して、囚われの少年を幾度も斬り裂いた。ミサンガも界筆も砕かれ、バラバラに破片が飛び散る。散った破片に闇の底のものが食らいついた。だが画魂はますます笑みを深くする。彼のではない苦鳴が虚空に木霊した。




 翌朝。起きだした由宇樹が、ちょっと以前の彼のごとくに虚無に染まっていて、由宇樹の母は片眉を上げた。しかし画魂やまなくとともに、楽しげに会話してアラハバキスタジアムへ行くというので、とりあえず彼女はいつもどおり子供達を見送ることにする。

 本日は荒玉浜近くの町の仮設商店街で、市民主催の夏祭の予定が入っているのだ。それはこの地区の津波避難タワーが完成した記念式典も兼ねている。由宇樹の母は認定看護師の資格があり、その祭の医務室で待機することとなっていた。彼女の夫は今日が休日で、留守を預かってくれる。娘のゆりあはスタジアム近くのドーム型研究施設に、朝早くから呼び出しをくらい、出かける前に山ほど文句を垂れていたのが思い出され、彼は笑ってしまう。


       ***


「なんが、ステラちゃんがすごい調子おかしいんだど。いくらやっても、出力上がんねって」

「そら、パパの病院さも影響あんでねえの?」

「んだからぁ、急いで行ってくっぺした」

 今まではなまるのを恥じていたゆりあは、まなくの影響で祖父母に引けを取らない仙楠弁丸出しである。彼女は出ていく由宇樹の背中を眺め、不審そうに首を傾げる。

「あれぇ、ゆうちゃん! 画魂くんって、昨日から家さいたんだいが」

「何言ってんのすかや。昨夜ゆんべ、画魂くんはあの小屋から出てきて、二階がら降りてきたゆうちゃん達と、縁側で花火してたっちゃ」

 朝食の食器を片づけ、こともなげに父が笑う。首をひねったまま、ゆりあと彼女の母は家を出て行く。

 ゆりあは自転車を止める庭の隅に、ふと立ち止まった。例の実験用の発電機に、翠色の毛玉がたかっている。目を擦ってもう一度見たが、もう毛玉は無い。スマホの着信音にせかされ、ゆりあは急いで自分の愛車であるマウンテンバイクにまたがり、母の車を追い越して走り去っていった。

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