一命

 ──ドウターズ


「お湯を沸かせる分だけ沸かして! トリッシュとミッキーは医者を呼んできて!」

 ミラは絶叫しながら女たちに指示を飛ばしていた。

 ドウターズのフロアにはマリンが寝かされていた。

 奇跡的な幸運だった。倒れているクレアとマリンの近くを、ドウターズの常連の馬車が通りかかったのだった。広い荒野で偶然ふたりが見つかったのは、不幸中の奇跡としかいいようがなかった。

 ミラは暖炉に火をともし部屋を最大に暖め、布巾を沸いたお湯に浸しマリンの体を温めた。熱すぎて手に低温やけどを負ったが、ミラは一向に意に介さなかった。

「いったい何が起きたんだい……。」

 マリンは呼吸をしていたが、それ以外の反応がなかった。寒いのならば体が震えてもいいはずなのに、その体力も残っていないようだった。

「ミラ姉っ、お医者が来たよっ」


 到着した医者は、聴診器を胸に当て脈をはかりマリンの容態を調べた。

「どうなの?」とミラが訊ねる。

「……運が良かったですな」聴診器を外して医者が言う。「もう少し発見が遅ければ、手が施しようがなかった」

「じゃあ……。」

「あくまで、比較的運が良かったということです。あまり、期待はせんほうがよいでしょう」

「そんな……。」

「……それにしても」医者は外を見た。「この雪でこの程度の低体温症で済むとは。しかも凍傷も……。」

 女たちは顔を見合わせた。その理由は何となくわかっていた。クレアが覆いかぶさるように倒れていたため、マリンに雪が降り積もってなかったのだ。

「……そこをどいてくれ」

 そう言って現れたのはハスキーだった。

「あんた……。」とミラが言う。

「なんだね? 君も診てもらいたいのか?」と、包帯だらけのハスキーを見て医者が言う。

「私がやろう……。」

 寝ているマリンの前に立つハスキーを、女たちは困惑して見る。

「何する気だい?」とミラが訊ねる。

「私はエルフだ。治療術ヒーリングの心得はある」

「ちょっと待ちたまえ。こんなところで、しかも見たところ聖職者でもない君が人間相手に法術を使用する気か?」

「そう言うあんたは獣医じゃないかい」とミラは言った。

「あ、いや……。」

「この子が助かるなら、法術でも魔法でもかまわないよっ」

 ハスキーはうなずくと、気を失っているマリンの前で祈りを捧げ始めた。

 祈りが進むにつれ、ぼんやりとハスキーの体が青白く光り始める。しかし、医者が懸念した通り、聖職者ではないハスキーの祈りでは、意識が途切れるとすぐに光がかき消えてしまった。

 治療術は祝福を受けた聖職者が信者や任務の最中のみに使用を許される術だった。高度であると同時に、適正や資格が必要だった。そのため、ただ祈りを唱えているだけで、ハスキーの眉間には険しくしわが寄り、額からは汗がこぼれ始めていた。

「いわんこっちゃない……。」と医者が言う。

 ハスキーは大きく幾度も呼吸をした。そして次に呼吸を一切とめているかのように静かになり、トランプを重ねてピラミッドを造るような、用心深い集中力で祈りを唱え始めた。先ほどよりも光は大きくなり、光はハスキーとマリンを包んだ。

「おお……。」

 光がマリンに吸収されるたかのように、光はマリンの体に移り、マリンの体が発光し始めた。マリンの発光が終わると、ハスキーは「かふっ」と息を吐きだして、その場に膝をついた。

「あんたっ」と、ミラをはじめとした女たちが近寄る。

「わ、私は大丈夫です……。それより……。」

「……ミラ姉」すると、意識を取り戻したマリンが口を開いた。

「なんとっ」医者が丸メガネの奥の目を見開いた。

 ハスキーの周りにいた女たちはマリンを囲んだ。

「マリンっ」とミラが声をかける。

「……そうか、帰ってきたんだ」

 マリンはほほ笑んだ。

「そうだよ、帰ってきたのさ。だから安心して寝ときな」

「うん。……そういえば」

「なんだい?」

「クレア姉は?」

「……え?」

「クレア姉が……ここまで運んできてくれたんでしょ?」

「……ああ、そうだね。今は別の部屋でぐっすり寝てるよ」

「そっか……。ちゃんと言わないと……。クレア姉に……ありがとうって……。」

「ああそうさ。元気になったら……ね」

「うん……。」

 マリンは安心したように再び寝入った。

 マリンが寝たことを確認すると、ミラは肩を震わせて泣いた。

 アリシアはミラの肩に手を置いた。

 全員の肩の力が抜けると、ひとり、またひとりと女たちは泣き声を上げ始めた。

 ただひとり、トリッシュがハスキーの様子の異変に気づいていた。

 ハスキーはひとりで立ち上がった。誰にも声をかけず、またかけられないまま、ハスキーはひとりで外に出た。

 ハスキーは井戸まで行って水を汲もうとしていたが、疲弊した体では井戸の底のロープを手繰り寄せるのも一苦労のようだった。左手の黒い皮の手袋が、何度もロープから滑っていた。

「……手伝おうか?」

 トリッシュの声に気づいてハスキーが振り向く。

「……かたじけない」

 トリッシュはロープを引きながら言った。「さっきは、ありがとう。あんたのおかげで、あの子大丈夫そうだよ」

 しかし、ハスキーは何も答えなかった。

 トリッシュは桶を引き上げると、ブリキのコップに水をついでハスキーに渡した。

 ハスキーは聞こえるか聞こえないかの声で礼を言って水を飲んだ。だが、すぐに飲むのをやめてコップを井戸の淵に置いて、黙って座り込んだ。

「……医者が言ってたけど、本当は聖職者じゃないと治療術って使えないものなの?」とトリッシュは訊ねた。

「ええ……。」

「でも、すごいじゃん。そんな治療術を使えちゃうんだから」

「……少し、ひとりにしていただけませんか」

「う、うん……。」

 ハスキーに言われ、彼を一人にしようとしたトリッシュだったが、突然ハスキーの奇声を聞いて慌ててハスキーのもとに戻った。

「ど、どうしたのさっ? あんた大丈夫っ?」

 トリッシュはうずくまるハスキーの肩をつかんだ。

「あ、あああ……。」

 ハスキーの目からは、せきをきったように止めどなく涙が流がれていた。

「え? え? どうしたの……?」

 そう問いかけるトリッシュに、ハスキーは体を丸め、何かに怯えたように喚くだけだった。

 治療術ヒーリングを聖職者しか使用を許されないのには、二つの理由があった。

 ひとつは術の使用には内気オドを高める必要がある為、修道院での鍛錬と生活が必要であること。

 もうひとつは、法術の中でも高度なこの術は、例え十分な詠唱の時間を設けても、使用者の精神をも乱すため、使用できるのは強靭な精神を持った者に限られるということだった。そして、このふたつの条件を満たすのが、神官や修道士といった聖職者だった。

 それ以外の者が使用すれば、例えエルフであっても精神を乱し、下手をすると取り返しのつかないほどに心の均衡を崩してしまう恐れがあった。

 そういった事情を知らないトリッシュは、「よかった……。よかった……。」と泣きながらつぶやくハスキーが、信じられないほどに心根の優しい人間なのだとただ思っていた。しかし──

「ず、ずいまぜん……。」と、突然ハスキーはうなされたように誰かに許しを乞い始めた。それは、トリッシュがハスキーを看病している間、意識を失っていたハスキーがうわごとの中で繰り返していた言葉だった。

「……え? “すいません”って……なにが?」

 しかし、そのトリッシュの問いかけにも、ハスキーは泣いてまともに受け答えも出来ない状態だった。

 トリッシュは震えているハスキーに、自分の肩のストールをかけた。

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