第2話邂逅その後と逃れえぬ記憶

 ゆりあがため息で長い髪をかきあげる。

「CERN《セルン》だって、ビッグバン再現実験やってんのにさぁ。なんでうっつぁだけ」

 欧州原子核研究機構と比べ、姉がこぼす。メガネを上げた少年は皮肉に笑う。

「姉ちゃんが最近ケバいから、ステラちゃん、すねてんじゃね?」

「んな訳ねーべした!」

 頬をひっぱられるのから逃げようとするが、ゆりあに襟首を掴まれてしまう。「あんだ、命の恩人ばほっとくんでね! お礼は?」

「だって……」

 唇を尖らせ、由宇樹は画魂を睨む。無邪気に笑い返され、メガネの少年はDVDラックのほうを向く。そこには毎朝毎晩拝む小さな祭壇があり、従姉妹と幼なじみが微笑んでいる。ぼうっと祭壇の写真に見入ってしまった弟の襟首を放し、ゆりあは肩を叩いて囁いてやった。

「加藤画魂くんって、おもしぇ友達でねが。城田まなくちゃんはめんこいし」

「きらっきらな名前のわりに苗字は平凡なんだな」

「まあ、織朔くんに比べたら平凡すぎだよな」

 なれなれしい雰囲気で画魂が応える。フルネームをやっと認識した輩が、友達面しているのがはなはだ気にくわない。けれど画魂の隣で手を振る美少女・まなくに、由宇樹は頬を緩めた。 端正な顔立ちの父も嬉しそうに、かの美少女へジュースを勧めている。

「なんが政府の派遣で来てけでんのに、宿、勝手にキャンセルんなってたんだと」

「んだからぁ、ゆうちゃん世話んなってっし、うちさ泊めてやればいいんでね? まなくちゃんはあたしの部屋で、画魂くんはゆうちゃんとこで」

「んだな」 

イケメン好きなリケジョの姉や人懐こすぎる母はともかく、ダンディな外見に反して朴訥な父さえも既に懐柔されていることに、由宇樹は愕然とした。(なんでいきなり……)

 自分だけコミュニケーション下手なせいなのかと、危うく由宇樹は己を責めそうになる。頭をぶんぶん振り、のしのしと画魂の元へ歩み寄った。そして、尊大そうだが人懐こい笑みを浮かべる少年へジト目で告げる。

「おれの部屋の床でよければどーぞ」

 凄む由宇樹の手にそっと白い手が重なった。翠に輝く大きな瞳に映され、由宇樹は絶句する。吸い込まれそうな瞳を持つ少女は、花が咲くごとくふんわりと笑った。

「なぁ、あんだ! 貴雷あてらい学院の天才キーパーだべ? 全部の球筋を読んで決してシュートさせねぇし、手ぇ空いだらまるで二人いるみでなドリブルばして、自分でもシュートしに行ぐ、『ツインドリブル』の『貴雷の守護神』様だぁ。しかも文武両道で、小学校ん時に全国絵画コンクールで総理大臣賞とったのなぁ」

 心底嬉しそうに、ゆりあが情報を加える。

「なにしろ一時は将来の夢が、少女漫画家だったからぁ」

「うっ」

「あっけくなって、めんこい」

 極端な方言と全開と細かすぎるデータ開示に、由宇樹は戦慄と眩暈を覚えた。「おれはめんこくなんがねっ……つか、なんで? なんで、そんなことまで知ってんだよ?」

 ペースに巻き込まれて突っ込む由宇樹に、画魂がにんまりと笑う。家族も久々に吼える彼に、にやにやと笑い覗きこんできた。固まる由宇樹の肩へ、画魂がぽんと手を置く。

「とりあえずオレら、あーゆー力を持ってるってことで、陰国庁こもりくちょうっつー役所で特種公務員っつーのやらせてもらってます。んだから、周辺事情は調査済みっつーわけ」

「隠国庁……!」

 メガネを上げて油宇樹は記憶を確認する。そういえば、あの暢気だが情報ダダ漏れが疑われる、副担任兼スクールカウンセラーに紹介されて、相談窓口へ強引にメールさせられた役所ではないか。

 震える手でメガネを直した由宇樹は肩に置かれた画魂の手を掴み、気合いとともに一本背負いにした。それは幼なじみから、由宇樹がよく食らわされた技だ。素早く避難していた美少女や家族が、手を叩いて大笑いする。

 怒れる由宇樹は気を吐き、どかどかと二階の自室へ向かった。床の間にどんでん返った画魂は、「あいづおもしぇ」と高笑いしていた。

 イライラとベッドから天井を見上げ、由宇樹は自室の木目が滲み誰かの顔になってゆくのを見つめる。

(こうやって夏休み、遊んでた)

 ともに天井を見上げ、従兄妹と幼なじみと言い合って笑った。想像の世界で、先生から怪獣に変化する木目が面白くて。

 小学校高学年になっても大口を開けて笑う幼なじみ――迅音と、ボケ担当の従姉妹の紗由理。彼らといる時は、世界が無限に広がっていく気がした。想像の翼は高く遠くへ、由宇樹を運んでくれたのである。だが今は、二重三重に灰色に世界が閉ざされていた。迅音も紗由理も今はいない。一筋、左目からだけ涙が零れ落ちる。

(おれのせいだ)

 左手の甲で涙を拭い、返したてのひらで両目を覆う。

(あん時、もっと強く声かけてりゃ……いや、おれがじゃんけんに負けてたら)  鼻が詰まってくる。時間がたてばたつほど、後悔と自責の念は泥のように心に積もり、重みを増してきた。自分だけ、何故生き残ってしまったのかと、由宇樹はまた己を責める。

(おれば恨んでっからぁ、迅音ら……誕生日近いし、絵から出てきて浜で待ってんだ……)

 ゆっくりと寝返りをうち、由宇樹は部屋を見回す。据え付けの二重になったスライド式本棚も、服をかけたハンガーラックも勉強机も、沈黙し佇んでいる。捨ててしばらくしてから後悔して庭を探したが、その絵はどこかに消えていた。

(バカだ……おれ)

 由宇樹の視界が熱く滲む。脳裡に浮かんだ情景は、三年前の夏の日の記憶で。


     ***


 日光が強く照りつけ、蝉がうるさい朝。いつも三人で遊ぶイグネの森から荒玉浜海浜公園まで、皆は自転車二台で追いかけっこしていた。途中、たまに見かける杖をついた白髪の紳士に出会い、その日も彼は三人へ手を振って森へ歩いていった。

 紗由理は彼に手を振り返し、迅音の背につかまって紡ぐ。

「あの人、よくわかんないけど、あそこにも『ツヅノマナク』咲いてっから、研究してんだって」

「へえ、荒玉浜のとおんなじなのがや」

「農業センターさも植えてるんだって」

 風に煽られながら、紗由理は由宇樹へ振り返って答える。迅音が急にスピードを上げてゆくので、由宇樹も必死で後を追う。

「危ねべ! 迅音!」

「ちょっと、末続すえつぐくん!」

「俺のさ追いつかんねべ!」

 当時の末続迅音は、誕生祝いで買ってもらったばかりのピカピカな自転車に乗り、誇らしげに由宇樹と紗由理に見せびらかしてきていた。だからお披露目として、紗由理を後ろに乗せても衰えないスピードを、無邪気に由宇樹へ見せつけてきたのである。

 紗由理は高学年になっても自転車に乗れないでいた。

 「ヴァイオリンは弾けんのに」と、迅音はいつもからかい、そして由宇樹が庇うのは一つの彼らの様式美。それで彼女をどちらが乗せるかでいつももめ、そのたびにじゃんけんで勝負しては、由宇樹が負けて迅音が乗せるパターンができている。

 だがこの日は紗由理と由宇樹がじゃんけんし、勝った彼女は結局迅音を選んだ。由宇樹はその時初めて紗由理の本心を知り、世界が揺らいだのを覚えている。切ない痛みは小学生でも感じ取れていた。けれど、迅音の後ろに乗せてもらい、紗由理が涼しげに笑っていたのが、いまだに記憶の奥底で輝いている。

 やがて目的地に着き、三人は自転車を駐輪場に止めて砂浜へ降りた。風に長めの髪を揺らせて、聡明ながらどこか天然だった彼女は、少しつまらなそうに言っていた。

「あーあ、三人では乗れないっちゃね」

「特別な形でねえと、三人乗りできねぇのっしゃ」

 迅音と自分が二人乗りし由宇樹は一人でいるのを、紗由理はすこぶる残念がっている。迅音も、「帰りはおめえば乗せっから」と無茶を言って笑っていた。冷えていた由宇樹の心はその気遣いに温められ、あることを思い立つ。

「おめら、絵さ描いてやっがら! 紗由理が一人で自転車さ乗ってっとこ」

「だったらあたし、中学の制服着てんのがいい!」

「んだな。なんぼなんでも中学んなったら、紗由理でも一人で乗れっぱし」

 皮肉る迅音へ、紗由理と由宇樹が同時に突っ込む。笑い合って由宇樹は紗由理へ告げる。

「それで、三人でツーリングな!」

「ありがとな! 楽しみにしてっから」

 紗由理はそう言って、由宇樹の右手を包み込んでくれた。だから由宇樹はがんばれたのだ。

そして数日後の夏休み最終日。中学の制服を着た成長した三人が、浜辺の坂道を自転車で駆ける絵が描きあがった。従姉妹の部屋を訪ね、最初にそれを見せた時の紗由理と迅音の反応が、由宇樹には忘れられない。

「ゆうちゃん、こっから笑い声が聞こえた」

「んだ! 俺達、笑ってんの聞こえたっちゃ」

 身近な、愛しい者達からのみずみずしい感想が、由宇樹にはくすぐったくも誇らしかった。たとえ紗由理が迅音に自然によりかかっているのを見て、酷く胸が痛んでいてさえも。

 自室に戻ってしみじみと絵を見ていると、何かが由宇樹の心の奥底から頭をもたげてくる。

(こいつら……死んじまえば……)

 破壊的な想いが一瞬掠め、少年は両手で顔を覆った。苦しいからこの世から二人がいなくなってしまえばいいと、どす黒い想いに灼かれてしまう。けれど由宇樹は、その後も二人へ距離を置くなどできなかった。二人ともに大好きなのはどうしようもないのだから。

 きらきら輝く海と、生き生きと駆ける少年少女の絵は、教師らにも絶賛されて文科省主催のコンテストへ提出されたのである。総理大臣賞を受賞して得た後のどんな賛辞よりも、やはり従姉妹と幼なじみの感想のほうが嬉しかった。


      ***


 じわじわと蝉が鳴く。あの眩しい日々と同じように。甘く苦く痛い記憶に羽交い締めにされた少年は、ぼやけた天井を見上げ、目尻を拭ってため息を吐く。その輝かしい記憶の具象である絵は、描いた本人の手により黒く塗りつぶされて捨てられ、どこかへ消え去ったままだ。その後姉にだけ尋ねてみたが、彼女は首を傾げるばかりで。

『見つけたくないから、見つからないのかもね』

 不意にスクールカウンセラーである斎藤の、妙に明るい声が過った。メガネをとった由宇樹は、両手で目許を覆う。

(見つかりたくねえのか、やっぱ……おれば恨んでっから)

 先に捨てたのは自分なのに、見つからないのは彼らからの拒絶だと、腹立たしくなってしまう。理不尽に燻るどす黒い感情が、由宇樹の奥底から重ねて沸き起こる。

(おれは、あいつら、死んじまえって願った。そら、あいつらが悪いんだし)

 あんなことが数ヶ月後に起きるなど、予想もつかない秋の日。紗由理が迅音の名を呼び捨てにしただけで、由宇樹は胸に穴が開いた。

(おれにはずっと『ゆうちゃん』で、迅音はいつの間にか末続くんから、迅音んなってた)

 見えない穴は小さいが深く、幼い由宇樹を抉り蝕んでいく。変わらずに一緒に遊ぼうと誘う二人に背を向け、無視してしまうこともあった。

 穴の漆黒に耐えきれず、立派な筒に入れられて初冬に返されてきた三人の絵に、由宇樹は黒いクレヨンで大きく×印をつけている。それで少しは気が晴れ、再び筒に入れて押し入れに封印した。そして震災直後に部屋を整理していてそれを見つけ、今度は泣きながら真っ黒に完全に塗りつぶしたのだ。

(あー、おれはぐっだぐだであぺとぺのまんまだ)

「あぺとぺ」とは、矛盾していること。手を繋ぐ二人、笑いあう二人に何度胸を灼かれても、結局由宇樹は何も言えなかったのである。言えないまま、あの日を迎えた。

(迅音が紗由理ば乗っけて、山のほうさ逃げてたら……逃げろって言ってたら……!)

 大好きな荒玉浜で、あの凶暴な津波に呑まれることなどなかったはずと、由宇樹は今も確信している。


        ***


 震災の日は卒業式準備で早く学校が終わり、風花がちらつく荒玉浜海浜公園で、迅音と紗由理とたくさんのクラスメイト達皆が集まって駆け回っていた。小学生最後の「くるまんとんてんかん」――標準語では「だるまさんがころんだ」を行っている。荒玉浜に自転車や徒歩で集まって、大人数でこんな遊びをやれるのは最後だと、寒いのに皆は真剣そのもの。

 由宇樹はふだんと変わらずに迅音と競い合い、傍にいた紗由理達女子陣を笑わせていた。紗由理は式典でつける、祖母からのプレゼントの紅いリボンを誇らしげに髪に飾っている。それを周りの少女達に羨ましがられ、照れていた。そんな従姉妹が可愛くてたまらず、明後日のほうを向いた由宇樹は、太陽がまったく眩しくないのに気づく。

「あれ……お日様、ゆで玉子の黄身みでくなってる」

 光のない太陽はまるで固ゆでした玉子の黄身のようで、そういえば、朝から自動車の照り返しも目を射ないと、老眼を気にし始めた由宇樹の母が不審がっていたのだ。

小学生達がはしゃぎ回っていると、突如轟音が空に満ちた。凄まじい地鳴りとともに、誰かが持っていた携帯を慌てて取り出す。

「変な音鳴ってる!」

 怪訝な表情で由宇樹は、叫ぶその仲間のほうを見た。地鳴りで緊急の警報音がかき消されていたので聞こえなくて。次の瞬間、ありえない揺れが彼らを襲った。朗らかな歓声は悲鳴に代わる。

「じ、地震……!」

 ようやく由宇樹は「ゆで玉子の黄身」に似た太陽の話の続きを思い出した。母が小学生当時に同じ太陽を、地震の直前に見ていたのである。

 長く激しい揺れに、子供達の悲鳴は鋭く響く。そして流れる涙を拭えずに、大地にうずくまる他できなかったのだ。揺れが収まってしばらくしてから、子供達はおそるおそる動き出す。

「早く帰んねと……この子送ってかなくてねえし、うちの婆ちゃん、心配だ」

 気丈に紗由理が言い放つ。紗由理は、同級生である軽度の知的障碍を持つ女の子に寄り添い、へたり込む彼女を励す。そして他の子供達とともに速足で、海浜公園の出口へ向かう。しかしまだむずがる障害を持つ少女へ、紗由理は素早くほどいた紅いリボンを差し出した。

「これあげっから、いうごと聞いてな」

 言いながら紗由理は、震える少女の手首にそれを巻きつける。迅音が慌てて走り寄って、少女達の前に立ちふさがった。

「その子のうちとお前のばあちゃんち、逆方向だべ」

「この子、先に送っから」

 痛そうに笑う紗由理の父方の祖母の家と迅音の家は浜沿い。自宅は由宇樹の家の隣で内陸のほう。知的障碍者の少女の家も内陸部なので、反対方向なのだ。由宇樹は、おろおろするだけの少女の肩に手を置き、迅音と紗由理へ宣言する。

「おれが迅音にじゃんけんで勝ったら、この人ば送っから」

「アンラッキーゆうちゃあん、そらねえべ!」

 言いながら出した手は、迅音がグーで由宇樹がパーで。由宇樹はてのひらを見つめて絶句した。迅音は複雑な表情で笑む。

「由宇樹……おめえ、ここ一番で強いんだよな」

 紗由理が由宇樹の肩を叩いて、しっかりとした口調で紡ぐ。

「ばあちゃんばつれて、迅音と、後から支所さ行くって。だから、この子、ゆうちゃんさ頼んでいい?」

 言いながら紗由理は由宇樹に微笑みかけ、手首に紅いリボンを巻いた少女の腕を撫でてやる。「支所」とは、由宇樹の父が勤める国立総合病院機構仙楠医療センターの瀬織津支所のこと。この荒玉浜から、丘をひとつ越えればすぐの高台にある。悪寒が止まらぬ由宇樹だったが、パーを握りしめて頷いた。

「この子、任せろ! おめえら、早くばあちゃんとこ行ったらいいっちゃ!」

 紅いリボンをミサンガのように巻かれた少女に付き添い、由宇樹は堤防の階段を登って自分の自転車に彼女を乗せた。迅音達も急いで由宇樹の自転車の隣に止めていたのに乗る。迅音と二人乗りができて、紗由理はどこかはにかんでいる。その表情のせいで、由宇樹の胸に鋭い痛みが突き刺さった。

(やっぱ、迅音のことのが、好きなんだ……)

 大好きな従姉妹が、尊敬もしている友達に惹かれ、その友達も彼女が好き――地震で怖い思いをした上に改めて現実を突き付けられ、由宇樹の胸はじくじくと痛んだ。

(こいつら、死んだら……)

 胸は痛くなくなるのかと、幾度目か分からぬ自問自答を由宇樹は抱く。けれど痛んだままで、海沿いの道路を走って行く従姉妹の背をしばし見守っていた。振り切って自転車をこぎ始めたが、背中はすがる少女の温もりで暖かいはずなのに、冷えたまま。

聞いたことのないサイレンが鳴り始める。まだ海を見つめていた同級生の少年が、慌てて自転車を飛ばし、ゆらゆら進む由宇樹達を抜き去りながら叫ぶ。

「海っ! 沖さ、すげー勢いで引いてっぞ!」

 由宇樹の全身に冷たいものが走った。

「まさか津波……」

 ならば海沿いの町へ行ってはいけない。自転車を一旦止め、由宇樹は迅音達の背中へ向かい、声を限りに叫んだ。

「浜辺に行っちゃなんねえ!」

 道の遠くで彼らの自転車も止まり、怪訝そうな表情の迅音が振り返る。しかし内容は届いていないのか、紗由理が嬉しげに腕で大きく丸を描いた。そして手を振ってまた遠ざかっていった。警察や消防団の車両が、けたたましく避難を叫んで通り過ぎてゆく。崖の向こうに消える自転車を、少年はただ呆然と見送る他なくて。

(あいつら、もし、死んだら……!)

 激しく頭を振ってから、由宇樹は重いペダルを踏んで内陸への坂道をひた走った。浜から強く風が吹き、彼を後押ししてくれているよう。しかし水飛沫も追ってくるようで、背後の少女は泣きじゃくり始めた。由宇樹は必死に彼女をなだめる。

「ほらっ、もうすぐ着くから! 見えて来たって!」

 丘の向こうにそびえ立つ白いビルを背景に、粉雪が舞っていた。一瞬安堵したが、近く遠くでサイレンとクラクションが鳴り響く。それに追い立てられ、由宇樹は不安に泣く少女とともに支所へたどり着いたのである。

 支所は老人健康保険施設もかねており、既に紗由理の祖母含めた老人数十名が、由宇樹の母達の手によって避難してきていた。由宇樹から事情を聞かされた車椅子の老女は、床に倒れこんでじたばたともがく。丘の向こうには、凄まじい勢いの巨大な津波が迫っているというから。

「帰らせてけろ! 紗由理ば助けなくてなんねぇ!」

「ばあちゃん、無理だ! ビルも堤防もなんもかんも、みな流されてんだぞ!」

 市の職員や消防団の人々も集まっていて、皆で彼女を止めている。補助電源でつけられたホールのテレビの大画面には、太平洋を広範囲にわたって駆ける白く長い壁が映し出されていた。人々は「うそだろ」と呟き、やがて被害が拡大してゆく様を見て沈黙する。

 床に這ったままの老女に由宇樹の母が駆け寄り、抱きしめて一緒に泣いていた。その背を、由宇樹がつれてきた少女がいつまでも撫でていたのである。彼女の手首の紅いリボンが揺れ、紗由理が泣いているように思えてしまう。少年は従姉妹をなだめるつもりで、少女の丸い背中を撫でてやった。撫でながら涙が止まらない。介護士の一人が、顔を両手で覆って呻いた。

「ほんとは、守られてる側も、必死に守ってんのっしゃ」

 長い間撫でていたら少女は眠ってしまったので、介護士らが老女とまとめて彼女をベッドへ運んでゆく。由宇樹は毛布をかぶらされ、視線で追うだけで。

 なす術もない由宇樹は、廊下に這いつくばって呻く男性介護士を見つけ、自分の毛布をかけて背中を撫でてやった。彼は酷い揺れで宙づりになった機材を、安全な場所へ移動させたせいで、右肩を骨折しているらしい。由宇樹は何かしていないと気が済まなくて、ひたすら彼の肩へ両手をかざして温めた。しばらくそうしていると、男性の呻き声が静まってゆく。

「なんが、いでくねぐなった」

「感覚がなくなっったんでないの?」

 少し離れて見ていた介護士の同僚が、焦って尋ねる。だが青年は首を横に振った。

「いや、めちゃくちゃ肩、あったけえんだ。この子に撫でてもらってたら」

 かの介護士は思い切り肩を回す。先ほど変な位置にずれていた右肩が、正常な状態へ戻っていた。介護士達に呆然とした目を向けられ、震える由宇樹は逃げ出した。

「ケガが気のせいだったんでねすか?」

 立ち尽くす彼らへ、振り返って喚きながら少年は走り去ったのである。走りながら、由宇樹の目は空洞めいてゆく。形見となってしまったらしい紅いリボンが、何故か憎くてたまらない。

 時間が経つにつれ、行き場を失った人々はどんどん詰めかけ、支所は野戦病院のごとくなった。受付の外はまさに戦場で、父と母が連携して人々を誘導したり介抱するのを、由宇樹はじっと固まって見つめる。大人達にかまわれなくなって、由宇樹は縮こまっている他なく。

(外さ出るべ)

 泣く人、疲れて丸くなっている人々の脇を抜け、息を詰めた由宇樹は支所の庭へ這い出る。寒くても、そこでなら息ができる気がしたから。けれど見上げた星空が輝きすぎて怖くて、たまらず少年は声を殺して泣いた。従姉妹や幼なじみのためでなく、自分のためだけに泣いてしまったのだ。

 それすら恥ずかしくて泣きながら、由宇樹は母達のいる受付へ結局戻って行く。野戦病院の司令本部となった受付の床で、ごわごわした毛布にくるまり、傷ついた子供はようやく瞼を伏せることができた。

 しかし瞼を伏せれば、映像の津波と従姉妹達の顔が交互に現れて消えてを繰り返す。緊急津波警報の音も、遠く響く壊れた自動車のクラクションの音も、由宇樹の耳に絶え間なく響く。朝まで、彼は夢うつつの中にいたのである。

 ヘリポートなどの設備が整っていた支所には、幸いすぐに救援も来た。その後、瀬織津支所は災害救助の拠点となったのである。姉のゆりあは震災時にちょうど自宅におり、翌日には支所へ自動車で食料やタオルなどを持って現れ、重宝がられていた。

 由宇樹の父母は引き続き支所に寝泊まりし、被災者達のケアに奔走する日々を数週間送ることとなる。由宇樹とゆりあは屋根以外は無事な自宅から、着替えや食料などを運んで両親を支え、夢中で毎日を過ごしていた。

 紗由理の祖母は、震災翌日に障碍者の少女から紅いリボンを手渡されて再び号泣したが、その日から気丈にリハビリを始めている。だから由宇樹は、そのサポートを買って出た。ケアの合間の介護士達から教わり、いっぱしのマッサージも行えるようになっていったのだ。例の「奇跡」の件は、忙しさに紛れて誰も覚えていないのが、由宇樹には心地よい。

 震災から数週間後。老女は内陸のみなし仮設としての民間のアパートへ移動する。由宇樹はそこへも通い、リハビリのサポートとしてマッサージを続けていた。そうする他に、紗由理との拠り所がなくなっているから。


      ***


 老女が「ゆうちゃんさ、さすってもらうと、こりがねくなってよく眠れる」との噂を広め、支所へデイケアで訪れる老人達へボランティアとしてマッサージすることとなり、週一で通う現在に至っている。

 紗由理の遺体は震災の数週間後に見つかったが、迅音はいまだに見つかっていない。荒玉浜の死者行方不明者は合わせて百人を超えていた。

 今でもあの時の不穏なサイレンと、遠くで流されゆく自動車群の警笛が耳に残っている。祖母が紗由理を呼ぶ悲痛な声もだ。助けた障碍者の少女は、震災の数日後に倒れ、今も由宇樹の父が働く総合病院に入院している。

 偏頭痛がする場所に爪を立て、由宇樹は得体の知れない黒い何かに押しつぶされそうなのに耐えた。いつものことだが慣れないし耐え難い。浅い呼吸を繰り返していれば、突然爽やかな風が室内を走った。窓の外にあの美少女が浮かぶ。

「……はぁ?」

 ありえない事態に、由宇樹は驚嘆より非難が強い悲鳴をあげた。キラキラと光の粒に彩られた彼女は、見つめる円い瞳を笑みの形にする。そしてふわっと飛び去った。

「飛んでたぁっ?」

 慌ててあちこち見回す由宇樹の耳に、少女のさえずるような笑い声が響く。メガネをかけてわたわたと窓際へ這って行くと、庭で画魂が草刈りをしていた。 まなくは文字通り彼の頭上を飛び回っている。

「なんだぁ?」

 見下ろす画魂は例の巨大な筆でなく、普通のそれで空間に芝刈機を描く。

「こいつぁオレ様のオリジナル絵画だから、界筆ワールドローじゃなくていいんだ」

「わ、わーるどろ?」

 ケイドロみたいな響きに、由宇樹は片眉を上げ口許を歪める。しかし慌てて窓の下に伏せた。まだうっすらと涙ぐんでいるし、どす黒く渦巻くオーラを読まれたくないから。

「じゃなくっ! さっき飛んでた、あれ!」

 由宇樹は口をパクパクさせる。自由に天を舞う美少女が、自分と同じかそれ以上のセイタカアワダチソウを刈り取る画魂を、手を叩いて見ているのだ。

「な、なんだよ? あれ」

 浮世離れした雰囲気が神秘的で惹かれたが、人間離れ、現実離れし過ぎている。いや、画魂の能力のほうが遥かに現実離れしているのだが、由宇樹にとってはそれどころではない。

「あいつな、極端に身が軽いんだ」

「そーゆーレベルじゃねーし!」

 金赤ワカメ頭の胸ぐらを掴んでわめくが、まったく動じない彼に虚しくなった。

『恋人同士が飛んでて、超楽しそうだっちゃあ』

 この光景と似た夢想が甦る。紗由理と、マルク・シャガールの「恋人たち」を子供用の美術図鑑で眺めていた当時の。きゃらきゃらと笑う美少女と、紗由理の笑顔が重なる。そして、庭でがしがしと草を刈る画魂と迅音もダブった。

「……ヒぐッ」

 無様に呻き、由宇樹は枕をかぶって改めてベッドに伏す。

「あいつらが悪い……あいつらが」

 繰り返し、幻の彼らへの呪いを吐く。「死んでしまえ」と呪わせて、勝手に死んでしまうほうが悪い――由宇樹は繰り返し思う。呪いは自らを深く呪縛するだけと、知っていても。

 しばらく伏していた由宇樹は、荒い息を無理矢理潜めて立ち上がる。枕で頭を覆っているのが暑苦しくなり、ベッドへ柔く置いた。ため息を落とし、部屋主の少年はふらふらと階下へ向かう。草刈りに混ざるのではない。シャワーで汗を流し、偽りの平常心を取り戻したいのだ。

 家族総出の草刈りとなったのか、帰ってきたらしい母も皆、家の中にはいなかった。脱衣場で、由宇樹は脱ぎ捨てた衣類を洗濯機へ放り込む。脱ぐ間あちこちピリピリと痛んだ。高速道路で負った擦り傷は意外に多く、メガネをとった少年は苛立ちの物理的原因を知る。洗面所の鏡でチェックしていたら、背後に誰かの気配を感じた。振り向き、由宇樹は飛び出るほど目をむく。

「なんなんだ? おめら! 裸で!」

 そこに豊満な躯を惜しげもなく晒した女性逹がいた。由宇樹は期待に満ちて、彼女達に続く黒髪の美少女を見やる。けれど残念ながら、かの美少女は制服姿のまま舌を出す。

「ごめんなしてくない! お風呂さ入りてって、ルノワールとかゴヤの主題の人らが」

 頭をかいて苦笑いするのすら、完全に一枚の絵なまなくが謝ってくれた。しかし問題はそこではない。肌を晒しているのは、由宇樹も美女達と同じで。

「きゃぁああっ!」

 いまさらあられもない悲鳴をあげ、由宇樹は両手でいろいろ隠して浴室に飛び込む。だがそこも安住の地ではなかった。

「モネもかよ!」

 一面の睡蓮に由宇樹はツッコミを入れる。そうするしか精神を平常に保てそうにない。荒ぶる彼に、申し訳なさいっぱいの美少女が声をかける。

「あの、誘拐された睡蓮逹ば避難さしてもらってんだぁ。大丈夫だべ、毒ねぇがら」

「あるかーいっ!」

 凝り固まっていた由宇樹はあまりの暴虐に吹き出してしまった。笑ってしまい何か恥ずかしくて、長身の少年はとりあえず睡蓮をかき分けて浴槽らしき辺りに浸かる。そこはきちんと温かく風呂は風呂の仕事をしていた。この際豊満な美女逹に囲まれて混浴もありかと、いろいろほったらかした由宇樹は思う。けれど運命は容赦ない。温まる由宇樹は、何の気なしに傍らを見やって凍りつく。

「……なんかいる! わ、ワニぃっ……!」

 ざばりと睡蓮を分けて現れたのは、ゴーギャンが描いた巨大なワニ。歯をカチカチ鳴らす由宇樹へ、またも美少女が優しく微笑みかける。

「その子噛まねし、噛んでも毒ねがらぁ」

「またそれかぁっ! おだづなっ! ごっしゃぐど!」

 ツッコミ疲れた由宇樹は、大きく深呼吸した。改めて辺りを見回せば、今は湯あみする「水浴する女逹」だけでなく、睡蓮やワニすら心持ち怯えた様子。手を伸ばして硬くごつごつした皮を撫で、由宇樹は優しく笑いかけてやった。

「ガオんねくていーから」

 顔を見合わせる彼女や彼らへ、少年は少し得意げになる。

「ガオるっつーのはな、『ビビる』っつー意味で、『おだづな』はふざけんな、『ごっしゃぐ』は『怒る』っつーことな」

 感嘆の声でどよめく女逹に、由宇樹はさらに鼻高々となる。ワニが甘えてくるので、得意がってもいられないが。のしかかるワニを必死に押し返していたが、中学生の力ではたかがしれている。一進一退を繰り返す中、ため息混じりの火焔土器頭が現れた。

「ワーニさん、おめえがどこさ行ぐんだか、教えてやっから」

 高く掲げた指を鳴らすと風呂の壁がどこかへ飛び去った。睡蓮の浮かぶ池がワニごと開いた空間に収まる。豊満な女逹は、花々が舞う春の森へいそいそと移った。由宇樹は人差し指でメガネを上げかけ、今はかけていないのに気づく。

「あれ、『春――プリマヴェーラ』の背景じゃね……」

 主題のいない「春」の華やかな野外を背に、恭しく画魂が騎士の礼をした。

「背景だけ預かって、マヨイガ代わりに使わせてもらってんだ」

「あ? 迷い子がなんだって?」

 画魂には由宇樹も自然と態度が厳しくなる。なにしろ超常能力も彼女も持った、イケメンのスーパーリア充なのだから。由宇樹のひがみを見抜いた画魂が、俳優張りの笑みを彼へ返す。

「マヨイガっつーのはな、次元を渡り歩く家の妖怪なんだ」

「付喪神がついた、付喪屋敷だぁ。画魂が助けた主題らぁの、避難所だべした」

 相変わらず制服のままのまなくも、ニコニコと応える。しかし由宇樹はムッとしたまま。すまなそうに美少女が話しかけた。

「お詫びに背中、流してけっか?」

 憮然とした由宇樹へ屈み、覗きこんだ美少女が凄い申し出をしてくる。口説かれた形の彼は、大きな瞳に吸い込まれそう。

(目、でっけぇなぁ。虹彩んとこ、花が咲いたみてぇ)

 一瞬にへった由宇樹だが、画魂の鋭い視線で正気に帰った。ビクビクしていると、のしのしと画魂が由宇樹の傍らにやってくる。おもむろに屈み、覗きこまれた少年は縮み上がった。

「な! まなくのまなく、でっけえ花が咲いたみてえだべ!」

「まなくのまなく?」

 言われて由宇樹は情けない声音で尋ねる。まなく本人がこともなげに応えた。

「あぁ、目って書いて『まなく』って読むんだ、おら」

「あ、そっ……そすか」

 殴られるかと覚悟していた由宇樹は、拍子抜けして浴槽内でへたりこむ。

「邪魔してごめんな」

 まなくは由宇樹へ礼をし、画魂とともに去った。静けさが戻った浴室で、由宇樹は妙にワクワクして沈み、ブクブクと湯を泡立てる。 



 なんだかわからない点描の人々や、救世主御一行らを交えたカレーライスの夕食を早めに切り上げ、由宇樹は裏庭へ逃げ出していた。見上げた夜空は曇って少しピンクがかり、星は見えない。見えなくて、由宇樹は安堵する。

(あの夜、星がいっぺぇ過ぎておっかねがった)

 回想の星空は、いまだ恐怖を感じるほどに脳裡で煌々と輝く。それは地上の灯りがすべて消えていたから二度とはないのだと、由宇樹は頭をぶんぶん振った。すると柔らかにピアノ曲が降ってきて、少年はおそるおそる空を仰いでみる。仰いだ先の赤い屋根の上で、座ったまなくが光でできた鍵盤を弾いていた。

「ドビュッシーの『月光』かな」

 月は出ていないが、雲の上では照っているだろうと、メガネの少年は静かに耳を傾ける。さわさわとイグネが歌っているようで、由宇樹はため息を吐く。

 聞き惚れていれば、何かの気配に少年は心を澄ます。案の定、鋭利な勢いでボールが飛んできた。素早く胸でトラップしてリフティングに持ち込む。ボールを膝や爪先で操り、由宇樹は不機嫌そうに「犯人」へ尋ねた。「いきなりなんだ?」 ボールをぶっ飛ばしてきた相手――画魂は、いくつものサッカーボールを足技でジャグリングしながら不敵に笑う。

「腕はなまってねぇのな」

「腕でねく、脚だ」

 画魂は一瞬こけたが素早く立て直し、低く笑ってジャグリングしたボールを残らず指を鳴らして消した。露を孕む草の根と砂利を踏み鳴らし、逆立つ赤と金の髪の少年が由宇樹の元へ歩み寄る。一瞬、後退りした由宇樹だが、何か悔しくなって踏み止まり、真っ正面の画魂を見据えた。

「んだから、なんだよ? ほでなすが」

 ガンを飛ばしてやった画魂が、さらに笑みを深める。

「天才キーパーくんさ、部活にそろそろ戻んねど、仲間が困っぺ」

「もう県大会で負けて終わってんだ。三年のおれらには関係ねえ」

 不遜なほど自信に満ち溢れる彼に、由宇樹は再び部活の仲間を無意識にダブらせた。ダブった彼は、中学サッカー界で十年に一度と言われた逸材である。つい舌打ちしたが、画魂は意に介していない。むしろますます喜んでいるらしく、何故か眩しそうに目を細めた。

「オレの力は、あの空の星が分けてくれてんだ」

 意味不明な物言いに、由宇樹は顔の片側だけ歪める。なんにせよ、今は曇りだ。彼の表情を見て画魂はさらに嬉しそうに、左腕に巻いたミサンガへ何事か唱えた。すると柔らかい光が放たれ、時計の盤面に見える赤い宝石から何かが現れる。由宇樹は息を呑んだ。現れたのは、彼が瓦礫に紛らわして捨てたはずの絵筆だから。

「なんだっておめえ! おれが投げたやつっ!」

 苦い笑みを貼り付け、画魂は古ぼけたパレットと筆洗い用のバケツも虚空に浮かばせる。「投げる」とは「捨てる」こと。細長い箱から、バラバラと使いさしの絵の具のチューブも零れ浮かんだ。由宇樹が捨てた画材をくるくると操り、画魂は持ち主を封印するかのように取り囲ませる。

「よぉ、まだ捨てんの、もったいねぇべ」

「お前に関係ねえ。ほっとけよ」

 画魂を睨み付けながら、由宇樹はかつて同じセリフを叩きつけてやった仲間を思う。サッカーも絵を描く趣味も、過去の記憶に繋がる何もかもを異次元の彼方へでも葬り去ってしまいたい――真剣にそう思い詰めている。

「それごとっ……焼却場で焼かれたほうがマシだ……」

 歯を軋ませ低く呻く由宇樹に、画魂は両手を挙げて降参のポーズ。鼻を鳴らし、炎髪の少年が詠唱すれば、画材達はそれぞれ消えた。名残惜しそうに絵筆がたゆたっていたが、由宇樹の鋭い視線に気圧されて消え失せる。

 画材逹を見送った画魂は、件のミサンガからまたあり得ない巨大な光を迸らせた。すがめた目で由宇樹が見やると、画魂は例の巨大な筆を肩に担いでいる。

「これなぁ、タンギー爺さんが作ってくれたんだ」

「語んなよ、聞いてねぇべ」

 憎まれ口を叩くが、由宇樹はその筆を見た瞬間から惹かれているのだ。ぶっとい筆の柄を撫で、画魂がおかまいなしに続ける。

「この柄は、世界樹の枝を削りだしてんだぜ」

「……はぁ?」

「留め金はオリハルコンで、そいで毛は、獅子の女神様のたてがみな」

「はぁあ? なーにほざいてんだ? 厨二病が! んなすっげえ道具あんなら、あの震災も津波も原発もねえ前さ戻してみろ!」

 言い放って由宇樹は唇を噛みしめる。皮肉に笑ってリフティングしていた金赤海草頭は、不意に真顔になった。続けながらも、真摯な青が曇る。

「戻せる……つか、犯人は時間を戻そうとしてる奴、かもしんねえけど」

「えっ、なら良い奴じゃね? お前より行動力あってさ」

 画魂の目が一瞬灰色になった。ついで空洞めいたそれが、赤く燃え上がる。

「良い奴ねえ……そいつが絵だけじゃなく、映像まで実体化させる力を持ったらどうなる?」

 静かに問われて由宇樹は戸惑う。それの何がまずいのか、頭が回らない。奏でられる音楽に導かれたのか、いつの間にか雲は晴れて透き通る星空が頭上にあった。演奏を続けるまなくに頷き、画魂はリフティングをやめ、一言一言丁寧に発した。

「いままでは直筆の原画からしか、主題を実体化できてねえ。けど、無限にコピーできる映像から、実体化できるようになっちまったら」

「ああ、ならビデオに残ってる人ら、全部出せて、生き返らせていいべ」

 星空の見えない方向に視線を逸らせ、由宇樹はうそぶくが。眼のすわった画魂はさらに畳み込む。

「絵の中で平和にしてる人達を勝手に実体化して、浚って海辺の怪談の幽霊に仕立てあげてるような奴だぞ!」

 語尾の語気が荒くなり、由宇樹は固まる。

「力を持て余したそいつが、もしも津波をいくつも実体化させたら、どうなる?」

 諭すような物言いに、由宇樹は声もなくその場にくずおれた。画魂はまなくが奏で織り上げた満天の星空を仰いでから、へたりこむ由宇樹へ、ボールを横に置いて向き直る。メガネの少年は震えて我が身を抱いた。由宇樹の視界は、あの津波の映像で占められている。

「また……あの津波がっ、またっ!」

 またも従姉妹と幼なじみを殺すのか――由宇樹は当時の空気の冷たさがまとわりついてきた気がした。世界に多数存在する津波の映像から、再びこの世界にそれが再現されればどうなるか――歯が合わぬほど、由宇樹は芯から震えた。画魂はより低い声で囁きかける。

「しかも日本全国、いや世界で一斉に、かもしんねえ。だからオレらは急いでる。そんで主題さん達の行方をたどってったら、この荒玉浜の幽霊にされてた訳だ」

 屋根の上のピアノ弾きも、厳かな口調で由宇樹へ紡ぐ。

「ネットに、亡くなった人達がまだ苦しんで迷ってんだの、ひっでえ噂いっぺえ書かれてぇ、頭さくる……あの人ら、みんな星さなってっぺした」

「そうだ。恨んだり迷ってる訳、ねえんだよ」

 画魂も真剣にまなくへ応える。超常的な力を持つ二人の切ない声音が綴る言葉に、由宇樹は深々と息を吐いた。火焔土器頭が続ける。

「で、ネットの噂の出所調べたらよ、まあ、大半は全然違う地域の連中が誰かにのせられて、面白がってデマ作ってたんだが……どうもお前のガッコの関係者ん中に、ばらまいた大元がいたらしくてな」

「なんでんなことわかったんだよ? IP抜くんだって限界あるべ」

 瞳に生気が戻った由宇樹を、面白そうに画魂が見返す。

「そーゆーのにも対抗できる、スーパーハッカー様がいる部署があってな。そいつによると、サプリとかへの中傷の元も特定したら、同じだっつってた」

「はぁあ? ネットの噂ば探るだけの部署とか、楽な仕事あんだな。しかも実働は未成年こきつかうって、おだづなってんだ」

 大人への不信感をバネにして戻る気力も大概だが、画魂もまなくもそれを大変におもしろがる。

「そいつもタメだし、オレらもボランティアじゃねぇし、ちゃんと報酬はもらってっから」

「税金か? 義援金か?」

「おらのも税金でも義援金でもねんだで」

 星空に溶け込んでいたようなまなくが、ふわりと飛び降りて嬉々として応えた。

「おら達は、あん人らからもらってんだぁ」

 細い指が差した先は、雲の晴れ間の透き通る夜空。通常の星が数個ほどの空とまなくを何度も交互に見、由宇樹は挙動不審になる。焦りまくる彼の頬を指先で触れて止め、まなくはふんわりと微笑みかけた。

「あんだは、練習とか勉強とかできんだからぁ、またサッカーやったらいいっちゃ」

 訳知り顔の大人達に散々言われた言葉だが、まなくが紡ぐと響きが違う。触れられた場所が甘く熱る。まなくは慈しむ色の瞳で由宇樹を見つめた。

「よがったら、これば巻いてけさいん」

 白い手が掲げるのは、画魂と同じ型のミサンガ。紫の珠の色違いである。

「え~、あいつとおそろとか、やんだ」

「おらともおそろいだがら」

 くすくすと笑うまなくが、自らの右手首を掲げた。その細い手首には、翠の珠を編み込んだミサンガがある。真っ赤になった由宇樹は何度も頷き、礼を述べた。彼がふやけていると、何かが蠢く。殺気立って辺りを見回せば、まだくすくすと笑うまなくが、裏庭を囲む茂みへと歩み寄る。

「なんが、お土産持った熊さん来てっし」

 彼女は織朔家を囲む茂みへ、手を無造作に突っ込む。華奢な手に引きずり上げられたのは、何故か他校生のライバル。由宇樹は顔をしかめ、そっけなく言い放つ。

「あ、そいつ熊でなくて、猪」

「こんばんはぁ、織朔さぁん」

 襟首を美少女に掴まれて照れ笑いする少年・松代は、県大会決勝戦で由宇樹達を圧倒した花野辺南中学校の二年生レギュラーだ。二年間無敵だった必殺技のツインドリブルを、この猪少年に初めて破られたのである。

 グレた理由のひとつが、ボールとノートを持っているのを、由宇樹はいぶかしむ。

「うちの指定ノートを、なんでお前が」

「これはさっき、マジ猪が食いかけてて、俺が拾ったんっすよ」

 チャラい口調ながらまっすぐな瞳の少年は、興味津々なまなくに刈り上げ頭を撫でられてまた照れ笑い。由宇樹方面から剣呑なオーラが立ち上るのを察知し、松代は最敬礼した。

「じゃ! 俺ランニングあるっすから!」

 バタバタ走り去る猪少年へまなくは大きく手を振り、由宇樹と画魂は顔を見合わせた。しかし去ったはずの猪少年は、後ろ歩きで戻って来る。

「あ、あと伝えなきゃいけねぇの忘れてたっす」

「なんだよ?」

 ぶっきらぼうな由宇樹へ、松代が大きな前歯を煌めかす。

「もう知ってっと思うけど、一昨日だかに貴雷カップの創設が発表されたんっすよね」

「は?」

 メガネを上げ、由宇樹は目を丸くする。ここ一週間はロクに学校に行かず、部活にも寄り付かずにいて、初耳だ。大きな目と立派な前歯を輝かせ、松代が得意げに語る。

「新しく中学生サッカーの全国大会を貴雷さんのパパさんが、主催して立ち上げたんすけど、同じガッコだから知ってるっすよね?」

「それ……」

 嬉しさと戸惑いに、由宇樹は語る言葉が見つからない。爽やかな猪少年は手を振って再び走り去る。

「またあんたの『ツインドリブル』を破るの、楽しみにしてまぁす!」

 松代は嵐のごとく駆け去った。残された由宇樹は、画魂とまなくに両側から覗きこまれて咳払い。まなくが会心の笑顔で誘う。

「明日、ガッコさ、あばいん」

「んだな」

 素直に頷く由宇樹が手にした歯形のついた真新しいノートは、彼が休んでいる間の授業内容が書かれていた。由宇樹よりも遥かにぶっきらぼうな画魂が、とっとと従姉妹の家との狭間に建てたマヨイガに向かう。なんでも画材のメンテナンスがあるらしい。まなくはぺこりとお辞儀し、そそくさと画魂の後を追う。由宇樹はため息を吐いた。

(やっぱあのバカと)

 恋人なのかと思った瞬間、まなくが画魂の背中にハイキックを決めた。さすがによろけ、憤慨してまなくを追い回す画魂を眺め、由宇樹は笑いながら玄関へと戻る。彼らはすぐに由宇樹宅へ戻ってくるから。

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