シノナナ 中編
目を閉じると思い出す。
兄貴と過ごした日々。
だけど、どの思い出にも兄貴の笑顔は見当たらない。
兄貴は生前、私の前ではあまり笑わない人だった。
それもその筈、私は兄貴を楽しませるような事なんて、ひとつもしていないのだから。
無視して、怒鳴って、指図した記憶ばかりが思い出され、胸が痛む。
兄貴は、私の言葉全てに「はい」と答えていた。面倒くさそうな表情は作るが、私に対して怒りをぶつけた事など一度も無い。
「兄貴……兄貴ぃ……」
男が嫌いだった。潔癖なまでに嫌っていた。
母親の再婚相手が嫌いだった。再婚相手の連れ子も嫌いだった。何故なら男だから。
男は馬鹿で、屑で、糞だ。十にも満たない私を犯した実の父親も男。
性欲の塊で、自分が満たされる事ばかりを考えている男。
気持ち悪い。大嫌い。それが本能にまで刻み込まれていた。
「あにきぃ……っ」
だけど兄貴は、特別になった。
兄貴だけは私の中で例外になり、段々と心を開けるようになって、我侭で傲慢な私の本性を見せられるほどの人間になっていた。
兄貴だけが救いだった。兄貴だけが違っていた。
兄貴だけは純粋だった。兄貴だけは、信じられた。
今思えば兄貴を奪いたかったのかも知れない。
あの女から。ユキから。
だから兄貴が引っ越した先に毎日通い、掃除や洗濯や料理といった世話をしていたのかも知れない。
「あに……」
そろそろ、達しそうだ。
兄貴が私の体中を撫で回している所を必死に想像する。
「あ……か……ぁ……」
私は、兄貴の布団の中で果てる。同時に巨大な脱力感と、巨大な嫌悪感が襲い掛かってきた。
これで何度目だろうか。
私の頭の中で、何度あの兄貴を汚しただろう。
純粋で綺麗な兄貴を、何度……。
「最低……」
自分で自分に毒づいた。
午前三時、私はようやく眠ろうと思い、テレビの電源を落とした。
電気はもともと付けていない。テレビを消しただけでこの部屋全体が暗闇となる。
目を閉じるが、やはり暗闇。
暗闇が落ち着く。まるで友人と出会えたかのような感覚。
きっとそうなんだろう。きっと私は闇を望んでいる。
外界と私を繋ぐ光を毎日拒んでいるのだって、闇に溺れたいからなんだ。
闇と離れる事が怖いんだ。闇が私を私としてくれているんだ。
幼い頃からそうだった。男を嫌い、男を遠ざけていた。
闇と仲良くしていたのは、昔からだったんだ。
「ただいま」
私は穏やかで安心している心を感じながら、意識を闇に委ねる。
嫌な音で目が覚める。
この部屋に響くチャイムの音。
時計を眺めてみると、まだ午前の九時。
ユキさんがこの部屋へとやって来るにはまだ早すぎる。
今日が何曜日だったかは解らないが、たとえ日曜日だとしても、今までユキさんは気を使ってか午後からしか来ていなかった。
つまり、ユキさんでは無いという事。
不機嫌になりながらも、私は立ち上がり玄関へと向かった。
「誰?」
わざとぶっきらぼうな声を出し、ドア越しに訊ねる。
「あ、長谷川です。長谷川啓二」
男の声だった。
男の声にしては少し高く、癖のある感じ。
「長谷川……啓二」
私の知り合いに長谷川の苗字を持つ男は居ない。が、啓二という名前には聴き覚えがあった。
有名私立進学校に在籍していながら、学校で暴行事件を起こし、十一人を病院送りにし、退学処分になったという、伝説の男。
そして兄貴の親友であり、英雄。
「……何か用ですか?」
「え? うん。用だよ」
機嫌の良さげな声に、イラッとする。
コイツも、私を闇から引っ張りだそうとしているのだろうか。
たとえ兄貴の親友だとしても、私は関わるつもりは無い。
「……私には、ありませんけど」
「そう? そうでも無いでしょ」
なんだろう、コイツ。
日本語が通用しないとしか思えない会話のやり取りだ。
「そうでも無い……って、何言ってるんですか?」
「用が無い事も無いでしょって言ってるんだけど」
……もはや、意味が不明だ。
何故兄貴は、こんな訳の解らない奴を親友と呼んでいたのだろう。
頭がおかしいとしか思えない。
頭がおかしいから大暴れなんて出来るのだろうが。
「僕は啓二だよ。長谷川啓二。タダっちからはケイって呼ばれてた、啓二」
「……知ってますよ。だからなんだって言うんですか」
「僕と春香ちゃんって会った事無いでしょ。だから会って話してみたいなって思って来たんだけど」
どんなに建前を作ったって、取り繕ったって、私には大体筋書きが見えている。
この長谷川啓二という男、ユキさんに泣き付かれたんだろう。
聴いた話によると、長谷川啓二も兄貴と同じように、友情に熱いらしい。兄貴を庇うようにして学校を退学になったほどの男。
泣いているユキさんを見て、いたたまれなくなったんだろう。
「私は話してみたいって思った事、ありませんから」
「そうなの?」
「そうなんです」
私がそう言うと長谷川啓二は「そうかぁ」と呟き、黙り込んだ。
しばらく、沈黙が続く。
数秒間は我慢したが、私は早々にしびれを切らし、追い返す事にした。
「解ったら、帰ってください」
「うん。解ったから帰るね」
啓二がそう答えるとすぐに、足音が聞こえてきた。
「え……」
足音は、どんどんと遠ざかって行く。
ユキさんはあれ程しつこくチャイムを押し、話しかけてきたと言うのに、長谷川啓二は一度拒否されただけで、この場を立ち去ってしまった。
あまりのギャップと予想外の事に、私は呆然としている。
何が友情に熱い、だ。
親友の彼女が泣いてすがったと言うのに、あの薄情者はいとも容易く諦めた。
「私は! 正也の妹だぞ!」
イライラしたので、怒鳴ってみた。
だけどもう、私の声が届かない所まで行ってしまったらしく、足音が戻ってくる事も、返事がかえってくる事も、無い。
数時間後、再びチャイムが鳴る。
それと同時に、いつものあの声が聞こえてきた。
「ハルちゃん、居る? 死んでないよね」
啓二は変な奴だったが、この女もこの女で変だ。話しかけるのに「死んでないよね」は、どう考えてもおかしい。
兄貴の周りには、変な人間しか集まっていなかったんだろう。兄貴自身も、変な奴だった。
「ハルちゃん、今日はね、私お弁当作って来たんだ。全部私の手作りなんだよ。食べて欲しいな」
「いらない」
私は扉の向こうに居るユキさんにそう答えた。
不思議な事に、私が発した声はいつもと違ったトーンに感じる。
なめらか……とでも言えばいいのか。
「あ、い……いらないか。そっか」
返事があるとは思っていなかったのだろう、ユキさんの声に、少しだけ「嬉しさ」が混ざっているかのように思えた。
「ね、ハルちゃん。お部屋のお掃除、私やろうか? お洗濯も、出来るから。だから中に入れて欲しいな」
「嫌」
私は淡々と答えた。
「嫌……だよね。そうだよね。だって私」
「いいから。懺悔とかしないで。毎日聞かされる身にもなってよ。ノイローゼになる」
ユキさんは押し黙ってしまう。小さな声で「あ」とか「う」といった、ちりじりになってしまった言葉だけが喉からあふれ出ていた。
「それより、どういうつもりなんですか?」
「……ん? 毎日、ここに来る事かな……ハルちゃんが心配」
「違う。長谷川啓二が、ここまで来たんだけど」
私がそう言うと、ユキは「え」と驚いたような声を上げる。
白々しい。
「ホント、ユキさん格好悪いよ。どれだけ他人に迷惑かければ気が済むの? 長谷川啓二は貴方と兄貴を守るために退学になったんでしょ? それなのに、また迷惑かけるつもりなの? 貴方は長谷川啓二の一生を台無しに」
「違うっ……! 私ケイ君に話してない!」
ユキさんが大声を出した。
もともとが小さい声なだけに、私は驚き、言葉が引っ込む。
「わたっ……私だって! 恥ずかしいって思う気持ちとか、申し訳ないって思う気持ちくらい、あるよ!」
「……はぁ?」
兄貴の「変さ加減」がマトモに思えてくる。
啓二といい、ユキさんといい、変すぎだ。何を言っているのかが解らない。
「どういう意味?」
「私は! ケイ君を巻き込む事なんか、絶対にしないよ! ケイ君優しいの、知ってるもん! 私が困ってたら、飛んで来てくれるんだもん! だから、絶対に話さないんだよっ!」
ユキさんが困っている事を啓二は事情を聞かずに察し、ユキさんと私を救うために、啓二が自分の意志でここに来たっていう事?
それって信頼って事?
え? 嘘だ。
啓二って、男だよね。ユキさんはもちろん、女だ。
なんでユキさんと啓二の間に、信頼なんてものがある?
兄貴の親友と、兄貴の彼女。
兄貴の親友と兄貴の彼女も、親友?
そんな馬鹿な。なんだその爽やかな関係。
ありえないだろう。この世に存在する訳が無い。
嫉妬とか、もつれとか、あるだろう。
それらが無いんだとしたら、啓二って何者?
「啓二さんに何回抱かれました?」
あぁ、私は、なんて事を……。
そんな事、ある訳ないのに。
だけど、納得がいかない。抱かれている訳も無いけれど、兄貴の彼女と兄貴の親友が親友同士だなんて、そんな絆が存在している訳も無い。
私は今、混乱している。混乱しているから、出てしまった言葉。
「……っ! ハルぅっ!」
「……ごめんなさい」
「ハルっ……! 酷い……酷いよぉっ!」
ドンドンと、扉を叩く音が聞こえる。
ユキさんの怒鳴り声も、絶え間なく、聞こえてくる。
一番言っちゃいけない言葉だったかも知れない。
「死ね」より「偽善者」より「最低」より、言っちゃいけなかったかも知れない。
ユキさんが「ハル!」と怒鳴るたび、ドンドンと力強く扉を叩くたび、私の心は傷を負う。
「痛い……痛いぃ……」
「ハルっ! 私はっ! タダ君を愛してる! 今でも! 今でもタダ君しか居ないの!」
それって、呪いだよね……。
なんて辛い、運命。
皆、呪われてる。
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