第七章  Never Give Up

這い上がる女

 眼前にはクロスボウを構えた男たち。

 後ろは崖。

 絶望を上乗せレイズして飛び降りる。

 断崖の突起に両足で着地する。

 滑り落ちて落下する。

 飛び出ている木の枝を握る。

 木の枝は体重を支え切れずにちぎれる。

 小さな断崖の突起に片足で着地する。

 突起が崩れ落ちる。

 断崖の僅かな隙間に片手を突っ込む。

 勢いが強すぎて手が外れる。手と一緒に爪が剥がれた。

 体を擦りながら斜面を落下していく。

 広めの足場に落ちるため、崖を蹴る。

 足場に、足、膝、背中の順番に受け身を取って落下する。

 衝撃が強すぎて足場から転げて落ちる。

 飛び出ている石を右手でつかむ。

 手のひらの皮が剥がれる。

 自分の体と同じくらいの突起に背中から落ちる。

 受け身を取ったつもりだったが衝撃が大きく、意識が飛びかける。

 真っ逆さまになって、崖の岩に頭をぶつける。

 気を失いかける。

 とおのきかけた意識で体を丸め頭を守る。

 数回体を岩にぶつけて着水。

 後は祈るだけだった。


 クロウが目を覚ますと、そこは開拓民の家の一室だった。

 クロウはベッドの上で動けなかった。試すまでもなく、動けば激しい激痛に見舞われることがわかっていた。

──生きてはいるな

「……誰か」

 クロウは首を曲げて人を呼んだ。声を上げただけでも激痛が走った。

 しばらくすると、開拓民の男が部屋に入ってきた。

「起きたかね」

 茶色の髪と茶色の口ひげを蓄えている、三十代後半の男だった。髪は七三分けにセットされているが、鏡を見なかったのか、分け目が稲光のようになっていた。短躰たんくだが、筋骨はたくましかった。

 クロウが言う。「……お前さんが助けてくれたのかい」

「まぁ……助けたというか、あんたが執念で息を吹き返したと言ったほうが良いだろうね」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

「……ここはどこだい?」

「どこって……。」

「カッシーマかい?」

「ああ、そうだ」

「……イリアは近いのか?」

「まぁ、馬で行けば一時間もかからんよ」

「……そうか」

 男はベッドの横の椅子に座った。

「いやはや、てっきり崖から落ちたと思ったんで、死んだものかと」

「崖から落ちたんだよ」

「……冗談を言っちゃあいかんよ」

「私が冗談を言ったなら、お前さんは大笑いをすることになる」

「……本当かい?」

 クロウは答えずに枕に頭を置いた。

「……私はクロウだ」

「リカードだよ」

「リカード、頼みがあるんだが」

「なんだね?」

「私の服を脱がせたろ?」

「ああ、いや……それは……。」

「別にそれはいいんだ。その時、私の持ち物の中に、ロケットのペンダントを見なかっただろうか?」

「ああ、そういえばあったな。ほらそこの……。」そう言って、リカードは部屋の隅の箱を指した。そこには、クロウの服と刀がまとめてあった。「あの箱の中にあんたの持ち物を入れてるよ。すぐにいるのかい?」

「すまないが持ってきてくれないか?」

「かまわんよ」

 リカードは箱の中からロケットを取り出した。

「大事なもんかね」そう言って、リカードはクロウにそのロケットを渡した。

「まぁそうだね。ちなみに、財布も無事だろうか?」

「ああ、もちろんだ」

「中身は全部お前さんに譲ろう。それで頼みがあるんだ」

「……なんだね?」

「もし蓄えの食糧があるなら、ありったけ持ってきてほしいんだ。もちろん、お前さんたちが困らないくらいでいい」

「何だい、もう食欲が出てきたのか。たいしたもんだね。別にそんなにかしこまらんでもいいよ。あんたに施すくらいの食糧、どうってことない」

「目の前の女は、お前さんとこの冬の備えをぜんぶ胃に詰め込むかもしれないんだぜ?」

「……それが冗談かい?」

「乙女が大食らいをジョークのネタにするとでも?」

「……分かったよ」


 クロウが寝ていると、リカードの息子が皿に山盛りのじゃがいもとゆで卵を乗せて持ってきた。

「あんたが肉が良いと言ってたんでね、鳥をしめたよ」

 リカードが持ってきた皿には、茹でた鶏がまるまる一羽のっていた。

「ありがとう、助かるよ。いいね、マッシュポテトじゃないか」

「いや、茹でて潰しただけだ。きちんと料理したかったんだが、あいにく一年前妻に先立たれてね。まだ料理が不得手なんだ」

「……そうか。じゃあこの家には女はいないんだな」

「そうだが、それがなにか?」

「いや、別にいいんだ」

 クロウは出された料理を食べ始めた。普通の食事風景だった。リカードが、用意した料理を残されるのではないかというくらいに何の変哲もない食べっぷりだった。

 クロウは満腹になると、ロケットから薬を取り出して、それを口に含んだ。

 薬を飲んだ途端、クロウの目が大きく見開かれ、体が引きつり始めた。

「うぐ!」

「どうしたんだいっ? いったい何を飲んだんだっ?」

 だがクロウは答えずに、先ほどとは打って変わって鬼気迫った形相で食事をほおばり始めた。まるで、胃に何かを入れ続けなければ、呼吸が止まって死んでしまうかのような食べっぷりだった。

「な、なんなんだ……?」

 クロウのあまりの常軌を逸した様子に、リカードは思わず息子を自分の陰に隠すほどだった。


  ※


「では、餞別せんべつにこれを渡しておきましょう」

「これは?」

治療術ヒーリングの力を封じ込めた薬剤です。飲めばわたくしの使用する法術と同じように怪我を治すことができます」

「便利なものもあるもんだ」

「貴女の考えるほど都合の良いものではありませんが」

「どういう意味だい?」

「法術は、魔術と違って常に等価交換なのです。エネルギーを使うためにはどこからかエネルギーを集めなければなりません。法術を使用する際に、詠唱や祈りの言葉が必要なのは、そうやって外気マナを集め内気オドを高めるためです」

「霊廟で見たから知ってるよ」

「……そうでしたわね」

「で、これで怪我を治すためにはエネルギーが必要というわけか。食べ物でいいのかい?」

「話が早いですわね。そのとおりですわ。欠損した骨を、肉を、血を作り直すためには同じ量の血肉が必要となります。それに熱も。もし、それを用意せずにその薬を使用した場合……。」

「どうなるんだい?」

「薬剤に封じ込められた術は対価を求め暴走し、貴女を干からびたミイラにするでしょう」

「……わお」


  ※


 クロウはまだ熱いじゃがいもを素手でつかみ、顔に塗り付ける勢いで口に詰め込んだ。鶏肉は軟骨どころか関節の骨ごと噛み砕いて食べていた。牛乳はアル中が酒を飲むのように、口の端から滴らせながら飲む始末だった。挙句の果てに、いったんかけ、それを口で押さえて飲み込みなおしさえした。

「いやはや……すごい食いっぷりだ」

 リカードは息子を見た。リカードの息子のヴィオは、食料にがっつく女を見ながら、言い知れない劣情が発芽するのを感じていた。

「……ふぅ」

 クロウは食べ終わると布巾で口をぬぐった。

「ありがとう、おいしかったよ。素材の味をいかした料理だったね」

「茹でただけだからね」

「他意はなかったんだが、皮肉めいてしまったな」

「かまわんさ」

「……ところで坊や」と、クロウはヴィオに話しかけた。

「なぁに?」

「すまないが、大人同士で話があるんだ。席を外してもらえるかな」

「……うん、わかった」

 ヴィオは部屋を出ていった。

「……さて」クロウは言った。「さっき聞いたところによると、奥方を亡くされたようで」

「ああ、そうだね……。」

「まだみさおは立ててるのかい?」

「いや。ただ、男やもめはどうも敬遠されるものでね」

「そうか。……では服を脱いで一緒に寝てもらえないか?」

「何だって?」

「レディに二回も言わせるのかい」

「いや、しかし……。」

「人助けと思ってくれればいい」

「そうか……。少し待っててくれ」

 そう言ってリカードは部屋の外にいた息子に自室で寝ているように命じた。

 リカードは遠慮がちに服を脱いだ。

「風呂にも入っとらんが……。」

「いいさ、素材の味がいかせる」

「……。」

「冗談だ。大笑いとはいかなかったね」

 リカードはクロウとベッドに入った。

「……あまりそういう雰囲気でもないんだが」

「大丈夫だ、欲しいのはじゃない」

「どういう意味? ……うぉっ?」

 突然リカードの体にクロウが抱きついた。抱擁という生易しいものではなかった。まるで捕食者が獲物をそうするように、クロウはリカードの体を捕らえ養分を吸い取っているかのように絡みついた。それは女の体とも思えなかった。

「ちょ、ちょっと……。」

 事実、吸い取られていたのかもしれない。クロウの冷たい体は、リカードの体から熱を奪っていた。ベッドの中で女に抱きつかれているというのに、リカードの股間は冷え、陰茎は沈黙したままだった。沈黙どころか、睾丸にいたっては縮こまっていた。

 四十を目前にし、抱いた女は一人でも一度でもない男だった。開拓民らしく体はたくましく、熱い胸板にはびっしりと毛も生えていた。それでもリカードは、クロウに抱きつかれている間、結婚初夜の花嫁のように戸惑い恐れ、恥じらいながら虚ろな瞳で天井を眺めていた。

 そのまま、夜通しリカードはクロウから熱を奪われ続けた。


  ※


「念のために言っておきますが、養分の取り過ぎにも注意なさってください。あまり取りすぎると、エネルギーの供給過多になります」

「何か問題でも?」

「そうですわね、ドレスが似合わない体になるかもしれません」

「……なるほど、ミイラの次はオークになってしまうというわけか」

「そんな馬鹿なまねはなさらないと思いますけど、くぎを刺しておきますわ」

「馬鹿な真似はしないさ。馬鹿はやるがね」

「……。」


  ※


 翌朝、乱暴された後のようにリカードは毛布に身を包んでいた。

「信じられん。骨折もしてたはずなのに……。」

 ベッドから起き上がったクロウの体を見てリカードは驚愕していた。

「それに……あんた何だか大きくなってないかい?」

 窓から差し込む朝日に照らされるクロウの裸体は、さながら彫刻のようだった。背筋はあめした革の鞄ように張り、肩やふくらはぎは小石をくっつけたように盛り上がっていた。尻に至っては、使い古された金床のように角ばっていた。

「不思議なことではないよ」クロウはシャツを着ながら言った。「“男子三日会わざれば刮目してみよ”というだろう? 女の場合、一晩で変わるもんさ」クロウはシャツの着心地に違和感を覚えた。「……胸もでかくなったみたいだ」

 クロウはやったぜ、と言った。


 日が高くなると、クロウはリカード親子に礼を言って、彼らの小屋を出発した。

「これを……。」

 出ていくクロウに、リカードが財布を差し出した。

「譲るといわなかったかな?」

「そうか、そうだったな。じゃあ、こいつは私のもんだということでいいのかな?」

「もちろん」

「私の好きにしていいということだ」

「お前さんのものだからね」

「そうか……。」

 リカードはクロウの手を取って財布を手渡した。

「……どうして?」とクロウが訊ねる。

「好きにしていいんだろ? じゃあ、好きにするさ」困惑しているクロウにリカードは笑って言った。「息子が見てるんだ。女の前ではかっこつけさせてくれ」

 クロウはヴィオを見ていった。「惚れそうだね」

 去っていくクロウを見送りながらリカードが言う。

「昨晩のことは誰にも言わないでおくれよ。一晩べっぴんさんに抱きつかれて何もできなかったなんて知られたら、酒場で物笑いの種になる」

「いいや、吹聴させてもらうよ」とクロウは振り返って言った。「この谷の近くには、女性を尊ぶとびきりの紳士がいるってね」

「それならいいだろう」

「後妻候補が押し寄せるぞ」クロウは口角を小さくつり上げて笑った。

「……父さん、ゴサイってなあに」

「子供は知らなくていいんだ」

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