一花
峠近くの茶屋で、年若い旅人が休憩をとっている。その隣で、たまたま相席になった男二人が茶屋の親爺ともめていた。
「お客さん悪いことは言わねぇ。今日峠越えをするのは止しときなよ。宿をとって、明日陽のあるうちに越えたらいい」
「商売上手もいいがね。俺たち急いでいるんだよ。明日には山のあちら側にいたいのさ」
なおも引き留めようとする親爺に、ちゃんとした理由があるなら話せ、無いならもう行くぜと、男は機嫌を損ねて言い捨てた。親爺は腰掛けから立ち上がろうとする、せっかちな男の袖をつかんで慌てている。
「いけねぇいけねぇ! この山には化け物が出るんだよ」
物騒なものいいに男も動きを止める。
若い旅人も耳をそばだてた。
彼も夜に峠を越えようと思っていたからである。
この山を夜中に越えようとすると、必ず化け物が現れて魂を食らうというのだ。それゆえ、陽の射さないあいだは、地元のものさえ山には足を踏み入れないという。もう何人も帰って来ないものがいると、怯えた顔の親爺は言った。
それなのに、男は
「そんなよた
と聞く耳を持とうとしなかった。
「おい、兄さん」
若い旅人は突然声をかけられて驚いた。
「さっきから話に耳を傾けて居るようだが、あんたも山を越えようと思っていたのかい?」
「えぇ、できればそうしたいと」
「じゃあ、俺達と一緒に行かねぇか? 人数いりゃあ化け物も遠慮して襲って来やしねぇだろう」
親爺は旅人を引き留められないと諦めたのか、用心することをいくつか教えてくれた。もし、山中で夜を明かすことに成ったら、次の三つを守れと言う。
火を絶やしてはならない。
眠ってもならない。
そして、花の咲く樹に決して近寄ってはならない。
三つ目の注意点に首をかしげると、親爺も年寄りの言うことなので意味までは知らないと言う。
「でもお前さま方、これを守って逃げて来られた者がいるから伝わっている話だよ。馬鹿にしないで守っておくれね」
そう言うと店の奥に引っ込んでしまった。
姿が見えなくなるのを待って、男が忌々しそうに舌打ちした。
「ちぇっ、縁起の悪いことを言い出す爺だぜ。まぁ、いいさ。ところでお前さん、さっきの話だが、俺達と行くかい? それとも行かねぇのかい?」
男の勢いに負ける形で、若い旅人も共に行くことになった。特に先を急ぐわけではなかったが、好奇心を
そう来なくちゃと、上機嫌に戻った男が名乗る。
「俺は
よく喋る男の隣で、いまだ一言も発せず茶をすすっていた男が若い旅人に会釈する。一言も喋らないのもその筈で、与助は口が利けないらしい。太一とは対称的なのんびりと物静かな男だった。
「
「おう、これからよろしくな。旅は道連れって言うじゃないか。仲良くやろうぜ」
頭を下げる弥三郎の肩を、太一は親しみを込めてぽんぽんと叩いた。与助がにっこりと笑う。この二人とは仲良くなれそうな気がした。
峠に続く道を登りながら、太一と弥三郎は自分達が旅してきた国の話に花を咲かせた。
太一はせっかちだが、からっとした面倒見のよい男だった。
やがて故郷の話になり、峠へ差し掛かる頃には、身の上話をするほどに--とは言え
太一は子供の頃、大火事で焼け出されて両親を無くし、天涯孤独になってしまったそうだ。
遠い親戚に引き取られたものの、すぐ奉公に出され、引き取られた先の商家で与助に出会ったらしい。彼も同じ火事で家族を失い、太一と同じ身の上だった。
覚えがよく賢かった与助は、主人に可愛がられた。しかし、その事が災いして妬まれることが多く。奉公人の間で苛められていたらしい。
理不尽な目に遭っていても、火事で煙に巻かれたときに声を失ってしまった彼は訴え出ることも出来ず、黙って耐えるより他なかった。
ある日、太一の隣の膳に墨がぶちまけられていた。与助の膳だった。
食べ物にまで手を出す卑怯なやり方を目の当たりにして、たいそう太一は腹が立った。曲がったことは大嫌いだ。腕っぷしの強かった太一は、性根を叩き直すとばかりに主犯をぶちのめしてしまった。
喧嘩をしたと店の手代に叱られ、裏庭へ出されてしまった。腹は情けなく空腹を訴えていたが、後悔はしなかった。そのあとこっそりと与助が握り飯を持ってきてくれた。
それ以来お互い似た境遇から、何かある度かばいあうようになり。正反対の性格ながらも馬があった二人は、すぐに義兄弟と呼ぶまでなったそうだ。
今は、主人から申し付けられた用事を済ませた帰りであるらしい。
峠の道が下りに差し掛かろうと言う頃、とっぷりと日が暮れてしまった。
辺りが暗闇に閉ざされると道を辿ることすら難しくなる。
月明かりを当てにしていたのだが今宵は朔だった。道を見失いすっかり迷うよりはと、先を急ぐことを諦め火を焚いて夜を明かすことにした。
化け物が出るかは疑わしかったが、獣が出たら敵わない。
代わる代わる交代で火の番をして眠り、朝まで待つことにした。
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