第二話

 フランシスは、しばらくの間件の部屋――基地の医務棟にある病室である――で過ごした。

 一日一回診察に来る医師のほか、クリスティ・キーツもたびたび病室に顔を出し、フランシスと談笑していった。互いに同い年であり、またクリスティのざっくばらんな性格手伝って、二人はフラン、クリスと呼び合うようになっていた。

 そして五日が経過。フランシスが日常生活を問題なく行えるまでに快復したころのことだ。朝食を終えたフランシスのもとを、クリスティが訪れた。


「少佐が、フランを呼んで来いってさ」

「少佐って、あのヘイワード少佐? ということは――」


 とうとうフランシスが正式に辺境騎士団に入隊する日が来た、ということか。


「多分ね。まあ、それは行ってみればわかるっしょ。ほら、着替えて」


 クリスティが、フランシスにオリーブ色の上下と編み上げのブーツを手渡す。それは、ブリーディア軍制式の訓練服であった。


「わかった。ねぇ、クリス、その……着替えるからさ」


 腕を組んだままその場を離れようとしないクリスティに、フランシスは困惑する。


「え? ああ、あたしのことは気にしないで。男の着替えなんて見慣れてるし」


 まるで気にしていない様子である。どぎまぎしながらもフランシスは着替えを終えた。


「それじゃ、行こうか」


 クリスティに先導されて、フランシスは医務棟を出た。

 それまでずっと医務棟から出ずに過ごしていたフランシスは、初めて辺境騎士団・シラーズ基地の全容を目にする。

 シラーズ郊外の広大な平原に造成されたその基地は、一つの街がすっぽり入ってしまうほどの広さを誇る。基地の正門側にはフランシスが運び込まれた医務棟のほか、本部棟に多数の兵舎・倉庫、兵器工廠や縫製工場などさまざまな建物が建てられ、その建造物群を抜けた奥には広大な演習場がある。演習場は、この巨大基地の約八割を占めている。

 二人が向かったのは、正門正面の本部棟だ。五階建ての、まるで城砦のような重厚な石造りの建物である。


「そうだ、少佐の前ではクリスじゃなくてキーツ少尉、って呼んでね」

「あ、うん。わかった。やっぱり軍に入ったらそういうところはしっかりしなくちゃね」

「まあ、うちは首都キャピタル――アマディアスの第六騎士団シックススなんかに比べたら規律が緩いらしくて、みんな結構いい加減なんだけどね。でも少佐は別」

「やっぱり厳しい人なんだ」


 ダイアナに対してフランシスが抱いた第一印象は、間違っていなかったようだ。

 ダイアナは、四階にある自らの執務室で二人を待ち受けていた。執務机と本棚、簡易寝台があるだけの質素な部屋だ。壁にはブリーディア国旗と竜の頭骨を模した隊旗が貼られている。


「クリスティ・キーツ少尉、参りました」


 クリスティを真似て、フランシスもぎこちなく敬礼した。


「よろしい、楽にしてください。さて、ファウラー君。体調はいかがですか」

「はい、問題ないです」

「ふむ。さて、今日ここに来てもらったのは他でもない、あなたの入隊に関してです」


 フランシスが、若干の緊張を見せる。


「医師から許可が出ましたので、早速今日をもって正式な入隊とします」

「はい」

「では、宣誓を行ってもらいます。他の志願者たちは合同の入隊式で宣誓の儀式を執り行ったのですが、あなたの場合事情がありますので略式とします。キーツ少尉、宣誓の言葉を。ファウラー君は後に続けて唱えてください」

「えぇっ!? あたしですか?」

「まさか、覚えていないとでも?」

「ええと、その……」


 ダイアナの鋭い視線に射すくめられ、クリスティが小さくなる。


「……まったく、仕方ありませんね。ファウラー君、右手を左胸に添えて。では、いきますよ。宣誓。私は、国家の象徴であり、七騎士団の長たる国王陛下のもと、国家の平安と独立を保持するため……」


 フランシスは、ダイアナに続いて宣誓の言葉を唱和する。


「よろしい。今日この時をもって、フランシス・ファウラーは辺境騎士団の一員となりました。辞令を受け取りなさい」


 辞令、つまりは人事に関わる決定を告げる文書のことだ。フランシスは困惑する。フランシスのような志願兵は、三ヶ月の訓練課程を経て正式な配属先が決まると聞いている。いきなり辞令を渡されるのがおかしいということは、フランシスにもわかる。

 フランシスは、首を傾げつつも一枚の書類を受け取る。書かれていた文面は以下の通りだ。


 辞令

 フランシス・ファウラー殿

 貴殿を、本日付で辺境騎士団・団長直属特殊遊撃隊「大鷲ガルーダ」の隊員に任命する。

 階級は准尉とする。

 辺境騎士団団長 レナード・パーシヴァル中将


「…………?」


 フランシスにとって、まったく理解できない文面だった。


「どうしました? 読み書きはできると聞いていますが」

「はい。えっと、読めないわけではなくて……済みません、書かれている意味がわからないんですが」

「ああ、先ほどまで民間人であったあなたにはわかりにくかったかもしれませんね。団長直属特殊遊撃隊、とありますが、実際の任務ではシラーズ独立大隊に組み込まれることになります」

「シラーズ独立大隊?」

「フラン……じゃなかったファウラー准尉も、対竜部隊、って言ったらわかるでしょ」

「対竜部隊……って、あの対竜部隊?」


 対竜部隊。フロンティア、いや、コルドアに暮らす者なら誰でもその存在を知っている。辺境騎士団の中で、領土拡大のため竜を討伐する任務を帯びている精鋭集団のことだ。田舎育ちで世情に疎いフランシスでも、そのくらいのことは知っている。


「そして、『大鷲』とは、特に最前線で竜と戦うことを使命とする部隊のことです。『大鷲』の隊員は特例として無条件で士官に任官されますが、あなたの場合兵学校での訓練を経ていないため、階級は暫定的に准尉となります。理解しましたか」

「ええええぇぇ? な、なんで僕が対竜部隊に!? 僕なんて、新米のペーペーですよ? 竜と戦うなんてとても無理――」

「落ち着きなさい、准尉」


 ダイアナが、ぴしゃりと言い放つ。その口調は静かだがえもいわれぬ迫力があって、フランシスは思わず押し黙ってしまう。


「順を追って説明します。その前にファウラー、『竜人』という言葉を知っていますか」


 「英雄」レナード・パーシヴァルには、彼を称える呼称がいくつも存在する。「東方の開拓者」、「コルドアの曙光」、「烈風将軍」などなど、彼を表す呼び名は数あれど、一番有名なのはブリーディア国王から賜った称号、「竜殺し」であろう。

 「竜人」というのも、その中の一つだとフランシスは記憶していた。


「どうやら、竜人という言葉の真の意味は知らないようですね。公に喧伝されているわけではないので無理もないですが」


 竜のように勇猛である、というふうにレナードを称える単語だとフランシスは考えていたが、どうやらそれは間違っているらしい。


「竜人。それは、竜の血をその身に受け入れ、人ならざる力を得た者のことです」

「竜の血……? 人ならざる力……」

「はい。適性のある者が竜の血を摂取した場合、その人間は特殊な能力を得ることができるのです。常人をはるかに越える身体能力に、常人よりはるかに鋭敏な感覚、驚異的な治癒能力――まさに超人と化した人間のことを、我々は『竜人』と呼んでいます。もっとも、適性のある人間はごく少ないのですが」


 普通ならば、信じられない話だ。まるで、御伽噺である。しかし、フランシスにはこの話を一笑に付すことができない。なぜなら、思い当たることがあるからだ。竜に襲われ、出血多量で朦朧とする意識の中で見たあの光景。

 フランシスは、隣のクリスティをまじまじと見つめる。


「そうだよ。あたしも竜人。あと少佐もね」


 あのとき、クリスティともう一人の男は、凄まじい身体能力を発揮して竜に肉弾戦を挑んでいた。つまりは、そういうことだったのだ。


「やっぱり……あれは夢じゃなかったんだ」

「さて、キーツ少尉。歴史のおさらいです。竜人が発見されたのは何年のことですか」

「えぇー、またあたし?」

「何か文句でも?」

「とんでもありません!」


 ダイアナは規律に厳しい、と自ら語っておきながら、クリスティはちょくちょく気が抜けることがあるようだ。ダイアナの厳しい声に、慌てて背筋を伸ばす。

「ええと、最初に竜人が発見されたのは……確か……一一六九年?」

「一二六九年、です。だいたい、一一七五年はコルドアが発見される前でしょう」

「一一六九年……第三次東方遠征のマーリブ戦役が始まった年か」


 フランシスが呟く。

 コルドアの開拓は、探検家アマディウスが接岸した大陸西岸から、東へ東へと進められた。東方遠征とは、竜を討伐して領土を一気に拡大させるため、三度にわたって行われた大規模な軍事行動のことである。マーリブ戦役は、十年以上続いた第三次東方遠征の中でもとりわけ激しく、凄惨な戦いとして有名だ。

 何を隠そうフランシスはなかなかの勉強好きだ。教会の日曜学校のほかにも、神父の故人的な蔵書でさまざまなことを学んでいる。先ほど披露した知識もその一部である。


「ほう、ファウラー准尉はよく勉強しているようです。それに引き換え、少尉ときたら」


 クリスティは、ばつが悪そうに下を向く。


「そのマーリブ戦役の最中です。ひとりの兵士が、とあることを試みました。倒したばかりの竜の血を飲んでみたのです」


 旧大陸エウレシアでは、竜は想像上の生き物とされてきたが、竜にまつわる伝説や言い伝えは多数残されている。多くの伝承において登場するエピソードに、「竜の血には、人を不死身にする」というものがある。件の兵士は、その伝承を真に受けて行動に移したのだという。


「幸運にも、その兵士には適正がありました。竜の力を得た彼は、以後の戦いで目ざましい戦果を上げることになります。少尉。その兵士とは? 流石にこれは間違えないでしょうね」

「はい、レナード・パーシヴァル中将閣下であります!」


 今度は、よどみなく答えるクリスティ。


「よろしい。パーシヴァル閣下は竜の血の力によって、英雄と呼ばれる現在の地位を得ることになったのです」


 フランシスが読んできた戦史の書物には、全く記されていなかったことだ。孤児院の神父は第三次東方遠征の経験者だったため、もしかしたら竜人について知っているかもしれない。だが、彼は子供たちに戦の話をしたがらなかった。


「ここまでの話は理解しましたか?」

「はい。でも少佐、その竜人と僕の辞令と何の関係が?」

「特殊遊撃隊『大鷲』とは、竜人の兵のみで構成された小隊です。ここまで説明すればわかるでしょう」


 考え込むこと十数秒。一つの結論を導き出したフランシスは、素っ頓狂な声を上げた。


「まさか、僕もその『竜人』ってことですか!?」

「正解です」

「でも、僕は竜の血なんて飲んでないですよ?」

「経口摂取に限らず、竜の血が体内に入ることがあったのでは?」


 フランシスは、首を捻って考える。確かあの時、銃声のような音とともに竜が血を流し、それが自分の身体に――そして、腹には大きな裂傷。


「まさか、傷口から――」

「おそらくは――しかし、まだ納得のいかないという顔ですね」

「僕は本当にその竜人になったんですか? 適正のある人はごくわずかだって」

「証拠はありますよ。あなたの怪我の快復の仕方です」


 フランシスが落馬の際負った腹の傷は深く、内臓にも損傷が及ぶものだった。ほかにも数箇所の完全骨折、十箇所以上の亀裂骨折に全身の打撲。生死の境をさまようような重傷だった。

「怪我は、十日も経たずにほぼ全快しました。普通の人間ではあり得ないことです」

「ええっ? それじゃ、どうして僕は一ヶ月も寝込んでたんですか? あんなに苦しかったのに、怪我は治ってただなんて」

「それも、竜の血を受け入れた者に特有の症状です。一説には、ただの人間の身体が竜人の身体へと作り変えられる過程で生じるものだとか。適性の無い人間にはこの症状は出ません」


 フランシスは自分の身体を見下ろしてみる。自分では、特に変わったことが無いように思えるのだが――いや、よくよく考えるとおかしなことがある。一ヶ月も寝たきりだったというのに、身体の調子が良すぎるのだ。普通、人間は風邪で数日寝込んだだけでも自分で実感できるほど体力が衰えるものだ。しかし、今のフランシスはまったく身体の異常を感じない。それどころか、体調はすこぶる良好だ。

 ただ、ダイアナが言うようなとんでもない力が身についたとは思えない。


「変わったように感じないのは、『切り替え』ができていないからだよ」

「『切り替え』?」

「それについては後々説明します。ともかく、事情は理解したでしょう」

「まあ、お話はだいたいわかりました」


 しかし、フランシスは不安を隠せないでいる。竜と戦う部署に配属されることなど考えてもいなかったのだ。


「我々の不手際がなかったならば、あなたは竜人になることもなく、そして軍に入ることもなかったでしょう。そのことについては申し訳なく思います。しかし――竜人はその一人ひとりが大きな戦力となります。竜という強大な敵と戦うために、少しでも多くの戦力を必要としていることはわかってもらいたい」


 ダイアナの瞳はどこまでも真摯だ。悪意があってのことではないというのは、フランシスにも理解できる。

 宣誓を済ませてしまった以上、部隊の人事権を握るレナード・パーシヴァルの署名入りの辞令はフランシスの意志で覆ることはない。

 フランシスが竜人となったことに気付いていながら、そのことをフランシスに知らせずに入隊を勧めたダイアナの行為は、いわば騙まし討ちのようなものだ。フランシスは聡い男である。このからくりに気づかないはずがない。自然、非難がましい目でダイアナを見てしまう。

 ダイアナはそんなフランシスの視線を受け止めつつ、さらに言葉を続ける。


「どの道、あなたに選択権はありませんでした。考えてもみなさい、竜人とは、人という種を超越した力を持っています。専門家の試算によれば、その戦力は一人で並の兵士五十人分にも匹敵するとか。そんな人間が、もし邪な考えを抱いたとしたら」


 フランシスは、クリスティたちが竜に立ち向かった場面を思い出す。その凄まじいまでの身体能力を悪用したら――まるで手が付けられない悪党となるのは想像に難くない。


「あなたの身柄を軍の管理下に置く。社会の秩序を守るためには必要な措置であること、理解できるでしょう」


 フランシスは、たとえ強い力を得ても、それを悪用するような真似をする人間ではない。少なくとも、自分ではそう思っている。しかし――世の中、些細な誘惑に負けて悪の道に走る人間は後を断たない。フランシスとて、そうならない保証はどこにもないのだ。


「それに――『大鷲』の隊員には、士官としての基本給のほかにさまざまな手当てが支給されます。収入の総額は、通常の手続きを経て入隊した一兵卒の五倍以上にもなるでしょう。任務は確かに過酷ですが、得られるものは多いはずです」


 ダイアナの言葉に、フランシスの心が動く。フランシスは決して金にがめついわけではない。しかし、それだけの収入があれば、孤児院の子供たちにひもじい思いをさせずに済む。それどころか、ちゃんとした教育を受けさせることもできるだろう。

 それに、命の危険があるというのは、当初の就職先となるはずだった鉱山でも同じことだ。落盤や有毒ガスの発生などで、毎年多くの人間が死亡していると聞く。

 思えば、ジーンの村も対竜部隊の先人の働きによって切り拓かれた場所だ。そこで育ったフランシスが、次の世代のために竜と戦う。これはとても意義のあることなのではないか。

 ややしばらく考えた末、フランシスが口を開いた。


「やります。どこまで役に立てるかわからないけど――やってみようと思います」

「よろしい。自ら竜と戦う意思を示してくれたこと、嬉しく思いますよ」


 そこで、フランシスは初めてダイアナの笑顔を見た。


「さて、そうと決まれば早速最初の命令です。ファウラー准尉、あなたにはまず竜人の力というものを実感してもらいます」

「実感、ですか」

「そうです。キーツ少尉、ファウラー准尉両名は速やかに演習場に向かいなさい。詳しい説明はそちらで行います。駆け足!」

「了解!」


 声を揃えて返事をすると、二人は駆け出した。


「ひぇぇっ、た、助けて!」


 数分後。

 基地の演習場にある乗馬訓練用の広大なトラックで、フランシスは疾駆していた。顔面は汗でびっしょりだが、それは運動に伴う体温上昇よって流れたものではない。恐怖から来る冷や汗であった。

 なぜ彼がそんなに怯えているのかといえば、馬に乗ったダイアナが抜き身のサーベルを手にフランシスを追いかけているからだ。そんな二人の様子を、クリスティが遠巻きに見守っている。


「死にたくなければ全力で走りなさい!」


 馬上のダイアナが、フランシスを威嚇するようにサーベルを素振りする。刃が風を切る音は、フランシスの耳にも伝わった。


「しょ、少佐! それ、真剣、じゃないですよね!?」

「これは紛れもなく真剣です。腕利きの職人による業物ですから、腕の一本や二本は容易く斬り飛ばせるでしょう」

「ええぇぇーーっ! じょ、冗談ですよね!?」

「私はジョークを好みません。安心なさい、訓練中に死亡した場合は殉職扱いとなり、向こう五年間年金が遺族に支払われます。全額、故郷の孤児院に送金するよう取り計らいますよ」


 ダイアナは、にこりともせずに言い放った。

 本当に殺す気はないと思いたいフランシスだったが、ダイアナの表情からは真意を汲み取ることができない。


「それ、無駄口を叩いている余裕があるなら手足を動かせ!」


 ダイアナがサーベルの腹で馬の尻を叩く。馬は加速した。

 フランシスに並んだ馬の上から、ダイアナが横薙ぎにサーベルを振るった。フランシスの髪の毛が数本宙に舞う。


「ひぃっ!!」

 命の危険を感じたフランシスは、全力で走る。とにかくがむしゃらに走る。ダイアナは時たまサーベルを振るい、そのたびにブランシスの訓練着がスッパリと切れた。

 走って走って、トラックを半分ほど回ったあたりで、とうとうダイアナの振るう刃がフランシスのうなじに傷を付けた。瞬間、フランシスの身体に異変が起きる。


(か、身体が……熱い!)


 それも、尋常な熱さではない。熱く煮えたぎった熱湯が、全身の血管を駆け巡っているかのようだ。痛みに近いその感覚――似たような感覚をフランシスは経験している。重傷を負い一ヶ月寝込んでいたとき、それを嫌というほど味わった。

 どくん。

 フランシスの心臓が、どくんとひときわ大きく脈打った。心臓から熱い塊がせり上がり、頭に達する。頭蓋の内部に溶けた鉄を流し込まれたような、強烈な衝撃――次の瞬間、フランシスの身体を苛む熱が一気に冷めた。


「何を呆けている!」


 ダイアナの鋭い声に、フランシスははっと我に返る。自分が置かれている状況を思い出し、慌てて足を踏み出した。


「うぉおぅっぷ!?」


 思わず、おかしな声が漏れた。強い向かい風を受けたときのように、フランシスの顔面に空気の壁がぶつかってきたからだ。

 とっさに身体を前傾させる。空気の抵抗が減り、走りやすくなった。四肢に力を込め必死に動かす。


「あ、あれ……?」


 それは、初めての経験だった。視界に入る景色が凄まじい速さで後ろに流れ去っていくのだ。

 さらにトラックを半分回ったところで、ようやくフランシスは気付いた。自分が凄まじい速さで走っているということに。

 ちらりと後ろを振り返る。ダイアナの馬は襲歩――馬が全力で走る際の歩法である――に移行し、息を切らしながらフランシスを追いかけている。しかし、馬はフランシスに追いつくどころか、距離は離されていく一方であった。

 相手は、フランシスが乗っていたような老いた農耕馬ではない。鍛えこまれた現役の軍馬である。全力で駆ける駿馬が、フランシスにはまるで敵わない。

  気が付けば、フランシスはダイアナの馬をはるか後方に置き去りにしていた。


「あ、あれ? 僕は……」


 速度を緩めたフランシスに、ダイアナの馬が駆け寄った。


「なかなかの逃げ足でしたよ、准尉」

「とにかく無我夢中で……」

「竜人は生命の危機に晒されたとき、自己防衛のためその真の能力が引き出されます。まさにその瞬間、あなたは常人から竜人へと『切り替わる』のです」


 身体が異常に熱くなった瞬間を堺に、体内に秘められた膨大な力が解放されたような感覚。あれが「切り替わる」ということかとフランシスは納得した。


「訓練を積めば、自らの意思で『切り替え』を行うことができるようになります」


 フランシスは、両手を強く握り締める。不思議な気分だった。今なら、どんなことでもできる気がする。


「次に……あちらのキーツ少尉が見えますか」


 フランシスが頷く。トラックの端で待機しているクリスティの姿は豆粒のように小さい。


「では、彼女に意識を集中させてください」


 ダイアナは手を振り、クリスティになにごとか合図をする。


「フラン、聞こえる?」

「うん、聞こえる……って、あれ?」


 思わずごく普通に返事をしたフランシス。しかし、すぐ違和感に気付く。クリスティは別に大声で叫んだわけではない。なのに、遠く離れた場所にいるその声をはっきりと聞き取ることができたのだ。


「感覚器官が鋭敏になるのも、竜人の特徴の一つ。では少尉、こちらに向けて指を何本か立ててみてください」


 ダイアナの声も、ごく普通に会話する程度の大きさだ。しかし、クリスティはそれをしっかり聞き取ったようで、腕を上げるしぐさを見せる。


「あれが何本に見えますか」

「ええと……三本、です」


 フランシスは、遠く離れたクリスティが立てた指の本数を間違えずに答えることができた。視力が大幅に強化されている証拠である。


「どうです、感想は」

「……はい。まだちょっと信じられない、って気持ちです」


 両の握りこぶしを見つめながら、フランシスが答えた。


「初めは皆そのようなものですよ。さあ、これから否応にでも実感してもらいます」


 その後、フランシスはさまざまな試験を受けさせられることになった。それは一種の体力測定ともいえるもので、たとえば垂直にジャンプしてどれだけの高さに到達できるか測るものだったり、どれだけの重量のものを持ち上げられるか測るものだったり、トラックを全力疾走して一周のタイムを測るものだったりと、フランシスが新たに得た力がどれだけのものか総合的に試された。

 結果、フランシスは自分の常人離れした能力を否応なく思い知ることになる。

 垂直跳びは実に三メートル強を記録。鉄の地金の塊を持ち上げるテストでは、八百キロを越えてもなお余裕があるほどだ。

 最後に行われたのは、持久力のテストだ。先導するダイアナの馬の速度に合わせ、ただひたすらにトラックを走り続けるというものだ。馬は駈足で速度はそれほどでもないが、フランシスは人ひとり分ほどの重量がある背嚢を背負わされた状態だ。

 訓練されていない人間なら、背嚢を背負って立ち上がるのも苦労する。訓練されたベテラン兵士でも、この重量を背負ってとなると牛のような速度で歩くのが精一杯だろう。しかし、フランシスは馬に遅れずに走ることができた。

 二十周を越え、何周走ったのかフランシスにもわからなくなってきた頃のことだ。フランシスの身体にまたも劇的な異変が起きた。

 眩暈にも似た感覚。頭から、いや、全身の血の気が引いていくような強烈な脱力感が、フランシスを襲う。足腰が萎え、走るどころか立っていることすらままならない。とうとう、地面に大の字になって倒れてしまった。


「くっ……? か、身体がうごか、ない……」


 そこへ、顔をにやつかせたクリスティが駆け寄る。


「気分はどう?」

「クリス…………お、お腹空いた……」


 フランシスの身体に起きた異常。その正体は、なんと強烈な空腹感だった。

 貧しい孤児院で育ち、ひもじい思いには慣れているフランシスが、立っていることすらできないほどの空腹である。直前までは空腹など意識もしていなかった、急激なものだった。


「これも竜人に特有の症状です、准尉」

「竜人に?」


 クリスティに肩を貸され、よろけながらもフランシスが立ち上がる。

燃料切れランナウトってあたしたちは呼んでるけどね。竜人の力を全力で使い続けるとこうなっちゃうんだ」

「人は、体力の限界が近づくと苦痛などさまざまな形で肉体にサインを出し、普通はそこで行動ができなくなります。しかし、竜人の身体は苦痛に対し強い耐性をもっています。ゆえに、限界ギリギリまで活動することが可能であり、これは一つの利点であるといえるでしょう。一方で、ある一線を越えた時点で糸が切れたように身体の自由が利かなくなってしまう。これは、竜人という存在の数少ない欠点でしょう」


 動物は食物を摂取することで肉や骨を作り出し、生命活動の元となるエネルギーを得ているが、竜人としての力を発揮させるためには常人をはるかに上回る量の栄養が必要となる。燃料切れは、竜人が体内に蓄えた栄養を急激に消費してしまうことが原因で起こる、というのがダイアナの説明である。

 要するに、常人の何倍もの力を出せば、常人の何倍も腹が減る。そうフランシスは解釈した。

 そして、常人の何倍もの量の食事を摂らなくてはいけない、というのも竜人の特徴だとか。


「それで……僕にそれを実感させよう、ということですか」


 ダイアナが頷く。フランシスとしては、そのやり方に若干納得のいかないものを感じているのだが。


「まあ、そうふてくされなさんな。あたしも同じことやらされたし」


 クリスティがなだめるように言った。


「戦場において燃料切れが起きてしまった事態を想像しなさい。これがいかに致命的であるかは准尉にもわかるはず」


 たとえば、フランシスを助けたときのクリスティのように。竜と相対している最中に、足腰も立たぬような状態に陥ってしまったとしたら。待っているのは確実な死だ。


「百聞は一見に如かず。燃料切れの恐ろしさは身をもって実感できたでしょう」

「……嫌というほどに」


 空腹は限界に達している。フランシスは目を回しそうになるのを堪えるので精一杯だった。


「ご苦労でした、准尉。今日はこれ以降自由時間とします。キーツ少尉、准尉を食堂に連れて行ってあげなさい。その後彼を兵舎に案内するように」

「了解しました。ほらフラン、しっかり! うちの食堂のご飯は美味しいぞ~」


 フランシスは、クリスティに引きずられるようにして食堂に向かうのだった。

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