シノニ
こうしてビルの屋上の縁に立ち、地面を見下ろしてみても、俺にはなんの感情も沸いて来なかった。
振り返ったとしても、何一つ成し遂げて来なかった人生。
どうやら俺は、その人生を終わらせる事に、躊躇いが無い。
ジリと、死へ歩み寄った。
もう半歩、足を踏み出せば、死へと到達出来る。
辛いという感情や、苦しいという感情の無い世界は、もうすぐそこ。
金網から手を離し、両手を広げた。
強く吹き付ける風に、自分の身を捧げた。
上空で吹く風は、容易く俺の体をさらった。
そしてそのまま、俺の両足は地面を離れた。
宙を舞っている最中、俺は考えた。
死後の世界は、あるのだろうか。
もし死後の世界があるのだとすれば、俺は一体、どういった扱いを受けるのだろう。
仏教では死への過程は関係無く転生するし、キリスト教では許されない行為として、地獄に落ちる。
もし転生するのだとすれば、今度はお金持ちの家庭に生まれたい。もう二度と、金で苦労はしたくない。
もし地獄に落ちるのだとすれば、早いところ理性を失ってしまいたい。地獄の苦しみなんて、弱い俺には耐えられそうも無い。
どちらにしても、地面に落ちる瞬間は、とてつもなく痛いのだろう。
そう考えると、少し嫌になる。
何故、死には、痛みや苦しみが伴わなければいけないのだろうと、考える。
痛みなら今まで、散々耐えてきた。苦しい現実も、超えてきた。
俺の容姿が醜く、なおかつ親が借金まみれだからと言う、理不尽な理由で苛めを受け、その都度に与えられる、心の痛みも、苦しみも。体の痛みも、苦しみも。
全て耐えてきたと言うのに。
それなのに、死んでしまうその瞬間にさえ、痛みが与えられるなんて、酷い話だ。
しかしきっと、この世は、そう出来ている。
痛みに耐えなきゃいけない人間は、一生、耐え続けなければならない。
俺の生涯が、それを証明していた。
良くなる兆しなんて、これっぽっちも、無かった。
だから俺は、今、死ぬ。
たとえ死ぬ瞬間、死ぬほど痛いのだとしても。
生き続けて、これからも痛みや苦しみを耐え続けるよりは、マシ。
死とは、痛いが救いだ。
誰からも救われる事の無かったこの俺が、唯一甘える事の出来る相手が、死。
死は、少なくとも俺にとっては、優しい。
全てのものに平等に存在してくれているだけで、救いだ。
人間扱いされて来なかったこんな俺でも、死だけは俺に死ぬ事を許してくれる。
そして死は、俺を苛めてきた奴等に対する願いも、絶対に果たしてくれるのだ。
だって人間は、いつかは必ず死ぬのだから。
俺の願いは、いずれ必ず、果たされる。
もうそろそろ、地面に到着する。
あと数秒で、俺は死ぬ。
ようやく、生から開放されるのだ。
どれほどの間、この瞬間を待ち続けていた事か。
辛いという感情も、苦しいという感情も。
あまり味わった事の無い、楽しいという感情も、嬉しいという感情も。
何一つない、世界へ。
今、到達する。
「いやだ!」
誰かの叫び声が、聞こえてきた。
「死にたくない!」
また、聞こえてきた。
「しに」
最後に聞こえてきた音は、今まで聞いた事の無いほど大きな、バチンという音だった。
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