第十話

 十日後。

 シラーズ独立大隊の猛者たちは、バークリー峡谷で戦闘の準備を整えていた。「釣り餌」役のクリスティは、数人の兵士とともに十数キロ離れた黒鉄竜の住処近くに潜入している。

 バークリー峡谷は、旧い岩石の台地が川の浸食作用によって作られる谷に縦横に分断された、険しい峡谷地帯である。高低差最大三百メートルという切り立った谷が大地を切り裂くその雄大な風景は、見る者全てに自然の力の大きさを実感させる。

 この峡谷に棲息する黒鉄竜、それが今回のフランシスたちの獲物だ。

 辺り一帯で一番高い場所に設置された本陣前で、作戦前の最終確認が行われた。

 入り組んだ地形のせいで、砲撃しようにも射角がとれない。そのため、竜を谷間に誘い込み、高低差を利用したトラップで打撃を与えるというのが作戦の肝である。


「……では、これより作戦を開始します。総員、戦闘配置!」


 ダイアナが高らかに告げ、兵士たちは各々の持ち場に散っていく。

 フランシス、サイラス、エドガーの三人は、竜に罠を仕掛ける予定である地点の谷底で待機する。


「どうだフランシス、緊張してるか」


 エドガーが、フランシスの背中を叩いた。


「だ、大丈夫です。き緊張なんてしてないですよ」

「ハハハ、無理すんな。初陣で緊張しない奴の方がどうかしてるぜ」


 フランシスの顔は青ざめ、唇は震えている。強がって見せても、その内心の動揺は隠しきれるものではない。


「今回の竜は小さいって話だ。工兵部隊が大手柄、ってことになるかもな」


 フランシスを安心されるためか、サイラスがそう言った。しかし、竜討伐作戦において砲撃やトラップで止めが刺されるケースは四割に満たないということは、フランシスも座学で習っていた。六割の確率で、竜人の出番があるということである。


「そろそろクリスティの奴が竜を連れてくる頃だな。二人とも、準備はいいか」


 エドガーの言葉に、二人が頷く。竜が来る予定の時間まで、あと三十分。十五分前には「切り替え」を済ます手はずになっている。

 酷くゆっくりに感じられる時の流れの中、フランシスはひたすら自分を落ち着けようとしていた。


(大丈夫、落ち着け、大丈夫、落ち着け……)


 心の中で呟き続ける。その甲斐あってか、フランシスの動悸は徐々に治まっていく。


「十五分前だ。サイラス、フランシス、『切り替え』だ!」

「了解!」


 竜人になって以来、毎日欠かさず繰り返した「切り替え」。フランシスの身体は、一気に竜人のそれへと変化する。体内の溶鉱炉に火が入った。

 本陣では、適切なタイミングでトラップを作動させるべく、工兵隊長に対しダイアナが間断なく指示を飛ばしている。


「うまくハマってくれるといいんだがな」


 サイラスが、三人の、いや兵士全員の胸中を代弁する。


「来た!」


 谷底のはるか向こう――谷が大きく湾曲した先から、クリスティが飛び出してきた。そして数秒遅れ、この谷を支配する黒鉄竜がその姿を現す。

 体つきは、フランシスが見たことのある炎竜に比べ大分小さい。しかし手足は太く、黒光りする鱗はいかにも頑強そうだ。

 クリスティは百メートルほどの距離を保ちつつ、慎重に竜の誘導を行っている。

 とうとう、竜はトラップゾーン手前三百メートル手前の地点に到達する。クリスティが一気に加速して、竜を引き離した。竜は一瞬きょとんとしたふうに足を止めたが、すぐ我に帰ってクリスティの後を追う。しかし、その速度差は大きい。クリスティと竜の距離は、数倍にまで広がった。

 クリスティはそのままの速度で谷底を走り抜け、フランシスたちと合流した。


「クリス、お前は本陣へ下がれ!」


 エドガーの指示に、クリスティが頷く。クリスティは「釣り出し」のため、十数キロの距離を「切り替え」した状態で走破してきたのだ。「燃料切れ」までにはまだ余裕があるが、後方に下がって体力回復に努めるというのが当初の予定であった。


「フラン!」

「えっ?」

「頑張れよ!」


 フランシスの肩をバシッと叩き、クリスティは離脱して行った。


「あと十秒、八、七、六……」


 懐中時計を片目に、エドガーがカウントを取った。重鉈を握るフランシスの掌に、じっとりと汗が滲む。そして、カウントダウンがゼロになった瞬間――

「ゴロロォーーッ!?」

 竜の低い唸り声とともに、ドスンと大きな音が響く。膠入りの落とし穴に、黒鉄竜の左足がはまり込んだ。

 間髪入れず、崖の壁面に仕掛けられた爆薬が次々と爆発する。谷の両側から、竜に向かって多量の岩石が降り注いだ。


「かかったぞ!」

 エドガーの声は、轟音にかき消され間近にいるフランシスにさえ聞き取れない。

 崖の上からは、岩、油樽、火薬樽などが次々転がり落ち、巻き起こった爆炎と土煙は百数十メートルの谷の上まで達する。

 数分後、崖の上の工兵部隊は用意した岩や樽を撃ちつくした。

 谷間を吹き抜ける風が、谷を覆っていた爆炎や土煙を吹き飛ばしていく。視界がだんだん晴れていき――


「っ! やった?」


 フランシスの目に映ったのは、その身体を半ばまで土砂に埋め、ぐったりと横たわる黒鉄竜の姿だった。体中から白い煙が立ち昇り、鱗の隙間からは、鮮血が流れ落ちていた。

 崖の上から、工兵部隊の兵士たちが竜を覗き込む。その無残な姿を見て、やったぜ、だの、ざまあ見ろ、だのとやんやの歓声を上げている。


「バカ、油断するな! 下がれ!」


 エドガーが叫ぶも、崖の上の兵士たちにその声は届かない。

 と、黒鉄竜がぴくりと動いた。


「サイラス! フランシス!」


 大戦斧を手にエドガーが走り出し、サイラスがそれに続く。フランシスは慌てて後を追った。しかし、時既に遅し。

 竜がゆっくりと頭を上げる。腹部の鱗が蠢き、そして――

 まるで台風ハリケーンに揺れる木々のような、遥かな高みから流れ落ちる大瀑布のような――そんな轟音が、バークリー峡谷に響き渡る。

 黒鉄竜の砂塵呼気が、崖上の兵士たちに向けて放たれたのだ。

 あらゆるものを削り取る、そう言っていたパトリシアの言葉は真実だった。竜の放った「砂塵呼気」は、崖っぷちに立っていた兵士たち十人ほどを、その足下の岩盤もろとも文字通り粉々に削り取った。

 不幸なことに、フランシスは優れた視力で見てしまった。十人の兵士が、血煙を残し文字通りこの世界から消えてなくなるのを。

 崖上の兵士たちは、ここへ至ってようやく事態を理解した。狂ったように悲鳴を上げて、我先を争い崖から離れて行く。

「俺が先行する! フランシス、無理だと思ったらすぐに下がれ! 行くぞ!」

 大戦斧を振りかざし、エドガーが竜に突撃する。

 竜は身体を揺すらせ、その片足は土砂から抜け出そうとしていた。

「ちいっ!」

 エドガーが、その露出しかけた足に向かって、横薙ぎに斧を叩きつける。しかし、その刃先は甲高い音を立てて弾かれた。

「エドガー、どけ!」

 サイラスが走り出て、下段からの斬り上げを放った。脇腹辺りに先ほどのトラップで受けた損傷があるのを、サイラスは見逃さなかったのだ。鱗の表面に走ったひびをなぞるような斬撃だ。


「クソッ、硬ぇ!」


 サイラスの鋭い斬撃も、竜の鱗を大きく傷つけるには至らない。


「よし、あそこを集中攻撃だ! フランシス!」

「は、はい!」


 サイラスが、エドガーが、続けざまに攻撃を繰り出す。竜も腕を振りかざして応戦するが、動きはいかにも鈍重だ。二人にはかすりもしない。


「よ、よし、僕も……!」


 竜人の反射神経と速度なら、まず竜の近接攻撃は食らわない。聞かされていた通りだ。大丈夫、やれる――


「――ッ!?」


 竜の懐に飛び込もうとしたフランシスの足が止まる。竜と、目が合ってしまった。ぞわり、と全身の毛が逆立つ。

 同時に、フランシスの脳裏に過去の記憶が洪水のように蘇る。街道で竜に追われたこと。ヒークス平原の炎竜、「灼熱呼気」によって焼け焦げた大地。そして、「砂塵呼気」で消し飛んだ兵士たち。


「あ……ぁ……」


 両膝ががくがくと震える。見えない糸に絡みつかれたように、身体の自由が利かない。

 同じだった。街道で竜に襲われ、絶体絶命の窮地に追い込まれたあの時と。自分が酷く矮小に感じられるほど、竜の放つ存在感は圧倒的だった。

 フランシスとて格好良く竜と戦い、あわよくば自分の手で止めを刺して手柄を立ててやろう、という功名心を持っていないわけではなかった。しかし、竜という脅威を目の当たりにして、そんな感情は雲散霧消した。

 フランシスが硬直していたのは、恐らくほんの一、二秒だろう。サイラスやエドガーは、そのことに気付いていない。


「フラン! 上!」


 間一髪のところでフランシスを救ったのは、クリスティが放った鋭い声だった。本陣に引き下がったはずのクリスティの姿がそこにあった。

 フランシスがはっと顔を上げると、竜の巨大な右腕がフランシスに迫っていた。

「っ!」

 とっさに、大きく後ろに跳んでそれをかわす。


「あっ、ダメ!」


 フランシスは、跳んだ瞬間後悔する。不用意に大きくジャンプするな。訓練の際、散々教わったことだ。羽の生えた鳥や虫でもない限り、一旦跳んでしまうと地面に付くまではその身体の軌道を変えることはできない。

 竜が身体を捻り、その背後の土砂が盛り上がる。次いで、鋭い風切り音とともに竜の尻尾が振るわれた。竜が繰り出しうる最速の攻撃、それが尾撃である。宙空にいるため身動きの取れぬフランシスに、唸りを上げて尻尾が迫る。

 スローモーションに感じる世界の中、フランシスはクリスティが自分を突き飛ばし、尻尾との間に割って入るのを見た。


「きゃんっ!」


 短い悲鳴。楯にした双剣は、岩のような重量と鞭のような速度を併せ持つ一撃に、いとも簡単に弾き飛ばされる。クリスティの華奢な体は木の葉のように吹き飛んだ。

 首から下げたルビーのペンダントが描く軌跡が、フランシスの目に焼き付く。水切り石のように五、六度バウンドし、土煙を上げてようやくクリスティの身体は止まった。


「クリス!」


 フランシスが、慌ててクリスティに駆け寄る。息はあるが、ぐったりとして意識がない。目立った外傷はないようだが、骨か内蔵を痛めたか、揺すると小さな呻き声を上げる。


「フランシス、クリスを連れて下がれ!」

「サイラスさん、でも……」

「いいから早く!」


 くっ、っと唇をかみ締めながら、フランシスはクリスティを背負って走り出す。振り返ると、奮戦を続けるサイラスとエドガーの姿があった。比べて、自分のなんと情けないことか。敵を前に恐怖で動けなくなり、挙句自分をかばってクリスティが負傷してしまった。訓練で学んだことも座学で学んだことも、何一つ役に立てることができなかった。

 悔しい。不甲斐ない。申し訳ない。様々な思いが、ずきずきとフランシスの胸を刺し、苛む。

 地面を蹴るたび、背中のクリスティが苦しそうな息を漏らす。いかに竜人といえど、果たして無事に助かるかどうか。フランシスには祈ることしかできなかった。


 作戦は、ダイアナの「吼狼」が放った弾丸が作った傷に、サイラスとエドガーが攻撃を集中させることで決着した。

 クリスティはとうとう意識を取り戻さず、一足先に基地に搬送されることになった。応急手当を行った軍医の見立てでは、複数の内臓が損傷している可能性があるという。無意識に受け身を取ったのか頭に怪我がなかったのが幸いであり、とりあえず命に別状はないとのことだ。それでも、常人ならば十回死んでもお釣りが来るほどの衝撃を受けたのだ。しばらくは絶対安静が必要となるだろう。

 フランシスは、魂のない人形のように立ち尽くしていた。サイラスやエドガーがかける言葉も、フランシスの心には響かない。

 担架でクリスティが運ばれていくのを、うつろな瞳で見つめるのみ。慌しく撤収作業を行う兵士たちの喧騒を、どこか遠い世界での出来事であるかのように感じていた。




 クリスティが目を覚ましたのは、基地に到着して二日後のことであった。

 慌てて病室に駆けつけた「大鷲」の面々の中に、フランシスの姿もあった。

 口々に安堵の言葉を漏らす隊員たちと、弱々しいながらも感謝の言葉を述べるクリスティ。医師の説明によれば、十日ほどは寝たきりの生活になるだろう、とのこと。竜人の回復力をもってしても、完治までは二十日以上を要するらしい。

 クリスティを取り囲む輪の外側で、フランシスにはかける言葉が見つからなかった。自分の弱さが、目の前の少女をこんな目に合わせてしまったのだ。自責と後悔の念に、押しつぶされそうになる。


「あ、フラン……大丈夫だったんだね。良かった」


 人の影に隠れていたフランシスを見つけ、クリスティが声をかけた。いつものクリスティからは考えられないような、か細い声だった。


「クリス、ぼ、僕、は…………」


 謝罪の言葉を口にしようとする。しかし、言葉が出てこない。口先の謝罪が、いったい何の役に立つのか。それほど目の前のクリスティの姿は痛々しかった。


「っ!」

「あっ、フランシス!」


 たまらず、クリスティに背を向けて走り出す。エドガーやサイラスが声をかけるが、フランシスの足は止まらない。そのまま医務棟を出て走り去ってしまった。


「フランシスの奴、まだ気にしてんのか」

 エドガーが苦々しげに言う。


「戦場じゃ、こんなこといちいち気に病んでもしょうがない――が、奴はほんの二ヶ月前までただの一般人だったんだ。割り切れない、ってのはしょうがないさ」


 サイラスの言葉は正しい。こういう時、フォローをするのが上司の役割なのだが――ダイアナは、自分の無力さを実感する。士官学校時から優秀な成績を修め、竜人となり「大鷲」に入ってからも数々の戦功を上げてきたダイアナであるが、部下の細かな心の機微を察知したり、部下を鼓舞したりすることは苦手だった。「頭でっかち」であることは、充分自覚している。こんなとき「あの人」だったら、フランシスにどんな言葉をかけてやるのだろうか?


「フラン……」


 残されたクリスティは、開きっぱなしの病室のドアをただただ見つめるばかりだった。

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