第2話 姿を消した紀子
興奮気味の中川さんが話を続ける。
「夕べ、紀子ちゃんから課長に電話がかかってきて、これから会社へ行ってもいいですかって、言ってきたらしいの。課長が一人で残業するのは総務の人ならみんな知っているから、わざとそういう時間に電話をかけてきたと思うのよ……で、やって来るなり退職届を突き出したそうよ、信じられないでしょう?」
「私、辞めたなんて、今、初めて知りました」
「そっかぁ……もちろん課長は考えなおすよう説得したらしいんだけど、理由も言わず、辞める、の一点張りなんだってさ」
このあいだ電話したときには、紀子は何も言っていなかった。
「課長だって困るわよね、部長や専務にどう説明したらいいのか。辞める場合って普通はもっと前に言うでしょう? 人の補充だって考えなければならないし。でも、はっきりとした辞める理由を言わない彼女に課長も頭にきたらしくて、最後には、こんなに非常識で、やる気のない奴は、この会社にはいらないって言ったんだって」
「……と言うことは、退職届を受理してしまったんですね」
「そういうこと」
中川さんは腕組みをして、大きくため息をついた。
「でも、いったいどうして?」
「なんだ、香織ちゃんなら知っているのかと思ったのにな」
残念そうな口調だ。
「じゃあ、もう正式に辞めちゃったんですね」
「そう、机の引き出しの中とか整理して、私物も持っていったらしいわよ。たぶん退職金とかの書類の関係があるから、近いうちに一度くらいは来るかもね」
「はぁ」
すると中川さんは私の耳元に顔を近づけ抑え気味な声で言った。
「もしかして前の会社でもこんなふうにいきなり辞めたのかしらね? いくら聞いても前の職場の話し、まったくしてくれなかったのよ。あの人、きっと何かあるんだわ」
ちょっと大げさだな、と思ったが、中川さんの気持ちもわからないではない。
「なんだかすっきりしないけど、しょうがないか。何かわかったら教えてね」
そう言って階段を上って行く中川さんの後姿を見送った。そして、すぐ、ほんとうにすぐ、私は紀子に電話をかけてみた。
けれど、出ない。何度も何度もかけてみるが出る気配がない。
どうしたのだろう、やはり何かがあるようだ。
よし、こうなったら帰りに直接自宅へ行こう。まだ一度も訪れたことはないが、住所は知っている。調べながら行けばなんとかなるんじゃないだろうか。
そんなふうに思い、午後五時の退社時刻を待ち、すぐ帰ることにした。
今日は残業なんてしていられない。小走りで階段を駆け上り、ロッカールームのドアを開けた。
ほかの部の人達もまだ仕事をしているのだろう、誰もいない。どうやら私が一番乗りらしい。
制服のボタンをはずしながら、ふと思い立ち、もう一度念のため携帯から紀子の家に電話をかけてみた。
すると出たのだ。驚いた。聞き覚えのある紀子の声だった。
「はい、もしもし」
「紀子? 紀子だよね? 私、香織だけど」
「あぁ……うん、わかっている」
思いのほか落ち着いた声だったので意外な感じがした。
「もう、どういうことよ、辞めたって聞いたのよ。中川さんが言ってたけど、私、信じられなくて。今日だって何回も紀子に電話したのにちっとも出てくれないし……」
「ごめんねぇ」
普段より少し低めの暗そうな声には聞こえたが、妙にのんびりとした口調にちょっと腹が立った。
「このあいだ電話したときには何も言ってなかったじゃない。中川さんも呆れていたのよ」
「そうかぁ、そうだよねぇ」
「もお、何言っているのよ、もしかして体調不良も嘘なんでしょう? なにがあったのか私くらいには話してよ」
「うーん、それは……無理、言えないわぁ」
「どうしてよ? 何か変なことに巻き込まれているわけではないでしょうね?」
電話口で紀子が「ふっ」と、漏れるように笑った。
「心配してくれてありがとう、変なことに巻き込まれてなんかいないわ、大丈夫よ」
「じゃあ何よ? 誰にも言わないから私にだけ教えて」
「だからぁ、それはちょっと……」
私のイライラが増すのに反して、紀子の口調は一段と落ち着いていくように感じられる。
「何がちょっとよ。私だったらいいでしょう? 私にも言えないことなの?」
「うん、香織には言えない」
「え?」
「香織には言えないのよ」
「………」
ショックだった。紀子のきっぱりとした口調が、私を強く拒絶していた。悲しいような腹立たしいような気持がこみ上げてくる。
「さっきから、言えない、言えないって、どうしてなの?」
「それは、たぶん信じてもらえないから。考え過ぎだって言われそうだから……もういいの」
妙なことを言うな、と思った。
「そんなの言ってみないとわからないじゃない、私どうすればいいの? 紀子の力になりたいのよ」
「ありがとう、でもいいの、もういいのよ。短い間だったけれど楽しかったわ」
「えっ、それ、どういうこと? もう会わないってことなの?」
「うん、そういうことになりそう。仲良くしてくれてありがとう」
「えーっ、ちょっと待ってよ、まったく理解できないわ。たとえ会社を辞めたとしても、私たちの付き合いとは関係ないでしょう?」
「ほんとうにごめんなさい」
「ねえ、ちゃんと答えてよ。このままじゃいやだわ。私が何かしたの? 誤解とかしていない?」
「香織が言いたいことはわかるわ、でも、ごめんなさい」
私の耳に届いてくる紀子の声は震え出していた。もしかしたら涙ぐんでいるのかもしれない。
「紀子ぉ」
「さようなら、お元気で……」
そう言うと、電話は切れた。その言葉が最後だった。
何が起こったのか理解できなかった。ほんとうに頭の中が真っ白になっていた。すぐに電話をかけなおしたり、帰りに紀子の家を探して押しかける気力はすっかりなくなっていた。
今、かけなおしたところで、たぶん電話には出ないだろう。わざわざ家まで行き、玄関のチャイムを鳴らしたところで反応するとは思えない。私はロッカールームの中で携帯電話を握りしめたまま、しばらくの間、動くことができなかった。
私、紀子に何かしただろうか? 気づかないうちに、何かひどいことを言っていたのだろうか? いや、そんなことはないはず。
最近では仕事帰りに、二人でご飯を食べに行ったり、映画を観に行ったりと、仲良くしていた。だから余計わけがわからない。
まあいい、とりあえず今日はやめておこう。
何日か間をおいて、気持が落ち着いてから電話してみよう。そのほうが紀子も何か話してくれるかもしれない。近いうちに退職金の関係で一度くらいは会社に来るかもしれないと、中川さんも言っていたし。
そう考えていたのだが、紀子の退職に関係する書類の手続きが郵送で済まされていたことを知った。
あわてて電話をかけてみたが、今度は番号まで変えたらしく連絡がつかない。思い切って家まで行ってみたが、驚くことに転居までしたようで、探すことはできなかった。
結局、その後、紀子と連絡を取り合うことはできず、今日に至ってしまった。
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