シノサン

 神より与えられた生を、今まさに終えようとしているアベルの瞳から、光が失われようとしていた。

 アベルが最後に見た景色は、兄カインの、怒りとも歓喜とも取れる、表情。

 その表情は、羊飼いのアベルにとって、信じられないものだった。アベルは羊を殺す際、神へと祈りを捧げ、罪を受け入れ、命に感謝をしながら殺していたからだ。

「か……カイン」

 刺された腹から、大量の血が流れ出る。

 痛さよりも、脱力感のほうが大きく、アベルは膝をつく。

「貴様、サタンに操られたか……?」

 全身の力が腹に開いた穴から抜けていく感覚を覚え、アベルは自らの傷口を押さえる。

 しかし、アベルの力の源である血は止まる事が無く、地面へと垂れ、大地へと染み込んでいった。

「サタンだと? いいや違う。これは俺の意思だ」

「……意思?」

 カインは手に持っている、尖った石を、天高く振り上げた。

 そしてアベルの顔を見て、ニタリと笑う。

「そうだよアベル。俺はな」

 アベルの顔目掛けて、石を振り下ろす。

 尖った石はアベルの口へと入り、舌を裂き、喉をつぶし、命を奪った。

 グルリと裏返ったアベルの眼球は、もはや光を失っている。

 アベルの体はゆっくりと、うつぶせに倒れた。

 カインはより一層、笑顔を深め、アベルの頭へと足を乗せる。

「俺は、貴様が憎かった」

 人類が始めて、死を体験した瞬間だった。

 そして、それを成したのは、他でもない、人間そのものだった。


「きさ……貴様だって、沢山の羊を、こ……殺してきたじゃねぇか」

 その日の夜、アベルの死体を隠し、自分の家へと戻ったカインは、うなされていた。

 寝付こうとしても、心臓が高鳴り眠れない。そもそも目を閉じたら、アベルの事を自動的に考えてしまう。

 完全なる沈黙が恐ろしいものに感じ、カインは独り言を呟き続けた。

「俺は……これが始めての……殺しだ……お前に比べたら、どれほど軽い罪か」

 カインは自分を正当化する。

「そうだ……お前の手にかかり、失われた命は数知れず……だが俺が奪った命は、たったひとつ」

 カインの表情は、にやけていた。

 言い訳を続ける事により、自分の正当性を導き出し、それに励まされているようにも、見える。

 気分が晴れてきたのか、カインは横たえていた自分の体を起こし、瞳を大きく見開き、何も無い空間を凝視した。

「そうだ。気に病む事は無い。胸を張れ。俺は何も、悪くない」

 カインはついに立ち上がり、大声をあげる。

「悪くない! 俺は悪くない!」

 カインのその声は、遥か彼方の地に住む、最初の悪魔であるリリスの耳まで、届いていた。


 翌朝、土を耕す者であるカインは、何事も無かったかのように、畑を耕していた。

 昨晩、一睡も出来なかったというのに、アベルの事を忘れるため、一心不乱に土を掘り返す。

「よぉ、カイン。頑張ってるなぁ」

 そんな時、神であるヤハウェが、カインに対して声をかけた。

 突然の出来事に、カインは思わず、体を硬直させる。

 そして、全身から汗があふれ出るのを感じていた。

「あ……あ、はい。今度こそヤハウェ様にご満足頂ける品を献上したいと思い」

「そうかい、良い心がけだな。所で、アベルの姿が見えねぇんだが、どこに行ったか知らないか。地上のどこにも居ねぇんだけど」

 カインはヤハウェの言葉を聞くと同時に、動悸が激しくなり、息をする事すらも困難になった。

「し……知りません……私は生涯、アベルの監視役ですか?」

 カインは昨日、あれほど「自分は悪くない」と言い続け、その理論すらも構築したと言うのに、嘘をついた。

 つまりそれは、嘘をつく必要があった。という事。

 カインの理論は、間違っていたという事の、証明でもあった。

 その事に、神であるヤハウェが気づかない訳が無い。

「ふふふ……」

 ヤハウェは笑った。

「ウソツキめ。私にも、自分の意思にも、嘘をついたな?」

 神の顔は見えないが、この時のカインには、神の表情がしっかりとイメージ出来ていた。

それは、カインがアベルを殺した時の表情、そのままの顔だった。

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