十花

女は椿を背にして物思いに沈んでいた。

視界の隅を赤々と燃えるような蜂が暗闇のなか飛んで来たのに気が付いて、物思いから覚めて手を伸ばす。


その指先へ蜂が止まった。緋色に輝く艶やかな羽を撫でる。

蜂を追ってきたらしい男に気がついて、少し驚いて目を見張った。指先に視線を落とし、再び目の前で息を弾ませている男に眼マナコを向ける。


「それは、太一さんだ。先に与助さんを助けに来た人だ」


太一にとって見捨てるのは、濁流へ呑まれそうになっている与助と弥三郎のどちらかではなかった。


弥三郎を売ることはしたくない。

されど、与助はどうあっても助けたい。

迷ったあげく、太一は自分の名前を書いたのだ。

二人を舟に乗せ、己が濁流へ呑まれることを選んだのである。


「太一さんはそういう人なんだよ」


バカな男だねぇ。

椿女はゆがんだ笑みを浮かべて蜂を見つめた。


しかし、内心戸惑ってもいた。彼女に命を奪われた旅人の中に、このような男はいなかったのである。たいていは命乞いをし、諦めるか。酷いものに至っては連れを身代わりにして逃げた。それをこの男は連れの魂を取り戻しに来た上に、他人を身代わりにすることなく己を犠牲にしたのだ。


「貴女はどうしてこんなことをするのです?」


弥三郎の問いを鼻で笑って受け流す。

されど、実のところ椿女にもよくわからないのだ。


食べなくとも死ぬことはない。

寿命は延びるが、そんなに長く生き延びたからどうだというのだろう。


これだけ多くの魂を止めておいたのは、思えば寂しかったのかもしれない。 深い山中に独りである。 されど、どれだけ魂を集めようとも椿女の孤独は癒されることがなかった。


顔の仔細まで見極められない薄明りである。

その時、木々の隙間から月が姿を現した。一定の光のもと二人の顔が明確に照らし出される。


能面のように感情を失った面おもてが向き合った。

その目が驚愕に見開かれている。


忘れもしないその顔、待ち続け、もう忘れてしまったのではないかと危ぶんでさえいたその顔が、月の光のした椿女を見つめていたのだ。


「弥三郎……」


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