第5話 淳子ちゃんと真澄ちゃん
どれくらいたっていたのだろう。目が覚めた感覚があった。工事中か何かで道が悪いのか、バスの車体が何度も大きく揺れている。そのせいで目が覚めたのかもしれない。
確か、眠れないだろうと思いながらも、とりあえず目を閉じたはずだ。目を閉じた後だって何度も体の向きを変えたりしていたのに、いつの間にか眠っていたようだ。
薄暗い灯りの中、腕時計を見てみると、あと十分ほどで午前二時になろうとしている。他の乗客は眠っているのか起きているのか、どこからも話し声らしきものは聞こえてこない。
けれど、相変わらず雨音は激しい。少しも弱くなっていないようだ。真夜中で天気も悪く、バスの運転手さんもたいへんだよなぁ、などと考えていると、視界の隅で、私に背中を向けていた紀子が体を回転させるようにゆっくり動いた。
その動きにつられるように見てみると、意外にも紀子は目をパッチリと開けていて、バスの前方、天井のあたりをじっと見つめている。
「あら、紀子も起きていたの?」
私は顔をいくらか近づけ、ささやくような声で聞いてみた。
「うん、結構前から起きているわ」
紀子もささやくように答える。
「私、少し、眠っていたみたい。でも、慣れていないせいか熟睡はできないなぁ。天気が良ければもっと眠れるのかもしれないけど……他の人たちはどうなんだろう、眠れるのかしら。紀子はどう? さっき、眠いって言っていたけど、いくらか眠れた?」
「………」
「雨も弱くならないし、嫌になっちゃうわね」
「………」
何も言ってこない。どうしたんだろう。聞こえなかったということは無いと思うけれど。
久しぶりに会ったせいか、紀子との会話がいまひとつかみ合っていない気がする。まあ、仕方ないのかもしれない。
そう感じ、紀子に気付かれないように小さくため息をついていると、「ねえ、聞いてくれる」と、しっとりとした声で天井を見つめたままささやかれた。私の問いかけは素通りされたままかと思いつつも、返事をする。
「何を?」
「誰にも話したことないんだけど、香織には聞いてもらいたいの」
「へえ……いいけれど」
「たぶん、香織は聞きたいんじゃないかな。会社を辞めたことにも関係しているし」
「えっ、そうなの?」
ドキッとした。紀子のほうから言ってくるとは思わなかった。また聞いたとしても、ごまかされてしまうのではと覚悟していたので正直驚いた。そして驚くと同時になぜだか緊張もしてきた。
紀子は改めて私の目をじいっと見つめる。そして何かを決心したかのように視線を自分の手元に移してから、いつもよりやや低めではあるが、やはり、しっとりとした声で話し出した。
「まったく友達がいなかったわけではないの。子供のころには、何人か仲のいい子はいたの。性格だって、そこそこ明るかったと思うし、今ほどこんなに陰気ではなかったのよ」
真面目にそんなことを言うので思わず笑った。
「いやあね、紀子は今だって陰気じゃないわよ」
おかしなことを言う人ね、と言う口調で返しておいた。それは嘘ではない、そう思っている。けれども紀子は少しも笑わず話を続ける。
「小学五年生のとき、とっても仲のいい友達がいたの。本当にとっても仲がよくって、まさに親友って感じ。同じクラスにいた淳子ちゃんっていう子なんだけど、足が速くて、大きな声で笑う子だったわ。おままごとやゲームをして遊んだり……公園のブランコもよく乗りに行ったな」
「ふうん」
うなずきながらも、何の話しだろうと不思議に思う。
「学校から帰ってきてからも、毎日のようにどっちかの家に行っていたわ。家が近かったせいもあって暗くなるまでずっと遊んでいたの。しまいにはそのまま夕飯までごちそうになったり、お泊りしたり」
「へえ、すごいわね」
「でしょう? だから私はそのままずっと仲良しでいられると思っていたのよね」
「うん」
「………」
「それで? なあに? だめだったの?」
「そう、続かなかったの」
「どうして?」
「それがねぇ……」
そう言うと紀子は窓の外の暗闇に視線を移し、大きくため息をついたかと思うと、さらに低い声になった。
「秋頃だったと思う。学校の行事でバス遠足があったの。その日は普段なかなか行けない大きな公園に行くことになっていて、クラスのみんなは大喜び。私も前の晩なんかワクワクしてすぐに寝付けなかったくらい。もちろん淳子ちゃんとおやつ交換をしたり、いっしょにお弁当を食べたりする予定でいたの」
「うん」
「バスの席も淳子ちゃんが窓側、私が通路側で隣同士に座っていたの。でも途中で私、バスに酔っちゃって具合悪くなってきて……」
「あぁ、そういうこと私もあったわ」
「それで、淳子ちゃんが私を窓側に座るように勧めてくれたの。窓を少し開けて風にあたればいくらか具合がよくなるんじゃないかって。近くに座っていた先生も、それがいいって言ってくれて」
「うん、そうよね」
「私も、とりあえず席を交換して様子をみてみようって思ったの。目的地の公園もだいぶ近づいてきたから、まあ、何とかなるんじゃないかって」
「で、どうだったの? 具合よくならなかったの?」
「それが、もう、そんなことなんかどうでもいいくらいの出来事が起こって」
そう言って紀子はかすかに頭を振り、顔を歪めた。どうしたというのだろう。
「何があったの?」
「バスが……バスが道路からはずれて落ちていったの。カーブを曲がり切れなかったらしくて」
「えっ、事故?」
「そう。けれど、崖下とかっていうような場所ではなくって、三、四メートル下にある溝みたいなところへ。でも、バスは前から突っ込むようにして横倒しになってしまって」
「そんなぁ、で、どうなったの?」
「バスが倒れたのは一瞬よ。あっちこっちから悲鳴が聞こえて、みんな泣きだすし、バスの中はガラスが散乱して、もう……あぁ、思い出すのもいや」
「うん」
「でもね、信じられないことに、私、かすり傷一つなかったの。頭はどこかにぶつかったらしく、いくらか痛みはあったけど、まったく血は出てなくて」
「そうか、それはよかったわね」
「ううん、ちっともよくないの」
紀子の声が震えている。
「どうして?」
「淳子ちゃんが息をしていなかったの」
「えっ」
「死んでいたのよ」
「………」
「もう信じられなくって。ちょっと前まで話をしていた淳子ちゃんが死んでいるのよ。しかもその事故で死んだのは淳子ちゃん一人だけだったの。それがね、私に覆いかぶさるように死んでいたの。後で知ったんだけど淳子ちゃんの頸動脈あたりにガラスが深く刺さっていたらしくって……。でもよく考えたら変でしょう? 私のほうが窓側に座っていたのに淳子ちゃんに刺さっているなんて」
私は驚きながらも無意識のうちにバスの窓を見てしまった。
「そうね」
「しかも、その少し前に席を交換していたのよ。さらに淳子ちゃんは私に覆いかぶさっていたわけだし……これって、まるで私を助けようとしていたみたいに思えて。ね、何だかこわくない? 席を交換しなければ私のほうが死んでいたかもしれないでしょう」
「まあ、確かに」
「悲しくて、悲しくて、しばらく泣いていたわ。楽しみにしていた遠足の日にこんなことが起こるなんて」
「……そうよね」
「でも、いつまでも泣いていられないでしょう? 淳子ちゃんの分も生きていかなくてはと思って」
「うん。でも、そうかぁ、知らなかったわ、紀子にそんな悲しいことがあったなんて」
驚いた。確かに驚きはしたが、「でも」とも思った。この話と会社を突然退職したことと何か関係があるだろうか。そんなふうに思い始めたときだった。
「でも、これだけじゃないの」
紀子のしっとりとした声が、今までとは違うふうに響いた。気のせいかもしれないが、なんだか嫌な響きかただった。
「え、どういうこと?」
「まだ続くの。真澄ちゃんの話しもあるの」
「ますみちゃん?」
そう聞き返すと、紀子は深くうなずき、口の右端をかすかに動かして、わかるかわからない程度に微笑んだ。
「高校の頃の話しなの。意外かもしれないけれど、私、生徒会の副会長をしていたの。生徒会長はもちろん一人なんだけど、副会長は二人体制。ほんとうは私、そういう目立つことあまり得意ではないんだけど、そのころ親友だった真澄ちゃんが活発な子で、いっしょにやろうって言うのよ。で、私は、しぶしぶって感じではあったんだけれど、結局、真澄ちゃんと私とで副会長を引き受けることになったわけ」
「へえ」
また驚く。紀子が副会長をねぇ。
「あるとき、市内のいくつかの学校で意見交流会っていうのが行われることになって、それに私たちも参加することになったの。それは一校から二名の出席って決められていて、私たちは生徒会長の男の子と、もう一人、副会長の私か真澄ちゃんのどっちか一人が参加すればいいことになったわけ」
「うん」
「どっちが行く?ってことになって、結果、その時は私になったんだけど、タイミングが悪くて、前日から私、体調を崩して高熱と腹痛で、とてもじゃないけど行けるような状態じゃなくなったのよ。たちの悪い流行りの風邪にかかっちゃって、仕方ないから急きょ、真澄ちゃんが行くことになったわけ」
「そうか、でも、しょうがないわね」
「そうでしょう? で、その意見交流会の場所っていうのが、私たちの学校から、 けっこう離れた会場で行われるのよ。だから生徒会長と真澄ちゃん、担当の先生の三人でタクシーに乗って向かったそうなの」
「うん」
「そのときなのよ」
「そのとき?」
「タクシーが大型トラックと正面衝突してしまったの」
「えっ」
「信じられないでしょう? 私、そのことを聞いたときは、それはもう……」
「衝突してどうなったのよ?」
先が知りたくてせかした。
「三人とも重傷よぉ。でも生徒会長の子も先生も骨折はしたけれど意識はあったし、いくらか入院した後、元気になったの。でも真澄ちゃん一人だけが意識不明のまま……」
「意識不明のまま、どうしたの?」
「亡くなっちゃったの」
「ええっ」
私の背中に冷水が流れた。うつむきながら話していた紀子がこちらを向く。薄暗いバスの中で見る紀子の顔は青白く、見ようによっては気味が悪い。
「淳子ちゃんもなのに、真澄ちゃんも死んじゃったのよ。こんなことってある? しかもまた私の代わりよ、私の代わりに参加することになって死んだのよ。私が風邪にかからなければ真澄ちゃんは死ななくてすんだはずなのよ。そう思うと悲しいだけじゃなくて申し訳なくて」
「そうね」
私は弱々しく返事をした。
紀子は私のほうを向いたまま何かを言いかけた。が、少し考え込むような顔になって口を閉じる。何だろう、とは思ったが、聞く気が起きない。
真っ暗な闇が広がっているバスの窓を、相変わらず雨が激しく打ち付けている。少しも弱い降り方になってはいない。
どうしたらいいのかわからない沈黙が二人の間に入りかけたとき、紀子の消え入りそうな声が私をかこんだ。
「まだあるのよ」
手加減のないかこみ方だった。私はごくりと唾を飲み込んだ。
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