八花
「おいで、太一」
満開に輝く花を咲かせる木の根元、椿女ツバキメは葉裏に書かれた名を呼んで息を吹きかけた。これでこの名をとられた旅人の魂は、この木のもとへ吸い寄せられてくるだろう。
ほらね、また一人裏切りに手を染めた人が増えた。
信じるなんてくだらない。
人は自分の身が危なくなれば、容易く手の平を返す生き物なのだ。
どんなに綺麗ごとを並べたところで所詮は獣と一緒。何を差し置いても優位に生きたいと思ってしまうのは性なのだ。
そのためならば人を傷つけたってかまいやしない。
女の髪から簪がするりと抜けて膝の上に落ちた。
表情が不意に曇る。
「信じるなんてくだらない」
かつて人の娘だったとき、たった一度だけ本気の恋をした。
その人は女の家ほど裕福ではなかったけれど、真心のある人だと思った。
女は一人娘であったから手中の玉とそれは大切に育てられた。嫁ぐことは出来ないけれど、いつかこの人を婿に迎えて幸せな花嫁になれると信じて疑わなかった。
それなのに、やさしかった二親は彼女が選んだ男を認めてはくれなかった。いい男だがお前の婿にはできないという。家柄のいいところからお見合い相手を選ばせてあげようなどという。
ならば、この人がいい。
そう言ったのに、いつになく叱られ、泣いて部屋に帰った。お前の為だなんて絶対に嘘。幸せを願うなら許してくれればいいのだ。
両親の目が厳しくなってきた中、娘は男と約束をした。
一緒に遠くへ行こうと。遠くへ行って夫婦めおとになって幸せになろう。
その間にも二親により、娘の結婚相手が決められて、婚礼の日取りが着々と近づいてきた。
でも構いやしない。
娘は愛しい人と、新たにここではない遠くへ共に旅立つのだから。
婚礼の日の夜。
娘は男と申し合わせていた通り家を抜け出して、深い山の中一本だけ生えている山椿の木へ急いだ。
この木は、男と二人で花見をした帰り、道に迷って偶然見つけた樹だった。
誰も知らない秘密の待ち合わせ場所。
月明かりのみが足元を照らす山道を、ひたすら椿の木を目指す。怖くなんてなかった。
あそこまでたどり着ければ愛しい人が待っている。
見上げるような椿の大木は、月光の下青白く浮かびあがる。
白い花弁を降らせながら、いつものように佇んでいた。
男はまだ来ていないようだ。
月を雲が覆い。つかの間の暗闇が通り過ぎていく。
木深き山のなか、届く月の光も少ない。
遠くから、揺れる松明と野太い笑い声が複数近づいてきた。何だか恐ろしくなった娘は藪の暗がりに身を隠す。
酒を回し飲みながら馬を引き、大きな声で下卑た話に笑い声をあげている。どの鞍にも反物や重そうなずだ袋がいくつも下がっていた。
元はいい品物であったろう衣を、諸肌脱ぎに着崩している。
腰に刀を差し、あるいは槍を天秤棒のように担いだ一団が夜の山道をぞろぞろと歩いてゆく。
山賊だ。
娘はやり過ごそうと息をひそめる。
その一団より、二人の下郎が離れ、こちらへ歩を進めてきた。 大層飲んでいるらしく、微風に乗って酒と獣じみた匂いが漂う。
それと、微かな血の臭い。
椿の木からほどなく離れた下生えの前で、小袴を解いて用を足している。その間も、山賊の一団は歩みを止めることなく遠ざかって行った。
このままやり過ごそう。
そう思っていた矢先、身を隠していた藪の中へ蛇が現れた。 娘の指先をかすって逃げていく。
たまらず声をあげ、しまったと思った時にはもう遅かった。腕をつかまれ乱暴に藪の中から引きずり出される。
突き殺そうと槍を構えていた男が、相手が娘だと分かり、いやらしい笑みを浮かべた。逃げようともがく娘の胸ぐらをつかんで引き寄せる。
「こいつは驚いた。この山にはずいぶん別嬪な狐がいやがるぜ」
「荷物なんて持っていやがらぁ」
娘の懐からお守りが零れ落ちた。
赤と青の二つのお守りに目を落とし、男の一人が笑い声をあげる。
「待ち合わせでもしてやがったか?」
「可哀想になぁ。置いて行かれたか?」
垢じみた手に掴まれて、胸の悪くなる臭いの息に娘は顔を歪める。寂しかっただろう、俺が慰めてやるなどと帯に手をかけられた。抵抗して手に噛みつくと、意識が飛びそうなほど殴られた。
ふと、虫の音が止み、不穏な気配が辺りへ寄せてきた。
下生えの陰、赤く光る双眸がひとつ、ふたつと増えていく。
娘の衿に手をかけ、着物をはだけさせようとするのを、すぐ近くでにやついて見ていた男がそれに気づいた。
「畜生。狼だ!」
地を這うようにいくつもの低いうなり声が、じわりと輪を詰めてくる。
山賊たちが振りまいた血の臭いに集まってきていたのだろう。
いつの間にか囲まれていたようだ。
放り出すようにはなされた娘は、荷物を包んだ風呂敷を抱きしめて椿の茂みへ背を寄せた。
あの人は大丈夫だろうか?
こんな状況においても尚、娘は愛しい男の身を案じた。
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