シノロク 前編
正確に測量されてしまった残りの人生。
あと二年三ヶ月と、一日。
毎朝毎朝、カレンダーを見る度に焦らされる。私にはもう、時間が無い。
刻一刻と迫ってくる決断の時。カチコチという時計の音が、やけに重く耳に届く。
朝食に味が無い。もはや私は正気じゃいられない。
どうしよう。どうしよう。
カップを握る手も、震えている。熱いはずのコーヒーに、温度を感じていない。
そんな焦る私を置いていくかのように、今日も一日が始まった。
私にとって、決断の日。
あと二年三ヶ月と一日しか残されていない人生と引き換えに、一週間だけ神様になれるとしたら。
どんな選択を、しよう。
妹である真美の「いってきます」という元気な声が玄関口から聞こえてきた。その声を聴いて台所に立っている母も「いってらっしゃい。気をつけるのよ」と、いつも通りの返事をする。
もうしばらくすると母は私に向かって「いつまで食べてるの。早くなつめも行きなさい」と、少し不機嫌そうな声で言い出すのだろう。
これがいつもの朝。日常。
だけど私には、まるで遠い世界の事のように感じる。
この日常も、あと二年と三ヶ月経てば、終わりが来てしまうのだから、無理も無いのかも知れない。
「いつまで食べてるの。早くなつめも行きなさい」
母の声が、遠くから聞こえてきた。
いつもならここで「はぁい」とやる気無く返事をし、食べていた食パンを一気にクチへとほおばり、コーヒーで胃へと流し込んで、足早に玄関へと向かっている所。
だけど今日は、母がどんな顔をして私に声をかけているのか、気になった。
母親とは仲が良くないため、普段は絶対に視線を合わせたりはしないが、今日は特別な日。
私はゆっくりと母親が立っている台所へと首を向け、視線を母に移す。
そして目にした光景は、台所で洗いものをしている、母の後姿。
私は、母がこちらを見てさえ居なかった事に、今日はじめて気が付いた。
「え」
何故だろう。今までは私のほうが母を無視してきたつもりだったのに。
無視されていたのは、私のほうだった。なんて、思ってしまっている。
「え?」
「何よ、聞こえなかったの?」
母は、不機嫌な声を出す。しかしその体勢は変わらない。
私に斜めの後ろ姿を見せながら、今でも手を動かしている。
「早く食べちゃってよ。洗いものが終わらないんだから」
この女は、何を言っているのだろう。
私はあと、二年と三ヶ月で死んでしまうのだ。
それはもう、決められてしまっている事。
そんな私に対して、洗いものが、終わらない?
確かに私は、私の余生の事を母に話していない。どうせ信じないだろうし、どうせ怒るだろう。
しかしここ数日の私は、明らかに様子が変だったハズだ。
あんなに活発だったのに。あんなに元気だったのに。あんなに勉強をしていたのに。あんなに真面目だったのに。
今は、まるで人が変わったかのように、覇気が無いはずだ。
それなのにこの女は。
ちっとも、ちっとも、気付いてくれない。そして見てさえも、くれない。
「え……?」
私の三度目の「え」を聴いた時、ようやく母はこちらを向いた。
眉間にシワを寄せ、まるで私を恨んでいるかのように、睨む。
「何度も言わすんじゃないわよ! 早く学校行きなさい!」
大きな大きな、声に聞こえた。
今まで遠くから聞こえていたように感じていたが、私の聴力は突然、普段のものに戻ったらしい。
鼓膜が、痛い。
そして、急に現実感の戻った私の胸に、湧き上がる黒いもやもや。
このもやもやは、私のクチから外に出ようと、私の体の中をどんどんと駆け上ってくる。
いや、全身に駆け巡る。
腕先に達し、腕を震わせる。足先に達し、足を震わせる。脳に達し、思考を奪う。
そして、クチ。歯がガチガチと音を鳴らす。唇がブルブルと震える。今にも、黒いもやもやが飛び出しそうだ。
「何よその目は! そんな目したって怖くないんだからね! 早く行きなさい!」
「……はい。いってきます」
私は、入らない力を必死に絞り出し、椅子からゆっくりと腰をあげた。
全身がブルブルと震えている。耐えられそうも無い。あぁ、耐えられそうもない。
私は少し大きめな石を拾い、思い切り壁へとぶちあてた。
その石はガツッという音を立てて跳ね返り、再び地面の石と混ざり合う。
そしてまた違う石を拾い、ぶつける。
ガツッと音を立てて跳ね返る。
次に私は、大声を上げた。
どんな言葉を発したのかは、解らない。ただ大きな声を上げた。
「ああああああああ! があああああっ! あっ! あああっ!」
そして手足をブンブンと振り回す。何も無い空を、ただただ延々と殴る。蹴る。
「あっ! ああっ! どぉだぁ! どうだぁ!」
誰に話しかけている訳でも無いが、私は誰かに尋ねていた。
しかも、何が「どうだ」なのかが解らない。まさかこの、愚にも付かないパンチやキックに対して「どうだ」と訊いているのだろうか。
「はっ……! はっ! はぁっ!」
私は視界をぼかして、膝に手をつき肩で息をした。
そして少し落ち着いてから、誰も見ていなかった事を確認するために、ぐるりと辺りを見渡す。
私が今居る場所は、通学路では無い。家を出るなり、学校とは逆方向へと私は歩いていった。
そしてたどり着いた場所は、誰も来ないであろう草木が生い茂る山の中。近くに民家らしい民家も無く、あるのは石をぶつけた一軒の空き家のみ。
「はぁ……はぁ……ふぅっ」
私は深く深呼吸をし、息を整える。
二度、三度と繰り返し、ようやく私は落ち着いてきた。
何故、私が今ここに居るのかと言うと、今日ここで待ち合わせをしているからだ。
もっとマシな場所が無かったのだろうか。虫は多いし昼だと言うのに薄暗い。唯一視界に入る人工物のボロ屋敷すらも、不気味に映る。
「……遅い」
あまりの寂しさに呟いてみた。
「ごっめん。寝坊しちゃいました」
独り言に、あるはずの無い返答が私の耳元から聞こえてきた。
一瞬、何が起こったのかがわからなかったが、どうやら体は反応していたようだ。
私の口が自然と「ひっ!」と悲鳴を上げた時には、既に膝が地面へと着いていた。
「えー、そんなにビックリしなくても。ビックリしたなつめちゃんに私がビックリしちゃいます」
「あっ……貴方……いつの間に……」
私はゆっくりと首を声のするほうへと向ける。
まるで映画のスローモーションになる場面を見ているかのように、私の視界はゆっくりとその場に立つ人物を捕らえていった。
「そんな質問に意味なんて無い事くらいわかるでしょ? それよりさ、覚悟は決まりました?」
私の視線はまず、彼女の下半身を捕らえた。
濃い茶色のローファーを履いており、そこから細い足が伸びているのが見える。
紺色の靴下を膝下まで履いているようだ。
「覚悟……」
「そう、覚悟。なつめちゃんなら良い返事をくれると思うんだけど」
次に私の目が映し出したのは、彼女の着ている服だった。
緑色のチェック柄が特徴的なスカートを履いており、白いブラウスの上に紺色のカーディガンを羽織っていた。
彼女は、私と同じ制服を着用している。この辺りの中学生なら誰もが羨む、制服だ。
しかしそれは、デザインが可愛いという意味では無い。この地域では、入学するのが最も難解だと言われている高校の制服だからだ。
「……私は」
「うんうん、私は?」
私は視線を上げる。
そこには、とても整った顔立ちの、青い瞳を持つ少女の顔があった。
髪の色は金髪で、大きな赤色のリボンで結われたポニーテールが、腰の下まで伸びている。
「……本当に、死ぬの?」
私がそう言うと同時に、彼女は満面の笑顔から覇気の無い表情へと、あからさまに変えた。私に対して、明らかに落胆している。
それも、当然の事なのかも知れない。この質問をするのは、これで何度目なのか、自分でも解らない。
「……何度も説明するの面倒です」
「だよね……ごめん……でも」
「でも、出来る事なら嘘であって欲しい。信じたくない。生きていたい。ですか?」
「……」
数ヶ月前、彼女に初めて話しかけられて以来、彼女は私に付きまとってきた。
最初はいけ好かない女だと思っていたのだが、話してみると面白い子で、一緒に居ると明るい気分になれていた。
しかし彼女は、ある日突然、何の前触れも無く「なつめちゃん、死期が近いよ」と言い出した。
最初こそ冗談だと思っていたが、彼女は「二人だけの秘密」と銘打って、色々なものを見せてくるようになった。
私が彼女に見せられたものは、衝撃的なものばかり。
まず最初に見せられたものは、自殺。
「私は死なないんですよ」と言った彼女は、私の目の前で、学校の屋上から飛び降りてみせた。
バチンという大きな音を立てて、校庭へと叩きつけられた彼女を、私は目撃した。
しかし彼女は、何事も無かったかのように立ち上がり、私に向かって「おーい」と大きな声で呼びかけ、手を振っていた。
彼女の顔は、血だらけで、振っていた手も、おかしな方向へと曲がっていた。
他にも。自らの首にナイフを突き立てたりもした。
大量の血が、彼女の口と傷口からあふれ出し、充血させた目をギョロギョロと泳がせていた。
次に、ベルトで首吊りをした。
パンパンに膨れ上がった彼女の顔は、人間のモノとは思えなかった。
他にも、他にも、他にも。
彼女は様々な方法で、自らを殺し続けていた。
しかし、そのいずれでも彼女は死に至る事は無く、いつだって「どぉ? どんな気持ち?」と言いながら、笑顔を浮かべていた。
次に見せられたものが、夢。
彼女は私に、夢を見せた。
その夢というのは、誰かが死んでしまうという、夢。
あくまで、夢だ。夢のハズなのだ。
しかし驚く事に、夢の中で誰かが死んだ時刻ピッタリに、現実世界でもその人は死んでいた。
時には自殺だったり。時には交通事故だったり。時には暴漢に襲われていたり。
病気だったり。急性のものだったり。
残酷だったり。美しかったり。
色々な人の色々な死に方を、何度も何度も、毎晩毎晩、見せられ続けた。
「私には人の死期が解るんです。だからなつめちゃんに見せる事が出来るんですよ」
彼女は笑顔でそう言っていた。
どうやら彼女は、人間では無いらしい。
いや、人間と同じ構造をしているが、この世界の住人では無く、違う世界と繋がっているそうだ。そちらにも彼女が居て、そちらの彼女が死なないかぎり、彼女が死ぬ事は無いらしい。のだが、正直いまいち理解は出来てないのが正直な所。
彼女の魂がある場所を天国と呼ぶのか、地獄と呼ぶのか、宇宙と呼ぶのかは、私は知らない。理解しようと一瞬思ったのだが、説明を聞いてすぐに諦めてしまった。だけど確かな事は、これまでの彼女の言葉に、ひとつだって嘘は無かったという事。
こうなってくると、もはや疑いようが無かった。
私は、あと二年三ヶ月で、死ぬ。
それもきっと、疑いようの無い事実なんだろう。
その現実が、私には重過ぎる。
「嘘であって欲しい……信じたくない……死にたく無いよぉ……」
「ふぅ~ん」
私は地面に膝をつきながら手元に生えていた草を握り締めた。
プルプルと自分の手が震えているのがわかる。
「ねぇ、死なないで済む方法は無いの? 貴方なら、魔女の貴方なら、寿命を延ばす方法くらい」
「残念ですけど、それは無理ですよ。詳しく説明しても解らないだろうから説明しませんけど、簡単に言うと運命ですから」
彼女の渇いた声が、私の胸に突き刺さる。
痛い。
「じゃあ、なんで死期を早める事は出来るのよ……おかしいじゃない、そんなの……」
「んもぉ~……説明してもわっかんないって言ってるじゃないですかっ」
彼女は少し怒った表情を作り、腰に両手を当てて仁王立ちの状態になった。
「私は別にどっちでもいいんです。このまま短い余生を送るもよし。少しでも有意義に生きようと契約するもよし。なんですよ」
その言葉を聴いて、私はふつふつと、怒りの感情がこみ上げてきていた。
握っていた雑草を、いつの間にか引き抜いている。
「なんでっ……」
「ん?」
「じゃあなんで私に寿命の話なんかっ……」
「べっつにぃ~。言うなら暇つぶしってやつですかね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます