彼を陥落させるゲーム

秋桜ヒロロ / 桜川ヒロ

彼を陥落させるゲーム

「早く子供を産め」


 それが父の口癖だった。


 女を子供を産む道具としかみない家に生まれて、二十数年。私は人生の岐路に立たされていた。

 手元にあるのは、五十枚近くの男性の写真。それは父が用意した私の結婚相手候補の写真だった。

 父の会社が欲しいが為に自ら進んで立候補した者、会社同士のつながりを強めたいが為に推薦され候補に入っている者。理由は様々だったがどれかと私は結婚をして子を成さなくてはいけなかった。

 それがこの家での私の存在意義だ。


 私は誰かを愛す事なんて出来ないと思う。


 愛という形のない物をどうして皆は信じることが出来るのだろうか。私は不思議で仕方ない。

 そんな世間一般の人が出来ている事を私が出来ないのは、私がまともに愛されたことがない人間だからだろうか。

 生まれてから何度もしている答えのない疑問に区切りをつけて、私は手元の写真を見下ろした。



 彼を選んだのは本当に偶然だった。



 彼を選んだ一番の理由は、彼の写真が一番下に置いてあったからだ。五十枚近くある写真の順番は、私がその人と結婚することによって会社にもたらされる利益の順だった。その一番下にある彼は父の会社にとってはほとんど無意味という事。父への意趣返しのつもりで私はその写真を手に取った。

 写真の彼はどこにでもいるような平凡な男だった。掛けている眼鏡がまじめそうな印象を出しているぐらいの特徴しかない彼は、結婚相手に渡す写真だというのに全く笑っていなかった。むしろ睨んでいるようにさえ見える。

 

 その媚びてない様が逆に好感が持てた。

 

 写真の裏のプロフィールを見て、私は更にこの人にしようと思った。

 彼の経歴は二流の大学を出た後、どこにでもある中堅の会社に入り、勤めた年数は今年で五年になるらしかった。

 そんな彼がこの候補者に入った理由は祖父の会社を助ける為だと書いてあって、私はおかしくなった。


「バカな人」


 気がついたらそう漏らしていた。

 誰かを助けるためにわざわざ愛してもいない女と結婚するなんて、とてつもなくお人好しで、救われないほどに優しい人だと思ったのだ。


『貴女を愛せるとは思えませんが、それでもよければ』


 彼が顔合わせで私に放った言葉だ。それを聞いたときの父の顔が忘れられない。しかめっ面で肩を怒らせながら、私に何度も、あの男はやめろ、と怒鳴り散らした。

 私は可笑しくて仕方なくて、それだけでも彼を選んで良かったと思ったのだ。


 そして私たちは結婚した。


 結婚して間もない頃、彼は私にこう言った。


「君を殺して僕が君の受け継ぐ莫大なお金を独り占めするかもしれない。それでもいいかい?」


 おもしろい事を聞く男だと思った。本当にそんなことを計画しているのなら黙って実行するだろうに、彼は私に何故か承諾を求めたのだ。

 そんな事を聞く時点で彼は私の事を殺しはしないのだろうと思ったが、なんだかそれを聞いてくる彼の視線が真剣で、私はたまらず笑ってしまった。

 そして、ゲームをしようと思ったのだ。


「いいわ。それまでに私が貴方を陥落させればいいだけの話でしょ?」


 彼が本気で私に惚れてくれれば面白いと思ったのだ。

 私は彼を愛せはしないだろうけど、愛しているふりはいくらでも出来るつもりだ。一方の彼は本当に私のことを毛嫌いしているのがありありと伝わってくる様からして、嘘は苦手なのだろう。

 ならば良い夫婦を演じる為にも彼を陥落しさせようと思ったのだ。


『彼を陥落させるゲーム』


 そう思えばこの子供を作る為だけのこの結婚生活も、楽しいものだと思えるから不思議だ。


「旅行に行くと見せかけて、君を殺そうか? 4割ぐらいは成功するらしい」


 私が結婚以前から計画してた海外旅行。その前日に彼はそんなことを言った。

 4割とは何のことなのかわからなかったが、彼はまた私を殺そうと思ったらしい。そしてまた、私にそれを告白している。変な男だと思った。

 適当に相手をしてその日は終わり。次の日の早朝、私は大きな鞄を一つ持って二階の自室からリビングに降りた。そしてそこにいた人物に驚いた。

「おはよう」

「……おはようございます」

 数週間前に夫になった彼が身支度を整えてそこにいたのだ。驚きすぎて絶句していると、彼は剣呑に眉を寄せて「遅れるんじゃないのか?」と言った。

 促されるままに玄関に行って、そして私は彼に振り向いた。

「……行ってきます?」

「ん」

 疑問系になったのは、本当に彼が私を送るために早起きしたのかどうかまだ判断が付かなかったからだ。

 彼は頷くだけで「いってらっしゃい」という言葉も無かったけれど、ドアを閉める前に聞こえた言葉に私は頬を緩ませた。


「気をつけて」


 たったそれだけのことだった。でも私には重要なことだったのだ。


 私には物心つく前から母がいない。母はこんな家に嫁いだくせに、私を産むとさっさと死んでしまって、私の家族は父親だけ。仕事人間の父は家に帰る事はあまりなく、朝食も夕食も一緒に食べたのは数えるほどしか無い。

 それでも私が高校に上がるまではそれでも良かった。仲のいいお手伝いさんとの暮らしはそう悪いものではなくて、祖母ぐらいの歳の彼女は私をかわいがってくれた。

 雇用契約というお金で築かれた関係だったけれど、その頃の私にはあまりそういう実感はなくて、ただ与えられた父以外の“家族”に私は甘えた。

 高校一年生の春。彼女が亡くなった。

 父は私に新しいお手伝いさんを雇うと言ったけれど、私はそれを断った。私の中で彼女は家族で代わりのきかない者だったからだ。

 それでも父は雇うと言い張った。私はそれを撥ね除けたが、そうして撥ね除けていくうちに、“家族”だった彼女のことを“お手伝いさん”として認識するようになり、私の中で“家族”は誰もいなくなった。


 そして私の一人っきりの生活が始まった。


 苦しくなるぐらい大きな家で、私は一人食事をとり、準備をし、学校へ行く。「いってきます」も「ただいま」も返してくれる者はいなくて、たまに帰ってくる父とは、まともな会話が続かない。

 たとえばこのまま死んだら、誰か私がいないことに気づくのだろうか?

 そんな疑問さえも浮かんで、消えて。

 それでも自ら死ぬ気にはなれずに。

 

 そうやって私はだんだんと“独り”に慣れていった。

 

『気をつけて』


 久々に聞いた私を気遣う言葉だった。

 しかもそれを言ったのが、数週間前に愛の無いまま結婚した夫で、昨日に至っては“殺す”なんて言葉を使って私を脅してきた相手なのだ。

 私は心底可笑しくて愉快な気持ちになった。

 呼んだタクシーの中でこらえきれず笑っていると、見送る彼の仏頂面が思い出されて、帰ったら彼をどうやって陥落させようか、それだけで頭がいっぱいになった。


 数日間の旅行で、正直私が一番楽しかったのは、彼に送るお土産選びだった。



 そして旅行から帰ってきた私に対して、彼が最初に発した言葉がこれだ。


「僕が君のことを半年後愛している確率は0.001%だそうだ」

「そう」


 半年以上はかかるって事ね。感想としてはそれだけだった。彼を陥落させるのに半年ぐらいではダメだとわかっていたので、別段その事に対して驚くわけでもなく、私はただ事実を飲み込んだ。

 彼はそんな私の態度が不服だったらしく、少し苛立ったように「僕のことを憎からず思っているのだと思ってた」と言った。


 どうやら彼は私にぎゃふんと言わせたいらしい。


 悔しがる様を、嫌がる様見たいのだろう。そうして“買われた”自分の溜飲をそれで下げたいのだろうと思った。

 でも私は彼の思うとおりに動く気なんてさらさらなかったし、彼は思うとおりに動くような女に陥落するような男じゃないと思ったのだ。


「……次は私をどうやって殺す予定か聞いても良いかしら?」


 挑戦的にそう言うと彼は間抜けな声を出した。そう来るとは思わなかったのだろう。

「殺されたいのかい?」

「できれば貴方に愛されたいわ」

 紛れもない本心だった。

 彼は私の目の前で自身の眼鏡型PCのスイッチを入れ、未来予測を行った。映し出されてる文字は『妻を殺してもバレない確率』。

 そうかこれを調べていたのか、とそう納得した。

 旅行に出かける前の『4割』というのはこれの意味だったのかと理解した。


 丁々発止の掛け合いを終わらせ。私は何時間も掛けて選んだお土産を彼に渡した。彼が眼鏡を大切にしていることは見てればわかったので、お土産は無難に眼鏡ケースにした。

 黒い革張りのケースだ。裏には彼のイニシャルを私自身が刻印した。世界でただ一つ、といえばそうなのかもしれないが、見た目だけではどこにでもありそうな眼鏡ケース。


 そして彼はそれを勢いよくゴミ箱に放った。


 ショックだった。自分が思っている以上にショックは大きかった。何とも思っていない相手にされた事なのだから気にしなければいいのに、私は少し唇を噛むようにして黙った。彼は慌てて自室に戻ったけれど、私はそれから一時間、その場から動けなかった。



 そんな感じで始まった新婚生活だが、気が付けば半年経っていた。

 私は『彼を陥落させるゲーム』をまだ続けていたし、彼はまだあの確率を毎日欠かさず調べているようだった。


「今日はなかなかに良かったぞ。17%だ」


 毎朝そう報告してくる彼の神経を最初は疑ったのだが、正直もう慣れた。

 要はこれは話の種なのだ。なので今では私も話の種として利用させてもらっている。


「昨日より2%もあがってるじゃない。良かったわね。私も今日良いことがあったのよ。ほら見て、上手にできたの出汁巻き卵。貴方好きでしょう?」

「……そうだけど、僕は君の事がたまに怖くなるよ」

「あらどうして?」

「どうしてだろうね」


 ふっと笑って席に着く彼に朝食を用意して、一緒に食べる。それがいつもの流れだった。

 私は毎朝、毎食、彼の好きな物をせっせと作った。胃袋を掴もうと思ったわけではないのだが、自分の好きな物を作る女と作らない女とでは前者の方が圧倒的に好かれるだろうと思ったからだ。

 彼の好き嫌いはわかりやすかった。嘘がつけない彼の顔は、好きな物の時は口角があがり、嫌いな物の時は眉間に皺が寄った。

「おいしい? 良い出来でしょう?」

「まぁ……」

 どうやら今日の朝食はお口にあったようだ。



 そうしてそのまま一年が過ぎた。


 この頃になると、父から子供はまだかとせっつかれた。まだかといわれても寝る部屋は別々だし、彼もそういうことをする気配がないので出来るものも出来ない。これで出来たら神の子だ。

 父にそう言うとまた怒鳴られた。女の幸せは子供を産む事にあるのだと熱く語っていたが、目下のところ跡継ぎが欲しいだけなのだろうということは想像に難くない。

「もう、私に電話をかけてこないで」

 そう言って電話を切ったら、今度は家に押し掛けてきた。ちょうど休みの日で彼が家にいるときに押し掛けてきたものだから、私はこれでもかというぐらい焦った。

 父は彼に、どういう事なのかと問いただした。部屋を別々にしている事は彼の提案なのだと、私が電話口で漏らしてしまったからだ。


「僕は彼女を抱く気はありません。僕は彼女を愛せませんし、彼女もそんな僕に抱かれたいとは思わないでしょう。女性は子供を産むための道具ではありません。そういう為に僕と彼女を結婚させたのなら、選択を間違えたのはそちらです。今すぐに離婚をさせて彼女をちゃんと愛してくれる人のところへ嫁がせてあげてください」


 その言葉に私も父も一緒に黙った。


 父はその場を逃げるようにして帰り、私は彼にコーヒーを出した。

「ありがとう」

「お礼の意味が分からない」

「私のこと考えてくれたんでしょう?」

「僕は……離婚したかっただけだ」

 ふてくされたようにそう言って、彼はコーヒーを啜る。

 本当に優しい人だと思った。本人は気が付いていないみたいだが、あれは確かに私を庇った言葉だった。

 もっとお礼を言い募りたくて口を開いた。でも私から出た言葉は、すごく捻くれていた。

「あら、いいの? 離婚したら私は殺せないし、多額のお金も貴方から遠ざかってしまうわよ?」

「……そうだな。それはよろしくない」

「次のプランを聞いて良いかしら?」

「それを言ったら、君は殺されないようにと動くんじゃないのかい?」

「あら、わたしあなたの全てを受け止める覚悟があるのよ? 見くびらないで欲しいわね」

「たとえばこれがナイフでもかい?」

 コーヒーカップを私の胸に当てるようにして彼がニヤリと口だけで笑う。私はそのコーヒーカップを彼の手から奪い、中身を煽った。

「たとえばこれが毒入りでもよ」

 そう言って笑うと、彼はたまらず吹き出した。この生活の中で初めて見る笑顔なんじゃないかと思った。そして、彼はゆっくりと口元だけ笑みを作ったまま指を一本立てる。

「もう一杯頼めるかい? 毒抜きで」

「私は貴方に毒を飲ませたいなんて思ったことはないわ」

 そういって首肯すると、彼は元の無表情に戻ってしまった。それがなんだか悲しくて、またいつか笑わせようと決めたのだ。



 後から考えてわかることだが、私はこの時“陥落”したのだ。

 陥落させるはずの彼に陥落させられて、正直情けないやらなんやらだったが、でもそれからの生活は私にとって宝石のようだった。


 まだ愛はよくわからない。でも私は彼の事を大切だと思ったのだ。



 それからまた1年と半年が経って、私たちは結婚して3年になった。

 私は『彼を陥落させるゲーム』をまだ続けていて、彼好みの化粧と服装をマスターしていた。

 もうここまでくるとただの恋する女なのだが、私の小さなプライドがそれを認めさせてはくれなかった。

 彼の方にも少しづつだが変化があった。なんと家事を手伝ってくれるようになったのだ。最初の頃は何もかも私任せだった。今までは黙っていたのだが最近になって、一応在宅だが仕事はしているにこれは不公平ではないかと、彼に抗議するとあっさり家事分担を了承してくれて、今では毎日の洗濯物とゴミ出しは彼担当になったのだ。 


「そんなにつらいなら早く言えばよかったのに。僕は君を過労死させたいわけじゃない。バレずに殺したいんだ」


 そう言う彼の顔に笑みが出だしたのも最近だ。


 私たちは家族になってきた。ゆっくりとだが確実に。

 私はその事実がたまらなく嬉しくて、生まれて初めて暖かい家庭が持てるんじゃないかと、心躍らせた。


 そして、彼の誕生日がきた。


 前々から準備していた作戦を行動に移すべく私は朝から夕飯の仕込みや、化粧やおめかしを頑張った。

 彼とデートに行こうと思ったのだ。恥ずかしながら人生で初めてのデートである。文字通り箱入り娘だった私は、実は交際人数0人だったのだ。

 今日この日をどれだけ楽しみにしていたことか。

 嫌がる彼を説き伏せて、向かうは彼の大好きな水族館だ。

 彼が水族館が好きだと知ったのは最近だ。たまたま一緒にテレビを見ているときに水族館のCMが出たのだ。キラキラと少年のような目でペンギンを見ている彼を見て察した。彼はきっと水族館が大好きなのだと。


 結果としては上々だった。彼は喜んでくれたみたいだし、私も楽しかったし嬉しかった。

 私がはしゃぎすぎて両手に抱えきれないぐらい買ってしまったお土産を、彼が黙って全部持ってくれたのが実は一番嬉しかったのだが、それは彼には一生秘密だ。


「生まれてきてくれてありがとう」

「どういたしまして」


 彼の染まった頬が愛おしかった。


 それから、月に一度ぐらいは一緒に出かけるようになった。近くの公園から始まり、県外にちょっとした旅行にも行ったりした。

 お弁当を作っていくと仏頂面で黙って食べるのだが、唐揚げと卵焼きの時に口角が上がるのを私は見逃さない。

 次にお弁当を作る時には唐揚げと卵焼きを多めに作っていくと、彼は少し驚いたような顔をして私にこう言うのだ。


「君は心が読めるのか?」


 それが可笑しくて、楽しくて……。彼はまだあまり笑ってはくれないけれど、それでもとても楽しい結婚生活になってきたと私は思ったのだ。



 そして、それから1年が経って、私に欲が出始めた。

 結婚してから4年になったころだ。

 もうこの頃になると私もいい加減自分が彼を好きなのだと認めていて、認めているからこそ生まれてくる欲があった。彼に私の事を好きになってもらいたかった。普通の夫婦で家族になってもらいたかったのだ。

 正直ここまで尽くしているのだし、少しぐらいは私の事を好いていてくれてるんじゃないかという思いもあった。しかし、いつも表情を崩さない彼は何を考えているかわからない節がある。

 彼の気持ちが知りたくて、私はある方法を試すことにした。

 彼が毎朝している方法だ。

 物置の奥にしまい込んだ古いタイプのノート型PCを起動させ、未来予測を起動させる。

 しばらくして出てきた空欄に、私は何を書けばいいのか一瞬迷った。そして、緊張した面もちでこう打った。


『夫が妻を愛してくれる確率』


 夫と妻のところに自分たちの名前や生年月日、個人を特定する番号、様々なものを打ち込んで、最後にENTERを押した。


『0.000%』


 それが答えだった。

 ストンと落ちてきたその答えに、私はようやく理解をした。


 何もかも一人相撲だったのだと。

 好きになってもらいたくて、一生懸命勉強した料理も化粧も、毎日笑顔でいれるように換えてた花も、彼と少しでも解り合いたくて交わした言葉も、何もかも考えてみれば一人相撲だった。私が一人で浮かれてて、一人でしたことだ。彼にとってはきっと全てが迷惑だったのだ。

 最初から彼にとっては私は憎むべき人間で、それはこの5年間、一度も変わらなかったのだろう。


(そういえば、彼の「いってきます」も「ただいま」も、聞いたことがないな……)


 私はキーボードの上に涙をこぼしながら、そんな風に思った。


 それからも私は『彼を陥落させるゲーム』を続けた。要はただ単に好きになってもらいたいだけなのだが、そういう風に捉えると気恥ずかしくなってしまうのだから仕方ない。

 彼が迷惑と思っていても正直関係ないのだ。これは私がそうしたいだけの話なのだから。

 いつか振り向いてくれると信じて、私はまた笑顔で彼に話しかけた。



 そして、その日は何の前触れもなくやってきた。

 いつもの朝、いつもの出勤時間。私はいつものように彼の見送りをしていた。


「いってきます」

 

 一瞬聞き違いかと思ったのだ。しかし自分の他には彼しかいなくて、赤い顔で俯く彼の様子に、その言葉が聞き違いでないと理解した。

 いってらっしゃい、そう返した私の声は何故か鼻にかかっていた。


「いってきます」


 もう一度、今度はもう少しはっきりした声で彼はそう言って、弾かれるように家から飛び出した。

 私の頬は濡れていた。頬を濡らすその滴が自分の瞳から溢れた物だと理解したのは、それから十数秒後だった。


 それから私はリビングに戻り、私は彼の食べ終えた食器を片づける。私の足取りは軽く、今にもスキップしそうなほどだった。そして、机の上にある彼の忘れ物に気が付いた。


 革張りの眼鏡ケース。


 彼が眼鏡ケースを使っているところを見たことはないが、この家で眼鏡を掛けているのは彼だけなのだから彼の持ち物で間違いないだろう。

 私はそれを手に取った。どこかで見たものだと思ったのだ。一緒に暮らしているのだからどこかで見ただけなのかもしれないが、そうじゃないのだと心が騒ぐ。

 ひっくり返して裏を見て、私は固まった。

 そこには彼のイニシャルが刻印されていて、私はそれに見覚えがあった。


 それは土産だった。結婚して間もない頃、私が一人で行った旅行のお土産。彼に渡した数秒後にはゴミ箱に捨てられたあの眼鏡ケースだった。

 使い古されているが、よく手入れされているそれを私は握りしめる。

 そのまま腕の中に抱きしめるようにして、私はまた泣いた。


 正直、こんなはずじゃなかった。陥落させるつもりが、いつの間にか陥落させられていて、そんな自分自身に呆れかえっていたし。陥落させられるにしたって、どうしてあの男なのだろうと思う。もっと見た目も性格もいい男なんてそれこそ星の数ほどいて、きっと私だってどこかでそんな男に出会っている。

 どうしてを繰り返しても疑問の答えには到底たどり着けなくて、でも一つだけ確かなことがあった。

 私が出会った男性の中で“家族”を教えてくれたのは、彼だけだったのだ。


 その日は一日中気分が良かった。夕飯の買い出しだって少しも苦にならなかったし、むしろ彼の好物ばかりがメニューに浮かんでくるのだから仕方ない。


 夕飯の支度をしている時、私はふとカレンダーを見て思わず笑ってしまった。


 今日は私の誕生日だ。


 今朝の出来事は神様がくれた誕生日プレゼントか何かだろうか。それならば、久々に私だって私の誕生日を祝ってもいいんじゃないのか。

 もう何年も誰も祝ってくれないから忘れかけていたけれど、今日ぐらいはいいだろう。だってこんなに素敵な日だ。

 私にも“家族”が出来るかもしれないのだ。


 寂しかった。寂しかったのだ。本当に寂しかった。


 楽しいことがあったら「楽しかった」と。

 嬉しいことがあったら「嬉しかった」と。

 悲しいことがあったら「悲しかった」と。

 そんなくだらないことが言い合えるような“家族”がずっと欲しかった。


 そうだ、ケーキを買ってこよう。


 二人だけで食べられるぐらい小さくていいから、丸くて蝋燭が立てられるようなケーキ。

 一度やってみたかった。友達の誕生日会に呼ばれては、指をくわえて見ることしかできなかった、そんな夢にまで見た光景を今日ここで再現しよう。

 彼はきっと「おめでとう」も何も言ってくれない。でもそれでいい。一緒にケーキを囲んでくれるだけで十分だ。


「蝋燭は確か一回で吹き消さないといけないのよね」


 浮ついた唇はそんなことを漏らした。

 軽い足取りで財布を持って玄関からでる。頭の中は今日の夜のことでいっぱいで、だから注意を怠ったのかもしれない。



 


 私は事故にあった。





 気がつくと、暗い空間に一人でぽつんと立っていた。

 あぁ、また独りなのか。と唐突に理解をして胸が苦しくなった。結局の所、神様は調子に乗るなと言いたかったのかもしれない。人生そんなに甘くないのだと、そんな逆転劇はおこらないのだと。

 だって確率は『0.000%』だったじゃないか。彼が私の事を愛する確率は0%。一年経ったからって、その確率が劇的に跳ね上がる事はないだろう。

 彼が私を愛してくれる事なんて未来永劫あり得ない。だから彼は私の家族にはなり得ない。そう言われている気がした。


 私の意識はまたそこで一度沈んだ。


 次に意識が浮上した場所は、黒と言うよりは灰色に近い空間だった。

 時間感覚的にはよくわからない。沢山時間が経ったのか、それとも数時間のものなのか。私にとっては、また独りだということの方が重要で時間なんてものはどうでもよかったから、そう思ったのかもしれない。

 どこから光が私に当てられているようだ。閉じられていても網膜に突き刺さるような刺激に私の周りはどんどん灰色から白へと変わっていく。


『由梨、今日の確率も0%だったよ。君は今日も元気だね』


 声が聞こえた。彼の声だ。

 少し、ぐぐもっているが、確かに彼の声だ。

 だけどおかしい。彼は私の名なんて呼んだことがあっただろうか?

 そこまで考えて、この声が幻聴なのだと理解した。私が聞きたい声と台詞をきっと私の脳が勝手に作って聞かせているのだろう。


『今日はいい天気だよ。君が起きてたら一緒に散歩がしたいな』

「あら、私からは見えないわ。けど、いいわね。私も一緒に歩きたい」


 気がついたらそう返答していた。馬鹿みたいだ、妄想の彼と脳内会話など愚の骨頂だ。そう思ったが、それでも楽しくて、降ってくる言葉に嬉々として私は反応した。


 次も、その次も、意識が浮上する度に彼の幻と私は会話をした。


『今日は僕が作ってきただし巻き卵を持ってきたんだ。ぜんぜんうまく作れなくて焦がしてしまったけれど、いつか一緒に食べてくれるかい?』

「勿論よ。あなたが作った物なら、たとえ毒が入っていても食べるって言ったでしょう?」


『実は今日、先生を殴ってしまってね。殴ったことに後悔はしてないんだけど、一応謝りに行きたくて。でも、勇気がでないんだ。君が起きたら一緒に行ってくれないかい? その方が僕も勇気がでる』

「あなた大人なんだから一人で行ってきなさいよ。ほら、途中までは一緒に行ってあげるから」


『今日の花はガーベラだよ。君に似合いそうな花だ。最近はガーデニングがブームらしいよ。今度僕らも一緒にやってみるかい?』

「いいわね。実は私、秋桜コスモスが好きなの。でもガーデニングには向かない花よね? パンジーも好きだからパンジーから始めてみようかしら?」


 幻の彼の言葉には『一緒に』という単語がとても多く、それが自分の願望を指しているのだと思うと無性に恥ずかしくなった。けれど、本当にコレは幻聴なのだろうか?

 今言葉を交わしているのは幻だ。そう思うのだけれど、もしかしたら、と思う自分もいて胸が苦しくなる。


 もし、これが本当に彼の言葉なら嬉しい。どうしようもなく嬉しい。


 

 そして、何度目かわからない。意識の浮上を感じた。

 今日はいつもぐぐもっていたような彼の声が一段とクリアに聞こえる。


『誕生日おめでとう。あの時君に贈れなかったバラの花束を買ってきたよ。今度はちゃんと100本だ。すごいだろう? プレゼントは目が覚めたら買いに行こう。7回分だ、何を願ってもいいよ。君が何を欲しいのか僕は全く知らないからね。今度じっくり教えてくれ』


 それに私はいつものように答えようとした。けどおかしい。今日に限って声がでない。


『ねぇ、今日の確率も0%だったんだ。君はどうしてそこで寝ているの?』


 その言葉は何故か鼻にかかっていた。泣いているの? そう思うといてもたってもいられなかった。


『君は何色が好きなんだ? どういう趣味を持っているんだ?』


 どうして泣いているの? 苦しいの? 悲しいの?


『僕がいない間何をしていたんだ? 何の花が好きなんだ?』


 私が好きなのは秋桜よ。前も答えたじゃない。どうして? 聞こえてなかったの?


『今度子供の頃の写真も見せてくれ、君はどこの高校を出たんだ?』


 いくらでも見せるし、話してあげる。だから今は泣きやんで、あなたが泣いている所なんて見たくないわ。

 いくら声を出そうともがいても、私の声は出ない。ひぅひぅとへんな音がするばかりで、彼を慰める言葉が口からでない。


 彼が泣いているのなら、慰めるのは私の役割だ。


 だって私は彼の“家族”だ。



 痛いほどの光が瞼を焼く。苦しいほどに乾いた喉からは変な音しかしない。うっすらと見えた影はきっと貴方ね。間違えるはずがないわ。


「おはよう。今日はずいぶんとお寝坊さんだったね」

「おはよう。昌弘さん」


 また声が出なかった。そして、また彼は泣いてしまった。






「誕生日プレゼント考えといてくれたかい? 新しいパソコンにする? 君のパソコンもう壊れていただろう? それともカバンとかネックレスが良いかな? 女性は貴金属が好きってイメージなんだけど、君にそれは当てはまるのかな?」

 退院が迫ったある日、昌弘さんは私にそう言った。

「本当に何でもいいの?」

「あぁ、ずいぶんと待たせてしまったからね。でも、僕が出来る限りで頼むよ。僕は石油王にはなれないから」

「あら、そんな高い物を強請る気はないわよ」

 口をとがらせた私の頭をなでる手が心地いい。

「じゃぁ、言って。ほら。早く」

「昌弘さん、耳を貸してください」

 車いすに座る私の口元に彼が頭を寄せる。

 そして私は思いきって彼にこうおねだりをした。


「私、昌弘さんとの家族が欲しいです」


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