シノハチ 前編

 正義が蹂躙される世界に、何があると言うのだろう。

 正しさが曖昧な世界に、何があると言うのだろう。

 アイツが居ない世界に、何があると言うのだろう。

 きっと何も無い。

 何も無いけど、何も無いって思いたくも無い。

 だって、本当の本当に、何も無いのなら、アイツが残したものも、僕がしてきた事も、意味が無い事だから。

 意味が無い訳が無いって、思いたい。

 思いたいけれど、何故だろう。

 チカラが、入らない。

「うぐぅっ……ううぅぅっ……!」

 僕の涙はあの日から、枯れる事は無かった。

 暗い部屋の中、今日も布団に包まり、枕を涙でぬらす。


「おかえりなさい~けいちゃん」

 今日も彩子さんは僕のアパートに来ていた。

 ここの所、毎日だ。毎日来てくれては布団を干したり、部屋の掃除をしてくれている。

 彩子さんの笑顔に癒されているのは確かで、息子の健太の笑顔に癒されているのは確か。

 しかし、心が躍ってくれない。僕の心はまるで起き上がるのがダルいかのように、突っ伏している。

 それを彩子さんに悟られてはいけまいと、僕はわざと明るく振舞った。

「たっだいまぁ。いやぁ~今日も疲れたぁ」

 僕は部屋へと上がり、お菓子を食べていた健太の体を持ち上げる。

「健太~お父さんだぞぅ」

 息子である健太の体は、以前よりも体重が増えているはずなのに、軽く感じた。

 健太の「きゃっきゃ」という笑い声にも、僕の心は反応してくれない。


 この感じ、以前にも味わった事がある。

 やる気が無い訳じゃない。意思が無い訳じゃない。

 ただ、心が動かない。

 健太を育てていかなくてはいけない事は解っている。彩子さんを幸せにしなければいけない事は解っている。

 一生をかけてこの二人だけは、守り抜かなければならない事は解っている。

 だけど、どうしたって、心が動いてくれない。

「健太、一緒にお風呂入るか?」

「うん~入るぅ~」

 去年の秋、三歳になった健太の笑顔が僕に向けられた。

 その笑顔を向けられた僕の心には、喜びも悲しみも涌いては来ない。

 ただただ「笑ってる」と思うくらいだった。


 午後八時、彩子さんは僕の実家へと帰る事にしたらしく、少ない荷物をまとめて玄関へと向かった。

 その時、いつもの会話をする。

「けいちゃん、そろそろお母さんと話し合いしないと、ね」

 僕はこの会話が好きでは無かった。

 取り乱し、今もなお混乱し続けている実の母親と、話はしたくない。

 包丁を本気で僕に向かって投げ、僕をあの家から追い出した母親と今更、話し合いなんて出来ないだろう。

「ん……そうだよね。健太の教育上、良くないし」

 僕はいつも通りの言葉を返した。

 その答えに彩子さんはいつも納得が行っていないようで、少し悲しそうな表情を浮かべる。

「……それじゃあね、また明日来るからね」

 彩子さんは「はい、パパにばいばーいって」と健太の手をとり、左右に振る。

「パパばいばい~」

 健太は笑顔だった。

 彩子さんも、無理矢理笑顔を作ってくれていた。

「はいよ~ばいばい~」

 僕も無理矢理笑顔を作る。


 彩子さんが帰った部屋は、やけにがらんとしていた。

 一人暮らしを始めた頃は狭く感じていたのに、四ヶ月ほど経過した今、僕の定位置はほぼ決まってしまっていて、この部屋に居る間はほとんどその場所に居る。

 狭い部屋であろうと、広い部屋であろうと、僕は畳一枚分の限られた場所にしか居ないだろうし、その他のスペースは僕にとってゴミ箱だ。

 今日も、テーブルの前に布団を敷き、寝転がる。そして缶ビールを一気に飲み、空き缶をポイと投げ捨てる。

 缶はゴミ箱にはじかれ、カーペットの上に落ちた。

 少し残っていたビールが、カーペットをぬらす。

「……はぁ」

 僕は、その事に対して、なんとも思えない人間だ。

 せっかく彩子さんが掃除してくれたと言うのに。選んでくれたカーペットだと言うのに。

 缶の口から流れ出るビールをただ見つめ、ため息をついた。


 夜中の十一時を回った頃、僕はようやく布団から起き上がる。

 そしてモソモソと服を着替え、外に出る。

 今からする事は、ここ最近の日課。

 僕の心を唯一揺さぶる事の出来る行為だった。

「……さむ」

 僕は手に息を吹きかけ、軽い準備運動をしてから走り出す。

 行き先は、いつもの場所。

 アイツの居た、あの場所。


 走り始めて二十分が経った頃、ユキちゃんの家が見えてきた。

 枯れてしまっている垣根に雪が積もっており、手入れをされた形跡は無い。

 それはまるで、アイツに置いていかれた僕とユキちゃんの心を映し出しているようだった。

「……元気かな、ユキちゃん」

 ユキちゃんとは、アイツの元彼女。アイツが死んでしまった今でも、僕とユキちゃんは週に一度は連絡を取っている。

 しかし、アイツが死んでから一度も顔を見てはいない。学校へ通っているかどうかも、定かでは無かった。

「……くそっ、くそぉ」

 やはり、気になってしまう。

 心が疼くのを感じる。

 僕が高校を退学になってまで守った人だ。アイツが自分の命を投げ打ってでも助けた人だ。

 彩子さんや健太を差し置き、今僕がもっとも幸せになって欲しいと願っている人だ。

 そんな事、あってはいけない事なのに、どうしても、どうにかしてあげたいと思ってしまう。

「何で死んだんだよ……タダっち……」

 僕はユキちゃんの家を横目に、走りながら呟いた。

 ユキちゃんの家の玄関を素通りし、目的地へと向けて速度を上げる。

 ……僕から助けるような事はしない。それが彩子さんと健太への、せめてもの礼儀だと思っている。

 だけど、もし助けを求められたら……。

 僕は、どうするのだろうか。


 数分後、アイツのアパートへとたどり着く。

 今日のアイツの部屋は、薄明かりが漏れていた。

 どうやら、今日はテレビを見ているらしい。

「……良かった、生きてる」

 僕はボロっちいアパートの前で立ち止まり、二階の隅っこにある部屋を見つめた。

 しばらくずうっと、眺める。

 まるでストーカーだなと自分でも思うが、アイツの妹である春香ちゃんの生死を確認する事が、僕に出来る唯一の事。

 僕にお願い事なんて滅多にしなかったアイツが、死ぬ前日に、瞳に涙を溜めて、本当に申し訳なさそうに、懇願した。

「厚かましい頼みだって事は解ってるけど、ケイには本当に迷惑ばかりかけてるけど、他に頼める奴が居ないんだ。ユキとハルを、守ってやってくれ」

 僕は「解ったよ」と、答えてしまった。そう答えるしか、無かった。

 だから今僕は、ここに居る。

 この約束だけが、仕事以外の事で僕を突き動かしていた。


 チャイムを押し話しかけてみる、というのは、何度も思い悩んでいた事。

 しかし僕には、その勇気が無かった。

 春香ちゃんとは会った事すらないけれど、僕がアイツの友達だというだけで、春香ちゃんから嫌われているようだから、第一歩が踏み出せないでいる。

 僕も姉貴を亡くしているから、今春香ちゃんに迫っている危機について、良く解っていた。本人は気付いちゃいないだろうが、自暴自棄になっているに違いない。

 きっと、この世の終わりに近いものを感じているはずだ。そして終わらせるのは、自分の手で。

 終わらないのに、終わらせるんだ。

 そこまで解っているのに、僕は一ヶ月間、こうして窓の外から眺めているだけ。

 自分のふがいなさに、嫌気が指す。

「……なんて事、頼むんだよ、タダっち」


 生死の確認だけでは、駄目だろうって、解っていた。解っていたが、どうしても、先へと進めない。

 元々嫌われている僕だから、今の混乱している春香ちゃんには余計に受け入れられっこ無いって事も、同時に解っている。

 だけど、そうじゃないかも知れない。

 もちろん、そうかも知れない。

 そして、どう考えても受け入れられない可能性のほうが高すぎて、悲しくなる。

 話しかけ、嫌われ、窓の外に気を回され、こうして足を運ぶ事さえ出来なくなってしまう事に、恐怖する。

「……くそっ……くそぉ……」

 僕はうろうろ、うろうろ、アパートの周りを歩きまわった。


 気がつくと、アイツの部屋から灯りが消え、暗闇となっている。

 時計を確認してみたら、深夜の二時を過ぎていた。

「……今日も、駄目だった」

 僕は肩を落とし、来た道を引き返す。


 雪がちらちらと舞う、綺麗な空だった。

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