一章:赤い選定者≪ティーカー≫
01ムカデ
ねえあの、更衣室までお供してくれません? どうして。いやあ、シャーペン忘れちゃって。嫌よ、あんな暗い所。そこを何とか! シャーペン一本無くたって勉強できるでしょ、しかも今日そこらへん練習に使うバスケ部休みよね? あれが無いと一気に戦意が消失するんだよ……。……今日は茶道のお稽古あるから帰ります、また明日ね。
「あんの薄情者……!」
案の定更衣室に続く廊下には人っ子一人いない。時刻はまだ六時前だというのにこの場所が暗いのは、この場所が半地下に位置しているからである。今は点滅する頼りない蛍光灯が導いてくれているが、これが消えるのも時間の問題だ。昔からホラー物が苦手なすずは、朔利の懇願を聞き入れることなく足早に去ってしまった。
朔利が通う桐城東高等学校は旧校舎が未だに使われ続けている。五年ほど前に大規模な建て直しをしたが、体育館と更衣室、技能教科の教室が集まる校舎は比較的新しく建てられているものであることから、取り残すことに決めたらしい。今では新校舎と旧校舎は渡り廊下によって繋がれている。しかし比較的新しいといってもゆうに二十年ほどは経っているのだろう。塗装が禿げ、コンクリートがむき出しになったその壁が年代を感じさせる。新校舎の陰になった旧校舎は大体の場所が日当たりも悪く風通しも悪いため、生徒からの評判も悪いのだ。それに更に悪評を追加させるのは、更衣室までの道のりにある大きな姿見の存在である。繊細な装飾が縁に施され、人ひとり分より大きい鏡。学校の教師ですら誰も、それがいつからあるか知り得ないのだ。しかもそれには左横斜めに大きな一本線があり割れている。薄暗い場所に、しかも誰にもよく手入れされることなく佇むそれは生徒たちの中で曰く憑きのものとして認識されているのだ。丑三つ時に目を合わせると知らない女が映っているだとか、合わせ鏡をすると精神的におかしくなってしまうだとか、そんな眉唾物の噂が学校内を闊歩していた。
「ああもうさっさと帰って宿題しよう……」
その鏡を通り過ぎ、更衣室の扉を開けた朔利は廊下から漏れ出る光を目印に昼にロッカーに忘れたはずのシャーペンを見つける。良かった、と制服のポケットの中に入れた。あとはもうあの気味の悪い廊下を抜けて地上に抜けるだけである。しっかりとドアを閉めて更衣室を後にする。
未だ点滅する蛍光灯を通り過ぎ、例の鏡が近づいてきた。できるだけ目をそらしながら、すずを馬鹿にしておきながら自分も恐ろしく感じているのだ。人のことも言えない、とは思う。明るい場所であったら心霊的な恐ろしさは感じない朔利だが、都合よく電灯が消えるわけがない、そう内心思った瞬間遠くからパチンとスイッチを押す音が反響した。事務員の人が誰も居ないと見当づけて明かりを消したに違いなかった。急激に暗くなった視界に悪態をつく。一番嫌なところで電気が消えてしまった。
「もう勘弁してよ……」
バレーボールやらグローブが積みあがっていない側の壁に手を沿えながら、ゆっくりと前進する。この暗い校舎が今以上に恨めしく思えることは無い。指が壁では無い凹凸のあるものに触れる。ひんやりとした金属を触れる。例の鏡だ。
俯きながらそこを突破しようとすれば、ぱきんと小さく何かが割れる音がした。今まで自身の心臓が鳴る音以外聞こえなかった空間に、その異質な音が響いたことに肩を震わせた。露骨に驚いてしまう。次に背後の積みあがったボールらしき物が一つ、二つと崩れる音。朔利はギュッと目を閉じてゆっくり、その場から引くように歩く。
「……ひっ」
カツン、とつま先が何かに当たった。固い、けれどそれは表面上だけの固さで中身は弾力性があるような。例えるのならカブトムシだ。カサカサと地面に擦り付けている音も聞こえる。うなじのあたりには生暖かい吐息のようなものが当たる。幽霊がまさか温かいはずがない。朔利は事務員さんが居るのかな、と思い目を開けた。
鏡には頭からつま先まで自身の横姿が見える。スカートの丈が長く、また新品の制服のせいで着られている感が否めない姿だ。そしてその背後には、闇と同化する大きな黒の毛むくじゃらが居た。視線が交わる。獰猛そうな赤い目のような機関、足は数えられないほど多い。くねくねと身を泳がせるその姿は百足を想像させた。頭からは長細い触角のようなもの、大きく開いた口からは鋭く尖った歯がずらりと並んでいる。
ぽたり、と朔利の肩に液体が落ちる。それは続々と、降りかかってくる。粘度が高い、そう例えるならば唾液だ。それが肩を通り越し胸の辺りまで零れるのを見たとき、固まった。生温かい息が全身を包む。口の中の赤い肉が眼前に現れる。あまりの悍ましさに、恐ろしさに体が言うことを聞かない。喉が引きつる。叫び声をあげることすらままならない。動かなければ食われる、そんなことは分かりきっている。ムカデはそんな朔利を嘲笑うかのように時間を掛けて朔利を口の中に収めてゆく。ああ死ぬな、そう直感した。
「――だからお待ちくださいと言ったでしょう」
聞き覚えのあるテノールが朔利の耳の横を掠める。
彼は何か柔らかい物体から突き破るかのように鏡から飛び出したかと思えば、朔利のすっかり固まってしまっていた腕を強引に引っ張り中へと引きずり込む。入り込んだ指が感じたのは液体の感触だ。触れた場所から同心円を描いて鏡上に広がる波。温かさや冷たさは感じなかった。ただただ心地よいぬるま湯の中に入っていく感覚が入りこんだ部分から伝わってくる。瞬間がちん、と歯の合わさる音が頭の後ろを駆け抜ける。鏡の中に入っていく朔利たちの姿を見て怪物はまるで悔しがっているかのように低い咆哮を発していた。
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