掏摸と煙草

悠戯

掏摸と煙草

 あるところに天才的な腕を持つ掏摸スリ師がいた。

 人様の懐から財布を拝借するだけのつまらない掏摸ならば珍しくもないが、その男は拝借した財布から千円札をきっかり一枚だけ抜き取り、持ち主の気付かぬうちに元の懐に戻すという神業の使い手であった。


 男が掏摸を働くのは日に三度、最大でも三千円までと決めていた。仮に財布の中に万札しかなければ手を付けずにそのまま戻す。まだ若い頃に己に課した掟である。だが、別にそれは彼の中に残る良心がそうさせていたわけではない。


 人の心というのは不思議なもので、あったはずの一万円札がなくなったとなれば必死に探すのに、なくなったのが千円札一枚だけならば、自分が使ったのを忘れてしまったか、などと思ってしまうのだ。その上、男はなるべく裕福そうな身なりの者を獲物としていたので、なおさら露見する可能性は減った。


 その掟と卓越した技術、そしていくらかの幸運により、男の掏摸の業は一度たりとも見破られず、六十歳で引退をする時までただの一度も捕まることはなかった。


 六十歳の誕生日、男はふと思い立って警察に出頭し、これまでの犯行の全てを自供した。


 とはいえ、老境に入った技術にはますます磨きがかかり、ここ十年ほどは被害届の一件すら出ていない。食うに困った老人が、わざと偽の犯行を自供して刑務所に入ろうとしているのではと、取調べを担当した刑事が逆に疑ったものである。仕方がないので刑事の気付かぬ内に懐の警察手帳や財布やらを抜き取って腕を示し、ようやく己が掏摸であると信用してもらえたほどであった。


 念願叶って逮捕された老人はそのまま刑務所へと入り、数年の勤めを終えて綺麗な身となった。


 出所する際に老人は刑務官に向かって「ああ、さっぱりしたよ」と言っていたという。まるで一風呂浴びたような気楽な物言いである。余人には分からぬ事であるが、恐らくは彼の心の中で何かの整理が付いたのであろう。



 こうして再び娑婆に舞い戻った老人は「さて、これからどうしようか」と考えた。特に思いつかなかったので散歩をしながら考えていたら、目の前で中年の男が煙草の吸殻を捨てるのを見た。


 地面に落ちた吸殻を何気なく拾い上げ、火がちゃんと消えているのを確認すると、ふと思い付いて先程の中年男性を追いかけて、そして吸殻を落とし主のズボンのポケットへと入れてやった。長年に渡って磨き上げた神業である。周囲の誰一人としてその動きに気付いた者はいなかった。


 中年男性はそのまま気付かずに通り過ぎ、信号待ちをしている時に何気なくポケットに手を入れた時にようやく吸殻の存在に気付いたようだ。酷く驚いてきょろきょろと辺りを見回す様子を、老人は少し離れた場所から可笑しそうに観察していた。


 その滑稽な様子が余程面白かったのだろうか。老人は「よし、これからは人様の為になる事をしよう」と言って、残りの人生の使い道をあっさりと決めた。


 する事は単純である。

 先程のように煙草の吸殻を道に捨てる人がいれば、火を消した吸殻を気付かれぬように落とし主に返すだけ。適度なスリルとゲーム性があり、おまけに良い事をしたという満足感まで味わえる。


 それが本当に善行と言えるかどうかはさておき、以後、老人はその『遊び』を好んで行うようになった。





 しばらく経った頃、その街におかしな噂が流れ始めた。


 この街で煙草のポイ捨てをすると、いつの間にか落とし主の元へと帰ってくる、という噂である。無論、あの老人の仕業であるが、誰一人として気付いてはいなかった。


 やれ幽霊の仕業だの、過激な禁煙推進団体の仕業だの、自作自演だのという様々な噂が流れたが、真相に至る者は誰一人として現れない。そんな世間の様子を老人は面白そうに眺めていた。


 ついには新手の都市伝説として有名になり、ネタに飢えたテレビの取材までもがやってきた。


 大抵の都市伝説というのは、実在が定かではない友達の友達が体験しただのという語り口が多いものだが、この件に関しては自身が実際に体験したという人があまりに多く「何かが違う」と感じた者がテレビ局の関係者にいたのであろう。


 テレビ局のスタッフは街に到着すると早速インタビューを開始した。

 昨今では都市伝説のせいで道端で煙草を吸う人は少なくなっていて、誰に取材をすればいいものかと迷っていたが、ちょうど美味そうに煙草を吸っている老人を見かけたのだ。あの元掏摸にして都市伝説の原因の老人である。


 「失礼します。取材をさせて頂いてもよろしいですか」

 「ああ、かまわんよ」


 老人は別に隠す事などないかのように、気軽な調子で取材に応じた。


 「貴方は、あの煙草の都市伝説を体験した事がありますか?」

 「いや、ないねぇ」


 勿論、あるはずがない。

 テレビ局のスタッフも肩透かしを喰らってがっかりした気配を出している。


 「まあ、煙草のポイ捨てはよくないよねぇ」


 老人は懐から携帯灰皿を取り出すと、吸っていた煙草を中に入れ、そのまま悠々と去っていった。


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掏摸と煙草 悠戯 @yu-gi

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