序章:賽は投げられた
何かを探しているのかもしれないと思っていた。
その何か、が何なのかてんで想像がつかない。そしてその何かが、砂漠の中から砂金を探すような不可能じみたものであるかもしれないと朔利は薄々感じていた。
「……またかあ」
目の前に広がるのは夢の世界。地に足が着いている感覚も、鼻腔をくすぐる肉の焼けた香ばしい匂いも、全てが現実世界と遜色なく感じるが、全てが幻であることを朔利は理解していた。
なぜただ単に夢の世界であるということを断言できるのか。それはこういった場所に自身が居る時は、必ず現実世界で眠っているときであり、そしてその世界はおおよそ奇々怪々だからだ。一面が緑色に塗られた世界、鏡張りの街、そして自動車が飛ぶ街、月が接近した世界、これらだけでなく朔利は色々な世界を夢を通して見ているが、それは自身が生み出した妄想に過ぎないのだと半ば飽き飽きとしていた。
意識があった最後に時計を見たのは、午後二時半であったはずだ。ちょうど食べたお昼ご飯を消化し始めて、血糖値が上がる時分。周りの生徒もうつらうつらと船を漕ぐ現代文の授業。おじいちゃん先生の眠気を誘う評論の朗読を聴いて居たが、耐えかねて瞼が落ちたのだった。現実世界の自分の身体は、おそらく首を落としてうたた寝をしているか、それとも完全に伏せって仮眠ならぬ本眠をしているかのどちらかである。朔利は心の中で、先生に気付かれないことを願い、先生の授業で眠ってしまったことを謝っておいた。
そのまま棒のように突っ立っているのも癪なので、こういった夢を見る時はいつも、朔利はその近辺を歩き回ることにしていた。
「おねーさん、スカート捲れそうだよ。お兄さん、お皿落ちそうだよ」
思わず手を伸ばそうとするが、夢の世界では自身は一切他に干渉できないことを思い出した。手足は朔利自身から見ても半透明で、試しに客寄せをしている女性のスカートを直そうと手を伸ばすが、すかっと空を切るだけだ。やんちゃそうな男の子の声が後ろから聞こえて、思わず端に寄ろうとするが、その子供もするりと朔利の身体を抜けていった。
「ほんと困ったなあ、すぐ覚めるといいんだけど……」
アラビア文字にも似たくねくねとした文字で描かれた看板。道路は舗装されていないために埃立っている。少し偉そうにめかしこんだ人が乗る馬車にも似た乗り物。それの前に繋がれているのは明らかに馬ではない。馬に似ているが、その背にはふさふさとした羽が付いているのだ。その生き物が朔利すぐの目の前を通り過ぎる。それをほおっとした顔で眺めていると、パンがたくさん入った紙袋を両手に抱えた男の子が道の真ん中を走っていく。麻のような素材のトップスにボトムの裾はがっしりとした造りの革靴の中に収められている。よく見れば通りがかる人の大半がそのような格好だった。乾燥している気候だからか、それともこういった服飾文化なのか。
木造の建物が軒を連ねる。どれもが店のようで、朔利が立っているこの場所はどうやら大きな通りであるらしい。店先からは肉や魚を焼いた良い匂いや眠気を誘うような香のにおいが鼻先に漂う。店の外で客を呼び込む着飾った娘たちの様子を眺めながら、店内の様子を覗えば見知らぬ料理を食す人の姿や、物を持ちながら怒鳴る人、ビールのような飲み物を楽しげに呷る人、様々な人の姿がうかがえた。今日も妙な世界に来てしまったと、朔利はそう思いながら横目で覗き見ていると、どん、と何かにぶつかる。
「えっ、あ、すみません!」
「いえ、こちらこそ不注意で……」
尻餅をつきそうになったが、体勢を整えてそのぶつかった人を見上げる。黒い髪の毛、赤みがかったアーモンド形の瞳、すらりとした体躯。なかなかの好青年だ。なぜ白衣らしき衣服を着ているのかは謎だが、その中に見える灰色のベストやスラックスは趣味が良かった。それにしてもここに居る人たちは皆、西洋風のくっきりとした顔立ちをしているのに、どうしてこの人だけ日本人のような顔をしているのだろう。それに、どうして自身に触れることができたのか、朔利は今の身体が通り抜け出来る身体であることを思い、不思議そうに彼を眺めた。
その不可解さに眉根を寄せながら、彼とぶつかったときに彼が落としたであろう一冊の本を手に取った。あ、すみません!、と焦ったような彼の声が聞こえる。その瞬間、本が仄かに青色の光に包まれた。え、と驚いてその本を手放しそうになると、彼が間一髪拾い上げる。顔を見れば少し困ったような表情をしていた。
「あー、朱理(しゅり)くん、あたしの本体触らせたな!」
「それに気が付いたなら、あなたも出てこないでくださいよ……」
突然、目の前にひょこりと女の子が飛び出した。青年の後ろから顔を覗かせた彼女を不可解な気持ちで見つめる。さっきまで気配すら無かったのに、いったいどこから現れたんだ、とその姿を上から下までじっくりと眺めた。こげ茶色の髪の毛は長く、大きな何色にも変化するヘーゼルの瞳が興味津々にこちらを向いている。ふわふわとしたチョコレート色のワンピースに低めのリボンが可愛らしいパンプスが、よく見れば浮いていて朔利は思わず狼狽えた。
「うわあああ!」
「あれ気がついちゃった? んふふ、可愛い反応!」
腰を抜かして地べたに座り込む。彼女は浮いていた。地面から何センチか、それに引っ付く影もないのだ。朔利は超常現象的なものに生まれて初めて出会ってしまった、と口をぱくぱくとさせた。
くるん、と一回りをした彼女の口元はにんまりと緩められている。彼女がすいっと朔利の顔に近づいて、気に入っちゃった、と独りごちる。
「ねえあなた、名前は? あたしはね、ヤオシーって言うの。よろしくね」
何がよろしくだ、私はその得体のしれない彼女から目を反らそうとするが、彼女がそれを許してくれない。好奇心旺盛な瞳が私をずっと見返してくる。青年がヤオシー!、と制するように声を上げるが私はその目に若干諦めて、自身の名前を告げる。瀬川朔利(せがわさくり)、そう告げれば彼女の瞳が華やいで、触れられないだろう朔利の手をむんずと掴んだ。もちろんその手は空を切るのだが、手と手が触れた瞬間、ふわりと淡い青白い光が手元を包む。
「ヤオシー、何を考えているのです。彼女は普通の人間です。魔法を扱う才も無ければ、剣を扱う才もない。そんな方を危険に晒すなんて、目に余る行為ですよ。私とて管理に困ります」
「だってあたしもう朱理くんの持ち物じゃないもん! 今はさくりんが宿主!」
「彼女が立派な宿主となるまでその面倒を見るのは私です。見たところ夢を跨ぐ能力はあるようですが、それ以外は……」
「朱理くんだってあたしの処遇を考えあぐねてたくせに! ね、さくりん、これからあたしたちどんなことがあってもうまくやっていけるよね!」
「え?」
ずっと頭上で他人事のように会話されていたのでよもや自分のことだとは思わなかった。再度二人の顔を見れば、青年の方はご愁傷さまですとでも言ったような表情で、少女の方は目をきらきらさせて幸せそうな表情で、素っ頓狂な声を上げた朔利を見ている。
宿主、夢を跨ぐ、どちらも聞いたことがない言葉だ。宿主の方はともかくとして、夢を跨ぐというのは何となく理解できた。朔利自身、自分が眠っている最中に現実世界ともつかないリアルな世界の夢を見ることがよくあるのだ。今回のようなファンタジー全開の世界のこともあれば、自然の中で一人ぽつんと取り残される世界、鏡で覆われた世界、視界に入るものがすべて緑色の世界。いろいろな世界に跨いだことがある朔利だが、こうやって人に話しかけられることは初めてだった。
「そんな、困ります。私あなたのことよく知らないし、しかも突然言われても」
「え~、だってもう名前の交換しちゃったし」
「名前の交換……?」
「そ、真名――真の名前って意味ね。主に両親から名づけられた名前のことだけど、それには呪術的な力がある。その名前を知られることは相手に命を明け渡すも同然の行為よ。現にあたしは今、さくりんの魂を少しだけど縛ってるもの」
彼女が朔利の胸元に目線を遣る。ブレザーの胸元、首元のリボンを除けながら心臓付近を見れば、そこがわずかに青白く発光していた。何も身体的不調は感じなかった。思わず目を見開いて口をパクパクしていれば、青年の方からため息と、その少女に対しての鉄拳が下される。もちろんそれは通り抜けるけれど、彼女はいったーいと声を上げた。彼は膝を折り、朔利に視線を合わせる。
「すみません、瀬川さん。このヤオシー、私としても少々処遇を考えあぐねていて。もともと付喪神は人から認知されることで姿かたちを保つことができるのです。いわば信仰を集めることで、ということですね。それが無くなった者は、存在がこの世界から消えてしまう。ヤオシーはその特異性から、大っぴらには出来ないものでして。宿主を探していたのです。長らく信仰が無くとも、宿主が一人いればその姿は保たれます。今までその適任者がおらず、今日お会いした方も……」
魂が縛られているってどういうことだ。心臓の動悸が激しい。命を明け渡すのも同意の行為、そう彼女は言ったけれど。魂を彼女に縛られている、つまり彼女に命を預けているということなのか。
乾いた声で笑いそうになる。これは夢だ、ただの夢に違いない。全て自分の頭の中が生み出したただの想像だ。いつもと違う展開になってしまったのも、自身の頭が作り出しているだけなのだ。ただの夢なのに、私はどうしてこんなことで躍起にならなくてはならないのだろう、と朔利は心の中で思った。彼の話すことがどこか遠くで聞こえていることのようだった。
朔利は地面に付いた手に力を込める。ずる、と彼と少し距離を取るために後ろへ。少し勘付いた訝しげな表情をしている。そのまま反動をつけて立ち上がると、もと居た方向へと駆け始める。お待ちください、待って、そんな呼び止める声が聞こえるが、聞こえないふりをして人ごみの中をかき分けて走った。
・・・
「――おい瀬川朔利、朔利、起きろ次体育」
「……あー、おはようございます、すずさん」
「おはようじゃないわよ。随分気持ちよく眠ってたみたいじゃない」
幼馴染にして同じクラス、奇して席が後ろ前である秋月すずが朔利の頭をはたいた。そんな彼女は準備万端なようで、いつもは下ろしている髪をサイドにまとめ上げ次の体育に備えている。くっきりとした目立ちの彼女は折り紙付きの美人であるが、何分とても性格がきつい。というより自分の主張ははっきりと言うタイプの人間なので、彼女の艶やかな黒髪と、さらに公ではにこやかな笑みを絶やさないという、たおやかな外見に騙された殿方は多い。
「なんだかすごい嫌な夢見た。」
「たかが15分の睡眠で夢を見るなんて、あんたの頭どうなってんの」
「あ、15分しか眠ってなかったんだ」
「ほら、さっさと行くわよ。今日はソフトボールなんだから日焼け止め塗らなきゃいけないでしょ」
「今日忘れたから貸して」
「今日もの間違いじゃなくて?」
「すいませんね、忘れっぽい質で」
朔利はよっこいしょ、と年寄りくさい声を上げて席から立ち上がる。
本当に、嫌な夢だ。あの場所で、巻き上げられた砂が口の中でざらついているような気さえ朔利はしていた。でもただの夢だ、そうに違いない。今まで夢が現実に作用するなんてことは無かったでしょう、そう心の中で何度も唱えるが、それに反して心臓が激しく脈打っている。あの時に青く光った胸元を確かめるように見た。先ほどのように青白い光は宿していない。やっぱりあれは夢だったんだ、朔利は安堵のため息を吐き出しながら、すずの横に並んで更衣室へと向かう。
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