第六話

 ダイアナから指定された時間を間近に、フランシスは「切り替え」の準備に入った。大きく息を吸いながら、意識を集中させる。

 フランシスの身体が、じわじわと熱くなる。行軍の間も欠かさずイメージトレーニングを積んだおかげで、ゆっくりではあるけどもフランシスは自分の意思で「切り替え」ができるようになっていた。

 心臓から吐き出されたマグマが、フランシスの脳を焦がす。閉じていた目を開いた。五感から流れ込む情報量が一気に増大する。世界がにわかに「明確に」なる、独特の感覚。

 フランシスの耳が、それまで気付かなかった音を聞き取った。地平の果てから響いてくる低い音。大人数が太鼓を叩いているかのようなその音は、こちらに向かって近づきつつあった。


「……来たね」


 誰に言うともなしに、クリスティが呟いた。

 ドロドロという地鳴りは、やがてどしん、どしんとはっきりとしたリズムを刻む。同じような音を、フランシスは聞いたことがある。

 フランシスは、平原の彼方に土煙が上がるのを見た。常人ならば、望遠鏡を使わねばならない距離だ。


「見えた!」


 フランシスの眼がとらえたのは一頭の馬と、それを追いかける巨大な姿――炎竜であった。サイズは、フランシスを襲った竜と同じくらいか。先を走る騎兵から、おおよそ二百メートルほど遅れて疾駆している。


「進路は予定通りだな。しかし、距離が近い」


 サイラスの表情は険しい。


「確かに……ベイカー少尉! 万一のときは援護射撃をお願いします。できますか?」


 ダイアナが砲兵隊長に尋ねる。「釣り餌」役であるフレッチャーが竜に追いつかれそうになった場合は、砲撃で弾幕を張り、彼の逃走を助けなければならない。


「問題ありません。兵長を巻き込むようなヘマはしませんよ」


 四十過ぎの砲兵隊長は、自信たっぷりに答えた。彼は、兵卒から士官にのし上がった叩き上げだ。豊富な経験と確かな技術を持つ砲術の名手である。


「ただまあ、フレッチャーの奴なら心配ないでしょう。上手くやりますよ」


 エドガーの言葉には、ちゃんとした根拠がある。フレッチャーは、基地でも一番の乗馬の名手だ。シラーズ近辺で行われる草競馬でも、連戦連勝負けなしであるとか。


「そうあってほしいものです――ガーランド少尉! 竜の速度は?」

「はい! 毎分四〇〇から四二〇! 地点Aまでは五分少々ってとこですかね」


 懐中時計と平原を交互に見ながら、サイラスが報告する。平原には数十本の旗が等間隔で立てられており、旗間を走破する時間を測ることでおよその速度を計算するのだ。


「よろしい。第一射に備えるよう砲兵隊に通達!」

「イエス、マム!」


 竜の姿はどんどん大きくなる。常人でも、肉眼でその姿が確認できるほどの距離になった、その時である。

 ズンという地響きと、短い咆哮。竜が、見事落とし穴に嵌った音である。落とし穴はそれほど深くなく、すぐに脱出されてしまうものであったが、中には膠が仕込んである。粘着力のある膠が鱗と鱗の間に入り込むことで、竜の機動力を削ぎ落とすことができるのだ。このポイントAに竜を誘導するのが、『釣り餌』たるダニエル・フレッチャー兵長の最終的な役割であった。


「第一砲兵隊、一斉掃射! 撃ーーっ!」


 ダイアナの号令とともに、凄まじい轟音があたりに響く。「嵐の丘」に据えられた三十門のうちの半数が、一斉に火を吹いた。土煙を上げ、砲弾が着弾する。


「命中――ゼロ! フレッチャーは健在です!」


 クリスティが報告する。もっとも、これは砲の最大射程ギリギリに向けた射撃であり、端から命中は期待されていない。


「次弾装填済み次第、任意に発砲!」


 次々と、砲弾が撃ち出される。突然の砲撃に、竜は首を左右に振り立ち尽くす。初めて見る大砲という武器に戸惑っているのは、フランシスの目にも明らかだった。


「グオォォッ!?」

 それまでフレチャー兵長しか見ていなかった竜が、こちらを向く。竜の怒りの対象を「釣り餌」から逸らせ、「嵐の丘」に向かわせる。それが、この砲撃の目的であった。


「――かかりましたね」


 作戦通り。竜は、怒りの矛先を大砲に向けたようだ。落とし穴から這い出ると、「嵐の丘」に真っ直ぐ向かって来る。時折砲弾がその身を掠めるが、まるで意に介さない。


「砲隊はそのまま掃射!」

「了解! 野郎ども、撃ちまくれ!」


 発射音の合間に、砲兵隊長ベイカーの怒号が飛ぶ。

 轟音に次ぐ轟音、やがて徐々に命中弾が出るようになる。砲に向けて真っ直ぐ進んでくる相手に対しては、狙いが付けやすい。左右の射角は気にする必要がなく、とにかく正面に砲弾をばら撒けばいいのだ。


「ちっ、ピンピンしてやがる。奴さん、体格なりの割りに随分頑丈だ」


 巻き起こる土煙に目を凝らしながら、エドガーが毒づいた。

 数発の砲弾をその身に受けるも、竜はさしたる痛手は負っていないようだ。しかし、これは想定内である。


「地点Bまであと三〇〇!」


 「嵐の丘」と「稲妻の丘」――二つの陣から伸ばした直線が、直角に交わる場所。それが、地点Bだ。


「よし、撃ち方止め!」


 時間にして八秒後。地点Bに竜が到達した瞬間――三方から巨大な網が襲い掛かった。地点Bには、強力な板バネによって跳ね上げられる網のトラップが仕掛けられており。塹壕に潜んだ歩兵がタイミングを合わせてそれを作動させたのだ。


「ガォァァァッ!」


 竜は網を振りほどこうともがく。しかし、網には伸縮性があるため、力任せではなかなか引き千切れない。

 すかさず騎兵が歩兵を回収し、全力でその場を離脱する。


「砲兵隊、全力射撃!」


 耳を劈くような激しい発砲音が響き、二箇所の陣に設置された大砲六十問全てが一気に火を吹いた。二方向からの十字砲火だ。


「グルァァァーーッ!!!」


 恐ろしい竜の咆哮も、激しい着弾音にかき消される。至近弾が土煙を巻き上げ、竜の姿を隠すが、砲兵は構わず発砲をし続ける。

 「釣り出し」によって誘導し、トラップで機動力を削ぎ、集中砲火を加える。人間相手ならばとても通用しないであろう古典的で単純な作戦だ。しかし、人間の知恵と武器を知らぬ竜に対してはすこぶる効果的だ。

 数分ののち、砲撃が止められた。用意した砲弾のうち、約七割を撃ち尽くしている。土煙が収まるのを待ち、クリスティが戦果を確認する。


「損傷多数あるものの――目標は健在! こちらに向けて進行を開始してます!」


 身体のあちこちから血を滲ませながらも、竜はゆっくりと身体を起こし、歩き始めた。先ほどまでに比べてその動きは緩慢だが、眼光はより一層明るく、爛々と燃え盛っている。


「砲の稼働状況は」

「九門が作動不良。向こうは――十八門が健在、だそうです」


 北西の陣からの手旗信号を受け、ベイカーが報告する。

 大砲は連射するとさまざまなトラブルが起きる。砲身が歪んだりひび割れることもあるし、不発による弾詰まりが起きることもある。また、発射の際に発生する熱によって砲身が加熱し、膨張してしまうと次弾を撃つまでに冷却期間が必要となる。


「あたしたちの出番、ですね」

「……止むを得ません。ベイカー少尉、残りの砲に榴弾を装填!」


 榴弾とは、ごく最近新たに開発された炸薬を仕込んだ砲弾である。対人戦では威力を発揮するものの、炎竜にはあまり効果がない。ここで使われるのは、目くらましとしてであった。


「爆炎とともに、『大鷲』の突撃を行います。『大鷲』隊員はウォームアップを」

「イエス、マム!」


 フランシスとは違い、クリスティたちは一瞬で「切り替え」を完了させる。


「よし、行くか」


 エドガーがぐるぐると腕を回し、自らの戦斧を手に取った。クリスティやサイラスもそれに倣う。


「クリス、頑張って」


 フランシスが背中越しに声をかける。クリスティは前を向いたまま、フランシスに親指を立ててみせた。


「いつでも行けます」


 クリスティの言葉を受け、ダイアナが「稲妻の丘」に目をやる。準備完了の合図が送られた。


「よろしい。カウントののち、突撃開始」


 ダイアナが右腕を高く掲げ、指でカウントを取る。三、二、一――

 ダイアナの腕が振り下ろされると同時に、三人が陣を走り出た。

 ばねで弾かれたかのような加速。先頭に立つのはクリスティだ。前傾姿勢で疾走するクリスティは、数歩のうちに最高速度に達する。その姿は、さながら豹か山猫か。やや遅れてサイラス、エドガーが続く。


「支援砲撃開始!」


 クリスティたちの背中を追い越すように、砲弾が飛翔する。着弾とともに上がる大きな爆炎が、大地を震わせる。

 五百メートル弱の距離を二十秒かからずに走破したクリスティは、爆炎と土煙を突っ切って跳躍する。


「でぇぇーーっ!」


 両手に剣を持ち、身体を回転させるように叩きつける。寸分違わぬ場所に放たれた素早い二連撃は、竜の首の辺りを浅く切り裂いた。


「先を越されちまったか!」


 長剣を振りかぶり、サイラスが突撃。袈裟懸けに切りつけた一撃で、足の鱗を斜めに削ぎ落とす。


「うおぉぉーーりゃあっ!」


 最後に到着したエドガーが、身の丈ほどもある戦斧を、立ち木を切り倒すがごとく横薙ぎに振るう。斧の刃先が、鱗にめり込んだ。

 腕力と武器の重量に任せて豪快に戦うエドガーに、その卓越したスピードをもって手数で勝負するクリスティ。サイラスは、やはり技術が凄まじい。まるで剣術の型のような流麗な動きから、鋭い斬撃を放つ。三者三様の戦い方だった。

 一方でダイアナは「吼狼」を構え、射撃体勢に入った。うつ伏せに地面に横たわる、伏せ撃ちの体勢だ。


「でぇいっ、やっ!」


 両手の剣で矢継ぎ早に攻撃を繰り出すクリスティだが、そのほとんどが鱗に阻まれる。


「まったく、なかなか頑丈な野郎だぜ」


 斧を振るいながら、エドガーが愚痴る。


「クリス、こいつは鱗が厚い! 砲撃で出来た傷を狙え!」

「分かった!」


 先ほどの集中砲火で、数箇所鱗がはがれて血が滲んでいる場所があった。三人は、そこを重点的に狙っていく。


「グオォォーーッ!!」


 竜の右腕が、クリスティに向けて振るわれた。しかし、その一撃は空を切る。


「当たらないよっ!」


 凄まじい速度で竜の股を潜り抜けると、尻尾から背中に飛び乗る。さらに高く跳躍し、全体重をかけて剣を頭部に突き立てた。しかし、まだ致命傷には至らない。

「ほんっと頑丈だな、コイツ!」

 と、一発の空砲が轟いた。三人は、弾かれたように竜から離れる。それは、ダイアナが「吼狼」による狙撃を行うという合図だった。

 巨大な発砲音、そしてほんの少し遅れて乾いた音が響いた。


「くっ!」


 ダイアナが唇を噛む。「吼狼」から放たれた特殊弾は、確かに竜の頭部に命中した。しかし――入射角がわずかに浅かったため、弾丸は鱗の表面を抉り取っただけに終わった。


「エドガー、クリス、まずい!」


 と、サイラスが叫んだ。竜の下腹の鱗が、波打つように動いていた。鞴腹が動作している証であり、それは炎竜が持つ最強攻撃――灼熱呼気の予備動作であった。


「やばっ!」


 幸い、呼気を吐くには数秒の「溜め」が必要だ。鞴腹で空気を取り込むための時間が必要だからだ。クリスティ、エドガー、サイラスは、その隙に全力で離脱する。竜の腹がみるみる膨らんでいき、そして、その膨らみが胸、喉へと移動する。

 瞬間。

 炎の塊が、竜の前方百八十度、半径九十メートルにわたってばら撒かれた。

 数百メートル離れたフランシスの肌にも伝わる、圧倒的な熱量。鉄をも溶かすと言われるファイアーブレスが、一面を焼き払う。地面は黒く染まり、岩石が赤熱するさまはまさに地獄絵図であった。


「三人は無事――エドガーさん!?」


 フランシスが、悲痛な叫びを漏らした。その眼がとらえたのは、地面に倒れ伏すエドガーだった。所々服が焼け焦げ、煙を上げている。やがて、エドガーは地面に手を突き上体を起こす。死んだわけではないようだ。


「くっ、俺としたことが、油断しちまったぜ……」


 直撃は受けていないはずだった。しかし、炎竜の灼熱呼気はその余波だけでも充分人を殺傷し得る威力を持つのだ。


「エドガー、離脱だ!」


 エドガーに駆け寄りながら、サイラスが叫ぶ。


「支援砲撃! 中尉の撤退を援護しろ!」


 ダイアナの号令に、再び大砲が火を吹く。サイラスに肩を借りつつ、エドガーが離脱する。


「俺はもう大丈夫だ」

「分かった、早いところ本陣に戻れよ」


 よろめきながらも、エドガーが後退する。それを見届けたサイラスは、クリスティとともに再び竜と対峙する。


「自力で走れるくらいなら大丈夫。竜人ならすぐ快復するわ」

「ああ、本当に良かった」


 フランシスとパトリシアは、ほっと胸をなでおろす。


「でも、攻めるなら今が絶好の機会よ」

「どうして?」

「教えたでしょ。あの竜はしばらくブレスを吐けないはず」


 竜に視線を向けると、クリスティとサイラスは果敢に竜に挑んでいる。しかし、致命傷を与えることはできていない。


「こうなったら、少佐の『吼狼』が頼りね」


 ダイアナとて、同じことを考える。しかし、残された「吼狼」は一挺。これを外すと作戦は失敗する可能性が高い。


「二百まで接近します。アーノルド大尉、万一の場合は撤退の指揮を」


 補佐役のアーノルド大尉が止めるのも聞かず、ダイアナは「吼狼」を担ぎ走り出した。

 狙撃の距離は近ければ近いほど命中精度が高まるし、威力も大きくなる。できる限り近づきたいところだ。しかし、仮に二百メートル――いや、百や五十の距離にまで近づいたとしても、当たり所が良くなければ竜は倒れない。集中せねばならないのは、距離が近づこうとも変わらない。

 炎竜の走る速度はスピードに乗ると時速四十キロを越え、固体によっては五十キロにも迫る。フランシスを襲った竜は負傷していたため速度が落ちていたが、本来は馬をも超える速度を見せることもあるのだ。二百という距離は竜からすれば目と鼻の先。最前線のサイラスとクリスティが竜を抑えきれなければ、落ち着いて狙いを付けさせてはもらえないだろう。


「ちょ、少佐行っちゃったけどいいの? 作戦指揮官でしょ?」


 フランシスの疑問はもっともだ。指揮官は、本来一番後ろから大局を見守るべきである。


「『吼狼』を一番上手く活用できるのは少佐だから、しょうがないのよ」


 ダイアナは平原を走り抜けると、狙撃体勢に入った。それを察したクリスティとサイラスは、竜の注意がダイアナに向かぬよう一層奮戦する。

 ――落ち着け。先ほどは、名誉挽回に燃えるあまり、身体に力が入りすぎていた。呼吸は規則正しく。頭は冷静に。ダイアナは、自分に言い聞かせる。


(やはり狙いは、頭部。しかし、キーツ少尉の攻撃に耐えたところを見ると、頭頂部は鱗が硬い。となると――)


「キーツ、ガーランド、仰け反らせろ!!」


 大音声でダイアナが叫ぶ。


「サイラス、肩を借りるよ!」


 クリスティが、サイラスの肩を踏み台にして跳躍。竜の肩を飛び越え、背中に取り付く。


「やあぁぁぁっ!」


 鱗の隙間から、剣を突き立てる。背中を傷つけられた竜が、上体をよじった。


「もう一丁!」


 サイラスは一気に竜の懐に飛び込むと、跳躍しつつ竜の顎を斬り上げた。


「ウガァッ!?」


 思わず、竜が大きく仰け反った。顔は完全に上を向いた状態だ。

 好機。

 刹那が、何十倍にも引き伸ばされる感覚。自分の周りだけ、時間が静止したような――そんな錯覚さえ感じるダイアナ。呼吸によって僅かに上下する照準が、狙いと定めた一点に合わさる。

 ダイアナの中で、かちりと歯車が合わさった。頭で思い浮かべる理想と、自身の身体感覚とが完全に一致する。あとは、優しく引き金を引くだけだ。


「――喰い破れ」


 巨大な発砲音。特別製の撤甲弾は、大砲並みの炸薬によって押し出され、銃身に刻まれた螺旋によって高速回転。空気を引き裂き唸りを上げて飛翔するさまは、まさに咆哮する餓狼だ。

 乾いた破裂音と、ぐじゃ、という鈍い音が同時に響く。

 ダイアナによって放たれた特殊弾頭が、仰け反る竜の下顎から後頭部に向かって竜の頭蓋内をかき混ぜた音だ。


「グ……ガハッ……」


 小さく呻き声を漏らし――竜の巨躯が大きく横に傾ぐ。

 地響きを立て、竜は倒れた。

 遠巻きにその様子を見ていたサイラスが、恐る恐る竜に近づく。そして送られる、死亡確認の合図。

 こうして、作戦名「雷嵐サンダーストーム」は決着した。直接戦闘に加わらない後方部隊を含めると、参加人数は九百名。そのうち死者は〇名、負傷者は一名であり、結果だけ見れば完勝だったといえる。が、薄氷の勝利だったのもまた事実であった。

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