シノゴ

 心を痛めて、初めて解る、自分の弱さ。

 それを知った時の絶望感は、味わった人間にしか解らないだろう。

 人を貶め、陰口を叩き、笑みを浮かべるような人間が、ちょっとした事で精神科へと通うほど、現代人は弱い。

 私はそんな人間たちに、引導を渡す仕事をしている。


 数畳ほどの個室に、今日も患者が足を運ぶ。

 私に縋るしか道が残されていない、哀れな患者だ。

 今日の患者は、中肉中背の若者。髪の毛を赤茶色に染めており、見た目的には現代っ子のようなイメージを持たされる。

 しかし中身は、とんだ甘えん坊だ。大学へ六年も通った挙句、結局単位が足りずに自主退学し、親が煩いからという理由で家を出、ギャンブルに明け暮れ、消費者金融からお金を借りまくった挙句、借金が返せなくなり、親に泣きつき、その後アルバイトを始めるも、人間関係で上手くいかず、数ヶ月、悪ければ数日で辞めてしまうという、いわば屑のような人間だ。

 こういう人間は、まず危機管理がなっていない。仕事を辞めれば死ぬという状況にまで追い詰められたとしても、こいつは仕事を平気で辞めるのだろう。状況が把握出来ないのか、誰かが助けてくれる事を当たり前だと思っているのか。

 そのくせ「自分は特別だ」と、本気で思っているから性質が悪い。

 何一つ、成し遂げて来なかったくせに。

 何一つ、頑張って来なかったというのに。

 何一つ、得てはいないというのに。

 そして、その架空の自尊心と現実の狭間に立ち、弱音を吐きに来る。

 擁護して貰うため、自尊心を守るために。

「先生……もう俺駄目だ」

 椅子に着席した彼は、私に向かってそう言った。

 彼と話をするのはこれで五度目なので、お互い顔見知りのような状態になり、私のほうが年上なのだが、彼が敬語を話す事はもう無い。

「駄目じゃないよ」

 私は彼の瞳を見て、言葉をかけた。

 彼はすぐさま目を逸らして、地面を見つめる。ズボンを握り締め、口をへの字にしている彼は、照れているようにも見え、若いという印象を私に与えた。

 以前から思っていた事だが、彼はあまり女性に慣れていないように思える。しかしそれも当然の事。誰がこんな男に構ってくれようか。

「だって俺、どの職場に行ってものけ者にされちゃうし、仕事の覚えが悪いって怒鳴られるんだ。それが怖くなってもう二年も引きこもってるし、駄目なんだよ、俺」

「カトウ君は、運が悪かっただけ。バイト先の環境が悪かったんだよ。それに今は、私の所まで足を運んでくれる。引きこもって無いじゃない」

 相手の話を聞き、相手の事を肯定するというものは、精神科医の常套手段だ。それをするだけで患者は安心し、自分の存在に意味を持てる。使い古された方法ではあるが、薬や説教よりも、格段に効果が期待できた。

 しかし私の場合は、違う意味合いでこの方法を用いる。

 相手の心をこじ開け、中身を見、一番弱い所を突付くための、道具。

「……だけど、居場所が無いんだ。家に居ても、親の視線が痛いし、人付き合いが下手で、職場でも迫害されて……俺の存在価値なんて、無いんじゃねぇかって」

 彼は自身の頭を抱え、うつむいてしまう。

 その際、私のスカートから伸びる両足を眼で追っていた事に、私は気付いていた。

 彼に限らず、男という生き物は、どんなに追い詰められた状況であろうとも、性欲を忘れない。これは本能にすら刻まれている事なので、本人が好もうが拒否しようが、否応なしに存在しているもの。

 私を女として、意識をしている証明でも、あった。

 私はニヤリと笑みを浮かべ、彼の側へと近づき、頭をなでる。

 基本、患者との接触や、プライベートでの付き合いは禁止されているが、私はそれらのルールを、守った事は無い。

「居場所なら、ここがあるじゃない」

「……せんせぇ」

 私はより接近し、彼の太股へと手を乗せる。

 それだけで彼は感じてしまったらしく、「あ」という声を上げた。

「私がカトウ君の、居場所になるよ」

 彼は頭を抱えていた手を離し、俯いていた頭を上げ、私の目を見た。

 私も、彼の目を見る。

 彼の目には、慈愛に満ちた表情をしている私が、映し出されているのだろう、次第に涙を浮かべて、私へと抱きついてきた。

 その瞬間、私は「きゃ」という、小さな悲鳴をあげるが、すぐさま彼の頭へと手を乗せ、なでる。

「せんせぇ……! 俺、もう先生無しじゃ……! 俺……先生が……!」

 私は心の中でほくそえんだ。

「うん。解ってる。今晩、私の部屋に来て」

 この誘いを断れる男は、居ない。


 この手の男を死に追いやる事は、とても簡単。

 この世で唯一、自分を肯定し、自分を愛してくれている者からの裏切りが、どれほどの絶望に変わるかを、私は知っているからだ。

 さて、どうしてくれようかと考えながら、ためらい傷で埋め尽くされた醜い手首の左手で、彼の頭をなで続けた。

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