シノナナ 後編
もう二度と鳴らないチャイムを、私は待っていた。
何故待っているのだろう。あんなにも嫌っていたのに。
「ユキさん……」
チャイムが鳴らなくなって、三日が経った。
この三日間、私は玄関のドアと、携帯電話の画面ばかり睨みつけている。
何度も迷ったけど、とてもじゃないがメールは送れない。もちろん、電話も。
私は来てくれる事を願ってる。
ありえない事なのに願ってる。
お風呂に入った。一ヶ月ぶりの事だった。何度も何度も体を洗い、何度も何度も髪の毛を洗った。
この程度の事で、私に染み付いている垢が落とせる訳が無いが、それでも洗わずには居られなかった。
「汚い……汚い……汚い……」
男に対して向けられていた嫌悪感が、とうとう自分に向いた。
あれだけ自分を正当化していたというのに、どうやら私は、私が嫌いらしい。
「ああぁっ……! なんでよっ! なんでよぉ!」
左腕の汚れが、落ちない。
それもその筈、左腕は醜いが、これは汚れて醜い訳じゃなく、傷だらけで醜いんだから。
そんな事は解っている。
解っているけど、この醜い傷跡を、どうしても消してしまいたかった。
恥ずかしいから。
だから擦る。
何度も何度も、擦る。
かさぶたがはがれ、血が流れる。
傷口がピリピリとしみる。
「うぐぅっ……! ううぅぅっ!」
私はスポンジを放り投げ、目の前にある鏡に頭突きをした。
すると突然、涙が溢れる。
とめどなく、溢れる。
「兄貴ぃっ! ユキさんっ! 啓二ぃっ! 助けて! 助けてぇっ!」
羨ましかった。
本当は、この三人の関係が、とても羨ましかった。
血のつながりの無い男女三人が、固い絆で結ばれ、困難に直面しても、お互いがお互いを支えあい、笑顔を作り合う。
流行らないし、格好悪い。
けど、私も、その仲間に入れて欲しかった。
もう遅いけど、叫んだ。
「助けてよぉっ……! 啓二は英雄なんでしょ? 助けて!」
返事は、無い。
貰いにいかなきゃ……。
ドアの前で、佇む。
ドアノブに手が伸びない。
このドアを開けると、もう二度と戻って来れなくなるような、そんな気がしている。
闇とサヨナラしなければいけないような、寂しいような、裏切ってしまうような、そんな感じ。
「……闇は、居心地良いよね」
一ヶ月、一人でも寂しくなかったのは、闇があったから。
私の中にある闇が、私の心を包み込んでくれていた。
闇は「何も要らない」と思わせてくれる。
闇は「ずっと浸っていい」と思わせてくれる。
闇は「私は悪くない」と思わせてくれる。
闇は、私が作り出した逃げ口だから、闇は優しいモノだと思わせてくれる。
だけど、実際はそうじゃない。
「何も要らない訳が無い。ずっと浸ってていい訳が無い。私が悪くない訳が無い。闇が優しいモノな訳が無い」
もう一ヶ月じゃないか。
沢山、迷惑かけた。沢山、闇をばらまいた。沢山、悲しみを生んだ。
いい加減、いいだろう。
扉を開けよう。
手を伸ばし、鍵を開けた。
ガチャリという、重たい音を立ててドアノブが回る。
昼間の外界を歩くのは、実に久しぶりの事だった。
雪が積もっており、それが太陽の光を反射して、とてもまぶしい。
蛍光灯の灯りとはやはり違う。本物の光は、まぶしいもの。
「目が痛いな……」
私はつい、光から目をそむける。
直視なんて出来るものじゃない。
アパートから歩いて五分の場所に、ユキさんのお屋敷がある。
大きな大きな、お屋敷。
私はお屋敷の門の前で、しゃがみこむ。
そして携帯電話の画面をにらみつけた。
「……」
もしかしたら、窓から顔を出したユキさんが私に気付いて、メールなり電話なりをしてくれるかも知れない。と、期待していた。
しかし、画面はいつもと同じ。兄貴の死に顔の待ち受け画面。
「どうしようかな」
電話をかけるべきだろうか。メールを送るべきだろうか。チャイムを押すべきだろうか。
そもそも、コンタクトを取っていいのだろうか。
私は絶交されたって文句が言えない事を言ったのだ。
それに、それ以前だって。
毎日あの部屋に通ってくれていたのに、一度だって玄関のドアを開けはしなかった。
しかも、私は今、謝るためにここへ足を運んだ訳じゃない。更に甘えるために、ここに居る。
都合が良すぎる。勝手すぎる。
「……」
私は携帯電話のボタンを押す。
「門の前に、居ます。出てきて、ください……」
書いた文章を口に出し、「ふぅ」とため息をついた後、送信ボタンを押した。
「都合が良くても、勝手すぎても、今更……」
今更、失うものは無い。
「ハルちゃん……」
ユキさんは小走りに私へと駆け寄ってきて、私へと話しかけた。急いで出てきたからか、肩で息をしていた。
学校から帰って来たばかりだったのだろう、ユキさんは制服を着用している。兄貴も啓二も居ない学校へと通っている事に、私は内心、驚いていた。
「……お久しぶり、です」
私はそう言って立ち上がる。
「……ハルちゃん、外に、出たんだね」
ユキさんは少し笑顔を見せてくれた。
だけどその笑顔が、どことなくぎこちない。
私もきっと、ぎこちない笑顔を作っているのだろうと、思う。
以前、どう接していたか、解らなくなっていた。
少し前、一ヶ月前、兄貴が死ぬ前までは、姉妹のように仲が良かった筈なのに。
今では、門の柵越しに会話をしている。
ドアがあった三日前と、距離感が変わらない。
「ハルちゃん、あのね、私、馬鹿だけど、色々考えてるよ」
ユキさんが真面目な表情を作り、私の目をチラッと見た。
私は思わず目をそむけ、うつむき地面を見る。
「……はい」
「どうしてハルちゃんが、ふさぎ込んじゃったのか、とか、あんな事を言ったのか、とか、色々考えてるんだよ」
思い出してきた。
少しだけ前置きが長いと感じるが、ユキさんはいつもこんな感じ。
ユキさんが話をしている間、私はずっとニコニコして「はい」と答えていた記憶がある。
だから私は「はい」と、答えた。
「えっと……ふさぎ込んじゃったのは……私も、ほら、イジメられてたから、解るんだ。辛い事があると、一人になりたいよね。だけどそんな時ね、タダ君が言ってくれたんだ。一人になった所で、考えるのは暗い事だって。だから私ね、ハルちゃんを一人にさせないように、毎日通ってたの」
支離滅裂とは言わないが、話に一貫性が無い。
けれど、ユキさんの言いたい事は、良く解る。
「はい」
「つまりどういう事かって言うと、私はハルちゃんを救いたかったんだよ」
「はい」
知ってた。解ってた。
けれど、イライラしてた。無視したかった。
関わりたくなかった。ユキさんを悪者にしたかった。
悪くないのに。
そうする事で、自分を保っていた。
私の中の「世界で一番不幸な少女」で、居たかった。
「はい……って……解らないかな……私ね、タダ君に」
「解ってます」
「お願いされたからじゃなくてね」
「解ってますってば!」
私は大声を上げた。
何度も繰り返し同じ話をするユキさんに、多少イラついていた。
自分の話ばかりしていないで、私の話も聞いて欲しい。
「ハルちゃん」
「……解っていますから。それより、私」
「ハルちゃんは、もうハルちゃんじゃ、無いんだね」
突然、ユキさんの声が小さくなった。
そして、なんだかとても冷たく感じた。
「え」
私は思わず、ユキさんの顔を見る。
そこには、恐ろしく冷たい表情をした、ユキさんらしき人間が立っていた。
いや、これはユキさんなんだろう。ユキさん本人なんだろう。
だけど、とてもじゃないけれど、私が良く知っている、ほんわかしたユキさんだとは思えなかった。
「私をイジメから救う事を諦めなかったタダ君にも、ケイ君にも、感謝してるんだよ。二年間、ずっと助けてもらってたから。だから恩返しって訳じゃないけど、ハルちゃんを助けようって思ったの」
「え」
だったら、ユキさんも二年くらい、私を見捨てないで欲しい。
この一ヶ月のようにして欲しいとは、言わない。今日からまた、普通に接してくれるだけでいい。
そして啓二とも、仲良くさせて欲しい。兄貴の変わりに私を入れてくれるだけで、それだけで私は救われる。
「でもね、私、運命の人を亡くしてるんだよね」
ユキさんの言葉に、全身鳥肌が立つ。
寒いと感じる肌と半比例し、汗が吹き出るのを感じた。
そうだ。ユキさんは兄貴が死んで行く様を見ている。目の前で。
兄貴の肉体から魂が引っぺがされる現場を、この人は目の前で見ていた。
ユキさんは苦痛にゆがむ兄貴の顔を、生で見ていたんだ。
「私ね、もう何がなんだか、解らないんだよ。精一杯頑張って色々考えたけど、ゴチャゴチャしてて、もう解らないんだよ」
「解らない……って」
「でも、ひとつ解ってる事はね、三日前の事が、どうしても許せないって事」
心臓が打ち抜かれたような、脳天から電撃が落ちたような。
とにかく、死んでしまうような感覚が私を襲った。
「ハルは良く知りもしないくせに、私とタダ君、そして何よりケイ君を、侮辱した」
ユキさんの目が、表情を持たない。
冷たく、私を見抜く。
まるで私を見透かすかのように。私の後ろを見るかのように。
「ケイ君はね、英雄。神様みたいな人。ケイ君は、普通じゃないんだよ。ケイ君はね」
「あ……ユキさ」
私がユキさんの声を遮ろうと声を発するが、ユキさんは突然、門につかみかかり、思い切り揺らす。
ガシャガシャガシャという大きな音が鼓膜に届き、私は恐ろしくなってあとずさった。
「ケイ君はね! 自分よりもタダ君と私の事が大事だったの! なんでそれが抱かれるとか、そういう話になるの!? ケイ君はそういう人じゃない! お礼は私とタダ君の笑顔で良いって言ってくれた! 笑顔で言ってくれた!」
ユキさんはいつの間にか涙を流していた。
私を睨むために、渾身の力を瞳に込めている。
鬼の形相とでも言えばいいのだろうか、私はユキさんの行動と表情に恐怖した。
手足がブルブルと震えている。
「ご……ごめんなさい」
「ケイ君を侮辱するなぁっ! ケイ君は私なんかと釣り合わない! ケイ君は神様だから、女神じゃないと釣り合わないのっ! だからハルが啓二って呼び捨てにするのなんか、絶対にあっちゃいけない事なのっ!」
ユキさんはとうとう、門に頭を打ち付けた。
何度も、何度も、打ち付けた。
頬が切れ、血が流れている。
それでも止まる事無く、一心不乱に、頭を打ち付けた。
「あぁ、そうか。そうだよ。狂うしか、無いもんね」
私は狂っているユキさんを見て、自然と言葉が漏れた。
私も、同じだったじゃないか。狂うしか、無かった。
ユキさんは、十年間ずっと一緒に過ごしていた運命の人を、亡くしてる。
しかも、ただの運命の人じゃない。自分を救ってくれた、かけがえの無い人。
私より、辛いはず。
それなのに、私を心配し、毎日私の所に来ていた。
きっとそれは、ユキさんが自分らしさを繋ぎ止めておくための、行動だったんだ。
だから、何度も、何度も、自分をなぞり、混乱し続けている頭を精一杯整理し、懺悔をし続けていた。
それなのに、私が止めを刺した。
「ああぁぁああっ! ハルぅっ! 許さないっ! 許さないぃっ!」
「ユキさん、あのね」
「ハルぅっ! ハルぁああっ!」
私は頬を伝う涙をふき取った。
「啓二さんに、会いにいこぉ。一緒にいこぉ。私たち、もう、すがるしか無いよぉ」
私は、汚い左腕を、ユキさんに向けて伸ばした。
手を、取りたかった。
だけど、ユキさんは噛み付いた。
まるで獣のような顔で、私の指を噛む。
「うっ……ぐぁあ……ユキさん痛いよ……」
痛い。
痛い。
「痛い……痛いっ……ユキさんやめて……」
私はあまりの痛さに、膝をつく。
ユキさんはそれでも、私の指に噛み付き続けた。
ボロボロ、ボロボロ、私の瞳から涙がこぼれる。
ユキさんの瞳からも、沢山、沢山、流れている。
なんだろう……なんなんだろう、この状況。
「ユキさん……ユキさん……啓二さんに……会おうよ」
私の指から、血が流れ、ユキさんの口を、赤く染める。
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