第3話日常/非日常

 (あれ、なんの夢だったんだっけ)

 いつものブランケットの端を眺め、由宇樹は半分だけ目覚めた。夢より、ここがどこだかわからない。自分が誰かもわからなくなる。だが、奇妙な感覚に支配される時間はそれほど長くはない。

(おれは……由宇樹だ。勇気の無い由宇樹)

 額に右手を置き、頬を流れ落ちる涙の温かみを不思議な想いで味わう。数年を経た今のほうが、直後よりも辛い。それは経験した皆が口に出さずにいること。

「泣がねでけろ」

「……っ!」

 今朝もつらつらと半覚醒状態で、自らの記憶が心を裂くのを眺めているだけだと諦めていた。なのに今、愛らしい声が優しく由宇樹を慰める。

 勢いよく起きれば、まなくがカーテンの隙間から覗いていた。枕元のメガネを引っ付かんでかけ、まじまじと彼女を見つめる。哀しげな瞳はく燃え、少しぽってりした甘い色の唇は笑みの形を作った。

「機嫌さ、なおったべか?」

「えっ、あ、うん」

 どんな不思議ちゃんだろうが、こんな美少女に気遣われて悪い気がする訳がない。しかも、不思議過ぎる出会いは夢ではなく。

 虚勢をはり、由宇樹はツッコミを入れてみる。

「けど、ここ二階じゃね?」

「細けぇこた、気にすんなでば」

「はぁ……」

 改めて由宇樹は感心してしまう。さすが非常識な能力を駆使し、非常識な相手と戦って保護するとほざく少年の仲間だ。件の美少女は大きな瞳を揺らめかせて聞く。

「朝練とか、行かなくていいのけ?」

「朝練……はぁっ! 朝練んんっ! 6時50分グラウンド集合ぉぉっ!」

 既に45分を回った無情な時計を睨み、由宇樹はわたわたと着替える。しかしじっと見るまなくの視線に首まで真っ赤になり、あたふたとカーテンを閉めた。

「なんなんだ? あの子」

 分析の暇はない。階下から母のすっとんきょうな声が響く。母の超絶技巧運転で送ってもらわなくては、もう間に合わないのだ。



 十数分後にたどり着いた学校のサッカー部専用グラウンドで、既に部員らは柔軟を始めている。百五十人を超す部員が整然と並ぶ様が眩しくて、学校の林の影に隠れた由宇樹は右手をかざす。

(ここの生徒は、あの日の次の朝から、もう集まってたつーから、おれはここさ入ったんだ)

 整然と列をなす彼らの正面。監督の川堀の隣で、レギュラージャージを着崩し気味の少年が号令をかけていた。天然の金髪の彼はめざとく由宇樹を見つけ、グラウンドの端へ猛ダッシュしてくる。

「おっはー!」

「おはー……」

 部長のが全開笑顔で迎えるから、由宇樹は激しくたじろぐ。全開笑顔はすぐさま、凶悪な脅迫顔に変じたから。

「散々部活ばっくれといて、出てきたら遅刻とか、たいした度胸じゃないかい? 織朔くぅん! しかも新しい大会が決まったとたんって、ずいぶんと現金なお話ですねえ」

「……それは、悪かった。すごく反省してます」

「貴雷~、出てきてくれたんだから、いいだろ~」

 「物腰柔らかなバズーカ」と噂される、第二副部長でミッドフィールダーの佐久間が、キレたキャプテンを穏やかにたしなめた。他のレギュラー陣もそれ以外の部員らも、わらわらと集まって取り囲む。皆はここ一週間ほど突然部活に来なくなっていた、もう一人の副部長をそれぞれに気遣ってくれているのだ。気遣われた由宇樹は、眉をしかめて身を固くし、唐突に土下座する。

「本当に、勝手して悪かった。すまない」

 簡単に受け入れられるなど期待してはいけない。けれどカバンの中のノートの存在が、既に答えを伝えていると由宇樹は期待していた。短く述べられた謝罪に、金髪のキャプテンは「戻ってくれてありがとな」と、手を差し伸べて由宇樹を立ち上がらせる。派手なヘアスタイルが多い中、坊主頭がかえって目立つリベロの村井が、意を決して尋ねてきた。

「やっぱあのっ……海岸の噂のせいか?」

 問われた由宇樹は、閃くごとく坊主頭を睨み付ける。村井は縮こまったが、遠目に見守るレギュラーでない部員らがひそひそと噂するのがやけに響く。

「海岸でさ、毎晩ざわざわ話し声がするんだと」

「男の怒鳴るのや、女の悲鳴もするって」

「歩いてっと、手ぇ伸びてきて海側に引っ張られんだよ」

 由宇樹はまたあの耳鳴りで息苦しくなった。息詰まる状況に、仁王立ちの貴雷が怒鳴る。

「バカか! あん時亡くなった人らは、とっくにみーんな天に上がってんだよ! んな訳ねぇだろ!」

 ふだんは軽々しい貴雷の、本気で怒鳴る声はまさしく雷鳴。彼と同様のことを言いに来たらしい川堀も呆気にとられるほど、怒った貴雷は凄まじい。気を取り直した川堀は、少年達をなだめて練習へ戻らせた。「雷帝」と呼ばれる少年は踵を返し、再び定位置で下級生を中心に、あたりは柔らかいが厳しいメニューで指導してゆく。言いたかったことをすべて貴雷に言われ、由宇樹は緊張が解けて眩暈がした。

「ほんっと、頼りんなるチャラ男様だ。試合でも頼むわ」

 見回りで再び傍にやってきたその「チャラ男様」なイケメンが、由宇樹の言葉に口許を歪める。

「このまんま戻れると思っちゃってんのかな? 第一副部長様ぁ。三日間の部室掃除は無断欠席の分だよ。あと、レギュラーに返り咲きたきゃ、一年に混じって三日くらいリハビリして、オレとPK戦やって勝ってからだね」

「……部室掃除だけじゃなく?」

「ったりまえだろ?」

 一週間部活を無断でサボったツケにしては、重いのか軽いのか――由宇樹は挑発的ににまにま笑う部長の意図が読め、それ以上は反論しないことにした。反論しようにも、貴雷はとっくに踵を返し、すたすたとグラウンドの中央へ戻っている。とりあえずレギュラーでない大多数の部員の手前、簡単に戻すのも示しがつかないのだから。 しみじみと統率力や包容力に思いを馳せていれば、またグラウンドから怒声が響く。

「さっさと柔軟して、ランニング始めろって!」

 まだ少し由宇樹がふらつくのを、佐久間がそれとなく支える。嘆息とともに、由宇樹は思いを吐き出した。

「ごめんな……ふがいないっつぅんだよな、こういうの」

「え? 織朔は一年の頃からずっとがんばってんじゃん」

「だよな! あーの貴雷の暴走止められんの、おめえだけじゃね」

 鼻先にニキビを作ったフォワードの桐ケ谷も、由宇樹の肩や背中を叩いてなだめた。加減を知らぬ八巻が思い切りばんばん叩き、由宇樹は咳き込んでしまう。

「コルァ! 八巻ィ!」

「油断してっからだべ」

 油断ならない仲間逹に、由宇樹は泣き笑いの表情を浮かべた。その後部室で急いで着替えてようやく練習に加わり、由宇樹はほっと落ち着く。ようやく日常だと、柔軟を始めると、けたたましい警笛がグラウンドへ近づいてきた。暴走するトラックやワゴン車がグラウンドへ突っ込んでくる。八巻が喚く。

「うわっ! サプリ反対の連中だ!」

 警備員達が多数、暴走車へ駆け寄ってきた。佐久間がこぼす。

「どうやってうちの警備を突破してきたんだ?」

 由宇樹もそれは疑問だと考えた。貴雷学院には厳重な警戒設備があり、おいそれと突破などできないはず。金属音が鼓膜をつんざく。「サプリ」への侵入と同様、人の技でない何かがその団体を導きいれたのでは、とメガネを上げて少年は疑う。

 川堀もそちらへ走って行く。つられて貴雷がダッシュしようとするのを、佐久間達が慌ててとどめる。

「オレが狙いなんだってば! なんで止めんだよ?」

「だからだろっ! お前はテロの標的なんだぞ!」

「テロって……」

 由宇樹は、自分のいない間に事情が変わっていたのを把握できていない。ぼそりと村井が呟く。

「確かに、怪しいしすっげえ危険な実験だって、親父らも言ってたけど」

 彼の胸ぐらを掴み、桐ケ谷が興奮して唾を飛ばす。

「放射能も出ねのが、なんで危険なんだよ?」

「放射能出なくっても、ブラックホールが漏れたら、この辺とか全部吹っ飛ぶんだぞ!」

「うちは安全第一で、万全にやってんだぞ! つか、漏れるか!」

 貴雷がまた吼えた。あちこちで少年達が小競り合いになる。トラックや軽自動車から大人達が降りて、川堀や警備員達と押し合いになっていた。乗り込んできたのは普通のおじさんおばさん達で、由宇樹は怒るよりも哀しくなって立ちすくむ。

「何度も説明会開いても、聞く耳持ってくんねって、姉ちゃん言ってたな」

 ほんの少しの危険にも、耐えられないほどになっている気持ちが理解できるだけに、由宇樹は切なくなる。だが暴走してきた大人達が、グラウンドへの侵入を阻止する警備員達へ殴りかかるのを見て、いてもたってもいられなくなった。少年達の塊をすり抜け、由宇樹は先頭の壮年男性へつっかかってゆく。

「あんたら! こんなやり方したって、ダメだべ!」

「君みたいな子供まで、洗脳されてるのか?」

「洗脳じゃねえ! 今までだって、なんも起こってねえのに、なんで騒ぐんだ?」

「起こってしまっているじゃないか!」

 あまりなじみの無いイントネーションが、地元の人間ではないと告げている。昨夜の画魂の、幽霊の噂もサプリへの中傷も、同じ犯人だという言葉が由宇樹の脳裡を掠めた。

「あんたら、誰かの書いたデマを、そのまんま信じてるんだな。子供じゃねえのに」

「なんだとっ」

「ガキのくせに!」

 由宇樹へ掴みかかる複数の腕を、飛んできた貴雷が引っ掴む。

「おじさんら、すっげえみだぐねえな。ああ、みっともないって意味ね。あんたら、本当に自分で判断してんのかよ? ネットの書き込み、鵜呑みにして恥ずかしくないのか?」

 横から伸びてきた腕が、リーダーらしき男性を問い詰める貴雷の胸ぐらを掴む。キャプテンについてきた少年達が、貴雷を庇って放させようと飛びかかり、もみ合いになった。そこへ血相を変えた斎藤や校長ら、多数の教師陣も飛んでくる。由宇樹はどこかで雷鳴が鳴り響いた気がした。空は相変わらず快晴なのに。教師達の怒号で、彼は現実に引き戻される。

「あなた方! 生徒に何をするんだ!」

「速やかにお引き取りください!」

 教師達も混じったもみ合いの中で、由宇樹はどこか醒めた頭で考える。

(そういや、あのバカとまなくちゃんは……)

 すると広々したグラウンドを巨大な影が覆った。空を見上げれば転倒したエッフェル塔が、五階建てのホテルと見紛う校舎屋上からグラウンドへ突出してきている。

 由宇樹は唖然とする。あのバカ――画魂が、屋上で幾何学的なエッフェル塔を描き上げ、その尖端で逆立ちしている。由宇樹の視線を追った貴雷も、らしくなく愕然としていた。怒鳴り込んできた大人達も、固まって見上げるばかり。貴雷が平然と呟く。バックグラウンドには「ラプソディ・イン・ブルー」が高らかになっている。塔の突端に坐したまなくが、優雅に光のヴァイオリンを奏でているのだ。貴雷が呆れつつ呟く。

「あれ、ロベール・ドローネーのエッフェル塔じゃんよ」

 目と目を見合わせ、混乱の最中に由宇樹は吹き出す。

「貴雷、詳しいんだな」

「理事長室にあったじゃんか。先代理事長のじいさまのコレクション……つか、そこの金赤メッシュ! 赤目の火焔土器頭ぁ! 人の学校で何してくれてんだっ!」 理事長の息子である貴雷が怒鳴るが、画魂は尖端で宙返りして手を振るだけ。由宇樹は感嘆する。

「あの火焔土器頭の赤目が見えるって、やたら目がいいなぁ」

「そこかよ」

 異常現象に慣れつつある由宇樹に、貴雷は呆れながら大人達を華麗な手さばきで振り払う。由宇樹も、彼にならって抜け出した。画魂が大人達へ告げる。

「みなさーん! 訳のわかんねえ喧嘩売ってくんなら、これ、あんたらにお見舞いしてやんぜ!」

「やっぺしー!」

 まなくも転倒したエッフェル塔の最先端から、少年達へヴァイオリンの絃を振ってくる。エッフェル塔は無邪気にぶんぶんと回って、大人達を挑発した。その勢いで校庭の木々すら吹き飛びそうになる。

 パニック状態に陥った暴徒は、腰をぬかした仲間を残し、ばらばらに逃げ去っていった。呆然とする川堀を後目に、巨乳で女丈夫の斎藤が、へたりこんだ暴徒の一部を捉えながら画魂達へ声援を送っている。複雑な表情で彼女を見やる由宇樹を、貴雷や佐久間が不思議そうに見つめていた。斎藤は逃げそびれた数人へ、林の向こうで説教を始めている。事後処理のために校長達がグラウンドから去り、残った川堀が少年達へ練習を中止と言い渡す。けれど貴雷が川堀へ笑顔で返した。

「あとは自主トレってことですよね?」

「お前……!」

「オレのせいで、こいつらの練習量が減るの、困るんですよ。あのカップとれないと、オヤジにどやされちゃうんで。なぁ?」

 貴雷が振り向くと、レギュラー陣だけでない皆が速攻で元いた練習場所へ戻って行く。ため息の川堀は、笑顔になって応えた。

「好きなだけやるといい。ただし、休憩はちゃんととれよ!」

 少年達も笑顔で返事をしている。由宇樹へ声をかけようとした川堀は、校長に呼ばれて校舎の向こうへ駆けて行った。とりあえずの解決に、由宇樹はまなくへ手を振る。そんな彼へ、貴雷は怪訝そうな表情を向けていた。

「あの派手なのと知り合いか?」

「おっとりした女の子のほうとなら、知り合い」

 由宇樹の応えに、貴雷の双眸の青がますます怪訝そうに揺らめく。

「あれのどこが、おっとりしてんだ? 一緒に暴れちゃってんだろが」

「えーっと」

 逆巻くオーラを背負い、貴雷がまた吼える。

「そこの君っ! つか、てめえっ! 今すぐそれ、絵ん中に戻せ!」

「今戻したら、またすぐ行方不明になっけど、良いんか?」

「あぁ? 盗人猛々しいよ! お前が持ち出した犯人なんだろが!」

「ひでぇ誤解だ。オレはこいつを保護して、ついでにこいつと遊んでやってんの! しばらく暴れさせとけ」

 頷いたらしいエッフェル塔が、またもぶんぶんと回りだす。一歩も譲りあわぬ噛み合わない連中に、由宇樹は改めて嘆息する。彼の元へおろおろした佐久間が声をかけてきた。

「と、とにかくあの派手なやつ止めろって。知り合いなんだろ?」

 佐久間の視線の先には、いまだにエッフェル塔を倒立させたりして遊ぶ画魂がいる。

「向こうが勝手に知ってきただけ! おれは知らねぇから!」

「けど、手ぇ振られてんぜ、あの美少女に」

 強面な桐ケ谷が、目の端を微かに赤くして親指で示す。そこには、屋上のフェンスに乗って手を振るまなくがいて。

「あ、あれは知り合いだ! 城田さ~ん! そこの火焔土器メッシュ野郎、止めてくださ~い!」

「だってさ、火焔土器雄かえんどきおくん」

「うっせぇよ、土偶田土偶子どぐたどぐこ!」

 まなくはフェンスからひらりとジャンプし、グラウンド側へ飛んで部員逹をパニックに陥れた。ひらひらミニスカートの中身を見ようと息を飲む者も少なくないが。

 ふわりと飛ぶ少女は、火焔土器頭へキックを決めようとしたが避けられて果たせず、エッフェル塔を蹴って宙返りした。またグラウンド側へ落ちかける彼女だが、由宇樹は墜落などの心配が無用なことを知っている。しかし彼女の「天然非常識」っぷりに慣れぬ少年逹は、指の間から必死に目で追う。

「美少女が落ちる~っ!」

「人類の偉大な財産がっ!」

 宙を舞うまなくは横倒しになったエッフェル塔の先端へ逃げた画魂へ、華麗にハイキックを決める。そして宙返りしてから見事に屋上へ着地し、優雅に髪をかきあげて微笑んだ。画魂はフェンスへ吹っ飛ばされ、由宇樹はクールに拍手を送る。

「あにしやがるんだっ? まなくっ! つか、由宇樹、てめえっ!」

「さっさと片付けてくれ。練習すんのに邪魔だから」

「ねぎらいぐれえ、ねーのかよっ!」

「あー、お仕事ご苦労さんです」

 棒読み口調な由宇樹に顔をしかめ、画魂はぶつくさ言いながら光のマントへエッフェル塔を吸い込む。非常識な「ショー」にざわつく部員逹へ、佐久間が指示を出して練習へ戻らせた。貴雷は、エッフェル塔が安全に収まったらしいので安堵の息を吐く。

「しかし、派手過ぎな芸だなぁ、オイ」

「お前のプレイには負けっだろ」

 「雷帝」の片眉が上がったようだが、由宇樹は下級生らの元に逃げて筋トレに加わった。何か言いたそうだったが、スルー。画魂に関するお説教まで喰う責任は彼には無いのだから。 校長らとの調整が済んですぐにグラウンドへ戻ってきた川堀が、ようやく由宇樹へ声をかけてくる。三十代そこそこの数学教師は、由宇樹の手を両手で握ってぶんぶん振る。

「とにかく、来てくれてありがとう、織朔!」

 熱心に由宇樹の行く先々へ通い詰めていた川堀は、涙ぐんで見つめてきた。かの熱血漢の泣き落とし攻撃にあい、メガネの少年は引きながら謝罪する。

「ご迷惑とご心配をおかけしました。申し訳ありません。復帰については、さっき貴雷からいろいろ言い渡されてます」

「了解だ」

 生徒の自主独立を重んじる川堀は、大きく首肯して由宇樹の背中を叩き、他の部員逹にも発破をかけに行く。屋上を見上げれば、既に画魂もまなくも撤収している。たぶんよくわからない「役所」の力を使い、転校手続きを完了するのだろう。由宇樹は腹筋しながら、彼らが教室にどんなにふうに現れるのか考えていた。あの派手派手なバカが、どんなに教室をかき回すのかと。

 風が学校の木々を揺らす。ここは「杜の都」と呼ばれる都市だが、沿岸部は特に「風の都」だと、風にあおられた髪をかきあげて由宇樹はいつも思う。幻の金属音は、「虎落笛もがりぶえ」の記憶の反芻ではないかと、斎藤から言われたことが唐突に蘇った。

『冬の激しい風がね、柵とか垣根などに吹きつけて笛のようになる音のことなんだ。それが勝手に記憶から引き出されて、勝手に繰り返されてるんじゃないかな』

 衝撃的な出来事に対するむしろ健全な反応であり、病気ではないと、当時斎藤は言ってくれたのだが。

 腹筋から起き上がった由宇樹は、林の向こうにいる彼女をふと見る。斎藤は乗り込んできた者達と妙に楽しげに話し合っており、少年は顔を背けてしまう。

(まさか……やっぱ、あいつが?)

 問いは風にかき消された。



 由宇樹の期待は外れ、教室に現れた画魂は髪型が派手なだけの、シュッとした普通のイケメンぶって現れた。貴雷学院の基準服も嫌にかっこよく着こなし、一目見た騒々しい女子陣を刹那、静まり返らせる。そしてすぐ大歓声が沸き起こった。それを無視し、担任が淡々と紹介してゆき、由宇樹はげんなりする。

「加藤画魂くんはご両親の都合で……」

(普通に大嘘つくなってば。政府の回しもんが……って、まなくちゃんもなんだけどよぉ)

 気になるまなくは隣の教室に割り振られたれたらしく、男子陣のあれな歓声が教室後方の由宇樹の席まで響いてきた。だがこちらの女子陣のそれも変わらなくて、由宇樹他の男子勢はただため息である。業を煮やした教師に注意され一旦は静まった後も、ひそひそと女子逹のやりとりが聞こえてきた。

「あんなキラキラネームが、めっちゃ似合うとかさ」

「マジ、2次元がキターっ! て感じ」

 盛り上がる女子陣を横目に、由宇樹はおもむろに頬杖をつく。

(知り合いだってバレたら、めっちゃヤバそう)

 幸い画魂はあらゆる視線や憶測など、どこ吹く風。さっさと一番後ろの席に行き、音もなく腰をおろした。まだ続く女子陣の品定めが耳につく。

「雰囲気、貴雷くんに似てるよね、金髪ってだけじゃなく」

 改めて安堵した。由宇樹は、画魂への反発の正体に得心がいったので。

(やっぱ態度もどっか貴雷に似てっから、なんかあれなんだ)

 尊大に振る舞っても、彼らの実力からすれば致し方ないと諦めている。そんな庶民的な自重が、由宇樹の自己嫌悪の要素のひとつでもあった。頬杖でつらつら、由宇樹は考える。

(小学生でとっくに、練習プロのキーパーを何人も潰したようなやつだ。何人犠牲にしてきたんだか)

 「犠牲」、と考えた瞬間、由宇樹は吐き気と寒気がした。自らの深淵からかまくびをもたげる罪悪感に、背後から飲み込まれそうに感じる。

(犠牲って……おれは他人のこと、言えるのか?)

 ぐるぐる渦巻く思考に、囚われてしまう。すると眼前に赤い何か飛んできた。

(うわっ! き、金魚っ?)

 不意に目の前を、とりどりの花のような金魚が舞う。日本画から抜け出たようなそれは、まさしくそれ。

(……これって、確か浮世絵かなんかの?)

 歌川国芳作の「金魚尽くし」のそれが、口許を押さえて焦る由宇樹ににんまりと微笑んで消えた。振り向き睨めば、左斜め後ろの画魂が手をひらひらさせ、金魚と同じ笑みを向けてくる。考えを読まれた恥ずかしさに負けじと、由宇樹は目をすがめた。頬杖の画魂はただ笑っている。どこからか、のどかにペールギュントの「朝」が聞こえてくるのはご愛嬌。

 授業開始を朗らかな担任の声が告げた。画魂へのムカつきで、由宇樹は従姉妹達への哀しみに囚われるのを忘れていたが、その自覚は無い。 進学校での一週間ぶりの授業でも、由宇樹はあまり戸惑わずついていける。学校基準リュックから取り出した猪の歯形付きノートには、表紙に太いマジックで黒々と「織朔用」と書かれているのだ。

(あいつら、ノートとかプリントとか、余計なことして)

 部活の仲間達が、わざわざとってくれていた授業ノートである。ほとんどが乱暴な筆致で笑いを誘う。しかし一部、堂々とした綺麗な文字がえらく自己主張していた。

(貴雷……ツンデレとかおれらにすんなって)

 独裁的に見えて、実はかなりの気配り上手で世話好きなキャプテンに感謝する。ノートも彼の発案なのだろうから。丁寧に整理されたノートが妙にぼやけて見える。それはストレスのせいでなく、視界を洗うもののせいだ。




 体育は季節柄プール授業である。ぎらつく太陽の下の透明な大量の水に、由宇樹は数秒立ち止まった。震災の一ヶ月後にようやく家の風呂に入れたのだが、当時はその程度の量の水すら怖くなった記憶がある。その時は懸命に「綺麗なあったかいお湯! あの黒い壁じゃねぇ」と、己に言い聞かせたものだ。直接見てもいないのに、このありさまだ。実際に見た人のトラウマはどれほどなのだろうと、胸が痛んだものである。

 今はそこまでの感慨は無い。麻痺した、というよりあの暴力的な水とそれは違うと、きちんと腑に落ちている。準備体操をしながら、由宇樹はまなくを思う。女子は男子達の視線からの保護という名目で、隣の校舎屋上の、女子専用プールと創立時より決まっている。

「まなくの水着なんか、つまんねーぞ。胸、絶壁だし」

「んだよ? いきなり」

 見透かされて、由宇樹は傍らにいる画魂へ歯を剥いた。

「おれらと同い年でいきなり巨乳だったらおかしい……」

 そこまで反論し、由宇樹はデジャビュに押し黙る。まったく同じやり取りを、迅音とした記憶が蘇った。対象は紗由理で。小学生だったから、当然ながら同じ年代で巨乳などあり得ない。

 由宇樹が睨み付けたら、人の悪い笑みを浮かべた画魂の青い目とぶつかる。どうやらマジな時だけ、彼の目は真っ赤に燃え上がるらしい。舌打ちして屋上から遠くを見れば、白い何かが田畑を舐めて駆け寄ってきた。一気に血が引き、由宇樹は地平線すべてを覆うそれから視線を逸らす。

(んな訳ね! あれがまた、来る訳ねぇべ!)

 頭を抱えてかきむしる由宇樹の足元に、ひたひたと黒い水が絡みつく。最初に悲鳴を上げたのは由宇樹ではなく、隣のクラスの学年で一番体格が良い少年だった。それを合図に、少年達はパニックに陥り右往左往する。遠くに見えた白い波頭があっという間に黒い壁となって、由宇樹達の頭上で鎌首をもたげていた。四方を津波で囲まれ、由宇樹は声も出ない。震えたままその場で固まってしまう。

「これっ……お前らが、見たヤツ、かっ?」

 途切れ途切れに脳裡の少年少女へ問う。由宇樹は実際には津波に巻き込まれてはいないし、こんな真に迫っ映像も見てはいない。それでも、俯瞰で映された津波ですら、数秒も見ていられないのだ。動けず、歯をカチカチ鳴らしながらも、由宇樹は津波へ吼える。

「おれはここだ! おれだけ連れてけ! みんなば脅かすなっ!」

 悲鳴に似ているが、由宇樹は津波へ喧嘩を売ったのだ。立ち上がりかけてふらつくのを、画魂が支えてくれる。

「深呼吸しろ。力はいっから」

 落ち着いた声音のおかげで、由宇樹は自分の呼吸が浅いのに気づく。ミサンガの紫色の石が淡く輝く。言われるまま深呼吸していると、画魂はおもむろに立ち上がって辺りを睥睨して怒鳴った。

「ガオってんじゃねぇぞ! お前らァっ! こんなの乗り越えられっだろ!」

 ガオる、とはビビり怯えること。真っ青で逃げることもできず、騒ぐだけだった少年達は、やっと落ち着きを取り戻す。口惜しげな彼らへ、画魂は親指を立てた。

「女の子らを見習え」

 画魂が親指で示した隣の校舎の屋上では、がっちりした水着の女子達が、まなくの指示に従い静かに行動している。互いに手を重ね合わせて、頑丈なフェンスに掴まって備えていた。互いが互いを守り、庇いあう姿勢で。

 目に光が戻りゆく少年らが、ふらふらと真似るのを見ながら、画魂は海パン姿で詠唱を始める。途端に風が渦巻きミサンガめいた腕輪から、あの一抱えもある筆が光の塊として吐き出された。それを無造作に掴み、画魂が天を突くように掲げる。

「画聖召喚! 来いやぁ! 『富嶽三十六景神奈川沖浪裏ふがくさんじゅうろっけいかながわおきなみうら』ぁっ! 通称、波乗り富士ぃっ!」

 由宇樹の眼前に光の柱が立った。あたふたと由宇樹は画魂の傍へ行こうとフェンスへしがみつく。男性教師が目をむいている。

「あぶねぞ、おめらっ! 死にたくないなら降りろっ!」

 わめく教師に一瞥をくれ、画魂は高く掲げていた絵筆を軽々と操った。筆跡が黄金に輝く軌跡となる。光の軌跡は膨張し学校一帯を丸く包んだ。

 屋上の少年達へ迫り来る津波に、それよりも巨大な波が牙をむく。迫る津波とそのあり得ない大波が衝突してせめぎ合い、かの鮮やかな水色から藍のグラデーションが黒い壁を飲み込んだ。大波とともに現れた舟を駆るちょんまげの大人達は、その波に乗ってグイグイと進む。画魂もまたフェンスを蹴り、ひらりと別の波に乗った。しかし足に敷いているのはあの巨大な絵筆。たまらず、由宇樹はフェンスにすがりながらもツッコミを入れる。

「絵筆でサーフィンって、斬新過ぎだって!」

「んだべ! 絵面が面白すぎっと!」

 先ほどまで怯えていた同級生らが、やたらな元気を取り戻してゆく。

 委細構わぬ金赤ワカメ頭が指差した先へ、大波はざばりざばりと勢いよく進み、隣の校舎へ襲いかかる猛烈な津波とぶつかって、真っ向勝負だ。唐突に、「モルダウ」が流れてきた。まなくが、フェンスを奏でている。由宇樹は内心で突っ込む。

(水しか合ってねーし!)

 「モルダウ」のせいか、轟く波の音が不思議と怖くない――由宇樹は、五階建て校舎より高い津波へ次々に体当たりして屠る、鮮烈な大波を不思議な気持で見守っている。少女達が合唱し始めた。合唱コンクールで散々練習した曲だから、自分を励ますために歌っているのだろう。つられて男子達もくちずさみだす。歌声は小さな光の珠となり、少しずつ集まってやがて光の波と化してゆく。

 荒れ狂う津波の反撃で舟から一人落ちかけ、画魂の助けが間に合わない。大量の水に再び固まっていた由宇樹だが、意を決してあたふたとフェンスを這い登る。そしてフェンスに足をかけて、ちょんまげの彼へ思いきり手を伸ばして掴んだ。しかし重力と津波に負け、彼もろとも荒れた海面に落ちそうになる。歌が悲鳴になってしまう。由宇樹は男の腕を握りしめて目を瞑った。

(これで死ぬんだったら、ちょっとは紗由理らに顔向けできっかな)

 胸の奥では、いまだに真っ黒に塗りつぶされた彼女、彼は闇灰色を背景に沈黙中で。

(おれはダメでも、この人らは助けてやってけねが?)

 フェンスに引っかけた足が限界を告げている。津波に舐められ、浚われようとしたのを誰かががっしりと掴んだ。由宇樹は息を飲む。彼は歌い続けるたくさんの腕に支えられ、フェンス上にひっぱりあげられた。登ってきた皆でちょんまげの男性を引き上げる。近づいた舟へ、その男は「ありがとよ!」と叫んでなんなく乗り移った。画魂もようやく体勢を立て直し、竜と化した波頭を幾つも従え、黒い壁へ連続攻撃を仕掛けてゆく。由宇樹以外の少年達は激しく盛り上がる。

「かっけー!」

「いっけえぇえっ! ワカメ頭ァ!」

「火焔土器だでば! あとみんなもっと歌ってけろ! あんだらの歌、画魂ばすけてっがら!」

 騒ぐ少年達へ、隣の屋上からまなくが楽しげに突っ込む。気を取り直して歌い続ける女子達にあおられ、男子陣もまた思い切り声をあげる。大地を揺るがすように、光の波が立ち上って渦を巻く。そこから竜のごとき波頭がいくつも生まれ、画魂を乗せて次々黒い波へぶつかり、消滅させていった。ひときわ巨大な竜の波とともに、画魂が黒い壁へ突進しながら吼える。

「アートはビッグバンだぜ!」

「岡本太郎のぱくりかっての!」

 妙な体勢でフェンスを掴み、由宇樹が叫ぶ。

 光の炸裂と同時に、黒い壁はすべて砕かれてかき消された。見事にせり上がる大波の向こうで、鮮やかな富士山が現れる。生徒達は皆歓声をあげ手を叩く。すると小舟で波に乗っていたちょんまげ姿の者達も、大きく手を振ってそれに応えた。  画魂は再び絵筆の光でマヨイガへ通ずる扉を描く。あまりの歓呼に戸惑っていた江戸時代の人々が、手を振りながら扉へ吸い込まれていった。本来見えるはずのない富士山も、真夏の陽射しの中へ姿を隠す。後にはくっきりした大きな虹がかかる。 とんとフェンスの支柱を筆尻で突き、画魂も「商売道具」をミサンガっぽい腕輪にしまった。同時に多数の光珠も吸い込む。

 フェンスから回転して華麗に飛び降りた彼の元へ同級生達が集まろうとする。それを押しのけ、若き体育教師が彼へ近づいた。

「人助けは素晴らしいが危険行為は禁止だ。無茶しないで自分の身を守るのも、災害時には大切なんだぞ」

 不満げな皆へ目配せし、画魂は最敬礼してフェンスに登ったのを詫びる。

「オレが全部わりいや。他のみんなはオレにつられただけだし……な? つられて人助けしてくれたんだし」

 少年達はうんうんと頷いた。由宇樹もいつの間にか高いフェンスに登り、無我夢中でちょんまげ男を助けていた。手にはまだ、その男の温もりが残っている。

(おれでも、人は助けていいんだ……)

 助けることが許されているのだと、ふと合った画魂の眼差しに頷く。

 唐突に蝉の鳴き声に囲まれる。長く感じられた「事件」は意外に短くかたづいており、残る授業時間は皆が波乗りごっこを始めてしまって、体育教師は苦笑いしていた。

 校庭の木陰で、陰鬱な彫像めく存在が屋上を見やって消えてゆく。




 そんなこんなの昼休み。

 画魂は女子生徒ほぼ全員に追い回され、仕方なく呼び出したエッシャーのだまし絵「無限階段」と窓枠を伝って逃げて行く。女子陣から逃げられても、やはり厨二病全開! スーパーヒーロー大好き! の男子らにも取り囲まれる。その中からも驚異の跳躍力で飛び抜け、運動部からの勧誘勢もさらに煽ってしまった。

 その「捕り物」をベランダから、野菜ジュースを片手に由宇樹は眺める。

「難儀だなや」

 まなくは、と見や回すと、隣のベランダからさえずるように笑って眺めていた。

「ほれーっ、そっつさ逃げだてば」

「裏切りもんんんっ!」

 煽るまなくを睨み、画魂は窓枠を伝うのをやめ、キリコの不可思議な町並みを呼び出してその中へ消える。肩をすくめ、由宇樹はジュースの残りを吸い上げた。片頬杖で探し回る集団をぼぅっと見て考える。

(あの津波も絵から出されたんかな)

 あんなリアルな津波を、震災後数年経ずに描けるその神経が信じられない。ちょんちょんと肩を指先でつつかれ、やる気なく由宇樹は振り向いた。そこには異次元に消えたはずの火焔土器頭がいる。

「あの津波なぁ、あれヤバかったんだぜ」

「余裕ぶっこいてたクセに」

 うざそうに応える由宇樹へ、画魂は低く息を吐く。

「あれな、アートセラピーで、ちっちゃい子が描いたやつだと最初は思ってた」

「あ……」

 由宇樹は、阪神大震災で被災した子供が描いた、黒い虹の絵を思い出す。震災前は「かわいそう」と思ったが、まさか自分も似たようなものを描いてしまうとは想像もしていなかった。

 画魂は火焔土器頭をがしがしとかく。それでもびくともしない髪型に、由宇樹は感心した。ベランダの手すりに伏し、画魂が低く呟く。

「あれ、言ってた映像のやつかもしんねぇ」

「そらっ……!」

 傍らで由宇樹はジュースのパックを握りつぶした。中身がほとんど飛び出なくて幸い。

「でなきゃ、このオレがあんなにてこずらねぇ」

 悔しげに呟く画魂の横顔は、逞しい腕に隠れて鼻から上だけが見える。舟の客が危うく落ちそうになるヘマなど、やらかしたことがないとまだまだブツブツぼやく。

「あれがデジタル映像だとすっと、コピーも原本も全然変わんねぇ。だから一本ありゃ実体化の元が無限にできちまう」

「う……」

「一枚の絵を実体化させんの発電量で換算すっと、この町一年分は要る。訓練なしに、単独で空間からそれ引き出すの、ぜってー無理なんだ。『犯人』のエネルギー源を探らなくちゃいけねえ」

 高度に進化したバイオマス発電装置によって、瀬織津地区のエネルギーは賄われている。一説によれば、この町の一年分のエネルギー発電量は原発一基分以上とも聞く。それが簡単に画闘士以外にできるのには、ありえないことだと火炎土器頭は言う。 ため息とともに由宇樹もヘタレて手すりに突っ伏す。

「んな途方もねえエネルギーっつうの、お前こそどっから出してくんだ?」

「前もいったべ、星な。つか、人が人を思う、気合いとか気力とか、磨かれた魂が元だってお師匠さんが言ってた。んだから、めちゃくちゃ修行した」

 師匠や修行と聞いて、由宇樹はなんとなくほっとした。漫画や映画の凄いヒーロー達も、才能を伸ばすために修行は必須だったはず。非常識な能力持ちの画魂も生きた人間だったと、安堵したのだ。

「……お師匠さんがいなきゃ、こんな力の使い方とかできねで、オレぁ自滅してた」

 俺様な画魂が殊勝な物言いをする。拳を握りしめ、火焔土器頭は手すりに拳を打ちつけた。

「とにかく! あんな真似できんのは、その犯人だけの力じゃねえ……魂の力が強いもんに寄生して、吸い取って使ってやがんだ。その人らを苦しめて……」

 画魂の青い瞳が赤く燃えあがる。

「他人の力を奪ってこんな真似するなんざ、絶対に許さねえ!」

 幾度か拳で手すりを叩き、金赤メッシュのイケメンが低く吼えた。何も言えず、由宇樹は画魂の肩にかけようとした手をひっこめる。自分ごときが何を言おうと、彼の慰めにならない気がした。画魂は大切な何かを喪っている。由宇樹と同じく。 直感した想いを伝えるべきか悩むうちに、画魂が女子達に見つかった。悩めるヒーローは、慌ててベランダから飛び降りようとする。焦った由宇樹が手を伸ばした瞬間、逞しい腕が画魂のカッターシャツを掴んだ。八の字眉になった貴雷が、画魂をわし掴んでベランダへ引き戻す。そしてベランダから階下で騒ぐ生徒達へ、「もうすぐ予鈴だよ」と優雅に手を振った。生徒達は「ヤバい!」と散らばって行く。彼はおもむろに由宇樹へ尋ねた。

「織朔、さっきのあれは大丈夫だったのかな?」

 呼びかけられた「あれ」とは津波のこと。チャラくも尊大だが、気配りは人一倍の貴雷に、由宇樹は「大丈夫だ」と頷いた。ベランダから華麗に貴雷が立ち去ると、タイミングを窺っていたらしい教師が声をかけてくる。

「なーんか、貴雷くんってば、織朔くんのお父さんみたいだね」

 背後からの声に思わず振り向けば、そこにスクールカウンセラーの斎藤がいた。彼女は巨乳が目立たないチュニックを着て、三十代半ばにしては幼い笑顔をふりまく。由宇樹は、過去に視点を置かない斎藤のカウンセリングで一時は楽になっていたのだ。ある噂を知るまでは。 虚ろな笑みを貼り付けて、由宇樹は僅かに後退りした。斎藤に今は関わりたくない。

(相談した迅音らのこと、ネットに書いて……)

 斎藤がやってきてすぐ、学校の裏サイトで「あいつ、絶対信用したらダメだ。被害者の俺からの忠告だ」と中傷されていたらしい。噂したのは誰か知らないが、図書館で本を探している時に本棚の向こうからそれは聞こえてきた。

(ネットの匿名のやつの言うこととか、知らねえヤツのこと、信用できねかったけど)

 しかしその後、彼女にだけ相談した内容が嘲笑とともに裏サイトに晒されていたと聞き、その匿名の「証言」が真実だったと由宇樹は信じている。

(おれがあの絵、塗りつぶして隠したの、あいつにしか言ってねぇ)

 相談室は防音で、机や椅子も扉からけっこう離されていた。優しい笑みの斎藤のぽってり唇が綴ったのを覚えている。

『相談の内容は学校にも誰にも秘密厳守だから、安心して』

 けれど大切な秘密は数日後、部活のため階段を降りるうちに、複数の人々の嘲る声で階上から降ってきた。

『裏サイトにあったの。あの人、大事な絵、真っ黒に塗ったって』

『頭おかしくなってんじゃね?』

 由宇樹は凍りつき耳を塞ぐ。金属音がキュルキュルと響いた。頭を振って金毒音を押しのけ、すぐさま駆け上がったが、誰も階段周りにはいなかったのである。しばらく周りを探したが、噂の主はどうしても見つからなかった。 凍れる由宇樹を庇うように、画魂が斎藤から背に隠す。

「あ、先生! オレまだ飯食ってねぇんで、相談室で食べさしてください」

「いーよ」

 にこにこと大人に対峙した画魂は、由宇樹へチラリと視線を送る。唇を噛んでいた少年は、画魂の背中を頼もしく見送った。

(探り、いれてけんのが?)

 金赤メッシュの火焔土器頭は、数回手を振って応える。

(頼む)

 由宇樹の内心の声に火焔土器頭が縦に揺らめいた。早飯食いの由宇樹は残りの昼休みを読書で済ますべく、机に戻って図書館から借りた本を開く。画魂達がいる安堵感から、今日はすぐ没頭できた。

 陽射しは強いが、冷暖房完備の校舎は快適である。




 放課後。溜まった暑さがまだ引かない夕方に、由宇樹はてくてくと自転車を押して校門を出る。震災直後からずっと、よほどの非常時以外は自転車に乗らない。

(やっぱまだ乗りたくねぇ)

 学校から家までは自転車で二十分はかかるから、久しぶりに部活を終えた身にはけっこうきつい。けれど未だに、由宇樹はそれが義務か儀式のごとく行う。

 交差点にさしかかると、プラカードを持った人々が彼の行く先を占拠していた。どう避けようか逡巡していれば、突然自転車が重くなる。良い匂いが鼻腔をくすぐってむずむず。重みの正体はすぐ知れた。

「まなくちゃん、危ねぇって」

「いーがらぁ、乗っけてけらいん」

 艶やかな髪にふちどられた大きな瞳が、きらきらと由宇樹を映す。不思議な翠色に、由宇樹は自転車をがっちり押さえ、臣下の礼をして見せる。

「姫、さぁどうぞって言いてえけど……おれ……」

 後ろに人を載せるのはまだ怖い。困った由宇樹に、まなくは当惑したようだ。だがすぐにサドルへふわりと移り、親指を立てて不敵に笑んで荷台を差す。

「あんだが後ろさ乗んな」

 あまりの男前っぷりに、由宇樹は素直に従う。

「おねげえしますだ」

「なぁにおだって~」

 おどける由宇樹へまなくが振り向く。背の半ばを超える長い髪がさらさら揺れる。紗由理は肩ぐらいだったなと、メガネを上げて由宇樹は取っ手を掴んだ。

 カウントダウン信号があと二秒を示す。プラカードを持った団体が声高に主張して、彼らの行く手を塞ぎにかかる。まなくが混み合う交差点を一瞥し、ぽつりと呟く。

「まくるべ」

「へ?」

 肩をいからせたまなくが思いきりペダルを蹴った。弾かれたごとく、まなくと由宇樹を乗せた自転車は弾丸となり、ダンプや自動車の狭間を器用にすり抜ける。もちろん団体の人々の、僅かな狭間さえも優雅に。焦る由宇樹が悲鳴をあげた。「ちょっ、待ぁああぁっ!」

 由宇樹が止める声は虚しく背後へ流れた。重なるクラクションもあっという間に遥か彼方。横っ飛びにアスファルトを斬りつけ、急カーブを走り抜ける。ケダモノモードのまなくの後ろで、平身低頭の由宇樹が出鼻をくじかれた運転手達へ謝り倒す。運転手達も苦笑いだ。頭を下げながら由宇樹も笑いが抑えきれない。

「なんさスイッチ入ってんだか」

 開けた空の下。巨大な薄緑色のドーム群にさしかかり、まなくが由宇樹へ尋ねる。

「あの丸いの、なにっしゃ?」

「あっ、あれっ……野菜とかの水耕栽培とっ、バイオマス発電プラントぉっ!」

「おらの樂魂ミュウルの力と競ってみでぇ」

 横顔のまなくの翠が燃える。言っている意味がよくわかっていない由宇樹だが、生意気そうな笑みが愛くるしいから黙って頷いた。 並んで建つ通常の野菜の水耕栽培プラントも、すべて背後へ飛ぶ。まなくが歌う。

「はーたけもとーぶ飛ぶ、いーえも飛ぶぅー!」

 自動車をぶっちぎる暴走チャリは、普段の半分以下の時間で自宅へ着いた。 ふらつきながら自転車を降り、由宇樹はくらくらする視界を頭のマッサージで戻しにかかる。そのテクは斎藤のアイディアだ。ストレスでの一時的な視界の歪みで、眩暈に悩まされていたから、その辺は感謝している。本当はメガネなどかけていたくはない。けれど裸眼で周りを見る勇気はいまだに湧かない。




 自転車を定位置に置いてきたまなくへ由宇樹が聞いてみる。

「そういや、加藤くんは何してんだ?」

 怪訝な表情を浮かべていたまなくは、「ああ!」と首肯して腕を高く掲げ天を指差す。戸惑った由宇樹だが、白い指先に差された青を見上げた。青空には悠々と大きな鳥が舞っている。そう珍しくもない光景に、由宇樹は首を傾げた。しかし、鳥が舞い降りてきて目を剥く。

「でっ、でっけえ!」

 翼を広げた鳥は、織朔宅を覆うくらい巨大な鷲。滑空する鷲の上に見覚えありすぎな少年が佇む。由宇樹は顎がはずれそうに口を開けてしまう。

「なんだ? ありゃ~っ!」

「よっ!」

 二本指を立てて敬礼した画魂は、マントを閃かせて颯爽と庭へ飛び降りる。どうやらその大鷲を駆って、あちこちを見回っていたらしい。

 笑顔のまなくが火焔土器頭とハイタッチしに行く。由宇樹もつられてしてしまい、何か口惜しくなる。画魂はマントを閃かせてマヨイガへ大鷲を送り、開いた光の扉を見つめてまなくが紡ぐ。

「あの鷲、歌川広重の『名所江戸百景めいしょえどひゃっけい』だっちゃ。遠くの江戸の町ば、見下ろしてる鷲だぁ」

 まなくがどこからか取り出した週刊誌大のタブレット端末に、「深川洲崎十万坪ふかがわすざきじゅうまんつぼ」という浮世絵が表示された。空を舞っているらしい一羽の鷲が、ことさら大きく画面の上部いっぱいに描かれている。鷲が見下ろす遥か下方に、その深川の町であろう地上の街並みが小さく見えていた。滅茶苦茶に大胆な構図で、一度見たら忘れそうにない。感心しながら由宇樹が呟く。

「つか、浮世絵好きなんだな」

 光の扉を閉じた画魂が得意げに由宇樹へ語る。

「浮世絵の画聖らと、相性が良いんだ。師匠もオレも好きだし。その画聖さんに描いてもらったし」

 画魂はマントを少し上げて見せた。マントの裏側に、同じ構図で鷲がいない絵があって、由宇樹はドン引きする。

「描かせたのかよ? わざわざ? あの歌川さん本人に?」

「おう。だからあのだーい好きな大鷲くんも、あんま休ませなくっても、自在に出せんのっしゃ」

 まなくが笑む。呆れる由宇樹を意に介さず、口の端を上げた金赤ワカメ頭がぼそり。

「あと、織朔ママンの唐揚げも、パパンのカレーも好きだし」

 画魂が軽口を叩くと、凶暴な咆哮が庭に響き渡る。オレンジ色の百合に似た小さな花も、逞しい松の梢すらも震えた。あたふたと周囲を警戒し見回すが、ヤバそうな生物は見当たらない。けれど何故かまなくが真っ赤になっている。

「……腹ぁ減った……」

「おれ、なんか作るわ」

 彼女の「凶暴」ぶりが身に染みた由宇樹は、半笑いで玄関へ走る。ほうっておけば、まなくに庭から家から食い尽くされそうな気がして。




 彼らが来て数日後の夜。強い風に雲がびゅんびゅん流され、月を開けたり閉じたりしているよう。地道に二周目の青チャートをこなし、由宇樹は風に煽られたイグネの木々が鳴る音に一息つく。木々はどんどん息を吹き返し、緑が日々深まっている。

(まなくちゃんが、よく奏でてるせいなんかな)

 考え込んでいた由宇樹は、昔から自宅の周辺に出没していた、杖の老人を不意に思い出した。彼は大学の講師を引退した植物学者で、後にこの辺の固有種である「ツヅノマナク」の再発見者となった人物である。燃料が取れると言実証されたそれの研究のために施設が造られ、この地区はこんなにも活性化しているのだ。

(あの人、残念だったな……)

 以前は精力的に自力で歩き回っていた彼だったが、震災の少し前にテレビで見かけた時には車椅子に乗っていた。それでも彼は、かくしゃくとして解説していたのである。

『これの正式名称は「ツヅノワラスコノマナク」と言います。意味は星のわらべの目、です。私は勝手に「星の天使の瞳」と呼んでいます』

 得意そうな博士の、悪戯っぽく語る瞳が印象的だった。その彼も今は亡い。津波に呑み込まれて奇跡的に助かったが、数日後にこの世を去ったと父から知らされている。大発見の後に事故で腰を痛め、車椅子に乗っていたせいで逃げ遅れたのだとも聞く。「ツヅノマナク」の研究はそれで一時、頓挫したとも噂されていた。

(それが今じゃ、反対運動まであんな盛り上がって)

 一昨日も昨日も今日もずっと、「サプリ」の存在に反発する人々のデモに出くわしている。当事者であろう姉のゆりあは、相変わらずのほほんとしていたが。

 再び風が鳴る。

 風のうねる音、それに伴う家鳴りが怖いと、昔はよく迅音や紗由理に言ったものだ。迅音は笑ったが、紗由理は彼を叱り、由宇樹を慰めてくれたのが甦る。

『おっかねぇのいっぱいある人は、他人のおっかねぇのもよくわかって、優しいんだから』

 そう言ってくれた紗由理の微笑みが蘇り、胸がつきんと痛む。

 彼女は幼い頃から思いやり深く、災害のニュースを見ては『お医者さんになって、みんなばたすけてあげたい』と、由宇樹にだけ打ち明けていた。当時、サッカー選手になることしか頭になかった由宇樹だが、今は紗由理の純な夢を自分が叶えたいと願っている。従姉妹のもうひとつの夢は、ちょい無理そうだが。

 ふと、あれこれへ思いを馳せた理由が知れた。外からのピアノの調べに鼓膜を撫でられる。カーテンを開けると、まなくが光の音符を弾く予定調和。

(まなくちゃん、なんでも弾けるから)

 紗由理のもうひとつの夢はピアノ奏者だった。低学年の頃は、隣家からぎごちない音符がぽろぽろと散ってきたような状態。しかし零れる音符はだんだんと曲として奏でられるようになり、高学年になったときには、聞き惚れるほどになったのである。 未来はただ輝きに満ち、由宇樹達を手招いていた頃が鮮明になった。まなくが奏でる調べは、それを奥底から導き出してくれる。頬杖で由宇樹が微笑む。

(あんなムチャクチャなのに、めっちゃ繊細なんだ)

 音楽の時間にも聞かされたことがあるショパンの「夜想曲ノクターン」が、居眠りでなく安らぎを誘う。由宇樹を包む旋律が優しく渦を巻いて細胞へ染み入るようだ。きらきらと音符のひとつひとつが煌めき、それが連なって甘く穏やかな香りの記憶さえ呼び覚ます。

 柔らかな音のミストの中でたゆたっていれば、突然旋律が変わった。荒々しく豪気なそれは運動会でよく聞く行進曲っぽい。急いで窓を開けると、織朔家を囲む屋敷林を、宙に浮かんで爪弾くまなくが目に入る。キュルキュルと、甲高く不快な金属音が降ってきた。三日月を背景にしたまなくは、背を反らせて剛胆に笑む。彼女の周囲を花火が舞い散る。由宇樹がため息で見入った。

「綺麗な演出だな」

 けれどそれは演出でなく、まなく達を狙って放たれた火の玉である。きらびやかな台座に載った胸像がいくつも飛び交い、彼らを苛烈に火弾で攻めているのだ。 事態に気づいた由宇樹は部屋を飛び出す。家族達は持ち帰った仕事をしたり勉強したりで、騒ぎに気づいていない。多少の騒ぎも気にならないほど集中する家系なのだ。

 これ幸いに由宇樹がサンダルで庭へ出ると、画魂が例の大鷲で夜空を駆け回っている。大鷲が高く鳴いて天を滑り、連射された多数の火弾をすべて避けた。画魂が手にした刃で、魔弾の射手を斬り結ぶ。その様が嫌にかっこよくてムカつく。

「なんかフツーの勇者様みてえ」

「おめえもなんか手伝えっての!」

 燃える刃で胸像を真っ二つにした画魂が吼えた。さらにムッとした由宇樹が茂みに隠れて反論する。

「んな訳のわかんねの、一般人のおれにどーしろって」

 言っているそばから、かの怪物が由宇樹へ向かい火の玉をいくつも吐き出した。

(あいつ、やっとちゃんと見えた)

 目の端に気づくといた、不可思議な存在。荒玉浜でも家の周りでも学校でも、何故か胸像が目の端にいて、振り返るがそこにはいない。それを数年前から繰り返し、美術室の胸像の幽霊かと無理矢理に納得していた。それが今、醜悪な正体を晒して襲いかかってきている。

 横っ飛びし、由宇樹はかろうじて火弾を避ける。だが避けた火弾が茂みを燃やしてしまう。ホースを取りに走るが、足元を追って火弾が連なり火柱を立てる。

「やべっ、家が」

 震災であちこちガタがきているが、まだまだ元気に建つ家を火災で奪われてはたまらない。焦るだけ焦っていれば、水飛沫が火柱を消していく。宙を舞う魚型の光が飛沫をあげているのだ。屋敷林のまなくが、今度は「ます」を奏でている。次々に消し止めていく光の魚の群れを、不気味な胸像が火弾で襲う。まなくのいる屋敷林にも火の手が上がった。軒先から窺う由宇樹が叫ぶ。

「まなくちゃあんっ!」

 火弾は由宇樹へも何発も放たれ、後ずさりしながら燃え立つ林を見ているしかできない。後ずさった足に何かが当たった。それはサッカーボールで。

 光の魚を呼び戻したまなくの正面に胸像が降り立つ。辺りを化物達に囲まれ、まなくは愛らしい唇を噛みしめた。画魂はまた別の胸像群に誘き出されており、遠い雲の上で足止めされている。集中砲火の餌食になるならと、まなくは一体の胸像へ体当たりしようとした。だが、その胸像は頭を砕かれて墜落する。由宇樹が渾身の力を込め、ボールを放ったのだ。

「意外と弱っ!」

 拍子抜けした由宇樹だが、自分へ向き直った胸像群に総毛立つ。あわあわしながら逃げ、その後を胸像群からの火弾が連なる。庭の外へ逃げて由宇樹は不敵に笑んだ。

「おれが囮んなってやったし」

 これでまなくや家が守られるなら本望と覚悟する。走るうちに火玉が上着を掠めたのか、焦げ臭い匂いとヤバい熱さが背中からきた。

「っ!」

 転がった由宇樹が上着の火を消すが、先刻のまなく同様、胸像群に周りを囲まれてしまう。

「も、ダメだぁ」

『ピンチはチャンスだべ! あきらめんな!』

 頭を抱え目を瞑ったとき、迅音が怒鳴った気がした。小学生サッカー大会でPKの一回目を受け損ねた際、幼なじみの少年からかけられた言葉だ。

「おれ、はっ」

 諦めないと片目を開けるが、いつになっても覚悟した火の熱さも痛みも来ない。頭を庇って組んでいた腕をはずすと、頭上に大鷹の翼があった。天をいっぱいに覆う翼が、雨のごとく降りかかる火弾を弾き返している。執拗な攻撃に飽きた大鷲がひとたび羽ばたけば、胸像群は枯葉のように蹴散らされた。仰ぐ由宇樹は、凄まじい強風に他の家が心配になる。しかし風は胸像群だけを散らせていた。曲はワーグナーの「ワルキューレの騎行」に代わっていて、それが勇壮に響く。

 白い光でできた羽根が胸像を端から貫き、次から次へと消滅させる。白い羽を浴びせていたのは、演奏しながら凛々しく羽ばたくまなくであった。見とれていると誰かに首根っこを掴まれる。そんな無礼者は画魂だろう。

「由宇樹! 来いや!」

 そのまま吊り上げられて大鷲に乗せられる。呼吸困難で由宇樹がじたばたと暴れ、解放されて激しく咳き込んだ。咳をなんとかおさめ、由宇樹は火焔土器頭の胸ぐらを掴む。

「おめ、死んだらどうすんだっ?」

「だってお前、簡単に死ぬタマじゃねえし!」

「あんだとぉっ!」

 怒鳴り合っている場合かと、鷲が鳴く。例の胸像が整然と増殖し、懲りずに火弾を吐きまくっている。由宇樹が口許を押さえて呟く。

「なんなんだ? あれ……」

「ありゃな、『スタチュー』ってんだ。人間の悪意を懲り固めて作られた下っぱ戦闘員だぜ」

「戦闘員なのに、イーッて鳴かねえのな」

「古っ……」

 由宇樹の応えに画魂ががくりとへたる。鷲まで失速しそうになったが、気力で持ち直してくれた。まなくから当然のツッコミが入る。

「しゃんとしねか! ごっしゃぐど!」

「……もうごっしゃいてんじゃん……」

 画魂がふらふら立ち上がり、炎をまとう刃を構えた。鼻を鳴らし由宇樹も。「やっぱ剣でねえと絵になんねえからか? 設定がありがちじゃね?」

 片目で由宇樹を一瞥し、画魂が横顔でふてぶてしく笑む。

「こいつぁペインティングナイフの画刃ガイバだ。そこらの剣と一味違うぜ」

 かざされた刃をよく見れば、確かに油絵で使うペインティングナイフに似た形だ。一瞬納得したが、何か口惜しい。

「そんなんであの大群、倒せんのかよっ?」

 ずらりと天まで筒状に彼らを取り囲む、スタチューの大群を見上げ、由宇樹は改めて息を呑む。化物らは金属音のような鳴き声でざわめく。画魂は片眉を吊り上げ、悪そうに笑んで画刃を掲げる。

「こんなの一発だぜ」

 無造作に画魂が空を一閃した。ざわめく化物達の蠢きがパタリと止まる。切り裂かれた空間がぺらりと剥がれ落ちた。空間とともにスタチューの大群が、ぽろぽろと剥がれて光に散じる。画魂が画刃をふるうたび、空間ごとぺりぺりと胸像どもは剥がれ消えていく。メガネをあげて由宇樹が綴る。

「ペインティングナイフって、盛りすぎた絵の具を削りとるんだけど」

 低い由宇樹の呟きに、とことこと光の階段を登ってきたまなくが応えた。

「この場の盛りすぎた絵の具っつーのはなぁ、人の執着のこっだ。空間さ、しつっこくくっついたやつ、ひっぺがして素のエネルギーさ戻してやんのっしゃ。それ、画刃でねえどできねえんだ」

 こともなげに解説するまなくに、由宇樹がただ頷く。現象がとんでもなさ過ぎて、素直に聞くしかない。

 やがて不快な金属音のざわめきは消え、穏やかで蒸し暑い夜が戻った。こんな大事件が起きたのに、瀬織津地区一帯で騒ぐ者はいない。光の階段から跳ねて大鷲へ飛び乗り、髪をさらっとかきあげたまなくが紡ぐ。

「あれば知覚できるやづ、滅多にいねのな」

「あんなすげえ大変だったのに、みんなさ見えねかったのが?」

 少し残念で、由宇樹が肩をすくめた。

「ああ、音も聞こえもしぇね」

 まなくも残念そう。爆発音や金属音はともかく、こんな時に彼女が奏でる至高の演奏すら、由宇樹以外の人の耳には届きにくいらしい。

 眼下の通りを誰かが駆けて行くのが見える。だがそれはただのランニングらしく、普通にペースを保っていた。きっとその人物には、何も聞こえてはいないのだろう。

 大鷲はゆっくりと夜空を遊覧し、由宇樹の家へ向かい優雅に降りていく。短い夜間飛行であったが、まるで映画の一場面。先に門前の道路へ飛び降りた由宇樹は、ふわりと舞い降りるまなくをぼうっと眺めていた。画魂もひらりと降り立ち、大鷲は彼の真上で翼を広げ、そのまま光のマントに吸い込まれて消える。画魂とまなくは、関節をこきこき言わせながら門をくぐっって行った。まなくを見つめていた由宇樹も、慌てて門をくぐる。

 彼らの消えた玄関へ向かい歩いていると、足元にスタチューを砕いたボールが転がってきた。あまりに無傷なので、夢だったのかとまごつく。が、シャツの端とサンダルに焦げ痕が残っているのに気づいた。茂みや芝草にも痕跡がないから、由宇樹がぼやく。

「服のだって、再生してけろや。これこそごっしゃがれっぺや」

 遠く低く、フクロウが鳴いた。緑色の小さな何かがいくつか、イグネの木々を駆け上がる。そしてイグネは鎮まり、密やかに翠を紡ぐ。

 門前を駆け去る人の気配がする。一瞬、大切な何かが奪われてしまった気がした。が、それが何かわからなくて、由宇樹は息を吐いて玄関へ向かう。

 由宇樹宅の生垣の向こう側で、ランニング中らしいジャージ姿の斎藤が足踏みしていた。複雑な笑みを浮かべた彼女は、道を再び駆けて行く。




 蝉の声が耳につくある日の放課後。まなくは科学室にこっそり忍びこんでいる。学校七不思議のひとつは、科学室が舞台なのだ。女子達から聞いた話によれば、科学室で作業していた教師が幻の津波を見たと言う。痩せすぎとぽっちゃりのペアが、熱心に教えてくれたのだ。

『昼間なのになんか暗くなって、いきなり足元が冷たくなって、見たらひたひたって少しずつ黒い水が……』

『どんどん流れできてさぁ、まるであの日の再現でねがって……真っ青んなって机さ登ったら、消えたって』

「だっつーんだけんど」

 白く華奢な指で髪を梳き、まなくは腕組みで考えこむ。

「この特別教室棟できたの、震災後だべした。しかも高台でぇ、被害ほとんどねかったはずだし」

 根本的な設定の崩壊に時間差で突っ込み、まなくは嘆息した。彼女らにも、誰にも悪気は無い。ただ当時の恐怖や苦痛を皆と追体験し、共有したいだけなのだ。

「だけんど、それ広めったの、地元のもんでねぇのが、やんだ」

 ブツブツ一人でぼやく。彼女が所属する陰国庁には「樂闘士」から派生した、異次元的な能力を発揮するハッカー集団を擁した技術課が存在する。彼らは直後から現在までの、震災にまつわる怪談をことごとくチェックし、すべての元凶を突き止めていた。

『ほとんどが、被災地域からめっちゃ遠いとこのやづらが便乗してるっつーの、頭さくる。こんなやづらばのさばらして、ごめんな』

 それすら自己顕示の道具かと、「彼」と仲間達は怒りを露にし、この被災地への無作法を「犯人」らに代わって謝罪までしている。

 怒れる彼らの活躍で、今回の絵画主題不在事件に関する噂や都市伝説もことごとく調査され尽くしていた。その中に不思議なIPアドレスがあったのである。現実にはありえないそれが、噂の大元。

 科学室の隣には科学準備室がある。まなくは人差し指を指揮棒に見立て、ドアノブへリズムを描いた。ドアノブはガチャリと簡単に開く。空間を奏でる「樂闘士」のまなくは、なんでも楽器として自由に操れるのだ。

 いくら探しても科学準備室には備え付けのパソコン本体は無い。現在は教師も生徒達も全員、タブレット端末で作業をこなしているのだから。まなくは再び小首を傾げる。

「科学室にも、モニターしかねぇし。けんどアドレスはここって、なんだべ?」

 悩むまなくは天井へ視線を移した。そこに黒灰色の霧がぞわぞわと集まり、巨大な顔を形作る。男とも女ともつかない不気味な顔は、ニタァと粘着質な笑いを浮かべた。それはスタチューによく似て非なると、見下ろされたまなくは見透かして笑みを返す。

「おめがネットで変な噂ばらまいてんのけ?」

 畳より大きな顔の口が耳辺りまで裂ける。まなくが左手を掲げ指を鳴らすと、光の鍵盤が現れた。まなくの背に光の翼も羽ばたき、清らかな輝きに畳顔がたじろぐ。にっこりと笑み、まなくが挨拶する。

「付喪神かなんか知らねえけんど、悪さすんだったらほどくしかねぇ。聞いてけろ。おらのオリジナルだ」

 ざわざわと天井で蠢く黒い粒子が、人間のてのひらのごとく広がって、演奏するまなくに掴みかかった。構わずまなくは鍵盤を打ち鳴らす。重厚な音階は光の花々を形作り、掴みかかる黒い手を包み込む。黒い粒子が逃れようとするが、光の花弁が許さず包んで離さない。すべての黒を抱きしめ、花の調べはそれを取り込んでしまった。

 光の花が弾け、まなくは深呼吸して演奏を終える。そして深く礼をした。光の花に封じられた元・畳顔は、旧式のデスクトップパソコンの幻となって揺らめく。それを撫で、まなくが優しく話しかけた。

「おめ、本体は流されて海の底にあんだな」

 パソコンの幻は頷くように揺れる。モニターに映し出されたのは、導入された華々しい日から本体が三次元から失われるまでの記憶。旧式として処分されることになり、勇退する教師に引き取られ、彼女の自宅で津波に流されるまでが映しだされた。 幻を撫でていたまなくは甘い色の唇で囁く。

「壊れても投げらんねで、大事にされてたんだっちゃ」

 だから付喪神となり、本体が失われてもその魂は失われなかったのだろう。引き取った老教師が化学を専門としていたため、懐かしい科学室に入り浸っていたのだ。

「そのせんせもが?」

 モニターの老女の映像が滲んで掠む。泣くのを我慢している子供みたいで、まなくはパソコンの幻を抱きしめた。

「泣いだらいいっちゃ……」

 よしよしと撫でてやるうちに付喪神は落ち着き、まなくの光の翼に溶けていく。

「いがったなぁ……!」

 眦を拳で拭い、まなくは息を吐いた。健気に持ち主を探し回って、やっとここにたどり着いた付喪神。その哀しい魂につけこみ、利用した者がこの学校にいる。

「一緒にせんせば探してけっからぁ、ちょっと、すけてけらい」

 同様に利用されたパソコンや携帯の付喪神達がいて、存在しないIPアドレスから今も心無い噂がSNSなどに書き込まれ、拡散されているのだ。それをすべて浄化してやりたい――まなくの翠の瞳が強い光を帯びる。

「あばいん」

 黒い影から何かの形を成そうとする者達が、まなくの背後にわらわらと現れた。ぺたぺた、上履きの音がまなくの後をついてゆく。他の教室もチェックして回るのだ。そして影達もひょこひょこ。先ほどの浄化の「噂」が広まったらしく、いままで黒い障気となっていた付喪神達は元の姿を懸命に編んでついてくるのだ。

 まなくが振り向くと、影達は止まる。彼女はふわりと笑んだ。

「あんだら、携帯とかが?」

 影達がこくこくと頷くから、まなくは口許へ手を寄せ、ふっと息を送ってやる。それが光の霧に変わり、影達を包む。小さな影達は携帯やスマートフォンだった。彼らはおっかなびっくり、まなくを窺いながらひょこひょこついてくる。

「くるまんとんてんかんみてだぁ」

 「だるまさんがころんだ」みたいだと、横顔で眺めてまなくが紡ぐ。携帯やスマートフォンの幻影達は、おそらく津波で持ち主とともに流されたもの。魂だけで持ち主を探すうちに、パソコンの付喪神と同じくここに無理に集められたのだろう。彼らから仄かに発された光珠をてのひらに集めかけ、少女は白い手を握りこんだ。

「まぁだおめら、その形さ保って働いてけらい」

 そして幼稚園の引率よろしく、まなくは小さな影達を率いて歩く。

「このわらすこ達ば、霊的ネットワークさ使ってたんださ」

 穏やかにいながら、まなくは怒り心頭に達している。生きていても亡くなっていても、元は無機物であっても、そんな扱いは虐待だ。

「必ず犯人ば捕まえて、持ち主さ返してやっかんな」

 学校中と町の一部に張り巡らされていた「目」と、幻のIPアドレスからデマを広める「口」を絶つ。そうすれば犯人は、焦って本性を現すはず。

「念入りに仕返ししてやっぺ」

 怒れるまなくの笑みは壮絶なほど美しい。犯人の「目」の名残が、その凄絶さにたじろいだようだ。その残滓を追えば、「サプリ」反対運動を扇動する別の者達の意識も引っかかってきた。

 まなくは瞑目し、それを探る。すぐに探り当てた正体に、彼女は苦笑いした。そして手を虚空に伸ばす。その腕は光の膜の彼方へ消えた。それは光の回線で、複数の回線を通じてまなくが光珠を纏って想いを走らせる。光の回線は日本のあちこちに散らばり、その先の一人一人へまなくがしなやかな細腕を伸ばしてゆく。

 とある都市のカーテンを閉め切ったマンションの一室で、特殊なクライアントソフトを使い、数千人に「分身」して悪意ある書き込みを繰り返している者がいた。せりだした腹を揺すってすべてを嘲笑う彼が、突如首や胸をかきむしる。モニターからまなくのか細い腕が伸び、彼の首を締め上げているのだ。驚愕し奇声を発する男に、酷薄な笑みを浮かべたまなくが紡ぐ。

『あんだ、しばらく眠っててけれ。救急車ば呼んでおいたがら』

 締め上げられた男は泡を吹き、がくりと頭を垂れた。まなくの腕は、すぅっと画面に吸い込まれて消える。

 全国で一斉にそんな怪事件が起きたのだが、彼らをまとめる繋がりや組織は無く、それぞれが病院に担ぎこまれただけで、ネット上でも取沙汰される騒ぎにはならなかった。




 何事もなく渡り廊下に出て、まなくは大きく伸びをする。それから自分のスマートフォンを取り出し、軽く空間を爪弾いた。すると影達は皆、イヤホンジャックのうりぼう型マスコットに姿を変える。秘めやかな対決を終えたまなくは、ようやく亜空間から今の次元に戻った。彼女を認識した人々から、普通に「ごきげんよう」と声がかかる。まなくも小鳥のように首を傾げ、「ごきげんよう」と返した。

 廊下を昇降口に向かって歩くと、川堀がカウンセリングルーム前で斎藤に何事か注意していた。熱血教師からすれば、斎藤は少し緩すぎと思われるらしい。

「……ですから、もっと細やかに織朔くんのケアをするのが筋なんだと思いますよ!」

「自立を促すという点では、かまいすぎなのもどうかと」

 斎藤の言葉に川堀が声を荒げた。

「かまいすぎな訳がないっ! 子供達はみんな辛抱してるだけなんだからな!」

 吼えるような主張に斎藤は呆気にとられる。そんな斎藤へ川堀が咳払いしてから諭すように述べた。

「俺は生徒達みんなの悩みを全部理解したい。そして道筋をつけてやるのが、俺の、俺達の仕事だと思っています」

「そうですが」

「本当は……トラウマや罪悪感の原因の、傷ついたこと自体を、なんとかしてやりたいくらいで」

 斎藤が複雑な表情で川堀へ返す。

「それなら、過去の記憶も催眠療法とかで、変えることも可能です。だから未来への取り組みも」

「しかし! 未来なんて時間がっ……重すぎるっ……大切な過去の記憶を変えるなんて、それこそ残酷ですよ」

 癒されない思いを、生涯抱えて生きていかねばならない、しかし忘れさせるのも過酷――幼いうちからそんな葛藤を強いられるのはどうかと、川堀は低く伝えて斎藤の前から去って行く。斎藤は、はぁと息を吐いてか頭を振った。

 見守るまなくの気配に気づき、彼女は苦い笑みを浮かべる。

「城田さん……。なんか恥ずかしいとこ見せちゃったね。過去なんか簡単に変えられるのにね」

「……気にしねでけろ。ごきげんよう」

 奇跡のような美少女は、やはり微妙な笑みを返す。ポケットの付喪神達がざわめくので、それを撫でて鎮めながら。




 画魂は校舎の屋上の貯水タンクから、遥かな水平線を眺めている。隣の校舎から水泳部の陽気な声が届く。

『いままでなら見えなかった海が見えてて、やんだ』

 鳥や水泳部員の声に混じって、ここにはいない由宇樹の想いが聴こえる。海辺のまばらな緑は、流され残った防砂林。その内側には、かつて人々が暮らした家々があったはず。それがすべて無くなって、茫漠とした大地が広がって見通しがやたらに良いのが、由宇樹の不快感の源だ。

『なんもねくなったけど、またなんか作ってっから、あんまやんだくなくなったけどな』

 残留した由宇樹の思いが語るとおり、完成した防災公園の他、新たに市民農園としての水田地帯がそこに作られつつある。水田地帯のさらに内側は、等間隔に並ぶ津波避難タワーがほぼ完成していた。既に稼働中の水耕栽培やバイオマス発電設備のドームが、さらなる内陸に連なってゆく。

 風に画魂の呟きがのる。

「田んぼは緩衝地帯……」

 別の地方の頑強な防潮堤が簡単に流され、その破壊された塊が町に襲いかかった映像が甦り、金赤メッシュの髪をなびかせた少年は唇を噛む。彼のイメージがぞわぞわと虚空に映し出されていく。風が白いマントを翻す。ため息で画魂は界筆を象ってミサンガから取り出した。穂先で虚空を撫でれば、哀しいイメージは拭われて消える。画魂は安堵して界筆を肩に担ぐ。

 漠と広がる地平に浮かぶ幻の水田地帯は、再び海が牙を剥いた場合に一時的に保水するためのもの。その未来を幻視しながら、とある人物の解説を思い出す。

『とにかく時間稼ぎ、減災しかできねのっしゃ』

 海水をそこに一時保って時間を稼ぎ、浜近くに等間隔で並ぶ避難タワーへ人々を誘導する方針なである。それが貴雷の祖父が代表を務める日本復興財団が、全国各地の沿岸部で進めている真っ最中のプロジェクトの要諦だ。友を津波で失った高校生が提案した、コの字型形の防潮堤も建設中である。すべてに人々の、時には猛烈に襲いかかる自然との共生のアイディアが込められていた。

 画魂のマントがバタバタと閃き、振り向けばまなくがその向こうで涼しげに笑う。

「あの防潮堤さ、もうちょっとで形になんのな」

「ああ。けど、みんなの気持ちはもうあんぜ」

 金赤髪の少年が顎で示す先には、等間隔でい並ぶロングドレスの巨大な女性達がいた。大地に寝ころがる、緑色の豊かな毛皮を持つ丸々としたフォルムの獣らが、「くわぁ」とあくびをする。

 まなくは心底からの笑顔になった。

「あぁ、えの女神さん達と田んぼの付喪神さん達でねがぁ。達者そうだぁ」

「だろ。もういるんだよ」

 ポケットの中が騒がしいから、フェンスに駆け寄ったまなくは取り出して見せてやる。

「おめらも、大丈夫だがんな」

 付喪神達はしっとりと穏やかな声音に撫でられ、おとなしくただ見つめているようだ。再び空が鳴る。画魂もまなくも、「スイッチ」が入った。ポケットにスマートフォンをしまいながら、まなくが髪をかきあげる。

「挑発さうまくのってきてっしな」

「ああ……目も耳も、手もだいぶ奪われて、奴はめちゃくちゃ焦ってんだろうよ」

「真犯人もだけんど、それば利用して反対運動ば仕掛けてんの、電力の方面だったんだ」

「とんでもねえ商売敵だもんな。『SAPRI』のステラちゃんはよ」

 風が叫ぶ。夕焼けが嫌に赤い。目と耳は付喪神達で、手はスタチューのこと。しかし画魂は界筆を両肩に担いで嘆息する。

「けど、奴もとんでもなく強かだしなぁ」

「んだ。油断なんねべ……この時期の記録、全消去されてっがら」

 まなくが仁王立ちになり、首にまとわりつく髪を払った。

「あの実際の映像の巨大津波、また出さったら……!」

 プールに現れたそれの再来を恐れ、珍しくまなくがおののいている。しかしスカートが派手に翻り、チラ見する画魂を睨む瞳は強い。咳払いし、界筆を担いで画魂は瞑目する。

「今はまだ、奴はそこまで回復できてねぇ。あれ以来、『スタチュー』でしか仕掛けてきてねえのが、その証拠だ」

「けんど、いづ、復活してくっか、わがんねべ」

「おう。だから早く片づけねぇとな。狙われてんの、ステラちゃんもだから」

 見据える画魂に、こくんとまなくが頷いた。

 二人はフェンスの外をじっと見やる。広々とした校庭では、部活中の由宇樹が走っていた。彼は常に、青黒い炎を纏っている。画魂がフェンスを掴み、低く唸った。

「あいつ……気づいたら……」

「……わがんね」

 同じくフェンスをギュッと掴み、まなくも甘い色の唇を噛んだ。 ゴゥと風が轟く。舞い上がる土埃に、由宇樹が動きを止めた。目を押さえて入った土埃を涙で流し、彼は何気なく屋上へ顔を向ける。そこにまなくがいた。鋭い視線にたじろぐが、再度視線を向けたら誰もいない。

 怪訝な表情を浮かべつつ、由宇樹はまたランニングを続けた。 屋上では画魂が、両目を押さえてうずくまっている。押さえた指の間から、ぼとぼとと血が滴り落ちた。駆け寄ったまなくが彼の背中を撫でる。

「大丈夫が? おらが一人で力ば使って、欠片も戻さねがら……」

「っ……気に、すんな……」

 風が鳴る。画魂の瞳から流れ出る血が止まらない。まなくが、まるで映像のごとくぶれて歪む。滴る血は屋上の床にどす黒い染みをいくつも作った。

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