イヴェナ/マセラティの相談役

 その男がマセラティさんの元を訪れたのは、アウディ一家へ向かうと報告にきたベルトーレの部下が去ったあと、ちょうど入れ違いになるようにしてだった。もしかしたら、それを計算してのことかもしれなかったが。

 とにもかくにも、そいつの申し出は我々の度きもを抜いた。

 マセラティさんは黙って彼を眺めていたので、その男に訊ねたのは私だった。「……君は自分が何を言っているのがわかっているのかね?」

「ああ、もちろんだ、ミセス・イヴェナ」

「結婚はしていないんだ」

「失礼、ミス・イヴェナ」

 不敵な笑いを浮かべる男だった。稲穂色の髪もあいまって、その男にはフェルプールというより、狐のような印象があった。しかし、一見この狡猾そうな笑みは、取り繕った仮面のようなものだ。血の通うものである限り、心臓の音は乱れ、呼吸は浅くなっている。この男もまた、危険な賭けに出ているのだ。

 これからまさに出入り(やくざのもめごと、けんか)をしようという時に、当事者が拳を収めようというのだから。しかも、自分の直接の親を通り越えてだ。

「単純に考えるなら、今回の騒ぎで命を落としているのは君の所の人間だけだ。割に合わないのでは?」私はマセラティさんが質問したいだろうことを、代りにその男に問うた。

「だからこそ、説得力がある」男は言った。

 私はマセラティさんを見る。マセラティさんはその男から目を離さずにいた。

「……それに応じたところで、我々にはどんな素晴らしいことが起こるのだろう?」私はやや皮肉めいた口調で質問する。

「これ以上は誰も死なねぇ」男は言った。「今なら、この騒ぎで残す禍根を最小限にすることができる」

「君たちの抱える怒りはどうする?」

「飲み込むさ」

「君の部下たちもそれができると?」

「そうさせる」

「上手くいかずに、君の部下が勝手を働いたら?」

「責任を取らせる」

「君がそうすることをどうやって信用しろと?」

「俺は……」男は私ではなくマセラティさんに視線を移した。「ここでは終わらねぇからだ」

 マセラティさんをまっすぐ見るという事は、私たちの間では礼を欠くことを知らないのか、それとも土壇場を演出しているのか。しかし、たしかにこの期に及んでは、無難なやり方では山は動かない。

「……初めて見た頃から」マセラティさんは口を開いた。吐息が煙のように重そうだった。「お前は口先ばかりだな」

 男は何も言わない。

「だが、その口先だけのお前が……いつの間にか我々の中心になりつつある。……この騒動に関してもな」

 マセラティさんが体を傾ける。私は銀色に輝くアルミニウムのシガレットケースから葉巻を取り出し、マセラティさんの指に挟ませる。マッチを擦ってその火を葉巻につけると、マセラティさんは険しそうな顔をして口をすぼめた。ここ最近は葉巻をやるにも、以前よりも難儀しているようだった。近くにいると確実にこの方の衰えが見えてくる。

「……たとえお前が望まなかったとしても、お前を中心に人は動こうとする」

 マセラティさんの言う通りだ。薬物の発覚、他種族とのビジネス、新しいしのぎ、こいつが作り出しているのは新しい欲望だ。そして新しい欲望には人が群がってくる。一見すると、意地の張り合いにもみえるこの抗争も、我々がまだ把握していないものの、裏には欲の糸が絡んでいそうだ。そしてこの男は、ここでいったんその糸を断つと申し出ているわけだ。

 すべてのカードが提示された。後は最後のコールを待つだけだった。私はマセラティさんを見ていた。

 マセラティさんがうなずいた。首が頭の重みに耐えられなくなって、僅かに動いた程度の動きだった。しかし、事態は大きく動いた。

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