幻影 対 猟犬

 一方のティムは、クロウの逃げた方向を追っていた。

 クロウの逃げた跡には、実に分かりやすい目印が落ちていた。血、指、そしてその場でうめいてうずくまる男たちが、クロウの行く先に順じて転がっていた。絶命している者は少なかったが、ほとんどが効率よく戦闘力を削がれていた。

「くそっ、女やと思うて油断したわい。まさかここまでやる奴やったとは……。」ティムは目を細めて彼方を見た。「ん? おお、おったわい」

 視線の先の崖っぷちでは、クロウと四人の男たちが対峙している最中だった。

「おい! とっととその女捕まえんかい!」

 ティムが声をかけたものの、男たちの様子がおかしかった。四人もいるというのに、剣を持ってクロウに挑みかかろうとしているのは一人しかいなかった。

「……なんや?」

 すでに男たちは戦えない状態だった。一人は右の手首を切り落とされ、一人は左右合わせて指が五本なくなっていた。さらにひとりは二の腕の動脈と太ももの動脈を切られ、出血のショックで動けなくなりつつあった。男たちはティムに振り向くと、弱々しい顔を浮かべた。

「なんじゃぁ、情けないのうっ。おい、お前らっ。そこどけやっ」

 ティムに命令され、男たちは道を開けた。

 崖の前に立つクロウは息を荒くしていた。最小の攻撃でしのいでいたとはいえ、大勢と逃げながら戦ったクロウも、すでに戦力を温存しているとはいい難かった。

「ここまでじゃ。もう時間稼ぎばやる必要はなかとぜ? なんせ、あのリザードマンはもう始末しとるけぇの。逃げた女どもも時間の問題じゃ」

「……はったりだな。あのリザードマンが、そんなに簡単にやられるわけがない。特にお前さんみたいなすけこましにな」

「ほぉ……これ見ても同じことが言えるんかのう?」

 ティムは手下の持っている得物を手に取った。それはお竜の刀だった。

「……ばかな」

「青ざめたのう。なかなかの手練れやったが、こっちの請負人の方が上手やったっちゅう話や。……のう神父様ぁ?」

 ティムがそう言うと、ティムの手下たちは道をあけた。その手下たちの後方から、ブラッドリーが姿を現した。獣の唸り声とも人語ともつかぬ音をぶつくさと呟くブラッドリー。その様子に、勝ち誇っていたはずのティムの笑顔が、一転して引きつったものになっていた。

「皆さまぁアオ……オロ……愚かなルラァ……。今すぐウゥ……。」

 ブラッドリーの口からは牙がのぞき、その口角からはよだれが垂れていた。

「……何だ、その神父は? 薬でもキメてるのか?」とクロウは言った。

「し、神父さまぁ? アイツを捕まえて下さらんですかねぇ?」ティムは猫なで声でブラッドリーに言った。

「フォオ前はぁ……。いつぞやのホォ……。」

 クロウを目にして、ブラッドリーの顔が歪にゆがんだ。顔はあらゆる方向から引っ張られ、苦しいのか痛いのか、それとも怒っているのかが解りづらかった。ただ一つ分かるのは、それは人間の顔ではないという事だ。口は頬まで裂け、鼻は犬のように飛び出、袖から見える手首から指の先までが毛でおおわれていた。

「そうか、人間を辞めたわけだな。禁呪法にまで手を出して」脇構えを取るクロウ。冬の寒さにもかかわらず、その額からは汗が流れている。「そりゃあアグリコルの奴らに破門されるわけだ」

 クロウの言葉に、ブラッドリーの体がぴたりと止まった。

「ぐぐ、クィ貴様ぁそうか……そういうカルァクリくぁ……。ああお……。」

 ブラッドリーが肩を震わせる。笑っている様でもあったが、異様すぎて真意は誰にも理解できなかった。

「ようし、おんしにゃあ訊きたいことがあるきに、大人しゅう捕まれや。抵抗せんのやったら、多少ボコって終わりじゃ。抵抗すんなら……命の補償がないっちゅうことは分かるよな? ……神父様、なるべく手加減し──」

 そうティムが言いかけると、ブラッドリーは咆哮してクロウに襲い掛かった。

「神父様!?」

 ブラッドリーは左右の大ぶりの張り手でクロウを攻撃した。爪の伸びた、人外の力を持つブラッドリーの攻撃だった。しかし、あまりにも予備動作と攻撃の軌道が大きかったので、クロウは余裕でその両腕の攻撃をかわしてから、抜き胴でブラッドリーを切り抜けた。

──!?

 しかし、手ごたえがおかしかった。服の下から感じるはずの、肉を切り裂く感触が無かった。

 クロウはすぐに相手の戦力を分析し直す。

 顔と腕を覆っている毛は、どうやらそのまま全身を覆っていると考えて良さそうだった。しかも、毛の硬度は犬どころか大狼ほどの剛毛。最小の斬撃で効率的に戦闘不能にできるなど期待しない方が良い。

 クロウは正眼に構えた。狙うは刺突。動きから察するに、骨の構造まで変わっているとは考えづらい。ならば、一撃で毛を切り裂き肉を貫き骨をすり抜けて急所を突く。

 クロウは踏み込むと共に面打ちを、そして矢継ぎ早に左右の横面を繰り出す。打ち込みと同様に引きも素早い攻撃だった。はた目からは、三方向から同時に斬撃が繰り出されたように錯覚するほどだった。

 対して、毛の覆われた腕でその攻撃をガードするブラッドリー。元々、深手を負わせる為ではない眩惑フェイントの斬撃は、ブラッドリーの皮膚を薄く切り裂いただけだったが、予想以上にダメージの通らないブラッドリーの体にクロウは苦虫を噛みつぶす。

 ブラッドリーが再びクロウに左右の腕を振り回して攻撃する。先ほどと同じく、あまりにも単調で、予備動作の大きい攻撃だった。当たれば深刻かもしれないが、そんな攻撃は戦場では珍しくもない。

──こんな奴にお竜が?

 一撃、二撃、三撃、四撃と余裕でかわすクロウ。

 しかし、四撃目の後、クロウの目の前には大口を開けたブラッドリーの顔があった。

「う!?」

 スウェーバックで体をのけぞらせるクロウ。寸でのところで、ブラッドリーの牙の生えた口ががきりと閉じられた。もう少し避けるのが遅ければ、鼻が無くなっていただろう。

 さらにブラッドリーは連続で噛みつきながらクロウに迫った。がちりがちりと牙の音が鳴り、その度にクロウは後退する。刀での噛みつきの防ぎ方など道場で教わるはずもなく、クロウはただ刀を縦にして、飲みこまれるのを拒む事しかできなかった。

 絶え間ない攻撃を細かく動き、見切りつつ最小の動きで避け続けるクロウ。コートやシャツが、ブラッドリーの爪と牙でひりりと引き裂かれる。

 突然、避け続けるクロウの体がびくりと動かなくなった。

──しまったっ

 噛みつきに気を取られていたせいで、クロウは右手首をブラッドリーの左手で掴まれていた。

 常軌を逸した握力。ただ握られているだけなのに、筋肉がちぎれ、骨が砕けるような激痛が走った。クロウの手首からは力が抜け、刀を地面に落とした。

 ブラッドリーは刀を足で蹴って谷底へと落とした。

 ただのやみくもな攻撃ではなかった。人の知能を持つ狼との戦い。もしくは狼の姿をした人との戦い。いずれも未体験の相手だという事を、その時にクロウは痛感した。

 お互いに引っ張り合うふたり。握られているだけで皮膚が破け、クロウの手首からは血が流れていた。

 ブラッドリーはさらにクロウを引き寄せると、大口を開けてクロウの頭にかぶりつこうとした。

 その瞬間、口が開けられ筋肉が弛緩しかんする時、クロウは掴まれている右手の親指と小指を鉤爪かぎづめのように広げた。そして右手首を外側に回し、ひとさし指から小指までをブラッドリーの左手首の上に置いた。

 異変を察したブラッドリーの動きが、一呼吸ほどのあいだ停止した。

 さらにクロウは左手を右手にのせ、体重をその両手の被る一点に押し付けた※。

(手刀詰:合気道の技術。手首をつかまれた状態から相手を押さえつける。)

 すると、ブラッドリーは地面に引っ張られたかのように、その場で膝をついた。

「うぐぅお!?」

 混乱するブラッドリー、その隙に体を引いて手を開放するクロウ。しかし、ブラッドリーは体勢を崩しながらも、右手ですぐにクロウのジャケットの左の袖をつかんだ。

 クロウは左足を引き、体を左に傾けると同時に、ブラッドリーの右ひじの少し下の部位に右の手刀をあて、体重をかけて前のめりに屈んだ※。

(手刀倒:合気道の技術。袖を掴まれた状態から相手を転ばせる。)

 大柄なブラッドリーの体がごろりと転ぶ。

 その隙に体をブラッドリーから離そうとしたクロウだったが、今度は足首に激痛が走った。

「う!?」

 ブラッドリーが、クロウの足首に噛みついていた。

 あせりながら腕をふり上げ、ブラッドリーの頭に拳を打ち下すクロウ。しかし、クロウの拳打は、絶望的なほどにブラッドリーに効果がなかった。ブラッドリーが攻撃されているということにすら気づかないほどに。

ブラッドリーは、狼のように四つん這いの状態から上半身と首をふった。

クロウは体勢を崩してしりもちをついた。

立ち上がるブラッドリー。クロウは逆さ吊りになった。

さらにブラッドリーは、クロウの足首に噛みついたまま首をふり回した。

クロウは子供にもてあそばれる人形のように宙を舞った。

「くそっ」

 クロウは引っ張り上げられる寸前に手に取っていた砂をブラッドリーに投げつけ、その目をふさいだ。

「ぐぁっ?」

 視界をつぶされた事で混乱したブラッドリーが、口からクロウの足首をはなした。

 自由になったクロウだったが、もはや打つ手はなかった。刀はなく、足首には矢傷のように太くて深い傷があった。文字通りの小手先の技術が、三度もブラッドリー相手に通じると信じるほどうぶではない。ブラッドリーの視界が回復するまでが、クロウの執行猶予だった。

 クロウは背後を見た。後ろは大きな崖だった。幅は30メートル、深さは40メートルはありそうだった。かつてロランと落ちた崖などは、これに比べればみぞ程度だった。下は川になってるものの、そこに至るまでには、よほど助走をつけて飛び込んでも、途中で絶壁の岩にぶつかるのは必至だ。

「おいおい、まさかそっから飛び降りて逃げよう言うんやないやろうな?」

 ティムに問われると、クロウはさらに後ずさりをした。

「落ち着けや。死ぬほどボコる言うたんは言葉のあやや。俺たちかて、女に手ぇ上げんのは気が引けるけぇの」

 クロウは再び崖の下を見た。そして目を閉じて深く呼吸をすると、意を決して目を開いた。

「知らないのか? ファントムは捕らえられないんだぜ?」

「……おい?」

 そしてクロウは崖から飛び降りた。

「な、なんやと!?」

 あっけにとられる男たち。崖の下からは、クロウが崖の岩にぶつかっているらしき音が聞こえてきていた。音は幾度もくり返され、やがて小さくなり、音は聞こえなくなった。

「……おい」

 ティムは部下に目配せをした。部下は崖のふちまで行くと、四つん這いになって下を見た。そしてしばらく様子をうかがうと、ティムの方を振り向いて首を振った。

「なんや、確かか?」とティムが訊ねる。

「……下まで落ちちゃってるんすよ?」

「そうか……。」

 仕方なかなと言って、ティムは部下を引き連れて戻っていった。

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