椿女
縹 イチロ
序文
訪れることすら困難な山奥だ。
その断崖の谷間に、椿の巨木が生えている。
空を覆うように枝葉を伸ばし、繁らせ、咲き誇る花でその身を紅に霞ませていた。ポツリポツリと落ちる花が、岩ばかり転がる枯山水のような谷間に赤い川を描く。
その椿の花を見上げ、圧倒的な存在感に畏怖の念すら覚えながら佇む僧がいた。
「そのように睨まれますな。樹が怯えます」
いつの間にやら翁がそばに来て、共に樹木を見上げていた。
人がいることに少し驚いたが、これほど見事な椿なのだ、見物に来る者がいてもおかしくはないと思い直した。
「これは申し訳ない。余りに見事な樹だったので魅入ってしまいました」
翁は嬉しそうに笑うと
「お坊様のように若い方に褒められて、樹も喜んでおりましょう」
と、満足気に言った。
幹を撫で、なぁと同意を求めるように声をかけている。
長く共にいた連れ添いに、声をかけるような親しみの滲む姿だ。
「これとは長い付き合いなのですよ」
「近くにお住まいですか?」
「ずうっとここに住んでおりますよ」
夕方にはまだ遠いものの、今から山を降りていたのではすぐ夜になってしまう。野宿を覚悟していた僧に、翁が一晩の宿を申し出てくれた。
住まいは離れた場所にあるのかと思いきや。
巨樹の幹の裏、根本に懐かれるように粗末な小屋が建っていた。
「狭い小屋ですが雨風を凌ぐには不自由しません。良ければどうぞ泊まって下され」
旅の話も聞きたいからと、引き留める翁の好意に甘え、その日は泊まらせてもらうことにした。
雑穀と山菜で作られた粥を振る舞われ、僧は少しでも恩返しをしたいと、乞われるまま旅で行き合った人や出来事を話して聞かせる。翁はたいそう喜んで、興味深く話に耳を傾けていた。
小休止、囲炉裏の柔らかな火色を眺め一心地ついている。
ふと、僧が翁に会った時から抱いていた疑問をぶつけてみる。
「ご老体は、何故このように寂しい所で一人暮らしているのですか?」
ただ笑い、翁はそれには答えずに、代わりとでも言うようにこんな事を呟くように言った。
「長いこと生きとりますと、不思議な話を耳にする機会もございます。お礼と言うのもなんですが、一つご披露致しましょう。」
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