02鏡の向こう側
鏡を通り抜けた先にあったのは、見る限り特別とは露にも思えない、普通と言われれば首を傾げてしまうかもしれないが、一般的な家の中だった。
二階の大部分は吹き抜け。ほわほわとした光を放つランプが上の梁から二、三個垂れ下がっている。床、壁ともに木目模様がくっきりと見える。ただかなりの年月を経ているようで、くすんだ色合いをしていた。
いったいさっきのは何だったのだろうと、半ばぼんやりする。がさがさと動く無数の足と、鋭い牙が生える口からは赤い舌がちろちろと出ていた。あれから食べられたらどうしていたんだろう、そう思うと朔利の背筋がぶるっと震える。
「――先ほどのようなことは、初めてですか?」
「え、えっとはい」
「驚いてしまうのも無理はありません。あれは明らかにこちらに悪意のあるものでしたから」
いやそういうことじゃないと思うんだけれども、朔利はその言葉をぐっと飲み込んだ。
恐ろしい、そう思うと同時に予想以上に冷静になっている自分に朔利は少し驚いている。おそらく、あれが本当に現実で起こったことであると脳が信じていないのだった。
朔利はぎこちなく自身の手に視線を遣る。いまだ小刻みに震えていた。
「タオルをお持ちしましょう。あとは温かいお茶も。ハーブティーはお好きですか?」
「あ、はい、大丈夫です。あの、お気遣いなく……」
「いえいえ」
彼は部屋の奥へと向かう。縦に長い部屋のようだ。奥からキッチン、ダイニングテーブル、ソファとローテーブル、そして朔利が今居る、鏡やおそらく外に繋がる扉がある場所。彼は朔利にこちらです、と誘導して、奥のダイニングテーブルに座らせた。白いタオルを肩の部分にかける。
「すみません……」
「いえ、こちらの不手際もありますから。こちらこそ申し訳ございません……。せっかく新しい制服なのに、もしかしたらクリーニングが必要になるかも……」
そのタオルでその粘性の高い液体を拭きとろうとして、こすりつけると、ねばあと糸を引いたのが横目で見えて、思わず全身の毛と言う毛が逆立つ。ムカデの唾液……、朔利はぞわぞわと背中に這い上がってくる悪寒を無視して、作り笑いを浮かべる。
「だ、大丈夫です、もうすぐで衣替えの時期でクリーニングに出すので……」
彼がティーポットと二つカップを手に持って向かって来る。小花柄の趣味の良いティーカップだ。それを二つのカップに順繰りに注いでいく。爽やかなミントの匂いがあたりに漂う。温かいそれを彼にどうぞ、と勧められる。温くて、ちょうどいい温度。それに口をつけると、今まで緊張ですっかり乾いていた喉が潤されていく。茶葉が美味しいのか彼の腕がいいのか、朔利にはどちらかが分からなかったが、とても美味しくて今まで飲んだお茶はいったい何だったんだろうと思うぐらい衝撃的だった。
確か貰ったお菓子もあったような、とぽつりと呟いた彼が席を立つ。
「あの、本当にお構いなく……」
「わたしひとりでとても食べきれませんから。食べていただければ非常に助かります」
にこり、と彼が微笑んで、クッキーやマフィンが乗ったお皿をことりと机の上に置いた。遠慮ができない。ああなんかずるいなあ、と朔利は思いながらいただきますとクッキーを手に取る。さくさくとした食感で、バターがよくきいていておいしいクッキーだ。こんな意味の分からない状況なのにもう一枚と手を伸ばしそうになってしまう。彼はそんな朔利の様子に気が付いたのか、くすりと笑いながら、ご遠慮せずにお好きなだけどうぞと言う。
「いや、あの、クッキーが本当においしいんですけどそうじゃなくて。いったいなんなんです、さっきのムカデみたいなの。いきなり怪物が現れて、それであなたが私を助けてくれた。まるで私が困っているのをすぐ近くで見ていたみたい。スパイ映画もびっくりじゃないです?」
「トム・クルーズですか? 確かに彼の映画の、ピンチを華麗に助けてくれる味方は最高だと思いますが。どちらかと言うと、今のあなたの状態は、選ばれた男の子、いや女性なので、選ばれた女の子という感じですね」
「ダニエル・ラドクリフの?」
「ええ、そうです」
どうやらこの青年、見目が良いだけではなくて、頭もよく回るようだ。
息を大きく吐いて、心を落ち着かせる。彼が申し遅れました、と白衣の胸ポケットから名刺入れを取り出す。そこから名刺を取り出して、机の上を滑らせた。
「時任朱理(ときとうしゅり)と申します。建前としては雑貨屋の経営を。裏といいますか、本当のところは色々と。付喪神の宿主を探したり、付喪神を破壊したり、漏れ出てしまった世界を少し整理したり。面倒なのでティーカー、と」
「瀬川朔利です。あの、少し失礼なことかもしれないんですけど、お伺いして大丈夫ですか?」
「ええ、どうぞ」
「あの、頭大丈夫です?」
「今の若い女性がよく使う、”それな”状態ですが、私はいたって正気です」
「そうですか」
朔利はとても頭がおかしい人に助けられたのでは、と内心冷汗たらたらだった。朱理の言った前半の雑貨屋までは理解できた。ただそれ以降のことは、まるでおとぎ話や昔話の類である。しかし目の前の青年、――朱理は冷静さを欠いているようには見えなかった。
彼はティーカップに口をつけ、一口飲むとことりとカップを置く。
「先ほどの選ばれた女の子、云々ですが、あれは瀬川さんが夢で真名の交換をしたのが始まりです。ついでに申しますが、あのムカデに襲われたのもそれが原因です」
「まじですか」
「ええ、”まじ”にございます」
平然な顔をして言うのだから、人が悪い。
朔利は眠っている最中によく夢を見る。その夢の中で朔利は、他人に関わりを持てない代わりなのかよく分からないが、自分で思考し行動することができる。今日の現代文の授業で見た夢はかなりイレギュラーなもので、普段は夢の中での人物に触れることはもちろん話すことすらできないというのに、それが出来た。朱理とぶつかって、尻餅をつきそうになった。
「ヤオシー、黙っていないでこちらに」
「はあい」
にょき、と朔利の真横から顔を出したのは、さきほど見た少女だ。こげ茶の髪の毛に好奇心の強そうなヘーゼルの瞳。靴は床から十何センチか浮いていて、それは彼女がこの世の人間では無いことの証明となった。
「やっほー、さくりん、さっきぶり! 元気にしてた?」
「……殺されそうになったけど、今は元気です」
「うわあ、とげのある言い方―! ごめんね、まさかこんなに早く身に危険が及ぶようなことが起きると思わなくて、とりあえず朱理くんお手製のクッキーとマフィン諸々食べて元気だそ? ね?」
「え、これさっき貰い物って、」
「さっき黙々と焼いてたもんね? たぶんさくりん来るからはりきって、――」
「ヤオシー!」
「はーい、お口チャックしますー」
ヤオシーに触れられるはずがないのに、朱理はヤオシーの口を手で押さえようとした。顔が少し赤みを帯びている、どうやら暴露されたことが恥ずかしかったようだ。
「すみません、お客さまをお呼びするのが久しぶりで、とても嬉しくて、遠慮せずに食べていただきたくて、あんな嘘を……」
「いえ、とてもおいしかったので……」
「クッキー焼いてたらさくりん助けるの遅れたなんて、口が裂けても言えな、」
「ヤオシー!」
今度こそ朱理のげんこつがヤオシーに落ちてきそうだ。年の離れた、少しお茶目な妹と手を焼く兄のような二人で微笑ましい。クッキーを焼いていて朔利が死にかけたのは、まったくもって微笑ましくもなんともないのだが。
彼がごほん、と見え透いた咳ばらいをする。
「本題に移りましょう。瀬川さんがあのような生物に狙われ始めたのは、ヤオシーの宿主となったからです。ヤオシーは末席ではありますが、付喪神と言われる、長く存在したもの、人から愛されたものに宿る神です。こういった付喪神には特殊能力が付与することがあります。彼らはそれを狙っているのかと」
「色々とお伺いしたいことが色々あるのですが、彼ら?」
「付喪神の蒐集、というより強奪ですね。それを行い、付喪神の意志に寄らない宿主の選定をする集団のことです」
「それの何がいけないんですか」
「別に悪くは無いんだけど、その先で何をしているかって話」
ヤオシーが朔利の肩に肘を乗せて、つまらなそうに髪の毛の先を弄ぶ。憂いを帯びた表情。その中でばちりと目が合って、例えば、と唇に手を添えながらこう尋ねる。特殊な能力は宿主たる人間を介して現世へと顕現する。彼らが様々な付喪神を集めているとして、もちろん能力を持った付喪神も居る。中には危険な能力を持つ付喪神も居るかも、宿主にさせてどうするの? こんな面倒なこと慈善目的だけでしないでしょ。
答えを導き出すことができない。黙りこくっていると、朱理がその後を繋ぐようにこう切り出した。
「力を持つ集団は、その集団が内包する人間の数が多いほど、社会的地位は優位に。やがて権力をも振りかざすようになる」
「つまり、?」
「歴史上、国家を転覆させるのはそういう集団だということです。残念ながら」
「まさか。私、今までそんな付喪神なんて聞いたことが無いし、今はどこもかしこもで戦争が行われてる昔とは違うんですよ? だって、そんなこと」
「ここでは無くて、違う世界だと言ったら?」
「頭大丈夫です?」
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