05お眠り目が覚めるまで
いったいどれくらい走っているのだろうかと朔利は思案する。朱理とは足の長さも持久力も違う。ましてしかも会話もしているものなので、余計に酸素を使う。それに加えて結構な速さで走っているのだ。彼はもう少しです、と朔利の疲労を感じ取ったのかそう呟いた。
「これから、何を!」
「わたしが迎え討ちます。その間にあなたは逃げてください」
走っている速度が徐々にゆっくりになる。止まったところで、朱理はここですと扉を指さした。錆びれた金属の扉。赤茶色の塗装がぼろぼろになってところどころ剥げている。
彼は鍵束を白衣の内側から取り出して、迷いなくひとつの鍵を差し込む。重厚な音が辺りに響いて扉が開く。どうぞ、と先に入るように促され、足を踏み入れると鼻にツンとするようなカビの匂いがした。その匂いが目にまで伝わってくるようで思わず目を細める。見たところ、様々なものを保管する蔵のように見えた。
「あそこに立てかけられた鏡があるでしょう。あなたはそこから逃げてください」
「鏡から? どうやって」
「こちらへ来たときと同じようにすれば。少し異なるのは行きたい場所をよく思い出すことだけです。もう外は随分と暗くなっているでしょうから、あなたのお部屋を思い浮かべるといいでしょう。カーテンの色は何色ですか?」
朔利が黄緑色、と答えれば、矢継ぎ早にそもそも姿鏡のような大きな鏡があるか、窓はいくつか、というような簡単な質問が何個か投げかけられる。それに私は順当に答えると、彼は大丈夫そうですね、と優しい声音で語り掛ける。
「想像して、瀬川さん。あなたが次に居るのは、あなた自身のお部屋です。それと、こちらの本を忘れずに」
朱理が朔利に古めかしい本を手渡す。よく分からない、筆記体のような文字が表紙に金色で印字してある。見た目よりもずっと軽く感じられた。朔利がいったいこれは何なのかと彼に問えば、ヤオシーの本体です、と答えた。朔利の耳元で、ヤオシーがしっかり持っていてね、と囁く。
先ほどよりも地鳴りの音が大きく聞こえた。床に伝わる振動も大きい。部屋の整然と棚に並べてある瓶や本と言ったものたちが、音と共にわずかに跳ねて微小な埃をまき散らす。
「でも狙われているって、帰っても危険なんですよね?」
「ええ、ですが私も、ここであなたを庇いながら向こうを相手にできそうにないのです。ですから、近いうちにまた迎えに参ります。その時までこの本を大事に持っているように。それと不用意に人気が少ない道や怪しげな人に近づかないようにしてください」
「そんなこと言われても、」
朔利には、いきなりこんな風に変なものに追い掛け回されて命が狙われるようになったのも、それがこの本に宿る付喪神のせいだということも、なんだか酷く実感が湧かないのだ。自分の命さえ危ぶまれるというのに、どこかで朱理の話を夢うつつだと思ってしまう。蒙昧、曖昧、言葉にすればまさにそれだった。それはきっと、この状況の雰囲気がいつも眠っている間に見ている夢に酷似しているからだ。自分で考えて、行動できるのも今までの夢とまるで同じ。どんなに恐ろしい体験を夢でしても、夢から覚めれば自身は普通の高校生で、似通ったつまらない毎日を送っている。時間が経てばそんな夢などすっかり忘れて、日常へと埋没するのだ。きっとこのことだって二、三日経てば忘れてしまう。心の奥で冷え切った自分が囁いている。これはきっと、自分が生み出した妄想に過ぎないのだと、そう朔利は思った。
一定の間隔で地面を揺るがしていた轟音がぴたりと止まる。よろしいですか、朱理が朔利の肩をしかと掴んで放った言葉がより鮮明に耳に届く。
「あなたしかいないのです。ヤオシーの宿主になれるのはあなただけ。あなただけが、頼みの綱なのです」
必ずお迎えに参ります。朱理はそう言って、姿鏡を指した。ヤオシーが早く行こう、と朔利の引っ張れもしない袖を引っ張って急かした。それに連れられて、朔利は鏡の前に立った。先ほど見た鏡とよく似ている、朔利よりも随分と大きい鏡だ。困惑した表情の自身と、浮遊しているヤオシーが映る。それにどうしろ、と彼女を見上げれば触れればいいの、と一点張りで、朔利はようやく決心を固めて鏡に触れた。
にゅっと指先が鏡の中に入り込む。入った指先から同心円状に波が広がって、鏡の中に入った部位に関しては感覚が無かった。どんどん引き込まれていく。それに驚いて声を上げる。
「時任さ……!」
「そのまま、あなたの部屋を思い浮かべて。そうすれば戻れますよ」
「ちが、……!」
硬い金属製の扉が軋み始め、ぐにゃりと曲がっていく。その隙間からは黒い毛むくじゃらの何本もの足が見える。それにぱくぱくと口を動かすと、ご心配なさらずに、と朱理は言うだけだった。
「あんなのに一人で、無理で……!」
「大丈夫よ、朱理くん腕が立つから」
「あんな化けも、ッ!」
あんな化け物相手に、無理に決まっている、そう吐き出そうとした言葉が言葉にならないままだ。既に顔の半分が鏡の中に飲み込まれ、言葉が紡ぎだせなかったのだ。鏡の内部で、こぽりこぽりと吐き出した息が泡になって上っていく。息が苦しくて朔利は、喉を掴んだ。そうだ、自分の部屋、思い浮かべなきゃ、酸欠でぼんやりとした思考の中で必死に思い浮かべる。
またお会いしましょう、ずっと遠くで朱理の柔らかな声音が聞こえた気がした。
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