無題

 ※


 ──日出処ひづが 千秋せんしゅう藩 六花ろっか 陰陽いんよう流六花道場


 クロウは野良猫にやぶられた障子しょうじのはり替えをしていた。その右手には包帯が巻かれていた。稽古の最中、門弟の寸止めが失敗し、右手の人差し指と中指を捻挫ねんざしていたのだった。しかし、片手だったが、クロウは器用に障子のはり替えを続けていた。のりを刷毛はけで障子の枠にぬり、和紙をたるませることなく、まるでガラスのようにぴんと張るクロウの仕事は、片手に不具合があるとは思えないほどだった。

「くろう、精が出るな」

 そんなクロウに、陰陽流の高弟、“双竜”の駿河するが月堂げつどうが声をかけた。切れ長で端正な顔立ち、絹糸のように滑らな長髪、紅をさしてしまえば女と見間違えそうな艶やかな美形の男だった。しかし袴の襟元から出した腕は太く、垣間見える胸板も厳めしいほどに盛り上がっている。女性にょしょうの顔と武者の体を持つ、不釣り合いな容姿だった。

「……月堂様」

「怪我をしているというのに、そんな難儀な雑用を申し付けられるとはな」

 まったく先生おやじはと、胸元から出した手で顎をかきながら月堂は苦笑いをする。

「手伝おうか?」

「いえ、これもまた、指の動きの鍛錬になりますゆえ……。」クロウは言った。

先生おやじがそう言ったのか?」

 クロウは何も答えなかった。

「……月堂様」

「何だ?」

辰馬たつまぃに、あのようなことはしなくて良いとお伝えください」

 クロウに怪我を負わせた門弟は、陰陽流の高弟・伊雅辰馬によって「無作法者」として、激しい稽古のうえ打ちすえられていた。

 月堂は手のひらで顎を撫でた。「自分で言えばよかろう」

「私が言っても、辰馬兄ぃはかたくなに認めませぬ」

「俺が言ってもかえってムキになるだけだ。士道しどうに背いた不届き者にきゅうをすえただけだとな。……仕方あるまい、あやつはお主のことを妹のように思おうておる」

 クロウは小さくため息をついた。

「存外、妹以上に思うておるかもな」

 クロウは月堂を見た。

「たわ言だ、聞き流せ」

 月堂は愉快そうに目を細めからりと笑った。一見軽く見える月堂だが、剣の腕にかけては陰陽流の門弟の中でも抜きんでていた。こと、剛の剣、殺人刀せつにんとうおいては、師の伊雅源馬げんまをして、「こやつほどの才があれば、わしも陽明流をでて陰陽流をおこそうとは思わなんだ」と言わしめるほどだった。そんな月堂のことを、門弟の誰もが、伊雅源馬の実子であれば道場の跡目あとめは確実だと疑わなかった。

「……くろうよ」

 そこへ、陰陽流の宗家・伊雅源馬が現れた。

「オヤ、先生……。」

 月堂は直立不動になりこうべをたれ、クロウは作業を止め両手の指先を廊下ろうか木目もくめに重ねて師に頭を下げた。

 源馬はクロウの張り替えた障子をしばらく見ていた。

「くろう、お主、左利きであったか?」

「あいや、左利きと申しますか……。」クロウは左手を見た。「両方使えます……。」

「……さようか」

 源馬はクロウを見続けた。クロウは頭を伏しながら、頭上に師の視線を感じていた。ぴりりと頭皮を刺激するような視線だった。

「さようか……。」

 クロウは、師の視線が自分から外れたことを感じた。

「……それが終わったら、稽古場へ来るがよい」

「? ……はい」

 師が去ったあと、クロウと月堂は顔を見あわせた。


 クロウが稽古場へ行くと、そこには源馬がひとりで立っていた。立ったままで静かに神棚を見上げ瞑想をしていた。どれくらいそうしていたのか、源馬は夕暮れの道場の静けさと一体になっていた。あたかも源馬の体を影が透いているようだった。

「……来たか」

 物音をたてずにここまでやってきたクロウのはずだったが、師は弟子の気配を察し目を開けて振り返った。

 クロウは息を飲んだ。師が、めったに着ることのない白装束を身にまとっていたからだ。

「木剣を取れ」

 クロウは言われるままに、道場の壁にかけてある木剣を手に取り師の前に立った。

「正眼で構えよ」

 クロウは正眼で構えた。

「これより、上段のみを打つ。受けるがよい」

「はい」

 源馬は木剣を振り上げた。そして予告通り、上段で木剣を振り下ろした。クロウは、やはり言われたように、その師の上段を木剣で受け止める。

 源馬はまっすぐな上段と、左右の横面を繰り返した。道場に、木剣と木剣がぶつかる音が響いていた。木と木がぶつかる音のはずなのに、源馬の斬撃は、金属のような鋭い音を木剣がぶつかるたびに響かせていた。まるで、木剣であっても肉を断てるかのような鋭い太刀筋だった。だが、単調な攻撃だったため、クロウは難なく師の上段を受け止め続けることができていた。

 しかし──

「うっ?」

 クロウの肩口に、源馬の木剣が入った。

 クロウは唖然として師を見る。

──何かがおかしい

 再び源馬は上段を繰り出し始めた。クロウも再び受け続ける。

「……あ」

 数度の上段のあと、クロウの肩口には再び木剣が入っていた。

「……分かるか、くろう」源馬が訊ねる。

「今一度……お願いします」

 源馬は再び上段で構え、打ち込みを始めた。クロウもそれを受け続ける。

 そしてやはりまた、数度の打ち込みのあと、クロウの肩口には木剣が寸止めで入っていた。

「……先生、持ち手を変えておりますね」

「……さよう」

 源馬はクロウから間を取ると、素振りを始めた。奇妙な素振りだった。上段に振りかぶり、木剣を持つ両手が体で隠れた瞬間、源馬は右手と左手を組み替えていた。そのために、僅かに剣の軌道が変化していた。わずかな変化だったが、剣の動きが精密であるほど、動きに相手が慣れるほど、そのわずかな変化は効果を生むようになっていた。

「こういうこともまた……。」

 源馬はそう言うと、横なぎに木剣を振り切った。そして、振り切った木剣を逆手に持ち替えて切り上げを放った。振り切られた木剣は、再び順手に持ち替えられ上段切りに変化した。

 源馬はせわしく右手と左手の握り手を変え、さらに順手と逆手を持ち替えて、可変の斬撃を繰り返した。まるで舞踊のような動きだった。

「……極光」源馬は、剣を横に振り切った状態で言った。

 クロウは静かに、気配のみで師の言葉に相槌を打った。

「極むればその剣筋、無限の軌道を生み出すにいたる。線は円に、円は点に、そして点は再び線に……。」源馬は木剣を握る手を見た。「儂に至っても、その術理、なおも構想の域を出んがな。くろうよ、お主にこの奥義を授けよう」

「……なぜ私に?」

「簡単なことよ。いくら優れた技であろうとも、実践じっせんできなければ絵に描いた餅。どうせ誰も使いこなせぬものと、この技は秘伝書にも記さず儂の中だけでとどめようと思っておった。だが、両手を使いこなせるお主なら……あるいはその餅に湯気をたたせることができるやもしれん」


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