第3話 紀子が嫌がる話題
バスの中で私たちは隣同士に座った。
東京到着は午前六時過ぎらしいので、たっぷり時間はある。夜中とはいえ、すぐに眠たくはならないだろう。その前にいくらかの会話はできるはず。
チャンスだ、と思った。
聞けるかもしれない。いや、絶対聞きたい。あれから二年もたっているのだ。もういいだろう。
いきなり辞め、会社の人たちを驚かせ、呆れさせた理由をそろそろ言ってもいいのではないだろうか。
私はそんなことを考え、少し緊張しながら紀子の横顔をチラチラ見ていた。
バスに乗り込むとき、東京へ行く理由を聞いた。
「両親に顔を見せに行くだけよ。夏に帰れなかったから、今頃、帰るだけ」紀子は私のほうを振り向きながらそんなふうに説明した。
「私、一人っ子だから何かと心配されちゃってね。ちょっと帰らないだけで、あれこれうるさいのよ。いつ帰ってこられるんだって、しょっちゅう電話がかかってくるの」
困っちゃうわ、というような顔をして言う。そしてすぐに「香織は? 香織はどうして東京に行くの?」と聞かれた。
「高校の時の友達が結婚することになって、その披露宴に行くの。もう何年も会っていないから、ほんとに久しぶりなんだ」
そう言うと、「ふうん、友達かぁ」と、つぶやく。そして、何かを考えるように、じっと自分の手を見つめた後、「香織は友達たくさんいるの?」と聞いてきた。
なぜそんなことを聞くのかな、と少し不思議に感じながらも「特に多いってことはないわよ、たぶん普通よ」と答える。
「普通かぁ」
ぼそりとつぶやくような反応だった。
なんだか気になる。私、何もおかしなことは言ってないと思うけれど。
急に二人の間に漂った妙な空気を感じてか、あわてて紀子が話題を変えた。
「でも、香織ったら、その友達に先を越されちゃったのね。披露宴で見せつけられちゃうのかも」
そう言いながら、ふふふっ、と小さく笑う。
無理をしているような笑いかただった。
「あら、人のこと言えないじゃない、紀子もまだでしょう? 私たち、たった一つ違いなんだから、どっちが先でもおかしくないのに、紀子だってまだ結婚していないじゃない」
わざとからかうように言ってみた。
「確かにね。でも私はまだ二十八歳よ、香織は二十九になったんじゃないの?」
紀子も笑いながら返してくる。
「もう、いやあね。大丈夫、これから素敵な人を見つけるわよ」
「そうよね」
「紀子がうらやましがるようなかっこいい人を見つけて、紀子よりも先に結婚するから。あ、でも、もしかして紀子って、じつは彼氏、いたりして?」
そう聞くと、「そんな人いないわよ」と声を落とした。
「気をつかわなくていいのよ、正直に言って」
続けてそう聞いてみたが、「まさか、私に彼氏なんて絶対に無理」と言い切る。
私よりも美人な紀子に、まだ彼氏がいなくて正直ほっとしたが、「絶対に」まで付ける紀子が、なんだか可笑しくて「無理ってことはないでしょう」と、思わず笑ってしまった。が、そのことに対して特に反応はしてこない。
そこでバスのドアが開き、周りにいた人たちが乗り込み始めたこともあり、会話は途切れた。
少し強くなってきた雨を気にしつつ、無言のまま私たちはバスに乗車した。
紀子と初めて会ったのは三年くらい前だ。五月か六月、確か初夏の頃だったと思う。会社の社員食堂だった。
大人しそうな、けれど決して地味というわけでもない、目の大きな整った顔立ちの女性が窓際の席にポツンと座っていた。
誰だろう? 見たことは無いが、私たちと同じ制服を着ている。もしかして、最近中途入社してきた人かな? そういえば総務で人が足りていないって話しがあったから、それで採用された人かも。
そんなことを思いながら、誰と話をするでもなく一人で食事をしている紀子のことをチラチラ見た。
翌日の昼もいた。また一人だった。
誰かいっしょにお昼ご飯を食べる人、いないのかしら。総務の人も、少しは気を使って誘ってあげればいいのに。そんなふうに思い、さらに気になった。
そして、その翌日も、やはり紀子は一人でいた。
なんだか気の毒だな。声をかけたほうがいいのかな。
そうは思うのだが、いまひとつ行動に移せない。けれど、ますます気にはなる。
それは、たぶん私も一人だったからだ。
正確に言うと、私は紀子のようにたった一人でポツンと食事をしていたわけではない。毎回、同じテーブルには誰か彼かいて、何かしら話はできていた。
けれど、「課長のあの言い方は頭にくる」とか、「若い子は満足に敬語も使えないから、こっちがハラハラしちゃった」などという、誰かのどうってことない話しに、私はただ頷いているだけということが多かったので、当時の私は、親しい友達と交わすようなおしゃべりに飢えていたのかもしれない。
もちろん、社内には仲良くしていた女の子同士もいたし、なかにはカップルも何組かいたようだが、私にはそこまで深く付き合える、気の合う相手がずっとできないままでいた。
私も私で、無理をしてまで気の合わない相手の顔色をうかがいつつ友達のふりをしている、というのがいやなので、会社では自然に仲良くできる友達ができるまでは、仕事さえきちんとしていればいいだろうと、割り切って考えていたのだ。
次の日も食堂へ行くと、紀子はまた一人で隅のテーブルにいた。
一つのテーブルには四人が座れるようになっているのだが、紀子の他の席は空いたままになっている。
私はご飯や、お味噌汁、サバの味噌煮、漬物なんかが乗ったトレーを持ち、紀子の向かいの席に行った。
「こんにちは、ここの席いいかしら? 空いてます?」
微笑みながら声をかけた。
「あ、こんにちは、どうぞ」
少し驚いたような表情で私を見上げた。
「総務に入ってきたかたですよね? 私は営業部の深谷です」
胸のプレートを紀子のほうへ向けながら言う。
「上原です、よろしくお願いします」
紀子はあわてて箸を置き、軽く頭を下げた。私も、「こちらこそ」と頭を下げながら席に座り、そのまま会話を続けた。
「仕事、いくらか慣れてきました?」
「ぜんぜんだめです。緊張と失敗ばかりで落ち込んじゃって。私、むいていないのか総務の人に怒られっぱなしで……あ、こんなこと言ったらまずいかしら」
「ふふっ、誰でも最初はそんなものじゃない。もう少し経てば大丈夫だと思うけど」
「良かった、そう言ってもらえると助かる」
ニッコリほほ笑む紀子の顔には、整った中にもどこか幼さのようなものが感じられ、親しみを覚えた。
「いつも一人で食事? ちょっとさびしいわね?」
「なんだかそんなふうになっちゃって。私、人見知りなんで自分からは声をかけられなくて」
「私もどっちかというと、そういうタイプだからわかるわ。それに新しい職場だと知らない人には声をかけづらいでしょう?」
「そうなの、そうなの、その通り。わぁ、今日はなんだか嬉しくなっちゃう」
そんなふうに言われて悪い気はしない。
何だか人助けでもしたような気分にさえなってくる。気が合いそうだな、と思った。親しく付き合えそうな予感もした。
それから紀子とは毎日のように二人で昼食をとり、昼休みには自動販売機の飲み物を買って談話室でおしゃべりをするようになった。
時間に余裕のあるときには会社のすぐ隣にある喫茶店にも行った。ファッションや、流行りのお店、映画、芸能人……と、紀子との会話は尽きることがなく、楽しかった。そのうち、退社後にお酒を飲みに行ったり、食事をしたり、または映画を観たりと一緒にいる時間が長くなり、他の人には言えない悩み事なんかも相談しあえるような関係になっていった。
けれど、そんな紀子との付き合いの中で、ひとつだけ嫌がる話題があることに気付いた。
昔の話だ。この会社に採用される前のことを聞いたら、急に口が重くなった。
「ここに来る前はどんなところで働いていたの? どうして転職したの?」
深い意味はない。何気なく聞いただけなのだが「まあ、いろいろあってね」と、話したがらない。気のせいか、自分の子供の頃の話も避けようとする。
そうか、確かにそういうものだよなぁ、と思った。
特に何の問題もなく、うまくいっていたのであれば、そのまま働いていたはずだ。わざわざ転職したというのは「何か」があったはずなのだ。上司や同僚、あるいは男性との関係。または単純に仕事上の悩み。まだ他にだって考えられる理由はあるかもしれない。
紀子は触れてほしくないのだ。思い出したくないに違いない。
別に転職した理由など何が何でも聞かなければならないというわけではない。どうでもいいと言えば、どうでもいいのだ。
だからやめた。聞かないことにした。それが優しさというものだし、親しくなった紀子への思いやりだ。
少なくとも私は当時そう思っていた。
「近いうちに二人だけで温泉に行かない?」
「いいわね、行きたい、行きたい」
「じゃあ、思い切って今度の連休あたり、どう?」
「うん、いいわね」
「どこがいいかしら、どこに行く?」
紀子とはそんな話までしていたのだ。
だからほんとうに驚いた。あまりにも突然過ぎる。退職って、いったいなぜ? なにがあったの?
まったく理解できないまま二年が経っていた。
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