最終章 Beautiful World
サハウェイ
「そろそろ終わりそうですねぇ……。」
室内から外の様子を眺めているサハウェイに、初老の女が話しかけた。以前に、教会の前でサハウェイに謝意を述べた女だった。サハウェイは彼女の好意を利用して、騒動のあいだ身を隠していた。
「ええ……。」
ブラッドリーとティムが倒れたことを、外の様子からうかがい知ったサハウェイは、風呂で
「お仲間がやられているのではないですか?」と、女が訊ねる。
「仲間? よしてちょうだい。私には仲間なんていないわ。彼らとはお互いの利害が一致したから、たまたま手を組んでいただけ。それに、彼らは私を裏切ったのだから、私にだって彼らを裏切る権利はあるわ」
「裏切る……。」
「そうよ。だから私はあのドウターズの娘たちと組むことにしたの。馬鹿な男どもの足元がお留守になってるところを、一緒にすくってみませんことってね。情報が筒抜けだなんて、想像もできなかったみたいね」
「はぁ……。けどサハウェイさん、これだけの騒ぎになってしまっては、また同じ立場に収まるのは難しいじゃないでしょうか?」
「心配いらないわ。赤いルージュが一本あれば、私は世界だって征服してみせる」
「んまぁ、たいした自信でございますねえ……。」
「自信じゃないわ、確信よ」サハウェイは椅子から立ち上がって窓辺に立った。「私はどん底からすべてを手に入れたのだから」
そうだ、また這い上がってみせる。這い上がるだけではない。もっと高く飛ぶ。あの娘は私を通り越して大きな商売をフェルプールの男と始めようとしている。けれど、もし私のほうがパートナーとして優れている事を知れば、商才のある者ならばすぐに手の平を返す。それまではあの娘と笑顔で握手をしていればいい。
無限に広がる荒野は、サハウェイにとって無限の可能性だった。
サハウェイは殺戮の繰り広げられている街を見ながら、その先の栄光を見ていた。
「……ん?」
突然、サハウェイの体が衝撃で揺れた。
見ると、女の体がサハウェイに密着していた。
「なに……してるの?」
サハウェイは、わき腹に尋常ではない異物感を感じた。異物感は、すぐに“痛み”としてサハウェイを襲った。
「あ……かはぁ!?」
女が体を離すと、彼女の手にはナイフが握られていた。ナイフは血でべったりと汚れていた。
サハウェイはわき腹をなぞった。手には、意識を失いそうになるほどに、深い真紅の血が付着していた。
「な、な、なんですってぇ!」
「……サハウェイさん、この時をお待ちしておりました」
特徴のない女だと思っていた。しかし、その眼は様々な感情で光っていた。怒り、悲しみ、憎しみ、そして喜び。それらの感情が渦巻いて、ぎらぎらと獣のような光を放っていた。
「な、なんで……こんなことっ。貴女、前に言ったじゃないっ? 私のおかげで、生活できるようになったってっ。なのに……。」
「ええそうです。あなたのおかげで楽になりました」
「じゃあ、じゃあどうしてこんなこと……。」
「あなたのおかげ……あなたに娘を売ったおかげでねぇ……。」
「……え?」
「覚えてらっしゃいませんか? 昔、あなたに決闘を挑んだ男のことを。もうお忘れでしょうねぇ。何せ、手を下したのはあなたではありませんでしたし……。」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。何か誤解があるのよ……。」
女はほほ笑んだ。なぜか涙を流していた。
「あの男は私の夫です。私はあなたが夫に何を言ったか、いまでもちゃあんと覚えてるんですよ」
「あ、あれは……。」
「娘を売った時、母としての私は死にました。そして、夫が殺されたあの日、妻としても死んだのです。確かに生活は十分でした。ただ、生活している当の本人は骸でしたけれどね……。」
サハウェイは再び手で傷口を抑えた。手当すればまだ間に合うかもしれない。
「それはあなたに苦海に沈められて死んだ娘の分。そして……。」
女は再度、サハウェイにぶつかるようにして、彼女のわき腹にナイフを刺した。
「あ……あはぁ……。」
「これがあなたに無惨に殺された夫の分」
女は体をサハウェイから離してナイフを抜いた。
「そしてこれが……。」女はまた体を密着させて、サハウェイにナイフを刺した。「この私の、あなたへの想いです。幾年も、ため込んだ……。」
「あ、あ、あああああああああ!」
「受け取って……くださいまし。ゆっくり……味わってくださいまし……。」
女は黄ばんだ歯をのぞかせ、自分も苦しそうに笑っていた。
「あ、あ、あ……ち、ちきしょう!」
サハウェイは女をはね飛ばして家から飛び出した。
街のはずれで、ガロは騒ぎを背に聞きながら、馬車の上で煙草をふかしていた。
彼にとってはすべてがどうでもよいことだった。
──まぁ、世界中の人間が俺みたいだったら、世界は滅ぶわな
ガロは半分しか吸っていない煙草を指ではねた。よくよく考えたら、彼は煙草も好きではなかったのかもしれない。強くなった日差しを防ぐため、ガロは麦わら帽子を深くかぶりなおした。
馬車がぎしりと揺れた。
「……なんだ? 配達の依頼か?」
ガロは振り返った。
「……お前」
荷台には、サハウェイが寝そべっていた。ただでさえ白い彼女の顔は、血の気を失いロウソクのようになっていた。まさに、風前のともし火だった。
「……乗せてって……くださらない?」
「……乗せてくって、いったいどこにだ?」
「ここではない……どこか……。」
「……分かった」
ガロは馬車を走らせ始めた。
あれだけ厚かった雲はどこかに消え、空にはよどみひとつない冬の青空が広がっていた。
サハウェイはその空に手を伸ばした。
──遠い……。
「ずっと積み上げてきたのに……ずっと手を伸ばし続けたのに……なのに、あんなにまだ遠い……。」
「……なぜ、見てるだけじゃだめだった」
「……愛する人がいたの。……母になるはずだったの」
「……そうだったな」
「なぜ……私は奪われ続ければならなかったの? この体に生まれついたというだけで……どうして……。私にだって……奪う権利が……あったはずよ……。」
「お前、勘違いしてないか? 奪われ続けたからといって、奪う権利を得るわけじゃあないんだぞ?」
「……それは……もっと早く……言ってくれない?」
「言ったところで、お前は聞きやしなかったろう?」
「それも……そうね」
「……行こう。きっとどこかにあるはずなんだ。奪ったり奪われたりすることのない場所が。世界は広い、きっとこの世界の片隅くらいには、そういう場所があるはずだ」
「……そうね」
サハウェイは手を伸ばすのをやめた。しかし逆に、冬の太陽の光がサハウェイに手をさし伸ばし、そして彼女の頬を両手でやさしくつつんでいた。
あったかい……。
そうね、どうして見てるだけじゃダメだったのかしら。
見てるだけでも、太陽は暖かいのに。
なんだか、ずいぶんと遠回りをしたわね。
生まれてくる子供、女の子でもいいわね……。
名前、考えてくれたかしら……。
早く会いたい……。
約束したの……。
ふたりで故郷に……。
奪ったり奪われたりすることのない場所……あの
……。
「……なぁサハウェイ」
ガロが振り返ると、サハウェイは目を閉じて体をもたげていた。
口紅が歪んで口角がつり上がっていた。涙でアイシャドウが目尻にうっすらと線を引いていた。まるで、安心して笑っているかのようだった。
「……サハウェイ」
ガロは手綱を振るうことをやめた。やがて馬は進むことをやめ、馬車はゆっくり荒野の真ん中で停止した。
感情を露わにすることを忘れていた男が、中天の真下で絶叫した。しかし荒野の真ん中では、その声は一切響くことがなかった。
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