第4話攻撃

 夏休みは決戦のための日々となっっている。由宇樹はそれが嬉しくてたまらない。新設された貴雷カップのおかげで、全国から招待された強豪達と戦えるのだから。

 一週間近く部活をサボっていた彼だが、当時も家では欠かさず筋トレとリフティング練習をし、海岸からの往復では自転車押しランニングを行っていたのだ。

 十時前に本日分の課題を終えた由宇樹は、家の階段を軽快に駆け降りる。今日もランニングで部活の練習に向かうのだ。柔軟をしている由宇樹へ、まなくが声をかける。

「せいがでるなや」

「習慣になってっからなぁ」

 笑ってふと、隣家を見上げた。紗由理の部屋の窓辺は、相変わらず半開きのカーテンが沈黙しているだけ。画魂達の騒がしさで忘れた、と思っていても、滲むのは止められない。

「やっぱしまだごじゃごじゃだけど、サッカー、またがんばっていいよな」

 顔を伏せた由宇樹の吐息に近い呟きを、まなくはただ聞いていた。小さいが深い哀しみが零れ、眦を紅く染めた美少女は優しい風のように由宇樹を包む。自分に言い聞かせている由宇樹が、まなくにはいじらしくてたまらない。

 背後に女の子の柔らかさを感じ、由宇樹は息を呑む。胸の感触はほとんど無いが華奢な腕に抱かれて、由宇樹は瞼を閉じてふわっふわな気分に酔う。

 にまにまして甘い香りを吸い込んでいれば、何か暑苦しいものも包み込んでくる。暑苦しいものが頭をぽんぽんと叩いてきて、かたくなに目を瞑って由宇樹は耐えた。けれど耐えきれず、頭をぽんぽんする手を振り払う。

「何すんだ? 火焔土器頭ぁっ!」

「んだよ、まぜろよ~お」

「うっせえ! きめえ!」

「差別だ~」

 いろいろはぐらかされ、由宇樹は感傷がどうでもよくなった。振り向かず、由宇樹は隣家へ紡ぐ。

「とにかく、今はサッカー勝つからぁ」

 深呼吸した由宇樹は、門の外へ駆け去るまなくと画魂を追って走る。 水耕や発電のドームの狭間を抜け、学校までの道を少年達がバタバタと駆けてゆく。やがて彼らは収穫が済んだ麦畑にさしかかる。彼らを見下ろし、歪な鳥が飛ぶ。

 由宇樹がふと空を振り仰ぐと、それはスピードをあげて飛び去った。




 数日後の晴れ渡る午前。少年達の歓声がAスタ――アラハバキスタジアムに響き渡った。開閉式の屋根があるそこは数万人が収容でき、避難施設にも指定されている。近くには父が勤務する総合病院もあり、由宇樹はリラックスしていた。たとえ「サプリ」反対運動の団体がAスタの内外で旗を広げていようとも、笑えてしまうほど。 控室でレギュラー陣が集まり、最終打ち合わせをする。貴雷がいつもの軽い調子で目配せし、わざとらしく咳払いして見せた。

「えー、本日はお日柄もよく、新郎妊婦のご入場で……」

「貴雷、突っ込ませんな。妊婦ってなんだ」

「そこじゃないよ、織朔」

「てへっ」

 ジト目の由宇樹と佐久間と一同に、貴雷は舌を出してウィンクし、さらに顰蹙を買う。にやけ顔を不敵な笑みに変え、キャプテンはのたまった。

「んじゃよ、今度はぜってーに勝とう。勝利はオレ達のもんだ!」

「おう!」

 円陣を組んで気合いを入れた皆は、我先に通路へ駆け出す。こんな時の由宇樹は、仲間達の背中を見送り最後近くに出て行くのが常。通路の遥か彼方を行く弾丸のようなキャプテンの背に、由宇樹は頼もしさを覚えた。

「あんなにいい加減そうでも、頼りになるよな」

 背後からの声に振り向けば、佐久間。実際の副部長仕事は普段から彼がやっていたから、由宇樹がヘタレている間も変わらずに部活は回っていたのだ。

「いつもありがと、佐久間」

「お互い様だよ。俺がヘタレてたら、頼む」

 ハイタッチして、二人も駆け出す。けれど由宇樹だけ何かの視線を感じ、立ち止まって振り向いた。医務室などへ通じる廊下の曲がり角の奥で、紙芝居を思わせる複数の人影が蠢く。

「あいつ、自分だけ出る気かよ」

「マジ信じらんねぇ。幼なじみのが上手かったのに」

「あの浜辺のやつ、あいつの絵から出てきたんじゃないかって……」

 凍りついていた由宇樹だが、弾かれたようにその声のほうへ向かう。しかしその影達は、由宇樹がたどり着くより早く、突き当たりからかき消えていた。曲がり角からまっすぐの通路には、既に誰もいない。呆然とする由宇樹を、背後から川堀が呼ぶ。

「どうした? 早く来い!」

「……はいっ」

 頭を左右にぶるぶる振り、由宇樹は自分の両頬を叩き駆け出した。

 明るいグラウンドへ出ると、オール東北プロチームのマスコットが、専属チアガール達とともに跳びはねていた。アラハバキ・ブレイブナイツのマスコットは緑色のうりぼうだ。丸過ぎるフォルムをものともせず、派手に踊っている。

 暗い瞳の由宇樹は観客席のまなくを探した。しかし彼女は見当たらず、スタンドの最上階で意味ありげに笑う画魂と目が合い、ぷいと視線を逸らす。逸らした先に教師達や三田らがいて、由宇樹はうんざりした。

 三田とは未だにギクシャクしている。川堀の勧めで互いに謝罪はしたが、どちらも口先だけであった。数日経た放課後の教室で一触即発だったところ、通りすがった斎藤が三田を面談に連れ出して助かったことがある。

 それでも由宇樹は斎藤に内心毒づく。

(よげなことばりして)

 あの絵に関する噂が広まった件は、絶対に許す訳にはいかない。まなくが「ネットは掃除しといたがらぁ」と言っていたが、先ほどの噂話の件が解せない。

(んなの、おれとかあいつしか知らね話……)

 再び頭痛と眩暈が起きる。

(こんな日にっ……!)

 膝から崩れかけるのを、誰かの手が止めてくれた。その誰かは敵のチームを見据える貴雷で。そして別の影も覆い被さる。見上げたら例の緑の巨大うりぼうが、観客席から見えないよう庇ってくれていた。由宇樹は「内蔵」の気配に頬を綻ばせる。

「まさか、まなくちゃ……城田さん?」

 片手を振った中身がまなくである緑の巨大毛玉は、勢いよくジャンプしごろごろ転がった。それに目を奪われ、観客席は大いにわく。その間に由宇樹も体勢を整え、まっすぐに敵のチームを見据えた。

(画魂の野郎が言ってた、あれか)

『気ぃつけろ。襲ってくる奴らにとっちゃ、お前はいい餌だ……』

 昨夜、寝る間際に真剣な表情の画魂に説かれた話が胸に響く。由宇樹は胸の校章を握りしめ、口角を上げた。

「負けねぇって」

 ホイッスルが鳴り、由宇樹は仲間達と勢いよく走り出す。走る青と水色のユニフォームの群れを見下ろし、画魂は網を張り巡らした。

(また、力を喰う気満々だぜ、奴は……)

 画魂も昨日の夜の件を思い返す。


      *** 


 いつものごとく、画魂は由宇樹の部屋に布団を敷いて寝ていた。

 隣の部屋から、時折まなくと姉達の笑い声が聞こえ、由宇樹の胸はほっこりと温まる。カーテンの隙間から差す仄白さに浮かんで、画魂が静かに話しかけてきた。

「あいつ、楽しくてしゃあねぇんだ」

「ああ……修学旅行とか、合宿みてえだって言ってた」

 由宇樹だって、まなく達が来てから毎日が祭のようで、実は楽しくてたまらない。けれど。

「おれ、こんな楽しくっていいのかな」

 紗由理や迅音のことを思うと、申し訳なさが先にたつ。彼女らが生きていれば、もっと楽しい思いをしていたはずと。やおら画魂が起き上がり、瞳を赤く燃やして由宇樹の胸ぐらを掴んだ。

「楽しむため、幸せを紡ぐために生まれてきたんだ。お前も、オレも」

 由宇樹は彼の真摯な眼差しに身をすくめる。赤い瞳の深い哀しみに、塗り込められそうで。

「お前さ……そんな非常識な力あんのに、なんで」

 哀しみを癒さず、抱いたままでいるのか。言いかけて由宇樹は口をつぐむ。彼も何かで深く傷ついているから、由宇樹の心に寄り添えるのだろう。

 静寂の光に照らされ、画魂は静かに由宇樹の胸元から手を放した。

「ごめんな。奴は……お前らの恐怖心とか、罪悪感とかを喰らって、あんな真似する力にしてんだ」

「喰うって、おれっ、食べられてんのか?」

「おう。お前とかみんなの心、魂の力、頭からバリバリな。それで映像まで実体化させる力、つけやがって……」

「そいつ、しまいに何する気なんだ?」

 今度は由宇樹が、遠い目の画魂の胸ぐらを掴む。画魂は赤い目を伏せ、ゆっくりと頭を振った。

「とにかくなんもかんも、めちゃくちゃにぶっ壊すつもりだって思う」

 メガネをはずした少年は、瞑目した画魂を食い入るように見つめる。再び画魂の瞼が開き、青い目で由宇樹を映した。

「オレは巨匠達の芸術作品をもてあそんで、みんなの恐怖心を煽って喰うの、すっげー気にくわねえ。だから奴がなんぼ煽ってきても、お前はなるべくつられんな、へこむな」

「う、うん……」

 胸ぐらを掴んでいるほうの由宇樹が、熱を帯びた画魂に気圧される。

「奴ら、ネットとか無関係な人とか使って、お前に嫌な思いさせてきただろ。お前がへこむたび、奴はそれを喰らって……」

 たたみ込む画魂の声を、由宇樹は遠く聞く。そんな輩に狙われる現実に、果てしなく絶望した。由宇樹の目の前の画魂すら、暗転して見えない。

「おれ……やっぱ生きてっと誰かの迷惑に……」

 すると冷静に説いていた画魂が、とたんに泣きそうな表情で由宇樹の肩を掴んだ。

「すまねっ! 脅かすつもりじゃなくって、そのっ」

 ため息しか出ない由宇樹に、画魂はらしくなく必死に紡ぐ。

「気ぃつけろ。襲ってくる奴らにとっちゃ、お前はいい餌だけど、正の感情は奴らにゃ毒なんだよ」


       ***


『友達を見殺した奴が守護神かよ』

 天から罵声が降ってきた。由宇樹は目をすがめ凍りつく。上の空なキーパーを、舐めてかかった敵のフォワードががら空きの左からシュートした。決まるだろうと、赤いユニフォーム勢が拳を握る。だが一瞬のうちに横っ跳びした由宇樹によって、ボールは止められた。

 暗く閉じた瞳や棒立ちスタイルは、敵に意図を読ませないため。受け止めたボールを、由宇樹は遥か遠くの自軍めがけて蹴った。すぐさまそれは佐久間が貴雷へ繋ぐ。世界レベルと評されるエースストライカーが、なんなく敵陣へゴールを決めた。

 まさに瞬く間のスーパープレイに、数百の観客達は大喝采した。上部ががら空きのスタンド相手でも、貴雷は大きく手を振り投げキッスする。仲間達もそれぞれ、大きな声援に曲芸じみたジャンプをして応えた。由宇樹もウケ狙いで、そこには無いスカートを摘まんで礼をする。荒玉浜で出会った小学生達が、拍手と声援を送ってくれた。彼らは、スタンドで偉そうに鎮座する画魂へも手を振っている。

 観客の大半は被災地の子供達とその家族だ。だから思いきり湧かせてやりたいので、ピッチに出られない部員達も盛り上りまくっている。敵の学校レギュラー陣も派手に悔しがって見せ、また試合で返すと散らばってゆく。

 観客席には招待された全国各校のチームがいて、その中に県大会決勝戦で由宇樹達を下した花野辺南中学校勢がおり、惜しみない拍手を送ってくれる。彼らは全国大会優勝を一昨日決め、その足で招待に応じてやって来てくれたのだ。例の松代が織朔へ声援を送ってくる。由宇樹は無視でそれに応え、貴雷だけでなく佐久間にすらウケていた。貴雷の宿敵であるサッカー界の至宝・日日はるかも、手を叩いて大笑いしている。彼はこの大会後すぐ、スペインへサッカー留学する予定なのだ。

 日日へ手を振ってやると、張りつめて観客達を見回す画魂が気になる。大事な誰かを探すような眼差しに、由宇樹は小首を傾げた。が、敵のフォワードが上がってきてそれどころでなくなる。

 試合が盛り上がってゆく中で、突如地鳴りが轟く。いつかの前兆のような轟きに、子供達の中には怯え泣き出す者もいた。明るい空が閉ざされ、巨大な影がスタジアムを覆う。由宇樹は悲鳴に近い声音で呟く。

「うわ……マグリットの『石』だ……!」

 山のごとき峻険な巨岩が、ぽっかりと皆の頭上に浮く。観客達はパニックに陥った。それを嘲笑うがごとく、おもむろに巨岩はグラウンドへ落下してくる。

「逃げろ!」

 殺気だった貴雷が吼える。巨岩は明確に由宇樹を狙って落下してきた。ゴールポストから横っ飛びに避け、最初の一撃は避ける。ところが巨岩は大地に突き刺さったままではおらず、ゆらりと再び虚空に浮かぶ。逃げ回る由宇樹を追いかけ、幾度もフィールドへ落下してきた。綺麗に整備されたピッチが抉られ、穴だらけになる。明らかにいたぶるのを楽しむ巨岩に、由宇樹は怒鳴った。

「くっそ、おだづなってんだ!」

 地響きがスタジアム全体を揺るがす。観客達が逃げ惑うのを、日日の指揮でサッカー仲間達が粛々と誘導していた。凄まじい振動でスタンドのルーフが一部落下する。松代が誘導する観客達の頭上で、落下するそれを閃光が貫いた。

 画魂が跳躍し、飛びながらルーフへ数十発の光弾を打ち込み、消滅させている。彼は同心円状に絵の具を配置した筒を手に、崩れ落ちる破片を撃った。逃げ回りながらも由宇樹が突っ込む。

「既にそれ、画闘じゃなくね? それただのガトリングミサイルじゃね?」

画闘描法ガトリングプレイストームだ! 点描の凄さ、喰らえ!」

 笑って画魂は、画刃を変形させた筒による点描の一種だとのたまう。スタンドに登った佐久間が、「なるほど」と頷く。由宇樹が眉根をしかめてツッコミを入れる。

「なるほどじゃねえし! って、日日ぁっ! 危ねえっ!」

 画魂に砕かれた巨岩の礫が、恐怖で動けない親子を庇った日日の頭上へ、バラバラと降り注ぐ。弾丸のように、貴雷が日日の元へ突っ込んで行った。宿敵だが無二の親友だと、貴雷が呟くのを由宇樹は何度か耳にしている。サッカー界の至宝と言うだけでなく、全力で戦えるライバルをこんなことで失うなど許されない。

 親子を庇う日日を、貴雷がさらに覆い被さって庇う。画魂は、と由宇樹が探せば、彼は真っ青に凍りついていた。業を煮やした由宇樹が、巨岩から逃げ回るのをやめて吼える。

「お前がガオってんじゃねぇぇえっ!」

「んだっ! おめ、画闘士でねぇっ! このガオり屋がぁぁっ!」

 緑のうりぼうも絶叫した。もう間に合わないと目を瞑ったら、光が一直線に迸る。瞼を開けてみれば、巨大な岩の破片は一閃され爆発霧散した。我に帰ったらしい画魂が、金赤の髪をさらに逆立て、界刃を振り上げつつ宙に佇む。

「だーれがガオり屋だっ? ゴルァっ!」

 オーラも金赤に逆巻き、彼は烈火のごとく燃え盛る。砕かれ崩れながらも未だ飛ぶ巨岩へ、咆哮とともに飛び乗って界刃を振るう。けれど巨岩は改めて由宇樹を狙い、浮き上がっては連続落下を繰り返す。画魂が界刃を何度も突き刺すが、巨岩は止められない。舌打ちし、画魂はミサンガをした腕を巨岩に叩きつけた。

 必死に走ったが、頭上の巨大なそれから逃れるのは至難。由宇樹はピッチに散らばる無数の礫につまずき、ゴールポストのあった場所の大穴へ落ちてしまう。緑のうりぼうが悲鳴をあげた。

「ゆうちゃぁああんっ!」

 地響きとともに巨岩は、またも同じ場所に突き刺さった。仲間達も絶叫する。

「織朔ーっ!」

 巨岩が動きを止め、絶望の沈黙が訪れた。皆は声もなくその場で硬直している。巨岩は満足げに辺りを睥睨して見えた。

 だが、巨岩はゆっくりと空へ押し上げられてゆく。日日や他の仲間達とともに、駆け寄ろうとした貴雷が絶句する。なにしろ巨大な鳥の群れが、巨岩を背負って立ち上がろうとしていたのだ。瞼を幾度かしばたいて見ると、鳥の群れに見えたのは、実は天使の群れ。

「て、天使ぃっ?」

 重なり合う羽毛がわさわさと離れ、天使の一人一人が巨岩を覆い包み始めた。天使達の中央に荘厳な雰囲気の老人がいて、彼が指先一つで巨岩を支えている。緑の毛玉も見え、それも立ち上がると、下から由宇樹が現れた。

「はぁ……死ぬかと思った」

 彼は外れたメガネを直し、土埃を払って周りを見回す。そして絶句する仲間達へ恥ずかしそうに告げた。

「あ、ボールはとってっからぁ」

 ガクガクと貴雷と日日までがくずおれる。天然かました由宇樹は、ようやく状況を把握し、自分も言葉を失う。

「なんで、天使……」

 鳥肌が立った。目を凝らしてみれば、色とりどりの豪華な衣装の光沢に非常に見覚えがある。

「これっ……ミケランジェロの『創世記』か?」

 システィーナ礼拝堂の天井を飾る、巨大なフレスコ画に描かれた天使達だと気づき、由宇樹は真夏なのに粟立つ肌を撫でた。美術図鑑を舐めるように眺め、一度は生で全景を拝みたいと願っているものだから。

 見惚れている間に神と天使達は、巨岩を虚空に担ぎ上げ、画魂が光のマントに吸収するのを手伝う。しかしそれが吸収されていく最中、今度は巨大な懐中時計がスタンドの天井に落ちてきた。大人達は再びパニック状態になるが、なぜか一部の子供達は冷静でいる。泣き出した母親の背中を撫で、いつかの海岸の小学生の一人がなだめていた。

「大丈夫だから、あのあんちゃんが、ぜってーなんとかしてくれっから」

 巨大な懐中時計は、ルーフからダラダラと金色を零す。緑のうりぼうを背に庇い、由宇樹はそれを睨め上げる。

「今度はダリの溶けるあれか」

 溶けながら巨大な懐中時計は時を刻む。異様に早く長針が動き、辺りは日暮れて夜の帳が降りてしまった。闇に包まれ、画魂が開いた天へ導かれていた巨岩が、天使達のコントロールを失い傾きかける。あわやスタンドへ、となった刹那。

「おっさん、『光あれ』って言ってくれ!」

 貴雷と画魂が同時に叫んだ。天使達を従えた老人が重々しくのたまう。

『光あれ』

 穏やかで特徴の無い、けれど深淵から立ち上がるごとく、威厳のある声が響き渡った。すると闇は払われ、黎明の光に満ち溢れる。照らし出された溶けゆく時計は、観客達にかかる寸前に停止した。そしてするするとルーフの上に戻ってゆく。 画魂へ貴雷が顎で指示する。片眉を上げた画魂だったが、肩をすくめて再びマントを翻した。はためくマントは光を放ち、巨岩も巨大な懐中時計も飲み込んでゆく。うりぼうが短い前足を振り上げ、空間を奏でている。曲はエルガーの「威風堂々」。

 じっと見守っていた神々しい集団も、画魂のマント内一時避難所へ戻っていく。すべてが吸い込まれた後、画魂は詠唱を終えて華麗に敬礼する。観客も選手達も、惜しみない拍手を送るばかりだ。グラウンドで優雅に敬礼する緑のうりぼうに、呆れ顔から戻らぬ由宇樹が密かに尋ねる。

「神様出しちゃったら、ほとんど最終奥義じゃね? 今後ヤバくね?」

 尋ねられた内蔵のまなくは、短い前足を振りこともなげに応えた。

「画魂の決め画聖はぁ、ミケランジェロでねえがら」

「そ、そうなんだ……」

 たぶんめちゃくちゃ笑顔であろううりぼうの「内蔵」に、由宇樹は納得できないままひきつった笑顔を返す。

 場内がまたざわつき、青ざめた貴雷が監督の元へ走り寄る。かの熱血監督は、巨岩の欠片の下敷きになっていたのだ。傍らで一年生部員らが泣いている。

「川堀先生が……僕らを庇って……」

「大丈夫だから、泣くな」

 地面に沈み込まされた川堀が、なんとか笑顔を作ってなだめた。しかし激痛で脚を動かせないらしく、駆けつけた由宇樹も泣きそうになる。わらわらと専属医療チームが現れ、ピッチの窪みの中の川堀を処置する。

 皆は言葉もなく見ている他はない。担架に載せられた監督が、貴雷に指示を出す。

「俺のことは気にするな。試合はお前に任せたぞ」

「承知してます」

 ハイタッチもどきをして、川堀は搬送されていった。しばし見送っていた貴雷が一旦スタンドの画魂を睨み、おもむろに仲間達のほうへ振り向く。纏う獰猛なオーラに、由宇樹らは鳥肌を立てた。

「勝つぜ」

「っしゃあぁぁっ!」

 少年達は咆哮し、敵を見据える。 しかし佐久間が手を挙げ、おそるおそる尋ねた。

「けど、フィールドが穴だらけ……あ」

 フィールドに多数できた窪みは、再び現れたムキムキな天使達がとっくに整備してくれており、プレイには支障が無い。佐久間を始め、サッカー少年達は天使と画魂へ手を振って礼を述べた。

「ありがとー!」

 けれど由宇樹には、画魂が苦渋に満ちて見える。

(怪我人を出すなんて……)

 元が映像でない巨岩だから、油断したのか――万能であろうはずの画魂に、由宇樹は少し落胆してしまう。嘆息したらしい画魂はそっと立ち去った。

 スタジアムの職員らによる点検の後、ホイッスルが鳴る。ざわめきは落ち着き、拍手となって少年達を再び試合へ向かわせた。

 青々した空へ深呼吸し、由宇樹は持ち場へ赴く。




 仲間達と快勝を喜び合い、更衣室から出ると、まなくが「やほー」とハイタッチしてきた。されるがままの由宇樹を押し退け、他の部員らが彼女へ殺到する。由宇樹は壁に寄って、苦笑いでまなくと皆を見守った。他にもねぎらいに来た女子達はいたようだが、彼女達は画魂を追いかけ、通路の彼方へ消えていく。

 メガネを上げ直し、由宇樹は乾いた笑いで見送る。

(ったく、ヘマやってもモテモテかよ)

「ヘマやって幼なじみ見殺しにしても、勝ったのかよ」

 背後から冷たい声音に羽交い締めにされた。背筋を氷が走り、由宇樹は慌てて振り返る。が、見回しても該当する人影などなく、少し離れた場所で少年達が、まなくと写真を撮っているだけであった。その声が聞こえたであろう位置に教師達もおり、由宇樹は幻聴かとため息を吐く。しかし斎藤を認識し、由宇樹の喉に苦いものが込み上げてきた。

 貴雷が監督の見舞いに行くとのたまう。その声に弾かれ、由宇樹は通路を駆けた。疑いを抱くことすら今は苦痛でたまらない。




 川堀が搬送されたのは、由宇樹の父親が勤務する病院だった。ヨーロッパの城を彷彿とさせる瀟洒な佇まいで、訪れるごとに由宇樹はほぅ、と息を吐く。

(震災のあと、貴雷のとっつぁまが徹底改築したんだよな)

 以前の築後数十年の院内の記憶と比べ、あまりに違い過ぎ、いろいろとついていけないのだ。

 蓮がたくさん浮かぶ大きな絵画が飾られた、ヴェルサイユ宮殿めいた受付ホールを抜け、少年達はぞろぞろと入院棟への回廊を行く。行き交うスタッフや患者の女性達に、八巻や一年生らは目を奪われている。

「レベルたけー」

「うっわ、僕が入院したかった」

「バカか!」

 勝手知ったる由宇樹が、ぶしつけな仲間達へツッコミを入れながら、案内し歩いていく。

 川堀が収容された部屋は、由宇樹が時折訪ねる病室の手前。貴雷によれば小さめだそうだが、個室で豪勢な造りで少年達は呆気にとられるばかり。いつもの爆発頭をかいて笑うベッドの川堀に、由宇樹は安堵する。監督の脚のギプスに、桐ケ谷達が飛びつき落書き祭となった。貴雷が監督へ聞く。

「そんなに酷いんですか?」

「単なる捻挫なんだが、このほうが治りが早いってさ」

 苦笑いする川堀の声と佐久間が制するのをほのぼのと聞き、由宇樹は貴雷とともに快勝の報告をする。

「監督、無事に勝ちました」

「5―0の快勝です」

「そうか。信じていたぞ」

 爽快に笑う川堀に、由宇樹はさらに解けた。監督は大きく伸びをし、背後の枕に体重をかけて語る。

「お前達は勝つ! 勝ち続ける。信じてるから、心配なんざしていない」

 キラキラな瞳で語られ、由宇樹は照れくさくなって窓の外へ視線をやった。病院を囲む万緑の先の、遥かな水平線が目に映る。その海辺の町で、紗由理と迅音は津波に飲み込まれたのだ。とたんに由宇樹の心臓は激しく収縮する。透明な何者かが直にわしづかみ、握り潰そうと図っているごとく強く痛む。

 そうとは知らぬ八巻らが騒ぎを嘆く。

「しっかしあの岩、マジヤバかったなぁ」

「あの火焔土器頭さ、完璧かと思ったら超がっかりだって」

 仲間達が談笑する風景が由宇樹から遠ざかってゆく。喉がひりひりして声が出ない。

(だから、あんましここ、来たくねえんだ)

 この病院からあの浜辺を遠く見通せるのが、かえって辛いのだ。

 貴雷がふと振り向き、由宇樹を見やる。咳払いした彼は、由宇樹の背を押しながら川堀へ挨拶した。

「お騒がせしました。夕食の時間にかかるから帰ります」

 佐久間が「夕食」と聞いて色めきたつ桐ケ谷らをいなし、見舞いのメロンゼリーへ手を出しかける一年生達の襟首を掴んで、ひきつり笑顔で廊下へ出る。操り人形よろしく貴雷と佐久間に押し出された由宇樹は、中庭のケヤキ並樹を眺めてようやく息を吐き出した。さわさわと風に揺れる梢に、由宇樹は同化する錯覚に癒される。

 窓にへばりついて呼吸を整える由宇樹を後目に、貴雷が佐久間へ尋ねた。

「こっからの景色、あんな見晴らしよくなかったよな」

「ああ、みんな流されてっから……」

 浜辺の広範囲の建物が流され、その瓦礫はさっぱりと片付いて整地されている。それが空虚に感じ、皆がため息で外を眺めた。いろいろ察した桐ケ谷が、煌めく屋敷林に見入る由宇樹の肩を叩く。由宇樹は振り向き、ばつが悪そうに笑う。

「気ぃ遣わせてわりいな」

「お? 俺ぁただ早く帰って飯食いてぇだけだ」

 皆がそそくさと帰る途中、まなく達女子陣とすれ違う。斎藤もいるから、由宇樹は再び緊張した。そうとは知らずつつがなく挨拶し、華やぐ空気を振りまいて少女達は病室へ入っていく。彼女達からかなり遅れ、かの火焔土器頭が沈痛な面持ちでやってきた。早速ケンカっ早いがつっかかっていく。

「助けてくれたのはありがとな。けど、監督は……」

「八巻、やめろって」

 チャラい貴雷がシリアスにとどめる。つっかかられた画魂は由宇樹達と目を見交わし、すまなそうに目を伏せる。

(うわ、俺様画魂様が……)

 口許を押さえた由宇樹は、ちょっとだけ画魂に親しみを覚えた。最初に貴雷達と出会った時の、妙に挑発的な態度は微妙に引っ込んでいる。改めて画魂は少年達へ、額を地につけんばかりに最敬礼した。

「すまん、オレが油断した……」

 素直に謝罪され、跳ねっ返りで鳴らす八巻までがまごつく。

「ま、まぁ、ありゃ、監督の他はかすり傷だけどよ」

 美味そうな匂いがしてきて、皆の腹が一斉に鳴る。由宇樹は吹き出してしまった。貴雷が仁王立ちでのたまう。

「うちの病院の食事って、そこらのホテルよか美味いからねえ」

 チャラい少年の言葉に、抑制的な佐久間ですら低く唸る。

「んだから早く帰っぺ」

 少年達はあたふたと長い回廊を行く。由宇樹は回廊の果ての見慣れた扉を見やり、目礼してから歩き出す。そこは例の少女がいる部屋である。まだまだ日は高いが、蜩の声が耳について彼らを急き立てた。




 織朔家のにぎやかな夕食時。勢いよく焼肉をかっこんでから、試合の武勇伝を語る由宇樹を、彼の家族とまなくが目を細めて見ていた。

「で、それ全部俊足で避けて、けど、がーって岩が来て、ダメかと思ったら、がう、いや、加藤くんが……」

 話題の画魂は開け放した縁側で、障子にもたれ満ちゆく月を見上げている。庭は穏やかな虫の音で満ちていた。そこに陣取る小さな小屋――マヨイガも、月光に照らされ虫の音に聞き入って見える。深々と息を吐き、画魂は短く暇を告げ、庭へ降りてマヨイガへ入って行った。

 まなくは大きめなスイカを一玉の半分以上平らげ、こともなげに紡ぐ。

「まーたおセンチさんさなってぇ」

「あいつでも堪えるんだなぁ」

 異次元の能力を駆使する者でも、失敗を乗り越えるのは簡単ではないらしい。命に別状は無いとは言え、自身の失敗で犠牲が出たのだ。

 まなくは平らげた皿と皆の皿を片づけ、由宇樹と父に挨拶してから縁側へ降りる。母は生け花サークルの会合で遅い。床の間を飾る斬新な生け花へも声をかけ、まなくはマヨイガへ入っていった。

 彼女を見送り、由宇樹の姉がポツリと漏らす。

「まなくちゃん、あんな髪長いから、結うの楽しいんだけど」「なんかあったの?」

 新聞を読んでいた父が尋ねた。由宇樹の姉が首を傾げて話す。

「まなくちゃん達専用のシャンプー、あんまし減らないんだ」

「ふーん……気ぃ遣ってあんまり使わねんでね?」

「そうかも。遠慮しなくていいのに」

 とりとめの無い会話を聞き流し、由宇樹はマヨイガへ消えてゆく彼女を、ただぼぅっと眺めていた。平和だと視線を逸らそうとしたら、デジタル画像が乱れるように彼女の姿にノイズが走る。目を擦った由宇樹は、改めてしげしげと見つめたが、いくつか走るノイズが消えない。

(なんだっ?)

 保健師でもある母に教わった頭部マッサージをしてみたが、うまくいかない。途方に暮れ、由宇樹が月を見上げる。月はまろやかにマヨイガと林を照らし、それにノイズは走らない。そっと洗い物をする父を窺ってみる。父にも室内にもノイズは入らなかった。 呆然として再度マヨイガを見る。刹那けぶった狭い小屋は、異界への入口だ。

『ゆうちゃん』

 まなくと紗由理のダブった声が呼ぶ。由宇樹はふらふらと庭に降りた。突っ掛けで生い茂る雑草を踏み、草いきれが鼻をつく庭のマヨイガへ入って行く。 虫の音がほんの数秒間止む。月光は密やかに静寂しじまの音色を紡ぎ続ける。

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