画闘士画魂《ガウォリアガウル》

日高 森

第1話邂逅

 空洞めいた目の由宇樹ゆうきは、もう三日もこの忌まわしい海岸にへばりついていた。この荒玉浜あらたまはまの波の音も浜特有の風の音も、潮の香りも砂の感触も、すべてが気に入らない。というか、憎い。それでもここに、長めの髪をうっとうしげに払いながらもメガネの少年はいる。いなければならない。

 この三年数か月で、津波であらかた流されてしまったはずの宮城県仙楠市(せんなんし)瀬織津せおりつ地区の沿岸部にあるこの砂浜は、ほとんど元の姿に戻っていた。とある著名な国会議員肝いりの復興工事の賜物と、自然の修復作用だろう。同じく、農林園芸センターごと流されてしまった荒玉浜固有の植物は、今は内陸部の大規模な研究施設の中に保護されている。そこへは今日も、「研究」についての反対運動の人々が来ているらしいが。

 再び風で髪があおられ、由宇樹の目を覆う。あの震災以来、少年の視界はしばしば酷く歪むようになっているのだ。今も視界が白く濁っていきそうになっている。

 心理的にホワイトアウトしかけた眼の端に、何かの彫像が映った。

(もうここにも、記念碑建ったのか?)

 灰色の物体を確かめようと、メガネをくいと上げて見ても岩場には何もない。キュルキュルと、幻の金属音が鼓膜をはじく。「あの時」使った自転車が傍らで、カラカラと乾いた音をたてるのに重なる。

 改めて砂地で膝を抱き、由宇樹はあの日とよく似た鈍色の空と海を睨んだ。夏なのに妙に風が冷たい。

(ぜってーあいつらに会う。会って、んで)

 そして幼なじみの迅音はやとと従姉妹の紗由理さゆりに、自分は何を言わなければならないのか――由宇樹は凍えるように震えた。

(なにば言ったらいいんだ)

 おそらく何も言えないし、言えもしないのだ。

(おれがじゃんけん負けてりゃ、おめらは助かったって)

 いまさらそんなおためごかしが、何になるのか。失われた命はもう戻りはしないのに。 ジクジクとまた、いつもの痛みが胸に沁み入る。由宇樹は立てた膝の狭間にうなだれた。遠くから彼の名を呼ばわる声が近づく。由宇樹は無視し、息を潜めた。砂を歩く靴音は無遠慮に近づき、ついに少年の正面にたどり着く。 

「なぁ、織朔おりさく、そろそろ学校へ来ないか?」

「…………」

「あの件も喧嘩両成敗だ。三田も謝ってるし」

「……うぜぇ」

 心底から、由宇樹は担任の川堀をうっとうしく思う。三田だったから殴ったのではない。海岸に亡くなった人々が多数迷い出ているという、ネット発の怪談を声高に吹聴する連中の中心に、たまたま彼がいたからだ。殴り返された頬は痛むが痛まない。それよりも遥かに、胸の痛みのほうが上だからだ。

 ただすねていると川堀は思っているだろう。胸も頭も痛い。だがもっともっと深い場所からの痛みが衝動として突き上がり、由宇樹を暴力に走らせたのだ。副担任の斎藤が今いないのも幸い。彼女はほんのちょっと零した言葉から、根掘り葉掘りすべてを見通してしまう。そして痛みの伴う情報を、三田だけでなく見知らぬ他人に漏らしている。無頓着な三田の声が脳裡を掠めた。

『生き残ったやつらを恨んでんのがさ、カップルで海岸ぷちに化けて出てんだど。のっつぉこいでっと呪い殺されっとぉ』

 無邪気というにはあまりに残酷な物言いに、たまたま廊下を通りすがって聞いてしまった由宇樹は、気がついたら手を出していたのである。

『ゆうちゃん、のっつぉこいでっと、おいてくど!』

 「のっつぉこく」という方言は幼なじみでライバルである迅音からの、由宇樹へのからかいの常套句。名前どおりの凄まじい駿足で、迅音は小学生サッカー界でめきめき頭角を現していた。由宇樹も決して遅れをとってはいなかったのだが、ストライカーの彼とキーパー向きの自分とは妙な隔たりを感じていた。 膝に顔を埋めていた由宇樹は、顔をずらして自分の手を虚ろに見やる。

(気ぃついたら、三田ばぶっ飛ばしてた)

 突発的な怒りの背景にある複雑な事情など、今の由宇樹には論理立てて話すのは困難で。それを察しているのか、川堀は優しく諭す。

「じっくりと、過去と向き合いたいなら、俺はどこまでもつきあうぞ」

 同じセリフは全国から訪れた、その手を専門とするボランティア相談員達からも聞いている。最初は話せば話すだけ、憂さは晴れそうに思えたが、日が経つにつれて記憶は余計に重くのしかかってきた。だから由宇樹はいつしか話せなくなっていった。

 過去を聞きたがらなかった大人は、四月に配属されてきたスクールカウンセラーである斎藤のみ。

(その斎藤先生がよ……)

 自嘲の笑みを浮かべ、由宇樹は深々とため息を吐く。

 熱血教師が何か言いかけた時、海岸沿いの国道からけたたましいクラクションと悲鳴が降ってきた。急ブレーキでアスファルトを削る音が耳をつんざく。見上げれば、国道を塞ぐように妙な明るさを放つ白い町並みが林立していた。メガネを直して、由宇樹は間抜けな風景に突っ込む。

「はぁ? なんでここにモンマルトル?」

 物心ついた時から美術図鑑で眺めていた風景が、国道から海岸をまたいで鎮座する。悲鳴は、偶然通りすがった小学生達だ。たぶん校外学習の帰り道だろう。

 弾かれたごとく、由宇樹は自転車に飛び乗って切通を駆け登る。自転車に乗ったまま、町に吸い込まれていく小学生達を遮るため、由宇樹は突っ込んでアスファルト上に横倒しになった。なんとか小学生達は止まり、放り出された由宇樹は安堵する。あちこち打ち身だらけだが、そんな程度は平気だ。

 国道を走行していた自動車群は、必死に急停止しようとする。が、巨体のトラックやバスとともに、先ほどの自転車同様、何故か町へ引き寄せられて行く。知り合いの白いバンを見つけ、由宇樹は真っ青になる。止まらないクラクションに、あの日の騒音が蘇った。由宇樹は耳を塞ぎ頭を抱える。

『迅音と、後から支所さ行くって』

 気丈な紗由理の笑顔が心臓を射す。

(おれは生き残る運なんか、ほんとはねがったんだ。あいつらの運ば吸って)

 取り返しがつかないことがまた起きているのに、今回もどうにもできない。(だったらぁ)

 由宇樹はふらつく足で幻の町並みへ向かった。自動車群ごと、死ねれば幸いと思って。しかし。

「ガオってんじゃねーぞ! コルァァッ!」

 張りのある怒声が、薄灰にけぶる一帯を切り裂いた。教師よりも長身な金髪に赤メッシュの少年が、仄白い町並みの上にひらりと降り立つ。彼がまとう白のマントがあまりにも勇者過ぎた。ミスマッチ過ぎる絵面に由宇樹はつんのめって内心で激しく突っ込む。

(フランスのっ、ユトリロの町並みに勇者様って、斬新過ぎだっつの!)

 夏の曇天にマントを閃かした少年は、肩に担ぐ巨大な剣を天にかざす。渦巻く雲間に轟きひしめく稲妻を集めた。見上げる小学生達が目を輝かす。

「つか、あれ! でっけぇ筆ぇ!」 謎の少年に怒鳴られたのが口惜しい由宇樹は、メガネを直してまじまじと見つめる。

「目ぇ、真っ赤だ」

 かの少年の瞳が燃えるように赤い。何かを詠唱しながら巨大な絵筆を操る少年は、ただでさえ天を衝く髪と真っ赤なオーラを逆立てて吼えた。

画聖召喚サモンガイスター!」

 咆哮はさらなる嵐を呼び、重ねて襲来した数多の稲妻が巨大筆に集約し、気合いとともに飛んだ少年によって町並みが一閃される。すると町並みのど真ん中に、凱旋門が現れた。由宇樹は吹き出しかけて口許を押さえる。

「が、凱旋門?」

 巨大な門が道を開き、町並みに激突しそうだった自動車群は、なんなくその狭間を往来し事なきを得た。運転手達は呆然としていたが、静かにブレーキを踏んで一息つく。 事態を一番に理解した小学生達が、最初に大喝采した。

「すっげー! あの金と赤のワカメみでな頭のあんちゃん!」

「ワカメじゃねぇ。天パだ」

 反論した金色ワカメ頭は、白々と明るいビルから華麗に舞い降りる。そして筆を両肩に担いだまま、由宇樹に話しかけてきた。

「なぁおめえ、あの町並みがユトリロだってよくわかったな。あんな場面で斬新な突っ込みだった」

「……っ!」

 内心を読んだ内容で普通に話しかけられ、由宇樹は顔をひきつらせる。

「き、金色ワカメ頭の非常識なやつが言うな! つか、フツーに話しかけてくんな!」

「お静かに! 楽聖召喚サモンマエストロ!」

 いきなり降る透き通る声の鋭いツッコミに、由宇樹と金色ワカメ頭が空を仰ぐ。さっきまで金髪少年がいたビルの屋上に、由宇樹と同じ貴雷学院の、基準服姿の超絶美少女が佇んでいた。長く艶やかな黒髪を無造作にかきあげ、美少女は優雅に輝くヴァイオリンを抱える。奏でるのは陽気で軽快な曲。演奏しているのは一人なのに、数十人規模のオーケストラがともにいるよう。

 知っている曲なので、由宇樹は人差し指で軽くメガネを上げた。そんな彼の隣へ、先ほどのバン――デイサービスの送迎車から降りてきた壮年の女性二人がわたわたとやってくる。

「おりさっくん! なんともね?」

「はい、おれは大丈夫です。山根さん達こそ大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だぁ。あれ、『巴里のアメリカ人』だっちゃ」

 不思議な美少女が異常な場所で奏でる曲は、由宇樹がボランティアでマッサージ施術に通っている老人保健施設で、映画好き所長がときどきかけるのである。

 あり得ない事態にいまだ怯えてパニクる大人達が、金の雨に似た柔らかで明るい音色にクールダウンしてゆく。キラキラと、たくさんの光の珠玉が舞う。佇む人々の狭間を縫い、雪の結晶のごとき煌めきが踊って皆をふんわり包み込む。雲間から差した光のカーテンを背景に彼女は優雅に奏でる美少女を見上げ、てのひらに先ほどの光珠を集めて吸い込んだ少年が呟く。

「さすが樂闘士ミュウォリア様は、やーっぱ、すげえや」

「みゅ……みゅおら?」

 つい尋ねてしまう由宇樹へ、金赤メッシュのシュッとしたイケメンが説明する。「あいつな、樂闘士っつー音楽で世界を変容させる力を持つ特種とくしゅ公務員なんだ」

「へ?」

 お役所的な専門用語と、厨二病設定が噛み合わない。海底で揺らめくワカメのごとき金赤メッシュ髪の少年は、今は青い双眸を悪戯っぽく輝かせて熱っぽく説き続ける。

「そんでオレも同じ特種。オレの力は、画聖ガイスターって芸術家達の画魂ガウル、要するに絵の魂を召喚して、なんやかやで実体化させんだ」

「なんやかやって……」

 適当過ぎる説明に、由宇樹は疲れてきた。滔々と続ける少年の閃くマントの下にまとっているのは、黒地に原色を塗りたくったランニングとカーキ色のハーフパンツという、勇者だか子供だかわからないいでたち。

「で、オレがその力の頂点を極めて生まれた、画闘士ガウォリアの中の画闘士様、だから名前も画魂がうるってんだぜ!」

「自分で言うなよ」

 超常的な力の片鱗は先ほど披露されているから分かっていた。だがそれを素直に讃えるのが、なぜか大変に口惜しい。問題の画闘士とやらは、しかし眉をひそめた。

「けど、そのオレと似たような力を、悪用してやがんのが、今、この世界にいんだよ」

 その「犯人」を追ってきたのだと、由宇樹はうんざりしながら理解した。さてその少年画闘士は、ぴっと由宇樹を指差す。

「やっぱおめえ、狙われてんな」

 こともなげに金赤メッシュの、まるで海中を揺らぐ海草を模したようなヘアスタイルの少年が告げる。狙われることに身に覚えなど無い――しかし由宇樹の胸の疼きが否定した。

「おれ……やっぱりあいつらに狙われてんのか?」

 絶望が由宇樹の視界を塞ぐ。また遠くが霞んだ。彼の裸眼視力は1・5と、震災前と変わらない。なのに何故か頻繁に霞み歪んで、日常生活にメガネが必要となっている。震災によるストレスが原因と、専門医にも告げられていた。

(なんで今んなって……)

 再び考えこむ由宇樹へ、金赤ワカメ頭が巨大絵筆の穂先を向ける。

「とりあえず、お前はオレらが守ってやんぜ」

「……はぁ? バカこくな」

 舐められたものだと由宇樹は憤慨する。声をかけてきた人々は皆、そう言っては結局、都合だ、なんだで去っていった。どうせ去っていく者が、何の約束をするのか、従姉妹も幼なじみも約束どおりには帰ってこなかったと、由宇樹の思考は怒りで混乱してくる。自然を自在に操るそんな力があるのなら、何故あの時に現れてその力をふるってくれなかったのか――メガネの少年は、笑いかける画魂の胸ぐらを掴む。

「てめえ! んな力あんなら、なんでっ」

 尋問口調の由宇樹に画魂と名乗る少年の目が、一瞬だけ灰色にけぶった。

「それ、無理だったんだ。すまねえ」

 自信満々だった金赤海草頭が、苦渋に満ちた表情で由宇樹を見据える。

 膠着状態の二人の少年の間を、柔らかな光珠が舞い飛び弾けた。穏やかだが鮮烈に輝く音の光で作られた階段を、不思議な美少女がヴァイオリンを爪弾きながら降りて来る。音の波動によってか、美少女の長い黒髪はしなやかに広がりまるで翼のよう。チェックのスカートからすらりと伸びた脚は細くしなやかで、紺のハイソックスとローファーが、これほど華麗に映るのかとその場にいる皆が驚嘆する。

 滑らかな動作で、美少女は由宇樹へ近づいてきた。どぎまぎする由宇樹は、痙攣する手でメガネを上げようとしては失敗する。正面に陣取った彼女の困った笑顔すら、息が止まりそうなほど美しい。端正な顔立ちの中でも一際魅惑的な甘い色の唇が綴る。

「ごっしゃがねで聞いでけろ。おらだづはケガばしてだがら、やっとこさ今、任務さ復帰したばっかしなんでがす」

 祖母くらいの年代の仙楠弁に、由宇樹は内心でちょいこけした。が、彼女の魅力はかえって増した気がする。可憐な瞳を翠に輝かせた仙楠弁全開美少女は、やはり笑顔も全開。由宇樹へ画魂の非礼を詫びた。

「こいづのこど、勘弁してやってけれ。得意技ばパクらって、イライラしてっからぁ。この火焔土器頭はぁ」

「そんなんじゃねえっての! つか、火焔土器頭言うなや、まなく! 画魂だ、画の魂って書いて画魂!」

「すんげえキラキラネーム、かっけーな」

 今さら由宇樹は変わった名前にウケてしまう。フンと鼻を鳴らした画魂はそっぽを向き、光に包まれるユトリロの描いたモンマルトルの町並みへ手を広げた。するとその巨大なオブジェは、閃くマントへ吸い込まれたのである。 そこにいた人々は、ただ目と口を開けて見ていているだけ。まなく、と呼ばれた美少女が由宇樹へ告げた。

「あれ、一時的なもんなんだで。早ぐタンギーのじさまのマヨイガさ入れねば」「たんぎ? まよいが?」

「画材とかの専用倉庫ださ。そいづの入口開くのさ、ちょっと場所とるんだぁ」  視線の高さがあまり変わらないまなくに戸惑いつつ、由宇樹は考えてみる。自分の家は無駄に広いが、夏場は家族皆の合理性により雑草の楽園なのだ。セイタカアワダチソウ他が真っ盛りの場所へ、こんな美少女を案内していいのか躊躇するが。由宇樹は頭をブンブン振った。

「いきなりうちはダメだかんな!」

 いきなり、には突然の他に、「凄い」「絶対」などの強調の意味が入る地元。危うく美少女にほだされて、家に怪しい連中を連れこむところだった。そばに来ていた小学生達が同情的な目で画魂達を見上げ、由宇樹には懇願の色で見やってくる。

「ワカメのあんちゃんら、かわいそう……」

 困惑した由宇樹は、ちょうど一部始終を見ていた教師もいることだし、と辺りを見回す。彼の担任教師は、わらわらとやって来た警察から、他の大人達とともに事情聴取されていた。異様な風体の少年には目もくれず、警官達は混乱する現場の大人達をさらに混乱させている。

 その塊を抜けて、きびきびした若い警官が小学生達と由宇樹へ話しかけてきた。

「子供らは早く帰りなさい」

「はい……えっ?」

 警官の顔を見て由宇樹は自らの口を塞ぐ。ものものしい警官の姿が一瞬揺らぎ、あの金赤ワカメ頭になってまた戻ったのだ。ウィンクする警官にげんなりしながら少年は従う。

(そういや、レンブラントにいた……『夜警』っての。制服違うけど)

 絵画の人物の姿を借りることもできるらしいのに呆れる。名残惜しげな小学生達を促し、由宇樹は倒れていた自転車を起こしてそこから離れた。なんとか逃げられた、と思うが、周りを飛び交う光に、由宇樹は深々とため息を吐く。 空を閉ざす雲が動き、日が差してきた。雲間から差す太い光の束は荘厳な階段に似ている。後ろを振り返っては由宇樹を仰ぐ小学生達へ、中学生としては何か言ってやらねばならない。

「あれな、ヤコブ……天使の階段っつうんだよ」

「…………」

 子供らはあからさまに怪訝な表情で由宇樹を仰いだ。咳払いして由宇樹は語る。「んだからぁ、あいつら大丈夫だって」

「……俺らば助けてけたから、あのあんちゃん達、天使でねか?」

「だよな!」

 勝手に小学生達が盛り上がり納得してくれ、由宇樹はホッとした。天使の階段は幾層にも重なって由宇樹達を見送っている。




 壮麗にして堅牢な大工場のごとき避難タワーを仰ぎ見ながら、広大な防災公園予定地区を抜け、ひたすら少年達は歩く。途中にある元農林園芸センターだった土地は、姉が関わる研究施設のサテライトとなっていて、そこにも「サプリ反対」の看板が掲げる人々がいた。由宇樹はうんざりしたが、無視して横の路地を通り過ぎる。

 除塩作業が終わって区画されつつある未来の水田地帯からしばらく、整然と横たわる巨大ドーム群――バイオマス発電所と野菜の水耕栽培プラントの狭間を通り、とぼとぼ歩きの由宇樹と小学生達はやっと依然と変わらぬ地区へさしかかった。田畑の狭間にハウスや人家の屋根が見えてきて、引率役の由宇樹は安堵する。アスファルトの農道を弾むように歩み、子供達はいまさら興奮して語り合う。

「あのスゲーあんちゃん、テレビで騒いでたやつのあれだよな」

「あの世界中の絵から、中身がいねくなったやつ!」

「ワカメのあんちゃんさ聞いたら、それの犯人、この辺にいるんでねがっつってた」

「だからぁ、いきなり浜辺さ出る幽霊って、絵の中の人らじゃねーかって」

 平時の元気さを取り戻した子供達は、あの不審な少年から聞き出した情報を口々に語っている。それで由宇樹は確信した。

(やっぱりおれが描いたあれから、あいつらが……)

 メガネの少年は、小学生の頃に全国絵画コンテストで、総理大臣賞をとったことがある。その絵の主題は、浜辺で自転車を颯爽と駆る、中学生になった幼なじみの迅音と従姉妹の紗由理と自分。背景のキラキラ光る海は数ヶ月後に黒い壁となり、従姉妹も幼なじみも町並みも、すべて飲み込んだのだ。

 元気に歩く小学生達から、徐々に由宇樹は遅れていく。自転車の車輪のカラカラと回る音が、由宇樹の心を引っ掻いている。

(真っ黒に塗りつぶしてやったのに)

 数年経ても、従姉妹と幼なじみは見つかっていない。由宇樹は震災後すぐに、大賞をとった絵を黒いクレヨンで塗りつぶして丸め、二階の自室の窓から投げ捨ててしまっていた。その後どうなったか知らない。(あんなことしたから、あいつらもっと怒ってんだ) 塗りつぶして隠蔽しなくては、由宇樹は罪悪感から逃れられなかったのだ。

(おれがじゃんけんで勝ってなきゃ、あいつら……)

 カラカラと自転車が啼く。

 「お前がなんで生きてんだ?」と、何度も問いかけられる。何かわからぬもの達から、ずっと、今も。

 はしゃぎ進む小学生達から、由宇樹はどんどん遅れてゆく。目の端にまた、何かいる。甲高い金属音も響く。うつむいた彼は必死にそれを無視する。不意に子供達の声がやんだ。ふと前方を見上げれば、道の半ばに牛とも鬼ともつかぬものがいる。

「よ、よーかいぃっ!」

「なんでフツーに見えてんだ?」

 子供達から悲鳴と疑問符があがる。とにかく異形のものが、あっけらかんとそこに陣取っているのはおかしい。農道に幅をきかせる牛鬼みたいなものに、由宇樹は見覚えがある。

「あれ、もしかして」

 見覚えの元に思い至り、由宇樹は慌てて自転車ごと小学生達の前に回り込んだ。

(あれ、母さんの描いたやつだ……!)

 彼の母は自治体の医療関係の要職にある。そして絵心ゼロなのに毎度謎イラストで広報紙を飾り、医療関係各所から異様な人気を誇っていた。のべーんと農道を跨いで横たわるそれは、伊藤若冲の巨大な牛にインスパイアされて描かれた、巨大な四角っぽい猫である。角に見えたのは本人曰く、断じて猫耳。 警報のごとき金属音がうるさい。小学生らからなるべく隠すように両手を広げ、涙目な由宇樹は巨大な四角っぽい牛猫の前に立ちはだかった。

「こ、こいつはたぶん無害だからぁっ!」

「けど、ジャマ」

「そうだけど……」

 騒ぎの原因である牛猫は、「くぁ」とあくびをしてうざそうに由宇樹達を見やる。振り返って由宇樹も見返すが、牛猫は関心なさげに寝てしまった。

「どうしよう……」

 また間の悪いことに、見覚えのある自動車までが寄ってくる。それの運転手が顔を出し、由宇樹は眩暈を覚えた。

「あらぁ、ゆうちゃんでねぇの。なーにやってんだ?」

 朗らかな声の主は、そこに寝ている障害物の作者である。学校をサボってここにいることの追求はなく、由宇樹の母は好奇心むき出しで牛猫に近寄ってきた。

「なんか見覚えあんなぁ」

 「あんだが描いたもんだ!」と喉まで出しかかり、由宇樹は必死に抑え込む。興味津々なのは小学生達ばかりでなく、周りの農家の皆さんもだから。母の名誉のために、なんとかごまかそうといろいろ考えた。しかし、実体化した絵の主題を戻す方法など、由宇樹が知る由も無い。逡巡するうちに付近の住民達もわらわらと集まってきた。母の公用車以外の自動車だってやって来る。

(どどどっ、どーしよ~?)

 困り抜いて天を仰げば、少し離れたイグネの森――屋敷林のてっぺんに、例の金赤火焔土器頭が飄々と佇む。視界にそれを確認した瞬間、由宇樹は微笑んだ。が、すぐさま頭をブンブン振り、画魂からも目を逸らす。しかし目ざとい小学生やら彼の母やらが、盛り上がって騒ぎだした。

「さっきの金色ワカメのあんちゃあん!」

「あの牛ばどけて~っ!」

「え? 何? あのイケメン、どうやって木のてっぺんさ立ってんだ?」

 襟首を掴まれて母に詰問され、由宇樹はため息で「やれやれ」と首を振る。

「とりあえず、市民の安全とか先だべや。苦情くんぞ」

「だってぇ、あのなんだかわがんね生き物、おらほのもんでねっちゃ」

 由宇樹は「あんたが描いたんだ!」と怒鳴りつけたいが、歯を食いしばる。母の作画が実体化したとバレたら、どんなに糾弾されるかと心配でたまらない。

(んだからって、あいつに)

 緑と茶のぶちがある木のてっぺんで金髪赤メッシュ頭をかき、あくびをしている不逞の輩に助けを求めるのは業腹である。けれどこの事態を打開できるのはヤツしかいない。

 由宇樹が惑ううちに巨大牛猫は腹が減ったのか、のそりと立ち上がって野菜などの無人販売所に向かった。牛猫は無造作に前足を伸ばし、トマトやキュウリを取ろうとする。由宇樹は目を瞑った。大人達の悲鳴が響く。

「おらどこの販売所がぁっ!」

(小屋、壊されたら……!)

 賠償だ、なんだと追求され、母が職を失う未来を危惧したが、小屋が破壊される音がしない。おそるおそる横目で見やれば、例のぶっとくでかい筆をふるう画魂と目があった。彼は口許を不敵に歪め、牛猫の前足を筆で止めている。そして楽しげにのたまう。

「画聖召喚!」

 するとまたもや突如として雷雲が彼の頭上で渦巻き、大筆に雷光が集まった。子供も大人も歓声をあげる。

「またあれ、見られっど!」

「あんちゃん、すっげぇ」

 雷光を集めた絵筆で、画魂は虚空に描いた。筆先から、光を帯びた動物達が現れる。ポツリと由宇樹は紡ぐ。

「鳥獣戯画で対抗かよ」

 確かにあのユーモラスなウサギやカエルどもなら、なんとかできそうな気がする。ホッとする由宇樹を画魂が面白そうに眺めてきて、かの悩める少年は悔しげに歯をむく。

 さて農道を塞ぐ家屋二軒分ほどの牛猫は、法師や行者のごとき風体のウサギやカエルどもを一瞥し、また自動販売機くらいある前足で薙いできた。飛びすさる者達が面白いのか、何度もその遊びを繰り返す。そんな牛猫の背から、何者かが手を振ってきた。あの少女である。

「ふわっふわのぉ、もっふもふだぁ~」

「あー……」

 非常識な画魂の仲間もやはり非常識だ。由宇樹を始め、常識ある者達は緊張感の無い美少女に手を振られて力無く苦笑いする。

 呆れた様子で見守る大人達を後目に、小学生達や由宇樹の母が、ぽつり。

「わたしももふりたい」

「俺も」

「あたしもぉ」

「そんな場合でねぇべ!」

 怒鳴る息子を押し退け、由宇樹の母は「ちゃいちゃい」と動物達を払う牛猫へ歩み寄った。容赦なく、自動販売機大の前足が彼女達へ向けられる。皆が目を背けた。

 されど悲劇は起こらず、牛猫はどこからか響く笛の音に頭をもたげるだけで。その笛は光のフルートで、奏でるのはかの非常識美少女。和の田園風景にメヌエットが木霊する。竪琴は画魂が呼び出したらしい、ギリシャ風の女性達が演奏していた。その旋律に牛猫が大口を開ける。ゆっくりと前足を収め、箱を作って牛猫は寝てしまう。カエルやウサギ達は牛猫を囲み、その背中にいるまなくを仰ぐ。

 美少女のオーラは三対の翼に変じて白金色に輝き、彼女を丸くふんわりと包む。光は幾層にも重なる花弁となり、牛猫も鳥獣戯画の動物達をも包み込んだ。画魂も白いマントをはためかせて筆を操り、かの牛猫らは彼の描いた扉に吸い込まれてゆく。

 農道のあり得ない障害物は消え失せ、老若男女が輪になっているのに気づいた。次の瞬間、拍手喝采が起き、中心に佇む画魂とまなくが恭しく紳士淑女の礼で応える。

 勢いに呑まれて呆然と見ていた由宇樹は、はっとして両手を握り込んだ。頭をブンブン振り、集まった人々を押し退けて自転車まで走ってまたがる。そして母も画魂達も無視し、まっすぐイグネのほうへ一目散に駆け去った。画魂の尊大だが人懐こい笑顔が、痛くてたまらない。

「おれ、先にけえっから!」

 吼えて由宇樹は自転車にまたがり、大地を蹴った。戸惑う小学生達の声を背に受けながら畦道から離れ、自転車を駆って画魂がのっていたイグネの木々の狭間を突っ走る。

 そこは由宇樹の自宅から浜辺を隔てて鎮座まします、由緒あるらしい小さな森。母方の本家筋の氏神の祠と墓地があり、従姉妹らと青々した柿やクルミの木に登ったりかくれんぼした、不気味で懐かしい場所だ。今はその従姉妹の墓がある。木々もここまで浸水してきた海水に浸かり、一時は枯れかけていた。だが最近、木々の葉は一部分緑色に戻ってきている。従姉妹の、ヴァイオリンを模した墓石の近くが特に青い。

 何かが走ったのでそちらへ向けば、例の固有種が密やかに生え戻り、淡い翠色の花をいくつもつけているのが見えた。

『また生えてんの見つけたら、おらさ知らせてけさい』

 その花――「ツヅノマナク」とともに、白髪頭で洒落たスタイルの穏やかな老人の、張りのある声が蘇る。気配はカマドウマか何かだろうと、由宇樹は息を詰めてペダルを踏み込む。木々の奥で、息を潜めた何者かに少年は気づかない。

 皆から見えない奥まで駆け、やっと由宇樹は自転車を止めて振り返ってみた。母が画魂達へ話しかけている。他の大人達とともに、あの火焔土器頭へ礼を述べているのだろう。母が現れたのは、たぶんあの荒玉浜での騒ぎのせい。連れ立ってきた小学生達が、今まさに経緯を詳しく伝えているはずだ。

 小さく舌打ちした由宇樹は自転車を蹴り、自宅のほうへ向け急カーブを抜けてゆく。イグネを使ってショートカットしたが、結局母が運転する公用車に追い抜かれた。窓からまなくが手を振ってくる。由宇樹は苦く笑み、自転車をこぎ続けた。

(やつら、やっぱし、うっつぁんだ……)

 まなくにはまた会いたいが、画魂となると妙にムカつく。照りつける日光が、自動車に反射して目を射る。それが自信に満ちた少年の金と赤の髪に重なった。あの金髪と青い目が、チャラくも尊大で不敵なサッカー部部長を彷彿とさせるのだと、ようやく気づく。

畦道で自転車を止め、由宇樹は凪いだ緑の絨毯を見た。

「この上ば走ってみてえ」

 従姉妹の思い出と同じセリフを呟いてみる。決してアクティブではなかった紗有里が、昔ぽつりと言っていたのだ。

 立ち尽くしていると、汗が背を流れて苛立ちが増す。また目の端に彫像めいた灰色の塊が映る。キっとそちらを睨むと、キリコの絵画に描かれた少女がカラカラと鉄製の輪を棒で追い回し、由宇樹の自宅のほうへ去って行った。

 大げさなため息で何もかも諦め、少年は農道で淡々と自転車をこいだ。真夏の陽射しが進む彼を勝手に象る。カラカラと車輪の回る音が、影について行く。 家にたどり着き、由宇樹は手前の木陰で自転車を止めた。じわじわと蝉の音が染みてくる。

 錆びた鉄の門を開けて見上げる自宅は相変わらずばかでかく、赤い屋根は瓦が崩れてたわんだまま。家族全員がめんどくさがって夏の間は雑草の楽園と化す庭を抜け、由宇樹は古びた造りの玄関へ向かう。玄関脇だけは辛うじて、自宅、客それぞれ用の駐車用のスペース分だけ、なんとなく草が刈られている。そこに既に母が乗ってきた公用車はあった。

 がくりとへたりそうになるのをこらえ、この家の長男たる由宇樹は自転車を押す。習慣になっている動作で、彼は隣家を見やった。そこの二階の窓は、花柄のカーテンが中途半端に開けられた状態で放置されている。

(もう開くことも閉められることもねえんだ)

 そこは帰らぬ従姉妹の部屋。改めて由宇樹は実感した。何度目かわからない実感だが。

(おめの墓んとこの葉っぱな、だいぶ緑色さなってきたよ)

 由宇樹宅の裏庭にもイグネはあり、鮮やかな緑の木々がこんもりと屋根の向こうから覗いている。少年は水道とガスのメーター横の異物を見て、眉を八の字にした。

(おれらんとこのはこいつのせいか、もっと前から妙に元気になってっし)

 姉が「実験に協力して」と持ちこんだ、進化したバイオマス発電機というふれこみのそれ。その夜店で見かける小型発電機程度の丸みを帯びた箱が、裏庭に据え付けられた前後から、裸になっていた枝に葉がわらわらとつきはじめて現在に至っている。音は静かで電気代もほとんどかからず、両親ともにえらく喜んでいるのだ。 車輪のカラカラと乾いた音が響くのにつられ、玄関の引戸が勢いよく開かれる。

「おかえりゆうちゃん、遅いっつーの」

「……ただいま」

 ついさっき交差点で息子を華麗に追い越していった母が、ぬけぬけと笑っていた。屋内からは爆笑が聞こえる。かの英雄様もたぶんそこにいるのだろう。

「帰りたい……」

「どこに?」

 お前のうちはここだと、笑いながら母は突っ込んで公用車へ戻ってゆく。今から役場へ戻って報告などをこなしてくるらしい。由宇樹はまた大げさなため息を吐いて、自転車を定位置に置いた。カラカラと再び乾いた音に蝉の鳴き声がかぶる。



 カバンを部屋に置いた由宇樹が覗いた、和洋折衷の広い居間のど真ん中。そこであの異様な風体の少年が、客人として鎮座し手を振ってきた。彼らの向かいには、本日は勤務が休みである総合病院の外科医である父と、その隣の大規模研究施設「Stella Angelicas Pupil Research institute」――頭文字をとった通称「SAPRI《サプリ》」から、帰ってきたばかりらしい院生の姉がいる。姉――ゆりあはぶつぶつとぼやきながら、ボトルの炭酸水を飲む。

「ステラちゃんの調子、また今日もおかしいんだ。妙に炉内の圧力上がってんのに、出力は全然ふつうで、それ以上に上がんねべし、反対派の人ら敷地内さ入ってくっぺし……」

「ステラちゃん」とは、ステラ・アンジェリカ使用バイオマス発電反応炉のこと。厳重な侵入阻止システムがあるにも関わらず、かの団体は中枢棟の入口にまで至ったのだと普段なら使わぬ仙楠弁全開で嘆く。

「普通の人間でねえのが、手引きしたみでえ」

 その研究施設では、例の固有種――「ツヅノマナク」によるミニブラックホール作成実験を始めとする、怪しい研究が日夜行われていると、ネット上で噂されている。姉のゆりあはそれを聞き、一瞬固まってから爆笑していた。「ツヅノマナク」は、オーランチオキトリウムと似た、エネルギー物質抽出系の植物だとニュースで伝わっている。

 仙楠圏の復興特区としての予算と、とある富豪な国会議員のポケットマネーにより、大規模災害拠点としてのスタジアムとホテル、総合病院とエネルギー研究施設などが瀬織津地区に集約して建設されたのだ。その場の総称は「サプリワールド」で、由宇樹はダサさに閉口している。「地球上でブラックホールを作るなど、危険すぎる!」「神をも恐れぬ所業だ!」と、嘘か本当かわからぬに実験の噂に、過敏に反応している人々にも。

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