某日某所
深夜、フェルプールの女が幼い息子を連れて歩いていた。母と子が歩き回る時間ではなかった。女の顔は生気を失い、足取りはふらついていた。子供の手を引き気づいた時には、女は大きな川にかかる橋の上まで来ていた。
暗闇を見ながら、女は先日に医者に告げられたことを思い出す。
──良いですか奥様、お子様はこれ以上成長しません。いくら体が大きくなろうが、心は子供のままです。わたくしがお伝えしているのは、治療などの希望は持たない方が良いという事です。これは治るというものではありません。奥様、あなたにあるのは、どの現実を受け入れるかという選択です。ひとつは、あなたの人生はこの子の世話で終えることになるということ。しかし、もしそうではない人生をあなた自身がお望みでしたら、そういう施設を紹介することもできます──
絶望に打ちひしがれた彼女は、医師のものの言い方を何と恐ろしく冷淡なのだろうと思っていた。しかし、時間を空けて考えれば考えるほど、彼の言っていることは正しいのだと、医師は自分のために言っているのだということが分かってきていた。あの医者も、心を凍てつかせなければあの仕事をやってられないのだ。
女は橋の下を見る。真っ暗な川は底が奈落まで続いていそうだった。地元民の彼女はその川がひどく深いことは知っていた。女は子供の手を引く。子供は無垢な顔で母を見返す。自分の母が恐ろしいことを考えているなど、夢にも思わないのだ。
そんな子供の無垢な顔を見るたびに女は踏みとどまろうとする、しかし、夫に先立たれた自分たちの未来を想像すると、暗闇の中に飛び込んでしまおうという誘惑に駆られてしまうのだ。
「……オメェ、こんな時間にこんなところで何やってんだ?」
橋の縁にいた女がふり返る、屋根付きの馬車の窓から男が顔をのぞかせていた。ひと目であまり良い育ちをしていなさそうな顔つきをしている男だった。
「……関係ないでしょ」女は自分でも驚くほどに力の抜けた声で言った。
関係ないと言われたにもかかわらず、男はドアを開けて馬車から降りた。
「こんな時間にそんな顔した女が子供連れて川のぞいてる、ただ事じゃあねぇだろう」
「ちょっと……。」
「何か困ってることがあるなら言ってみろ。オメェのことか? それともオメェの周りのことか?」
「あなたにできる事なんてないわよ。あなた神様? 奇跡でも起こせる?」
「まぁ、石をパンに変えたり、空から魚を振らせるなんてことはできないな」
女は「でしょ」と言って男に背を向ける。
「だがオメェに大量の金を握らせることはできるぜ」
「……お金の問題じゃないのよ、これは」
「そうかい? 大体の問題ごとはこれで片付くがな」
「わたしの問題は、その大体から外れてるの」
「ほぅ、そうかい。で、オメェの悩み事はいくらで片付く?」
女はふり向いた。
「人の話聞いてるの?」
「2000ジルならどうだ?」
「どうにかなるわけないでしょ」
「8000ジル」
「あなたには想像もつかないわよ」
「200000ジルならどうだ?」
「どうにかなるかも」女は即答した。「でも……それをあなたがわたしにくれるというの?」
「俺の手からオメェに渡る。正確にはオメェが稼ぐんだ」
男はスーツの内ポケットからペンと紙を取り出して文字を書きだした。
「明日、ここに来い、仕事をやる」
そう言って、男は女に紙を渡した。そして「後これも」と言って、財布からぞんざいに紙幣を取り出して女に握らせた。
女がメモを見ると、そこには“クライスラー”の名前が記されてあった。
「あなた……あのクライスラー?」
「どのクライスラーのことを言ってるのか分からねぇが、どれでもあってるから構いやしねぇよ。……オメェ名前は?」
「エレベッタよ」
「エレベッタ、今日は適当な宿でもとれ。そのガキの体に障る」男は顎で子どもをしゃくった。
「……何をやらせるつもりか分からないけど」女は気後れしたように言う。「わたしなんかに仕事ができると思ってるわけ?」
「オメェがオメェをどう思っているかなんて興味がねぇ。オメェだって、俺がオメェをどう思っているか、それがそんなに気になるか?」
そして男は馬車に戻った。
「気になるわよ」
「なに?」男はふり返った。
「どうしてわたしたちにここまでしてくれるのか、気になるに決まってるでしょう?」
「……そうか」男はうなずいた。「そりゃああれだ、オメェの親父の従弟の嫁の姉貴がオメェの義理の姉妹かもしれねぇだろう」
そう言って、男は馬車の踏み台に足をかけた。
「一つ多いわよ」
女に言われて「なに?」と男は再びふり返った。
「従妹の嫁のところでもう義理の姉妹だわ」
男は空を見上げてしばらく考え、そしてにやりと笑った。
「仕事はできそうだな」
そうして馬車に乗った男だったが、思い出したように窓から顔を出した。
「金つかんだうえでばっくれんじゃねぇぞ、絶対に取り立てるからな」
男が言い終わると、馬車が出発した。
女は、多分あの男は自分がこのまま逃げても何もしないのだろうと思った。
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