メルセデスと帰ってきた女

 ──ベンズ村

 

 メルセデスは寝室で物憂ものうげに景色を見ていた。小さく咳をすると、丸テーブルの上にある白湯さゆの入ったカップを手に取り、それをゆっくりと口に含む。

「……さて」

 メルセデスはベッドから起き上がると室内のテーブルの前に座り、そしてテーブルの上の作りかけのキルトを取ると、針と糸でそれを縫い始めた。

 ベンズ村の本当の村長と呼ばれ、村人に長く慕われているメルセデスだった。しかしそんな彼女は現在、病気のために一人で過ごす時間が多くなっていた。メルセデスの病気はうつる・・・ものではないと主張する者もいたものの、やはり世間体を気にして、そういう村人は陰で彼女に会うようにしていたため、彼女のもとを訪れる村人は一日に一人いれば多い方だった。

 縫物を始めてしばらくして、メルセデスは「あ~」と言いながら、こった・・・肩を拳で叩いた。

「……?」

 メルセデスの耳がピクリと動き、肩を叩く拳が止まった。メルセデスは部屋のドアを見ると、ゆっくりと体をそちらに向けた。ドアの向こうに、誰かのいる気配がする。

「……誰かいるのかい?」

 気配はドアの前から動こうとしない。

「……誰もいないんだったら、ドアをノックしてくれないかね?」

 ドアがノックされた。

「……なるほどね。悪意のある相手じゃあなさそうだ。とんでもないおバカさんかもしれないが。……どうだろうね、思い当たるのはいくつかあるんだが。……名前を当てたら出てきてくれるかね?」

 ドアがノックされた。つまり、彼女が知っている誰かということだろう。

「……そうだね、悪意のない相手でここに忍び込む、条件が当てはまるとして一番ありそうなのはバカ息子だけど、あのバカはまだ帰ってこないし……。」メルセデスの声が穏やかになった。「……帰ってきたのかい、クロウ」

 ドアが開かれた。出てきたのは親戚の娘だった。フェルプールの女性にしては高い上背うわぜい、深い赤毛に薄い褐色の肌、そして黄金の瞳は昔からメルセデスが見知ったものだったが、女としてまるで違うものになっていた。器はそのままだが中身が違う、かつては透き通った水の入ったグラスには、今では香り立つ火酒がなみなみと注がれているようだった。

「おやまぁ、たくましくなって……。」女を見てメルセデスは目を潤ませた。

「……ひさしぶり、メルおばさん」女はメルセデスに抱きついた。「ごめんね、何の便りもしないで……。」

「いいんだよ……。何もないってことは、大丈夫ってことなんだから」メルセデスは抱いている女の体の変化に気づいて体を離した。「あんた、ずいぶん体硬くなったんだね?」

「……うん」

 メルセデスは女の顔を両手で包み込むと、金色の瞳をのぞき込むようにして言った。「それに、目の色も変わった」

「……食べ物が違ったからかな?」

「そういう意味じゃあないね」

 メルセデスは女の顔から手を離した。そしてまじまじとその姿を見る。かつての少女は完全に女になっていた。

「……あたしはあんたにはこの村は狭すぎると思ってた。かといって、この世界のどこにあんたにふさわしい場所があるのかも分からなかった。あたしも見聞けんぶんが広いわけじゃあないからね。今でこそ言えるけれど、あんたを送り出したのは正直賭けだったんだ」メルセデスはため息をついて首を小さく振る。「それがまぁ……こんなにも立派になって」

「大げさだよおばさん、私がいま何をしてるかも知らないのに」

「立ち姿、目の光、それだけ見れば分かるさ。まっすぐだ。迷いが一切ない。あんたは探しもんを見つけたんだね」

「……どうなんだろ。探し物が分かったっていうか、まだ探してるっていうか……。」

「探してることが分かってるだけで十分さね。……だた、戻ってくるにはずいぶんとけわしい道を歩んだみたいだね」

「……そこまで分かる?」

「面構えが違う、嫌でも分かるさ。猫を旅に出したと思ったら虎になって帰ってきたんだから」

「虎って……。」女は苦笑いした。

 メルセデスも笑っていたが、すぐに沈痛な面持ちになって深くため息を吐いた。

「どうしたの、おばさん?」

「……いやはや、今になって、あんたをとんでもない旅に出したんだと怖くなってね」

「おばさん……。」

 女はメルセデスに後ろから抱きついた。

「大丈夫だったよ、私にはおばさんから引き継いだ心があるから。ちょっとやそっとじゃくじけなかった……。」

「……クロウ」

 女はメルセデスから離れると、拳で自分の胸を強く叩いた。

「そして、両親から引き継いだ嫌になるほど頑丈なこの体のおかげでね」

「……そこまで言えるようになったら立派なもんだね」

「後でお母さんのお墓参り行きたいから、一緒に行こう? 私、場所を知らないんだ」

「あたしも行きたいのはやまやまだけど、見ての通り……。」

「あらまぁ、しばらく会わない間にそこまで老いぼれちまったわけ?」

「いってくれるねぇ娘さん」メルセデスはにやりと笑った。

 メルセデスと女は外に出た。たまに足取りを乱すメルセデスの体を女が支える。

「すごいねあんた、まるで足が地面に根付いてるみたいだ」

「……まぁ、

「そうかい」

 ふたりとも外に出てからしばらくを話題には出さずに会話をつないでいたが、そうやって組み立てられる会話はどこか白々しかった。

「……あの子のことは聞いてるんだろう?」

 そして先に手を出したのはメルセデスだった。

「……うん、まぁ道中で聞いたよ」

「馬鹿な子だよ……。」

「そうだね……。」

「あの子は、母親のあたしが言うと子びいきが過ぎるかもしれないけれど、本当は愛情深い子なんだよ……。」

「そうおもうよ……。」

 メルセデスは女の顔を見る。女の顔は嘘をついていなかった。

「……だけど、あの子は大切なものを大切にする方法が分からんのさ」

「……そうだね」

 メルセデスは小さく笑った。そして女に体を預ける。病床にあるとはいえ、恰幅かっぷくの良いメルセデスに体重を預けられても、女の体はびくともしなかった。

「存外、あんたくらいの距離がちょうどいいのかねぇ」

「……どういう意味?」

「手に入らないものは、なくならないってことさ」

「……。」

 女はメルセデスの言っていることを理解できた。しかし、それに対して肯定することも否定することもなかった。女の中では、その男の存在は射ることの難しいおぼろげな的のようなものだった。

 やがてふたりは女の母親の墓標についた。大きな樫の木の陰になっている墓標だった。おそらく村人は、木の陰が霊廟れいびょう代わりになると思ったのだろう。

 転生者の愛妾、舞う紅玉こうぎょく、栄誉と寝た女、猫耳の女神、生前から複雑なまなざしを受けていた彼女の墓は、村はずれに立てられているものの、定期的に掃除がされているようだった。とはいえ、最後に掃除をされたのは恐らく一年近く前だろう。女は進み出て、墓標に降っていた落ち葉を手で払った。

「……マーリンはいい女だったよ」メルセデスは女の背中に語る。

「綺麗な人だったよね」

「……性格も良かったさ」

 女は肩をすくめた。

「本当さ。あんたが生まれた時、マーリンはたいそう喜んでね。残りの人生をこの子のために捧げると、自分が人生で愛するのはこの子で最後だって言ってたもんさ。……彼女にも愛はあったんだよ」

「……どうして、母が生きている間にそれを言ってくれなかったの?」

「あんたは優しい子だ。そうすれば、一生をマーリンのために捧げたろう」

 女はメルセデスをふり返る。

「だが、母親の“ため”で支えられた人生は、やがて母親の”せい”で損なわれた人生になる。……マーリンがそうだったようにね」」

 メルセデスは重い口調で語る。マーリンの愛情を、同じ母として伝えたくもあった。だが、それは彼女の人生を左右しかねないものでもあった。取扱いに用心のいる事実だった。

「……それを今言うのは、母が死んでるから?」

 メルセデスは首をふった。

「今のあんたなら、全てを受け止めれられると思ったんだよ。そして思った通り、あんたは動じてない」

「そっか……」女は苦々しい表情で頭をかく。「でもねぇ、もしあたしがダメな感じで帰ってきたら、その話っておばさんが墓に持ってちゃってたってことにならない?」

「そりゃ仕方ないよ、そういうもんだからさ」

「そういうもんって……。」

「例え夫婦であっても親子であっても、お互いのことをほとんど知らずに死んでいくもんなんだよ。あたしは夫の事をほとんど知らない。きっとあのひとが生きてても、知らない事ばかりだったろう。いくつか知ったつもりになってても、それだってつもり・・・でしかない。けどね、それは哀しい話じゃあないんだよ。知らないから、分からないからこそ、相手のことを重んじられるんじゃないのかい」

「……そうかもしれないね」女は微笑んだ「……やっぱりメルおばさんはたいしたひとだ」

「そうでもないさ」メルセデスはうんざりしたように空を見上げる。「みんなあたしを持ち上げすぎだよ。距離を置いて見れば、病でくたばる寸前の、村の片隅に住んでるちっぽけなばばあだよ」

 ふたりの女は墓標の前で笑った。彼女たちの頭上では、ムクドリのひなが鳴いていた。

「……ねぇ、おばさん」

「なんだい?」

「人生で、やり残したこととか、代わりにやってほしいこととかない?」

「どうしたね、唐突に?」

「私、レンジャーやっててさ、人を探したり物を探したり、代わりに何かをやってあげたりとか、いろいろしてるんだよ」法の範囲内とはいえ、人を殺してるという事までは流石に母親代わりのメルセデスには言えなかった。「だからさ、親孝行代わりに、何かおばさんの依頼を受けようかなって」

「……やりたいこと……代わりにやってほしいこと」メルセデスは考える。「……どれもないね」

「……そう」

「あたしゃ十分に生きたよ。悔いなんてない」

「……そっか」

「でも、もし何かやりたかったこと、欲しかったものがあるとしたら、ひとつだけ……。」

 メルセデスは女を見た。気丈だった彼女の瞳には涙があふれていた。

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