三花
微睡みのなか、人の声を聞いたように思う。
冷え冷えとした気配に目が覚めて半身を起こせば辺りが暗い。暗がりに慣れた目を凝らせば、焚き火が消えかかり、太一がそばで眠りこけている。
おやおやと、眉尻を下げた。
されど、すぐに側から異様な気配を察した。息を殺してうかがえば、見知らぬ女が与助の上に屈み込んでいるではないか。
様子がおかしい。
熾火に乾いた落ち葉を投げ込んで煽る。途端に燃え上がった炎は明るく辺りを照らしだした。
見知らぬ女は弾かれたように飛びすさり、炎の描く光の輪の外へ逃げ出した。振り向き様にこちらを睨み付ける。
その双眸が赤く燃えていた。
焚き火の勢いに炙られた太一が驚いて飛び起きる。なんだなんだと辺りを見回して女を見つけると声をあげた。
「何だありゃあ!?」
二人が起きると部が悪いと悟ったのであろう、女は夜陰に紛れるように逃げていった。
弥三郎が与助に駆け寄る。意識はなく、顔色が悪いものの暖かいし息はあるようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
何かおかしなことが起きたと様子から悟った太一が、心配そうに与助を揺すって起こそうとするが目覚めない。
弥三郎は、まだ状況の掴めていない太一に、今見たものを話して聞かせた。
「俺が眠りこけたばっかりに」
これで何度目のため息になるか。
与助を背負い、寺へと続く畦道を踏みしめながら太一が表情を曇らせる。
与助はあれ以来目を覚ますことはなく、こんこんと眠り続けていた。
布団の上に眠らせてあげたかったが、宿のものが気味悪がって首を縦に振らなかったのだ。
他の客もいるから勘弁してくれと。
さすがに店の主人も悪いと思ったのか、近くの寺を紹介してくれた。和尚なら、何か助ける方法を知っているかもしれない。太一と弥三郎は藁にもすがる思いで寺を目指した。
「大丈夫ですよ太一さん。与助さん、物の怪に当てられて悪い夢でも見ているんです。目さえ覚ましたらきっと元通りですよ。」
ずっと自分を責め続けている太一が気の毒で、弥三郎は励まさずにはいられなかった。
夕間暮れに差し掛かろうとする黄色い空のした。
長く延びた影を追うように先を急ぐ。
小柄な与助とはいえ、全く意識の無いものを背負うのはなかなか力が要るであろう。大変ではないか、そう思って弥三郎は交代を申し出るのだが、太一は代わろうとはしない。
償いのつもりなのだろうか。
寺の門前にたどり着いたのは、黄昏時に差し掛かる頃であった。宵の気配漂う臼闇のなか、石段を上がる太一を助けるため与助の背を押さえる。
見れば与助の僅かに開いた口が、ぼんやりとした光を含んでいた。怪しく思いじっと目を凝らす。
すると口の中より、黒くて細い糸のような足が、数本唇の上に掛かった。砂金粒のように光る一対の目が覗き、やがて触角の生えた頭を現す。
産毛におおわれた胸が見え、丸々とした腹を引き抜くように一匹の虫が姿を表した。花開くように畳んでいた羽が広がっていく。
掌ほどの大きな蝶が、蛍のように全身を燃え立たせ、陽炎のように儚く色彩を変化させながら与助の口の上でゆっくりと羽ばたいて見せる。
翼を動かす度に鱗粉のような微光が散った。
「太一さん、大変だ! 与助さんの口から蝶が這い出てきたよ」
余りの事に声を出すことも忘れていた。
一部始終を目にした弥三郎が、ようやく驚きの声をあげられた時。蝶は飛び立って二人の周りを旋回するように舞いだした。
太一がその場にしゃがんで与助を下ろす。
弥三郎が背を抱えるようにして与助の顔を覗けば、みるみるうちに血の気が退いていく。その息が止まった。
「与助さん!与助さん!」
弥三郎が慌てて与助を揺するも、息を吹き返す様子はない。それでも諦められず、頬を叩いたり呼び掛けたりを続けた。
「まさか、お前。あの蝶は」
鬼火のように揺らめきながら身をひるがえす蝶を見詰め、太一がかすれた囁き声をあげる。弥三郎が思わず太一の顔を見て、再び蝶に視線を移し、嫌な予感に眉根を寄せた。
蝶は旋回するのに飽きたのか、何かへ誘われるように、深みを増す暗がりを光の粉を散らしながら峠の方へ飛んでいく。太一がそれを追いかけて走り出した。
「太一さん! 峠に行っては駄目だ!」
「バカ野郎!連れ戻すんだよ! 見失ったら与助が......」
死んでしまうではないか。
恐ろしくて言えなかったのだろう。与助を頼むと言い捨てて光を頼りに暗がりの中へ走り去っていった。
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